カブール市街。デコトラはアフガンが日本より先

 トップ右はバーミヤンの石仏が破壊される前の写真です。顔の上側はイスラムの侵入の際に削られたそうです。右は石仏前。トヨタ・カローラで走りました。左に立っているのは若き日のババです。

 アフガンは親日的な国でした。ジジ・ババが旅したときは、ヘラート、カンダハル、カブール、バーミアンとも、1人で歩いても何の危険もありませんでした。まして、若き日のババは無鉄砲にも、1人で車を走らせる旅が多かったのです。

 イスラム圏の都市や田舎をミニスカートで歩くのですからそれは大変です。しかし、怖い目に遭ったことはないのです。遊牧の男たちはキチンとしていたし、なりは貧しくとも倫理観も正義感も持ち合わせていました。

 いつの間にかアフガンは“怖い国”になってしまいましたが、彼らをこうしてしまったのは“現代の列強”の陣取り、資源囲い込みという野望の犠牲なのでしょう。

 今、アフガニスタンは紛争の渦中です。
 ゲリラの温床になっているという主張の陰で、中央アジアの石油資源を巡る、想像を絶する石油資本の思惑もちらつきます。カザフスタンなど中央アジアの石油をパイプラインでアフガニスタンを経由し、パキスタンへと流したいアメリカ、アフガン政府。それを阻止し、自分のものにしようというタリバン勢力が争っているのです。
 
 60年代にはアフガニスタンに立派な幹線道路が出来ました。西のへラーとから南のカンダハルまではアメリカが作りました。カンダハルからカブールへは旧ソ連が建設しました。東西の綱引きは“文明の十字路”といわれたアフガニスタンでも行われていたのです。 

 砂漠の水場の女たち(上)、遊牧民のテント。水場には人が群がります。家まで砂漠を歩いていきます。

パキスタンとの国境、カイバル峠。ちょっと暗いですが橋状のところが国境になっています。

 カンダハルへの直線道路(上大きい写真)です。アメリカ製の道路でした。数カ所にモーテルがあって、水のないプールに砂が溜まっていました。いかにもアメリカ人が考えそうなモーテルです。もちろん水の少ないアフガンでふんだんに水は使えません。砂漠のプールに泳ぎに来る人などもいません。
 上はルート砂漠。右上はカンダハルの街。下は誰もいない砂漠をうろつくラクダです。こういう放牧でも飼い主はいて、必ず見つけ出すと聞きました。
 韓国のキリスト教団が、07年夏タリバンに誘拐されたのはこういう砂漠です。カンダハルの街はもっと綺麗になっているかも知れませんが、今の政情では素朴な昔の方がずっと良かったと思います。

 アフガンの舗装路作りは、平和で長閑だったアフガンが戦乱とテロの国家に変わり果てる前兆だったのでしょう。アメリカの作った道路は、当時パーレビ国王が君臨する親米国、イラン国境へと伸びていました。旧ソ連はその後、カブールからバーミヤン、そして当時の自国へと通ずる道路を造りました。負けじと中国も、タクラマカン砂漠の西南へと道路を掘削したのです。ジジ・ババが旅をしたのは、ちょうど“争いの端境期”だったのかも知れません。

 まだ長老が尊敬される時代でした。カンダハルのガソリンスタンドで、ババは釣り銭をごまかされそうになりました。近くに座っていた老人が、店の若者を激しく叱咤し、おつりをキチンと返させました。年長者の言うことを聞くことで、部族は安泰でした。 

 僅かな草を求めて、遊牧民は家族揃って移動します。家畜が彼ら最大の財産です。

 アフガニスタンを旅したのは随分と昔です。ジジは1969年、ババは1970年に車で走っています。
 どちらもイランのメシェドからへラート、カンダハル、カブール、バーミヤン、カブール、カイバル峠へと走りました。
 


 年寄りはアヘンを吸引していました。芥子から生産するアヘンは、アフガンの人々にとって特殊な物ではなかったようです。「年寄りは吸って良いのだ」といっていました。しかし、若者や壮年時代の人は、吸引を固く禁じられていると聞きました。アンデスの人々もやはり老人はコカを噛んでいました。若者はいけません。政府が禁止しなくても、自分たちでコントロールしていたのでしょう。

 部族長が部族をまとめ、その頂点に立つのが国王でした。突如押し寄せてきた民主主義は、国王を追放し、部族をバラバラにしました。旧ソ連はアメリカが支援するタリバンとの戦いに倦み、引き揚げ、今度はアメリカがタリバンと敵対してしまいました。平和だった素朴な時代がアフガンに戻ることはないでしょう。


平和な時代の     アフガニスタン