○…マルタ島に約1ヶ月滞在した。昔、いろいろな国を旅している友人が「マルタはいいよ」と言っていた。ババもマルタに興味を持っていた。「それじゃ、今年はマルタへ行ってみるか」で、ジジ・ババのマルタ行きが決まったのだった。西洋の“騎士団”とか“騎士道”などの言葉は一人歩きしているが、騎士団とはいったい何なのか、騎士道とは日本で言う”道”とどう違うのか―。そんなことは何となく分かっているようで、実は何も分かってはいなかったのだ。
○…マルタ島の騎士団にしてからが、ある意味でえたいの知れないところがある。現在の首都、ヴァレッタは、トルコと戦って撃退した時の騎士団長、ラ・ヴァレットが今のヴァレッタがあるシベラス半島に作ったのがヴァレッタの街なのだ。騎士団は使っている言葉ごとにオーベルジュと呼ばれる騎士館を建設した。今,ヴァレッタにある首相官邸、中央郵便局、観光局、外務省なども騎士館を利用している。
○…騎士館に幻想を抱いてはいけない。ジジ・ババも実は半ば幻想を抱いていた。1565年にオスマントルコがマルタに侵攻した時、今に残るヴァレッタのエルモ砦などは今に近い形で存在していたように考えてしまう。エルモ砦はあったが、現在の砦は第一次、第二次世界大戦の際に、英国軍が地中海の“不沈空母”としてマルタを活用した時の名残が殆どで、中世の“海賊”行脚で稼ぎまくった騎士団の作とは、いささか異なる。
○…ただ、何でも暴露してしまえばいいというものでもないのだろう。マルタは何となく「中世の騎士団華やかし頃」にノスタルジーを感じる人々に、訴えるものはある。エルモ砦はオスマントルコに陥落したが、対岸のヴィットリオザ、セングレアなどはシチリアからの援軍もあって、持ちこたえた。トルコ軍が撤退して1565年の戦いは終わった。今のヴァレッタはその後に作られた街で、トルコと戦った最前線の街ではなかったと言うことだ。このあたりはどうもマルタ観光関係が曖昧にしているきらいはある。
○…オスマントルコはヨーロッパに強い圧力を加え続けていた。そのトルコを“撤退させた”と言うことで。マルタの騎士団には、出身国や母国の領地から巨額な支援が贈られてきた。対イスラム最前線というわけだ。今のヴァレッタはそうした資金で作られた街なのだ。島の中央部にあるイムディールはアラブの人々が海賊からの襲撃を避けるために作ったと言ってもいい城壁の街だが、ヴァレッタはそうした海賊が海や海岸を支配する時代が終焉を迎える頃に、キリスト教国の強力な出先基地となった。表向きはカッコいいが、実態は海賊稼業が殆どだ。
○…マルタ島の建物などはヨーロッパの都市に残るものと変わらない。イタリアの古い町を巡った方が、マルタよりも余程見応えはある。ちょっと異なるのは、何となく“騎士団”という言葉のマジックだろう。古くは十字軍としてヨーロッパを発ち、広範囲に聖地を支配したが間もなくパレスチナを追われ、ロードスを追われ、たどり着いたのがマルタというわけだ。素晴らしい「騎士物語」にもなるし「堕落した騎士団」にもなる。いくつもの表情を持つマルタの騎士団は、結局はオスマントルコと戦い、ヴェネチアやイタリアの支援を受けて持ちこたえ、その後はすっかり腰抜けになってしまったようにも思う。
○…ナポレオンがエジプト遠征の途中にマルタへ寄り、上陸するとあっさりと降伏。その2年後にはイギリスへ支援を頼み、フランスを追い出して貰い、以後1975年までイギリス支配の国に甘んじている。佐渡島よりずっと小さく、鳥取県に近い面積。淡路島の半分ほどの国にとって、自立は大変なのだろう。上の写真は空から見たヴァレッタの市街、右はグランドハーバ-と三都市など。
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