Paris~Dakar

Part 2

連載記事はパリダカ全体を思いつくままに書いたものです。特に外部へ提供した記事はありません。もともと作っていた“じじ、ばば・ネット”に掲載したものが中心になっています。パリダカがヨーロッパの都市を出発し、サハラ砂漠を経由。ダカール(セネガル)へゴールしていたイベントの出来事を扱っています。例外としてダカールからエジプト、ヨーロッパ発で南アゴールはありますが“主戦場”はサハラ砂漠でした。

Part 2は長い連載なので3部門に分けて扱っている2番目の部分です。日付けや話題には拘らず、入り交じっています。

メニュー
26)シノケン・ラストラン 27)夢は無残に 28)天国と地獄  29)砂漠の戦友  30)ラリー事故に思う

31)雪山、そして砂漠を制覇  32)売り物さまざま  33)猿を売る男 34)檻の中

35)さまよえるヘリ 36)待ち人来たらず 37)キミ)待てども 38)化石入りデスク 39)頭隠して 40)熱射病

41)置き去りの恐怖 42)パリダカは楽し? 43)アガデスの少年 44)ニアメ金蠅 45)援助品を売る

46)ナビの死 47)リスキーな仕事 48)アンリにサヨナラを 49)葬儀の参列 
50)ダカール・ラリー,悲喜こもごも
 ◇寂しくも懐かしいジジのお仲間たち。
 
 07年ダカール・ラリーには懐かしい名前が見えます。ジジがサハラを走るドライバーたちを、車で追っていた時代からの知り合いたちです。ワークスチームに所属し、華々しく脚光を浴びたドライバーが、プライベートで出走し、トップ争いから遠く離れた位置で苦闘しているのは、本人が好きとは言え、なにかもの悲しい気もします。
 日本人ドライバーで最下位の篠塚建次郎(ニッサン)は、かつて「三菱ワークスで最もいい車に乗る男」と言われ、日本人初の優勝者にもなりました。ジジは20回も篠塚さんの砂漠の姿を見ています。ババもチュニジアやモロッコで篠塚さんを追って、ジジと砂漠を車で走り回りました。
 パリダカで一度勝った後は、勝ちに恵まれず近年はリタイヤ続き。ニッサンへ移籍したがワークスは2年で解散してしまい、翌年はニッサンディーラーのドスード(フランス)で走りましたがリタイヤでした。何とか出走しようと、昨年はイタリアのディーラーから車を出してもらい「これがラストラン」と言っていました。しかし、好きなのでしょう、それを撤回する形で今回も出走したのです。
 ついてない、というべきでしょう。第1ステージのトラブルで大きく遅れ5時間のタイムペナルティー。フェリーには乗れましたがモロッコでの第4ステージを終わって102位です。本当のオールドファンは分かるかも知れません。速かった時代に篠塚さんは“ライトニング健次郎”のニックネームがありました。それはとうの昔語りです。
 パリダカ最多優勝のアリ・バタネン(フィンランド)はフォルクスワーゲン・ワークスの「最も安定したドライバー」と期待されて走りましたが、第2ステージの川渡りで速度を出しすぎてエンジンが水を吸い込み、大きく遅れて5時間のペナルティーをくってしまいました。
 「ラリーはモロッコからが本格的に始まる。それまでは確実にSSをこなすのがつとめ」と言っていた本人がお粗末をしでかし、ヨーロッパ・ラウンドで大きく後退です。当てにしていたクリス・ニッセン監督は「アリのドライブミス」と決めつけていました。
 フィアットで走っているブルノ・サビー(フランス)も三菱ワークスでパリダカ優勝の実績があります。三菱を離れた後にフォルクスワーゲン入りしていましたが、今回は解雇され、個人出場で145位を走っています。
 1988年ランチアに乗ってWRCのチャンピオンとなった、ミキ・ビアシオン(イタリア)は、トラック、三菱ワークスなどで走ったが芽が出ず、今回はフィアットで出走。146位に甘んじています。一世風靡のランチャのエースも、すっかり速さを失いました。
 “砂漠の女帝”ユタ・クラインシュミット(ドイツ)はフォルクスワーゲンを離れ、BMWに乗っていますが、スペインで出火。9日にはモロッコでクラッチが壊れ遅れています(25位)。トップを競った数年前の勢いは消えています。
 「砂漠のラリーは一度味わったらやめられない魅力がある。サハラの夜の静寂さは自分を見つめ直させてくれる」と、かつてフェラーリF1優勝、ル・マン24時間も制したジャッキー・イクス(ベルギー)は、順位を気にしないプライベート参戦でパリダカを楽しんでいました。懐かしい“昔の名前”のドライバーが、功成り名を遂げたイクスのような心境かどうか…。
 WRCで三菱、ヒュンダイに乗ったフレディ・ロイックス(ベルギー)は、WRCを諦めバギーに乗って走っています。17位(SS)は立派な成績です。それぞれの思惑、喜び、悲しみとともに、世界一過酷と言われるダカール・ラリーは砂漠を移動し続けています。
49)マーニュさんの葬儀に日本人ドライバーはいなかった

モータースポーツでも登山でも海のレジャーにしても、事故は「まさかこんなところで」とか「死亡するような状況ではない」などのケースが意外と多いのです。昔、ジジが登山をしていた頃、山を下っていて単純に転んだ、と思った人が、大腿骨を骨折していました。
 
 2007年パリダカにポイントを当て、ラリー・オブ・モロッコに出走したマーニュさんの事故死も、ジジが入手した情報を総合すると“まさか”の状況です。ナニ・ロマさんの運転するパジェロ・エボリューションは「運転席側の左が壊れていたが、そんなに酷いクラッシュではなかった」と聞きました。アンリは右側に乗っています。本来ならドライバーの方が危ないクラッシュだったのです。
 
 現場はオアシスの集落を過ぎた所でした。砂漠のうねりで上りとなり、すぐに下る―、大きなコブのようなクレストがありました。ロマさんはクレストでジャンプし、着地した段階で前方にコンクリート壁のあるのを見たはずです。
 「約50㍍ほどフルブレーキでタイヤがロックした跡があった。サスペンションは伸びきっていたので、グリップが得られなかった。さらに路面は細かい石が一面にあって、滑りやすかった」
 「コンクリート壁に当たった時の速度は時速約85㌔ほど。アンリは次のルートを読んでいて、前を見ていなかったかも知れない」
 「顔面から激しい出血だった。シートベルトが緩かった可能性もある」
 
 砂漠を走るリスクは十分承知のアンリに、魔が差したのでしょうか。ゆるめのシートベルトが、クラッシュ時にどれほど危険かをアンリが承知しているのは当然です。人の肋骨は時速25キロの衝撃をまともに受けると折れます。時速85㌔が、一瞬にして時速ゼロになる衝撃で、顔面をぶつけたら、ひとたまりもないのです。
 
 死因はまだ発表されていませんが、以上のような状況から、おおよその推測はつきます。アンリのシートベルトが緩かったなどとは普通、考えられないけれど、そんなことは有り得ない、とは誰も言えないのです。事故とはそういうものなのだと思います。
 
 新鋭のロマさんは今年パリダカ3位。2007年は大きな野望を持っていたと思います。アンリと共にそれに突き進んでいるとき、リード役のアンリを失いました。
 アンリのサポートでパリダカ優勝した篠塚建次郎さん、僚友の増岡浩さんは、葬儀に参列しませんでした。事情はあるでしょうが、日本の三菱自動車のワークス・チームで、パリダカを共に戦った日本人ドライバーが、1人もアンリを送る葬儀に参列しなかったことを、ジジはとても寂しく思います。
 名ナビゲータ、アンリの冥福を祈ります。

48)サハラに夢を追ったアンリにサヨナラです


 アンリ・マーニュさんの葬儀が9日、ピレネー山脈の麓、フランスのブライブ・ラガヤルデの教会で行われました。ジジ・ババはアンリのアンドラの家に2度訪ねて行きました。アンドラの中心から少し北に上ったスキーリゾートの高台にアンリの家はありました。
 
 ルセッテ夫人がニコニコして迎えてくれ、アンリが獲得したトロフィーの飾られた応接間で、次々とトロフィーをガラスで覆われた飾り棚から出し「これはパリダカ、これはモロッコ…」などと嬉しそうに説明してくれました。アンリはいかにも楽しそうに、幸せな笑みと共に、そのラリーを説明したものです。
 
 一緒にレストランへ行ったときに、2000年のパリダカで、トップにいた増岡浩さんの前にシュレッサーさんとセルビアさんの運転する2台のシュレッサー・バギーが割り込んだのはなぜなのか、と聞きました。スポーツマンシップに反するのではないか、ともいいました。アンリは2000年パリダカでは三菱を離れジャン-ルイのナビをやっていたのです。
 
 「あれは作戦なんだよ。増岡がトップ、その次にユタ(クラインシュミット=ドイツ)がいた。我々に勝ち目はなかった。何とか逆転の方法はないかと考えた末に、5分のペナルティは受けるけど、ヒロシが熱くなったら逆転の可能性も
ると思ったのさ」
 
 規則を知り尽くしたプロのナビが、老練なジャンールイと2人で練り上げたものでした。増岡さんはパリダカの手練れ2人の術中に落ち込み、セルビアさんを抜こうとして足回りを壊し、優勝をフイにしました。それでもジャン-ルイは勝てませんでした。結果はクラインシュミットさんが女性で初めての優勝でした。きれい、汚いということはあっても、勝負は規則の中で決着するのです。優勝こそ出来なかったけれど、ジャンールイとアンリの作戦は、規則を最大限に利用した作戦だったのです。
 
 その後、シュレッサーさんとアンリさんは幸運から見放されました。2年後にはモロッコの砂漠でシュレッサー車が発火。丸焼けの車からパスポート、ライセンスなどの入った小物入れを持ち出すのが精一杯でした。ジャンールイと離れ、ロマさんのデビューと共に、再び古巣の三菱に戻ったのです。バイク出身のロマさんをサポートし、今年のパリダカでは3位入賞でした。
 
 アンリは優しい男で、子供がいないため身よりのない子供2人を養子に迎えています。ジジは篠塚さんが優勝したときのラリーを鮮明に覚えています。ニジェールの砂漠でアンリは、緊張の極にあった篠塚さんを落ち着かせ、見事に優勝へと導きました。アンリのサポートなしに、篠塚さんの日本人初優勝は難しかったと思います。
 
 「アンドラへ来たらいつでも声をかけてくれよ」とアンリはいっていました。昨年の夏にアンドラへ行き、アンリに電話をしたら留守でした。今年のパリダカはリスボンから出発でしたが、アンリは顔を見た途端にいいました。
 「何度か電話したんだよ。ホテルの名前を残しておいてくれたら良かったのに…」
 半年前の電話を覚えていたのです。アンリが電話をくれた頃、ジジ・ババはピレネー山脈の一部、アンドラの山へ登っていたので、電話が通じなかったのです。
 
 アンリの葬儀が行われた教会は、パイプオルガンで有名です。砂漠に夢を追い続けたアンリの葬儀に駆けつけるには、遠すぎるので、ジジ・ババは葬儀の場に花を捧げました。80年代から毎年、パリダカといえばアンリと会いました。モロッコ、チュニジア、スペイン、ポルトガル、オーストラリア、ロシア、カザフスタン、中国…。アンリはいろいろな国をナビとして走りました。そのラリーを追ったジジにとって、アンリはとてもいい友人でした。
 
 寂しい気持ちで「サヨナラ、アンリ」です。ちょうど今の時間に、アンリの葬儀が行われているはずです。
 
 
47)ナビ、このリスキーな職業


 ラリー・オブ・モロッコ最終日にアンリ・マーニュさんの事故死で即座にチームをラリーから撤退させたのは、ドミニク・セリエス監督です。セリエスさんの背中には、金属が入っています。理由は篠塚建次郎さんがリビア砂漠を疾走中に、砂漠の窪み、それに続く砂の壁に気づかず、大クラッシュし、ナビゲータとして乗っていたドミニクさんが背骨を傷める重傷を負ったのです。
 
 篠塚さんは尾てい骨を傷めましたが、ドミニクさんは「再起不能ではないか。治っても車椅子の生活になる可能性が高い」とまでいわれていました。幸い手術は成功し、歩けるようになったし、車の運転やパリダカの指揮を執って、サハラ砂漠を駆けめぐるまでになりました。しかし、トップクラスのナビとしての参戦は終わりました。
 
 前回、ナビは前を見ている暇がない、と書きましたが、実は“掴まるところももない”のです。5点式のシートベルトでがっちりと体をシートに固定してはいますが、ギャップやクラッシュの衝撃に耐える“準備動作”は殆ど出来ません。ロードブックで「!!!」=スリーコーション(大変危険)の印を読み上げても、それがどの程度か、目で確かめるのはドライバーの仕事です。例えナビが“速すぎる”と感じても、速度をどこまで落とすかは、ドライバーの判断次第です。
 
 ロードブックにないギャップや、ドライバーのちょっとしたミスで突然、ジャンプすることもあります。下を向いてノートを見たり、計器をのぞいているときに突然、ダイレクトな衝撃を受けるのだからたまりません。道を歩いていて低い段差に気づかず、骨折したり、転倒する人は珍しくはありませんが、ナビの背骨や首は、硬いサスペンション、シートからの衝撃を受け続けているとも言えます。
 
 「首を傷めた」というナビは数多くいます。重い頭に、重いヘルメットを着けているので、クラッシュ時に首が受ける衝撃は凄まじいもです。大きく跳ね上がった時の着地で受ける衝撃も、背骨から首へ、猛烈な重力がかかります。長い間、パリダカやWRCの記事を書いてきて、いつも矛盾を感じるのは、ナビはドライバー以上に大変だ、と思いながら、主役は常にドライバーだということです。
 
 ナビは割の合わない仕事だと思いますが、やっている人は「自分がドライバーをコントロールしている」の自信です。これがなければ、到底やってはいられないでしょう。マーニュさんはジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)と組んだとき、増岡さんの優勝をフイにしました。後に彼は「あれも作戦のうち」と説明しました。この話は次回に書きます。

46)名ナビの死=モロッコ・ラリー


 日本人で最初のパリダカ優勝者、篠塚建次郎さん(当時三菱)を勝利に導いた名コ・ドライバー(ナビゲータ)のアンリ・マーニュさん(53)=写真=が5日、モロッコ・ラリーの競技中に事故死しました。ヨアン・ナニ・ロマさん(スペイン、三菱パジェロ・エボリューション)のナビとして乗っていたのですが、コンクリートブロックに激突し、即死状態でした。
 三菱のドミニク・セリエス監督は直ちにチームのラリーからの撤退を宣言しました。後ろでなにが起こったか知らなかった三菱のステファン・ペテランセル(フランス)は、フォルクスワーゲン・トゥアレグ2のジニール・ドヴィリエさん(南ア)を逆転してフィニッシュしていました。この記録はチーム撤退でキャンセルされ、ドヴィリエさんの優勝となりました。
 同じチームの増岡浩さんはロマ、マーニュ・コンビのパジェロを追いかけていました。パリダカのバイクで優勝した後に、昨年から4輪に転向し、三菱に乗っているロマさんは、ぐんぐん力をつけていますが、増岡さんに追われて焦っていたのでしょうか…。
 増岡さんはクラッシュしたロマさんの車を見て現場に止まり、意識を失っているマーニュさんを車から助け出すのですが、レスキュー隊が到着して5分後に、マーニュさんは息を引き取りました。ドライブしていたロマさんは無事でした。
 ラリーはドライバーと共にコ・ドライバーと呼ばれるナビが乗ります。ナビの仕事は重要でコースの指示から、路面の様子、速度、走行した距離など、さまざまなデータを掌握し、ドライバーに指示します。データを与え続けると言った方がいいかもしれません。地図、ロードブック、速度・距離計など読み取るものは沢山あり、車の前を見ている余裕などほとんどありません。
 パリダカに限らず、ラリー車の事故で大怪我をしたり、最悪だと死亡するのは、ドライバーよりナビが圧倒的に多いのです。
 マーニュさんは1987年に初めて篠塚建次郎さんとコンビを組み、三菱ワークス入りしました。その年は総合3位でした。翌88年には総合2位。篠塚・マーニュ・コンビはとてもいい感じで砂漠を疾走したのです。
 しかし、1992年にマーニュさんは酷い目に遭います。テネレ砂漠を全開で走行中に、篠塚さんの運転するパジェロは、砂丘の段差を読み違え、大きく跳ね上げられ、5,6回転します。
 「車はバラバラになってました。アンリは“何も見えない”といってうずくまっていました。これは大変なことになったと思いました。救助のヘリが来てアンリを運んでいきましたが、ショックで一時的に目がおかしくなったのでしょう」とアガデスで篠塚さんは話してくれました。その後視力は何事もなかったように回復し、篠塚さんのパリダカ優勝を引き出したのです。
 ナビのリスクはパリダカでまだまだあります。マーニュさんの死で直ちにチームのラリー撤退を決めたセリエス監督も、リビア砂漠で大怪我をしているのです。(これは次回に書きます)
 

45)援助と物売り


 砂漠のキャンプ地に物売りがやって来ます。ある年、男が数個の缶詰を売りつけに来ました。

 「これはいいものだ。買って損はない」の売り込みです。どれどれ、缶詰をよく見るため手に取りました。そこには日の丸が描かれ「援助物質。販売禁止」と書いてあります。
 
 「これ、日本からのものじゃない。売っちゃいけないと書いてある」と言うと、男は薄ら笑いを浮かべながら言いました。
 「オレたちゃ、こういうものを食わないんだ」
 
 絵も描いてあります。鯖の水煮でした。すぐ近くにキャンプ地を警備する警官もいたので「これを売ってもいいのか」と聞いたところ「かまわない」の答えでした。言い値は安いし、行きがかり上、1個買ってみましたが、焼き鯖、しめ鯖、水煮も嫌いではないジジも、ちょっと二の足を踏むような生臭い臭いがしました。
 
 チャドだったか、モーリタニアだったか忘れてしまいましたが、この国に住む人たちは、基本的に遊牧民です。モーリタニアの海岸線を走ることもありましたが、小さな村で羊や山羊の肉は食べられても、魚はありませんでした。モーリタニアは日本に大量のタコを輸出しているし、マグロの漁業権を売っています。そういう国へ鯖の水煮を食料援助として送り込む日本の役人の無知、無関心ぶりには驚きます。
 
 次の年もパリダカに同行して、アフリカを走りました。やはり、キャンプ地の傍に露店が出来て、いろいろなものを売りに来ていました。その中に、前の年と同じ鯖の水煮がありました。日本製です。販売を禁止する文面も同じです。一応写真を撮っておこうとしたら、警官や軍隊の制服も着ていない人物が「撮っては駄目だ」と立ちはだかりました。
 
 「去年は撮ってもよかった。売っているのを撮るのだから問題ないだろう」といっても聞きません。秘密警察はアフリカ諸国にも多いので、有無を言わさず捕まってしまってはなんにもなりませんから引き下がりました。
 
 1時間ほどしてほとぼりも冷めたろうと思い、先ほどの露店に行ってみると、缶詰はあるのですが、ラベルが全部剥がされていて、砂の上に散らばっていました。どうせ売れない缶詰でしょうが、中身が分からなくては売りようもないと思いました。
 
 前年の警官は事情が分からなかったのでしょうが、この年に写真を撮らせなかった人物は、明らかに援助物資横流しを承知していたのでしょう。アフリカへ出かけた小泉首相はスーダンを初めアフリカ連合へ多額の支援を約束しました。自立のための支援、という言葉は美しいのですが、アフリカを滅茶苦茶にし、部族紛争の元になる国境線を、幾何学的に引いてしまったのは欧州の列強です。そのあたりもしっかりと認識しないと、日本は「なにか言えば金をくれる」と思われます。
 
  援助するならするで、その行く末をきっちりと確かめる必要があります。英国BBCは「支援の多くが、一部の人の懐に消えている」と鋭い指摘をしていました。たかが鯖の缶詰、というかも知れませんが、大型重機やトラクターも既にアフリカ諸国へと送られ、日本の国旗を付けて走っています。日本の情報不足をいいことに、仕事をしているとは思いにくい支援団体と結び、日本から遊びに行っているとしか思えない人たちもいます。
 
 したたかなアフリカとのつきあいを始めようという日本の情報収集は大丈夫でしょうか。海外青年協力隊も送り込むそうですが、自然条件、国民性、政治状況などをしっかり把握してからでないと、なんの役にも立ちません。オアシスの村に日本人のバレーボール指導者と称する協力隊員もいましたが、過酷なオアシスの住人にバレーボールなどする余裕はないのです。自動車修理も同じです。現地人は埃だらけのIC部品を探してなんとかクルマを修理する人もいますが、日本から派遣された修理指導者の多くはら、日本流の交換修理しか知らないので「部品が来ないと仕事が手につかない」という、気の毒な指導員にも会いました。
 
 パリダカを車を運転しながら走っていた日々には、常に現地の人々と接触するので、アフリカの本当の姿を垣間見る時間もあったのです。


44)ニアメ金蠅

 
もう時効だからいいでしょう。80年代の終わりにパイオニアがパリダカのスポンサーになっていたときのことです。ニジェール西端の都市、ニアメにパリダカの一行が到着しました。ニジェール川に近いこの町は、アガデスとともにニジェールでは重要な都市(首都)です。ホテルも近代的です。
 
アガデスで1日休息日はあっても砂の中の町です。地中海沿岸からサハラ砂漠を南下してきた人々にとって、ニアメの緑と川は何とも言えない安心感があります。我々が割り当てられたのは、フランス人がよく使うところで、アガデスのホテルとは言えないようなホテルとは、桁違いに設備はいいのです。
 
 しかし、主催者の一行も泊まるので、割り当てられた部屋数はごく少なく、プレス用などはありませんでした。冠スポンサーのパイオニア関係者が入る部屋だけが、日本人用に予約されていたのです。この年は一般紙からも数人の記者が招待されていました。この中に、とても難しい人がいたのです。
 
 何となく日本人は一緒にホテルへ行きました。そこで部屋数を見ると、ほんの数部屋しかありません。それは仕方がないことです。テントを張って泊まるのが基本のパリダカですから、驚きもしませんでした。
 
 「部屋で寝られ、シャワーを浴びられるだけでも十分ですね。ごろ寝しかありませんね」と、同行していたパイオニアのA部長は苦笑していました。皆、同感だと思ったのですが、1人だけ異議を唱えました。
 
 「うちの社は招待された旅行なら1人部屋に決まってます。オウンルームです。ワンルームをください」
 
 皆、唖然としました。部屋は3つほどしかないのです。
 
 「こういう環境なので、我慢してください。私と相部屋でお願いします」とA部長は言いました。
 「いや、1人部屋が当たり前ですから…」と言い張る某一般紙の記者に、温厚なA部長も少し声を荒げました。
 
 「私と同室はそんなに厭ですか」
 
 まわりりの者が黙っていません。3人も4人も一部屋に泊まるのです。プレス用の部屋などないのです。大金を出しているスポンサーでも相部屋なのです。彼だけ1人部屋など、許されるはずはありません。結局その記者は相部屋を承知したのですが、呆れた出来事でした。
 
 これだけではありません。数日前のアガデスでは、同行していたトヨタの広報担当に、もう1人の同じ会社の女性記者は「私に2台の車を貸してください。取材があるのです」と言ったのです。取材熱心はいいでしょう。しかし、ニジェールのアガデスです。いくらトヨタでも自由になる広報車が、サハラ南端のオアシスにあるわけがないのです。
 
 困り果てた広報担当者は、手を尽くして1人1台ずつの車を探し出してきました。あまり愚痴を言わない人でしたが、さすがに「参りましたよ。こんなところに広報車なんてないですよ。分からないのでしょうかね…」とこぼしていました。こういうことを知っていたので、自分のことしか考えない一般紙の記者には、誰言うとなくあだ名がつきました。
 
 「ニアメ金蠅」。
 
 うるさくつきまとう蠅ですが、その姿は派手です。新聞社の肩書きをちらつかせて、好き勝手なことを言う彼らには、ぴったりのものでした。彼も彼女もトヨタ車をタダで無理強いして借りましたが、トヨタ、の一字も記事にはありませんでした。
 
 パリダカが終わり、2ヶ月ほどしてからA部長から電話がありました。
 
 「あの“金蠅さん”から連絡がありましたよ。“ステレオセットを安く買いたい”というのです。できるだけ安くはしてあげましたが、私と同室は厭だ、なんて言っていたのはウソのようでしたよ」
 
 A部長と2人で大笑いしたものです。こういう人は得てして分かったように偉そうな記事を書くものなのです。最もパリダカの記事は読みませんでしたが‥。

43)アガデスの少年




 
 80年代の終わり頃まで、パリダカはいつもアガデスで休息日を迎えました。パリダカの一隊が着き、テントが張られる頃になると、皆、街へ出ます。街といっても日本で思うほど大きくはなく、泥と日干し煉瓦で作られたモスクを中心に、バザールなどがあります。
 
 ホテルと名の付く建物は幾つかありますが、呼び名と実態は異なります。レストランも一軒ありました。スパゲッティを食わせる唯一の場所です。アガデスに行くたびに、このレストランへ行ったのですが、分厚い日干し煉瓦と泥を塗り込めた建物は、窓が小さく、目が慣れるまでは殆どなにも見えません。サハラの太陽が強烈なので、こういうことになるのでしょう。
 
 パスタは確かにパスタで、腹が減っているから、旨い、と感じたように振り返ると思います。ニジェールのサハラへの根拠地で、イタリア料理などきちんと出来ようもないのです。
 
 アガデスの街は突然、断水になります。オアシスの水は限られていますが、一応、給水塔もあり、街中のおもだったったところには配水されています。しかし、シャワーのあるところには、パリダカの参加者たちが入り込み、シャワーを浴びます。給水塔の水はすぐに無くなり、街の断水はなかなか回復しません。
 
 日本の取材チームは、ビラを借りていました。テントよりいくらかは快適です。同行していた広告代理店のK君が少年を雇い、その少年の家族や知り合いの女たちを洗濯要員に頼みました。15歳くらいに見える少年は、K君に可愛がられながら、日本人たちの汚れ物の洗濯を女たちにやらせていました。
 
 この少年はちょっといい気になったところもありましたが、性格は悪くはないようでした。その後、アガデス経由のパリダカは無くなり、久しぶりにダカール~アガデス~ダカールが開催されて、アガデスの街に行きました。キャンプ地でのんびりしているとき、逞しい青年がニコニコしながら近づいて来ました。
 
 「Kさんは来てる?」
 「いないよ。彼は仕事を変わったんだ」
 「ボクの顔を覚えてる?ボクはあんたを知っているけど…」
こんなやりとりのあと、10年も前に会った少年だということに気づいたのです。とても懐かしそうでした。ほかの仕事もあったので、彼とはそれっきりになりましたが、振り返るともう少し、いろいろと話しをすれば良かったと残念に思います。
 
 ニジェールは政情不安です。あの少年が今どうしているか…。気が利く少年だったので、インターネットくらいは出来るだろうと思うのです。あまり逢うこともない知り合いや友人は、出会ったときに連絡手段をしっかりと聞いておくべきだと反省です。あの少年と連絡が取れれば、パリダカの取材とは別に、砂漠の中の砂漠、と言われるテネレ砂漠の旅も出来るように思うのです。
 
 その後、Kさんとも何度か会い、大人になった、あのときの少年の話になりましたが、彼も連絡は取れないと言っていました。砂漠に生活する人たちは、コンピュータなしでの連絡手段を持っていますが、古典的な口づての連絡は、ニジェールまではどうしても届かないのです。



42)楽しい旅・パリダカ


 1980年代の終わりまで、ニジェールのアガデスはパリダカの重要な中継地になっていました。アルジェリアやリビアからスタートしてサハラ砂漠に入ると、主催者が飛行機に積んでいる大きな衛星電話やそれを使ってのファックス以外に連絡手段はありませんでした。アガデスの休日にやっと電話やファックスがきちんと使えたのです。しかし、砂漠の旅を楽しむには、この不便さの方がずっと良かった、とジジは今でも思っています。
 
 記事を書き、写真を撮るためにジジは派遣されていたのですが、そういう風に受け止めていたのはジジの方だけで、勤務していた会社の方は「うるさい奴は社内にいない方が静かでいい」くらいにしか思っていなかったでしょう。おかげで砂漠の旅が、毎年決まって出来たのです。
 
 カメラを1台、ノートを1冊、鉛筆数本くらいが仕事用の“装備”でした。テントから着替えまで大きなダッフルバッグに詰めるので、小さいショルダーに仕事用の小物を入れてお終いです。今では取材用の装備が大変です。デジカメ、パソコン、GPS携帯電話、ノートや鉛筆、ボールペン、それにパソコンの予備まで必要です。パソコンにはACアダプターを始めいくつもの備品があります。1つ無くなっても仕事になりません。便利なようでとても不便です。
 
 砂漠地帯でもフランス国籍のGPSだと、フランスの旧植民地のオアシスでは、GPSが通じるのです。衛星携帯電話もありますが、こちらはGPSに比べて料金も高く、ワークスチームで使うくらいです。
 
 余計な話になりましたが、鉛筆、ノート、カメラを持ち、殆どの場所では連絡もままならない昔のパリダカ取材は、締め切り時間に追われることもなく、自分で車を走らせ、キャンプへの到着時間が遅くなっても、記事は送らないのでいっこうに構いません。ドライバーと話し込んだり、オアシスの村をほっつき歩いたり、実際にはパリダカに同行しなければ出来ない取材も可能だったのです。
 
 今は気の毒です。飛行機で移動し、飛行場から飛行場。そこに作られたキャンプ地を移動するだけです。上位のドライバーが到着すると話を聞き、すぐにパソコンに向かって記事を書き、送信しなければなりません。オアシスの村をうろつくのにも、足となる車がないのです。ジジの全盛期?には車を走らせていたので、好きなところへいけました。
 
 その日の出来事が写真と共に即座に日本でもフランスでも、送ることが出来るし、見ることも出来る便利さは、とても素晴らしい進歩だと思いますが、日々、移動するパリダカで、現地の姿を知る暇はありません。国内の旅でもバスに乗っての団体旅行だと、個人的に強い興味があっても、時間やコースで我を通すことは出来ません。サハラ砂漠のラリーも、次第に競技化してしまい、プレスの移動も観光旅行に近づいてきて、昔のようなエピソードも少なくなりました。
 
 今はテロや強盗の危険があるので、アガデスにパリダカは立ち寄らなくなりましたが、以前は、重要な休息地だったし、アガデスで10日ぶりくらいに記事を送った記憶があります。その間は何にもなしですから気楽なものだったと思い返しています。
 
 次にはよき時代に出会ったアガデスの少年の話をします。

41)置いてけぼりの恐怖



 
 パリダカのキャンプ地は賑やかです。次々と車は到着するし、食堂テントでは勢いよく炊事の湯気が立ち上ります。テント村も出来て、これがサハラ砂漠の小さなオアシスなのかどうか、錯覚するほどです。しかし、賑わいは幻影にすぎません。殆どの飛行機が飛び去り、車も出て行ってしまったキャンプ地は、宴の後、というイメージよりも、ずっと寂しく、呆然とするほどです。
 
 大きな穴が掘られ、ゴミが燃されていて、どこから来たのか、現地の人たちがものを探しています。残酷なようですが、パリダカは豪勢な遊びで、厳しい生活を強いられている現地の人々にとっては、捨てられたもの、残されたものの多くが、まだまだ使える品物なのです。
 
 ミレーの「落ち穂拾い」の絵をフト連想するような風景でもありますが、そこは畑ではなく、荒涼とした砂漠なのです。ヘリコプターで移動する時に、皆が移動した後に残ったことがありますが、朝までの賑やかさが印象に残っているため、とても寂しく、ゴミ焼却の炎と煙が、空しい感じさえ持たせたのです。
 
 「ここに置き去りにされたらどうなるだろう…」と考えました。燃料を一杯にした丈夫な車があれば、きっと心強いと思いますが、一機のヘリコプターが、最終便としてキャンプ地を後にするのです。多くの人や車が集まっているので、都会ではないにしても、冒険ごっこ、の世界です。どこへでも通信できるし、補給物資も沢山あります。砂漠では不自由な水も、C130輸送機やトラックが運んできます。しかし、それはほんの一夜の賑わいに過ぎないのです。賑わいの中で移動する人たちには、都会日界生活をそのまま砂漠に持ち込み、移動していくのです。砂漠に生活する人たちの現実はわかりにくいことでしょう。
 
 ふと、三菱がチャーターした中型輸送機に便乗していたときのことを思い出しました。フランス人たちは気楽です。出発時間はあらかじめ決めてあるのですが、何となく人が集まり、成り行きみたいに出発します。
 
 点呼を取るようなことはありませんから、うっかり忘れられたら、置き去りです。予定の1時間前に出発したこともあります。皆が乗っているのは、当たり前の感覚なのです。1人の日本人が乗っていない、などと考えることは、まずなさそうです。だから、便乗する時、これは危なそうだ、と感じたら、テントを飛行機の翼の下に張り、張り綱をアントノフ機の脚に縛り付けていました。テントを引きずって離陸なんてことはあり得ません。
 
 こういう夜は起床時間を気にすることなく、ぐっすりと寝られたのです。もうこんな体験は出来ません。懐かしい、よき時代のパリダカの思い出です。

40)自ら好んで熱射病 

パリダカがアフリカを去る頃になると現地材する人
は、ごく少なくなりましたが、80年代の終わりから90年代半ば過ぎまでは、かなりの人数がラリーを追っていました。大方はメカニックと共に専用機で移動ですが、キャンプ地では様々なことが起こります。実情を知らない人がやってくるのです。
 
 ある年のことです。あるマスコミの記者が派遣されてきました。マリあたりのキャンプ地の出来事です。日本へ帰ってサハラの厳しさ、暑さを周囲に訴えたかったのだと思いますが、早めにキャンプ地に着いたその記者は、テントを張るとギラギラと輝く太陽の下でで寝袋を敷き、仰向けに寝転がりました。
 
 「脱水症状になるからよした方がいいよ」
 「ああ、私は大丈夫。気持ちがいいよ」
 「寝るのなら木陰がいい。その方が体にもいいよ」
 「心配ないよ。ここがいい」
 
 全く聞く耳を持ちません。何度かサハラに来ている仲間は、心配したのですが、無理に木陰へ引きずっていくわけにもいきません。気にはなったのですが、ジジたちは木陰へと移動しました。
 
 その夜です。くだんの記者は「気持ちが悪い」と訴えました。顔はお望み通り、赤黒くなっていましたが、太陽が強すぎたのです。ワークスチームに付き添っているドクターに話したら、すぐに診断し「脱水症状だから、水を沢山飲め。今晩中に5㍑は飲むことだ」といって引き揚げました。
 
 脱水症状になる前にも、この人は人騒がせなことをしました。フランスの外人部隊が作った、ダートの滑走路がキャンプ地の脇にあります。滑走路の脇にキャンプしたといった方がいいでしょう。滑走路の反対側にもテントが張られていました。人は滑走路を横切り、行ったり来たりします。
 
 その記者が1人で滑走路を横切り始めました。遠くで気づいた人は「危ない!」と叫びました。小型機が降下してくるのです。このままでは滑走路の真ん中で激突です。目を覆わなければならない惨劇を予測した途端に、小型機はエンジン音を急に高め、滑走路へタッチダウン状態から急上昇していきました。
 
 皆、驚きました。航空担当のフランス人も仰天です。しかし、その人は平然としていました。
 
 「えっ?そんなことがあったの。知らなかった」
 
 道路を渡るときは、左右を確認して―、は小学校の頃、それ以前から教え込まれているはずですが、この人は滑走路と道路は違うと思っていたのでしょう。
 
 その後に熱射病になったので、お気の毒ですが、あまり同情する人はいませんでした。命に危険はないことは医師の診断で分かっていたのです。世の中には変わった人もいるものです。
 
 この人の後日談です。ある会社の女性記者が言ってました。
 
 「あの人、私たちに言うんですよ。オレは英語がしゃべれる。5000万円の貯金も持っている、って」
 
 やはりこれではモテません。40を過ぎて独身なのも、分かるような気がします。
 

39)頭隠して…


 長い砂漠の旅になると、気の強い人が有利です。キャンプ地に飛行機が着き、速い車がやってくるのを到着地点に見に行くときなど、テント村を作らず、大型のテントに大勢がまとめて荷物を置き、出掛けることがあります。テントの前は開けっ放しですから、外から丸見えです。
 
 人の心理として、見えるものは、盗まれる可能性が強いように思います。そこで強心臓のフランス人などは、他人の荷物をどかしてまで、一番奥の、一番下に自分の荷物を押し込むことがあります。
 
 ある年、どこの国か、どこの村か忘れましたが、一つのテントに何十人かが荷物をまとめたことがありました。キャンプ地に近い到着地点で上位の車が走ってくるのを見た後、それぞれが自分の荷物を引っ張り出し、思い思いの場所にテントを張り始めました。
 
 そのうち、数人のフランス人が血相を変えて荷物を探しているのです。一番奥の、一番下、最も安全と思われる好位置に、自分の荷物を割り込ませた、心臓の強い人たちです。1人は主催者のテントへ走っていきました。残る3人ほどは、テントの後ろに回り、騒いでいます。
 
 行ってみたらテントの後ろ側の、一番下がざっくりと切り裂かれているのです。テントの後ろにはラクダ草の生えた小さな砂丘と少し木があります。テントの正面、開けっぴろげの方は前が開け、主催者のテントも少し遠いけれど見えます。
 
 盗人は人目を恐れます。小砂丘と木は身を隠すのに格好の遮蔽物です。安全と思われたところは、前から見た場合に限られ、荒っぽさがあれば、盗む方は後ろ側の下を切り裂いて手当たり次第、荷物を引っ張り出し、勝手知った砂丘の陰へと遁走すればいいのです。前から見えなくても、盗む手段はいくらでもあったのです。
 
 慣れていると言ってもパリダカは年に1回です。ヨーロッパや日本からやってきて「オレは砂漠を知っている。地元の村の様子も分かる」などとほざいても、表面だけで本当のことは何も分かっちゃいないのです。荷物は結局、出てきません。パリダカでものがなくなって、見つかったためしはないのです。
 
 大威張りしていた数人のフランス人はその後、着の身、着のままでレストランテントの端っこに寝起きしながらダカールへ着きました。皆、同情する振りはしますが、命に関わることではないし、それまで彼らの態度があまりにも大きかったので、本心はざまー見ろ、なのです。

38)化石入りのテーブル。

  サハラ砂漠には化石が沢山あります。呆れるほどあるのです。三菱やフォルクスワーゲンがパリダカ車両のテストをするモロッコのエルフール近くには、三葉虫を始め沢山の種類の化石が、同じ岩盤に残されています。三菱パジェロでパリダカ優勝もした、ジャン-ピエール・フォントネさん(フランス)は、長さ2㍍、幅1㍍を超す大理石のように板状に切った石をエルフールで安く手に入れました。もう時効だからバラすと、その石をちゃっかり部品やタイヤをごっそり積んでフランスから走ってくるサービス・トラックに積み込んで持ち帰り、家の応接間を飾っています。
 
 こんなテーブルは貴重です。見かけたことはありません。化石が一面にあり、珍しいと同時に入手するのはかなり困難で、あっても相当高価なものでしょう。バブル経済がまだ尾を引いていて、パジェロが面白いほど売れた時代ですから、チーム側も鷹揚なものです。
 
 篠塚建次郎さんのナビをやり、その後、三菱の“天敵”ジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)と組み、増岡さんの優勝をフイにし、フォルクスワーゲン、そしてまたまた三菱に戻ってきた、人はいいけれど面の皮はジジの踵の皮ほども厚い、ナビゲーターのアンリ・マーニュさん(アンドラ)も、いい化石入りの岩盤を持ってます(その後、事故死)。
 
 モーリタニアの砂漠で、1㍍四方くらいですが、素晴らしい化石の詰まった岩盤を、テストの時に車へ積み込み、アンドラへ持ち帰ったのです。砂丘と砂丘の間に露出した岩盤があり、そんなところはベドウィンでも通りませんから、全くの手つかずです。ジジ・ババがアンドラへ行き、マーニュさんの家に行ったとき、その石が飾ってありました。
 
 こんな話はまだまだあって、今のパリダカはキャンプ地にベドウィン風のテントが張られ、食事をしたり、休んだりしますが、それもまた、三菱チームと深い関わりがあるのです。これも時効だからバラシます。
 
 サハラ浪人みたいなジェフさんと言うフランス人がチームの宿や食事の面倒を見ます。現地での手配は堂に入ったもので、例え汚くても、ホテルらしきものが近くにあるキャンプ地では、必ずドライバーたちにシャワーくらい浴びられるようにしています。ジジは篠塚さん、増岡さんなどと行動を共にするので、パリダカでチームがチャーターする中型輸送機がサハラを飛んでいるときには、何度か便乗しました。
 
 ある時、ジェフさんはモーリタニアで大量の丸太とテントを三菱の飛行機に積み込みました。当時のソ連製、アントノフ27型機なので、小型戦車や4輪駆動車などは楽に詰める双発のターボプロップです。丸太をフランスに運んでどうする―、と思ったジジは商売に適性がありません。
 
 翌年、ジェフさんはパリダカの食事関係を請け負いました。三菱の仕事は相変わらず続けながら、やはりアフリカ浪人みたいな強者を子分にし、食事関係を仕切らせたのです。それからです。パリダカの食事が良くなり、食事をする場所にはコの字型にテントが張られ、真ん中でたき火をするようになったのは…。
 
 テントは勿論、ジェフさんがモーリタニアで仕入れたものを参考にして、何張りもコピーしたものです。ジジは以前、まだスキーをいくらやっても疲れない頃、篠塚さん、増岡さんたちとチュニジアやUAEのテストに行きました。ババがナビ、ジジが運転でチュニジア・ラリーを追いかけたこともあります。そんなとき、トラックに大きな化石入りの石を積み込めばいいのですが、フランスまではタダでも、その後、送り出しなどを考えると、腰が引けました。
 
 そんなわけで、ジジはソフトボールを少し大きくしたような、デザート・ローゼ(砂漠のバラ)や、塩湖の塩、小さな化石は持っていますが、がらくたです。貴重な大物などは残念ながらありません。篠塚さんや増岡さんと「オレたちもトラックに積んじゃえば良かったな」などと話したことはありますが、ついぞそんなことをしたという話は聞きません。やはりフランスからの輸送が面倒なのです。
 
 こういうことをしっかり、ちゃっかり出来る神経、狡さ、きめ細かさがない限り、商売人にはなれません。日本人のパリダカ優勝経験者2人も、人後に落ちない商売下手です。一番、威張って化石入りの大きな石板を積み込んで、誰も文句は言えない2人だったのですが、とも化石入りのテーブルを持っていないのはジジが保証します。
 

37)待ち人来たらずー2

 冬の砂漠は夜になると冷え込みます。ニジェール川に近くなるとサバンナ地帯で、もう暖かいのですが、モーリタニアのアタールやズエラテあたりは、砂ばかりで相当冷えます。夜遅くなって着かない車を待つのは大変です。チーママ嬢の車は深夜にキャンプへ着きました。やはり思ったとおりでした。
 
 「スタックしちゃって動けなくなっちゃったのよ。何度も出ようとしたんだけど、ダメだったの。それでトラックが来たんで、助けてもらった訳よ」
 
 女性2人が両手を振れば、ほかのチームのサポート・トラックでも止まろうというものです。言葉は通じなくても、達者な身振り手振りで深い砂から引き出してもらい、おまけにキャンプまでガードしてもらったというからやはり凄く達者なのです。
 
 「サンキュー、サンキューって言って、走ろうとしたら、付いてこいつって言うのよ。もう一台のトラックは“後から行く。埋まったら引き出してやる。夜になるとルートはわかりにくい。オレたちが一緒に行ってやる”って。勿論サンキュー、サンキュだわよ」
 
 彼女の仕事の話になることもありました。ジジが「一度、見物方々行ってみるか」というと、即座にこう答えました。
 
 「やめた方がいいよ。ウチは高っかいんだ。絶対やめた方がいいわよ」
 「そんなに高いのか」
 「あんたお給料じゃ無理だよ」
 宛然と笑ってコケにされた。
 
 前の年にパリダカへやってきた人の話になりました。
 
 「やめろ、やめろって言ったのに、あの人、店に来ちゃったのよ。高いって何度も言ったのにね。私が付きっきりってわけにはいかないでしょ。若い子なんかが、パリダカの話なんか聞いて、得意にさせちゃったら、いい気持ちで飲んだのよ。勘定の時になって、ギョッてなって“こんなに高いのか”だって…。だから、来ない方がいいって言ったのにね」
 
 薄ら寒い砂漠のキャンプ地で銀座のチーママから客や店の話を聞き出すのは、妙なものですが、とても面白いのです。
 
 「大きな会社の専務がよく来ていたのよ。その人が口を利いて、その会社がスポンサーの一つになってくれたこともあったわ。でも、もうそろそろダメね。景気悪くなっちゃったし、あのオヤジ、会社やめちゃうらしいから…」
 
 この勢いですから、夜中まで砂漠に立ち、到着を待っていても「あーら、待っててくれたの。サンキューでした。車、頼むわね」でお終いです。
 待っていた人が気の毒になります。そんなことにはお構いなく、何人もに愛想を振りまき、まだ照明のついている食料テントへと行ってしまうのです。それにしてもタフな人でした。男たちがヘロヘロになって到着するのに、彼女たちは平気なのです。
 
 「困ったら助けてもらえばいいのよ」
 
 この精神は見習うべきでしょうが、女性である強みを十分に発揮して、パリダカ2度優勝のクラインシュミットさんと並ぶ、砂漠の“もう1人の女王”でもありました。
 彼女は間もなく商売替えし、パリダカ出場もやめました。でも、昨年、六本木で出会ったとき、メルセデスに乗っていました。羽振りはいいようです。(2010年代に早世)。

36)待ち人来たらずー1


 パリダカには豊かな時代がありました。車好きで銀座のクラブの“チーママ”をやっていた人が、何度か出場しました。昔、芸能界にもいた人で、トシのわりには若々しく、フランス人には大人気でした。
 
 “砂漠の女帝”クラインシュミットさんも美人ですが、女っぽさでは、到底、チーママ嬢?にはかないません。方やスポーツのプロ、方や高級クラブで男をあしらうプロです。パリダカの勝負は初めから明らかですが、“強い女”と“女っぽい女”のどちらに人気が集まるかは、ワークス・ドライバーのクラインシュミットさんに、勝負ではかないっこない男ばっかりが多いパリダカで、これまたはっきりしています。
 
 チーママ嬢はラリーには素人ですが運転も上手で、遅いけれど疲れを知りません。あるキャンプ地でのことでした。やはり日本から出場していた女性ドライバーが、カッカと怒りジジに言いました。
 
 「何よ、あの人!私の車がもう着いているのに、他の人が来るのを待ってる。私の車の整備をさせるのが、あの人の仕事でしょ」
 
 その通りなのです。これも差し支えがあるといけないので、名前は伏せますが、その男性は同じメーカーの車で出場した車の面倒を見るのが仕事でサハラへ来ていたのです。先に着いた車から整備作業をさせるのは当然で、怒りの女性ドライバーの言うことは正しいのです。しかし、人には感情があります。さらに言えば、いろいろな思惑もあります。
 
 「あいつ(チーママ)まだ着かネーんだよ。何してるんだろ。スタックでもしたのかな」
 「いずれ来るよ。達者だからスタックしても、どこかのチームのトラックに引っ張り出してもらってるよ」
 「もうみんな着いてるんだよ。何してんだろ」
 
 ジジは答えようがありませんでした。余計なこと考えるより、仕事でもしろ、と言いたいくらいでした。彼女がコースから離れる心配はまずありません。ショートカットでタイムを稼ぐようなことはしないし、そういう敏腕なナビを乗せているわけでもありません。砂に埋まって抜け出せなかったら、明るく手でも振ってトラックを止め、ピンチを脱しているのが想像出来るのです。
 
 昔、オーストラリアン・サファリというパリダカのようなイベントが、オーストラリアで開催されました。そのときジジはチーママ嬢を初めて知ったのですが、ドライリバーをわたるところで写真を撮るため待ちかまえていたジジに、満面の笑顔で手を振ったのです。ジジはちょっと驚きました。見ず知らずなのによくもあそこまで馴れ馴れしいな―。このことです。
 
 彼の仕事はチーママを待つことではないのです。早くキャンプ地に到着した順に自社の車の面倒を見るために、自動車メーカーから派遣されているのです。早く着いていた女性ドライバーは怒りが収まりません。ジジも慰めようがありません。
 
 同じような事態は何度かありました。日本人の女性ドライバーは、そのたびにジジに愚痴を言います。聞き役には仕方なしに回っても、本当の理由なんて言えないのです。厳しい環境になると人はどうしてもエゴイストになるのです。待っている男の心は、誰でも分かると思いますよ。
 
 だからといって、ジジが女性ドライバーに「あいつは彼女に惚れたんだよ」とも言えませんし…。(待ち人来たらずー2へ続く) 
35)さまようヘリコプター



 リビア砂漠をヘリコプターでラリーを追っていたときのことです。乗っていたのはパイロット、ナビゲーター、それにジジでした。飛び立って1時間以上経ってもラリー車のたてるホコリも見えません。遅い車が出て間もなく出発したのですから、車が見えなければいけないのです。そのうちパイロットがナビゲーターに言いました。
 
 「方向はこれでいいのか」
 
 ナビはなんとミシュランの道路地図を見ながら、首を傾げています。ラリー車用のコマ図なども見ています。
 
 「どうなんだよ!」
 
 返事のないナビにパイロットは、きつい声をかけました。ナビは困り切った表情で、後ろの席に座っていたジジに言いました。
 
 「どっちの方向だろう。この場所が分からないんだ」
 
 これは参った。かなり脳天気なジジですが、ヘリコプターのナビゲーターに場所を聞かれたのです。
 
 「あんた、専門だろ。オレに聞くなよ」
 「分からないんだよ」
 
 よくと聞くと、彼はド素人で乗っていればパイロットが目的地へ運んでくれると思っていたようです。そんな人を乗せた航空機担当の役員の神経を疑いますが、フランス人には気楽で、無責任なところもあるのです。
 目的地はおおよそジジには分かっていました。どの方向に向かえばいいのかは、地図を見ればいいのです。飛んでいる方向は正しいようでした。パイロットのカンです。こうなっては仕方がありません。ジジは“ナビのはず”だった砂漠経験のない素人から地図を取り上げ、パイロットに聞きました。
 
 「飛んでいるのは初めから同じ方向か」
 「そうだ。ずっと同じだ」
 「だったら方向を南に変えれば、ラリー車のホコリが見えるはずだ」
 「やってみよう」
 
 ヘリの飛べる時間は約3時間ほどでした。残りは1時間もありません。パイロットも真面目な表情になっていました。やっとホコリが見えました。
 
 「見えた。これで分かった」とパイロットはにっこりです。こちらも安堵です。前に立ちはだかってきたテーブルマウンテンを越えると、小さな飛行場がありました。
 
 「こんなところに飛行場があるとは、我々の路線図にも書いてない」とパイロットは言いました。あのころ米・英とリビアのカダフィ大佐の関係はよくありませんでした。フランスの消息通はカダフィ大佐を「誰が攻めようと、砂漠にいれば居場所は分からない」といっていました。パリダカがリビアを走ったのですから、フランスはかなり情報もあったはずですが、地図にない飛行場が、現実に存在したのです。
 
 ジジたちは無事にキャンプ地へ着陸しました。上空から写真を撮るなどという状況ではありませんでした。まる1日損しただけです。
 
 この日、行方不明になったリビアの飛行機を探していた、リビア機が燃料切れで墜落しました。ジジの着陸した“秘密飛行場”は、リビアのパイロットも知らなかったということです。リビアにはリビアのパイロットも知らない飛行場が、砂漠の中にあったのです。
 
 ナビのお粗末からかなり緊張はしたのですが、振り返ってみると、今のパリダカは西北アフリカの大西洋岸に近い地域に限られてしまって、内陸砂漠は走りません。ラリーを追って車やヘリで移動する人も限られてしまいました。リビア砂漠のさまようヘリでは、得難い体験をしたと思っています。

34)歓待。そりゃ、違うでしょ。


 
 砂漠に国境はあってないようなものです。緊張状態の地域などでは、兵舎などがあり、監視兵がいますが、それも轍の道が続いているところだけです。わざわざ砂丘を越えて走るのは、物好きなパリダカ参戦者くらいのものです。昔のキャラバンルートはオアシスを細々とつないでいるので、やむなく砂丘越えをするところもありますが、岩山の麓などを辿っているところがほとんどです。その方が井戸もあるのです。
 
 ある年、ニジェールのアガデスへ西北から回り込むルートが設定されました。アガデス北方約300キロほどの地点で、西から走ってきたパリダカのルートは南へと方向転換します。南へ行く地元の車はありません。大きな砂漠、砂丘にぶつかるので、それを避けています。
 
 西から真っ直ぐ東へは、アルジェリア国境へ向かう車もあるので、轍がついています。日本人のベテランが乗っていた車は、何故か南へ曲がる地点を見落とし、地元車の轍に沿って走り続けました。当然、ミスコースです。深夜になってもその1台はキャンプへ着きません。主催者は心配しました。
 
 「明日の朝までにキャンプに着かなかったら、ヘリコプターを飛ばして捜索する」
 
 朝になってヘリは飛び立ちましたが、40分ほどすると戻ってきました。
 
 「キャンプに向かって走っているラリー車1台を見つけた。行方不明は1台だけなので、あの車に間違いない」と捜索に行った人は言いました。その通りで、1時間ほどすると日本人2人の乗った車が着きました。
 
 「イヤー、歓迎を受けちゃったよ。狭いけど部屋に泊めてくれて、ジュースとパンをくれた」
 
 「どこで」
 
 「アルジェリアの兵隊だったな。偉そうな人のところへ連れて行かれたけど、何を言っているのか分からない。パリダカ、パリダカ、と言っていたら、あっちへいけ、みたいな合図で、兵士に部屋に入れられたのさ」
 
 「そりゃ、国境侵犯だろう。アルジェリアのビザなんか持ってないだろう」
 
 「持ってないよ。だけど歓迎しなけりゃ、食い物なんかくれないだろ」
 
 これを聞いて、何人もが呆れました。パリダカ参戦車と分かったから、とにかく一夜の収監で済んだのでしょう。そうでなかったら、もう少しひどい目に遭っているか、アルジェあたりに、砂漠を越えて送られるところでした。迷った理由も振るってました。
 
 「5㌔くらい走って間違った、と分かった。バックするついでに小便をしていこう、となったのよ。乗り込んでそのまま走っちゃったんだよ」
 
 2人とも方向転換をしたと錯覚したのです。これで入ってはいけない国へ、何時間かかけて行ってしまったのですから間抜けな話です。“連れション”のツケは高かったのです。
 
  「あれはどう見ても歓迎だった」と2人は力説しましたが、すればするほど可笑しくて、居合わせた人たちは、安堵とともに笑い出しました。
 Uターンする前に小便をしたばっかりに、彼らは国境を突破して警備の軍に捕まったのです。指揮官がいい人だったのでしょう。翌日には放免してくれたのは幸いでした。
 
 国境に印などありません。GPSもない時代だったので、今ではあり得ないこんな事件も起こったのです。
 

33)山羊、猿を売る男

 今度は山羊です。キャンプ地は似たようなサハラのオアシスでした。夕方になって1人の現地人が、山羊を引いてきました。80年代のパリダカは恐ろしいほどひどい食料でした。以前は自前だったので、それに比べるといいのですが、弁当箱のような缶詰に、ジャガイモ、ニンジン、米などが、カレー味の鶏肉が入るか、牛肉が入っているかの違いくらいで、毎晩同じです。パンもありますが、パリを出るときに仕入れた物なので、日を追って硬くなり、1週間もすると口の中を血だらけにしないだけマシだという状況です。
 
 フランス人たちはこれを紅茶やミルクに浸して柔らかくして食います。ジジたちも真似をして食うのですが、旨いわけはありません。アルジェリアやリビア南部の凍った砂漠地帯の夜に、こんな物で飢えをいやすのですから、パリダカは、今に比べるとどうしても過酷です。
 
 そんな環境だから、山羊を売りに来る男もいるのです。
 物好きなフランス人が買いました。価格は思ったより、ずっと安い物でした。テレビは普及していないし、ヨーロッパの物価も知らないのですから、吹っかけても知れたものです。その山羊はテントから少し離れたところで,生涯を終えました。たき火が明るく燃え上がり、1時間ほどして山羊は、食い物の姿に変わりました。
 
 なにがしかの分担金で、足を1本もらい、自分の車のボンネットに載せ、ナイフで切りながら食った肉の旨かったこと…。調味料は持ち合わせの塩だけです。名前を挙げると「あいつもか」などと迷惑がかかるといけないので、今はジジとは違って、パリダカとは縁もなくなり、妻子、もしかすると孫たちに囲まれて、平穏な生活を送っていいるだろう日本人の名前は書きません。
 
 70年代のコンゴでババが肉を食いたいと言っているとき、宿の親父が「豚肉がある」と言うのをジジが聞きつけました。まだだいぶ若かった頃のババは、すごい食欲でした。東京で1人で店に入り「カツ丼2つ」と頼み、1人で平らげて店の親父を仰天させたほどです。
 
 豚肉が食えるぞ、のジジの話に喜んで飛びつき、宿の親父に頼んだのです。
 しばらくして「ギャー、ギャー、…」の絶叫がありました。1時間ほどして豚肉が出てきたのです。やはり「旨い、旨い」と言って食ったのですが、肉は新鮮すぎてはいけない、というのは必ずしも的を得ているとは思えません。2人で豚一頭を食いきれるはずはありません。宿の一族はたっぷりと腹を満たしたことでしょう。
 
 それにしても砂漠で山羊を売り、ナイフ一本で解体し、丸焼きではないにしても、4本の足を見事に焼き上げる技術は、ナミの物ではありません。紐につながれてつれてこられ、買い手がいたために、2時間後にはあっさりと肉に変わったのです。もちろん、日本のように青インクの検査済みを示す「検印」などはありません。
 
 彼らは家畜を大事にします。しかし、家畜はペットとは異なります。乳をとるため、売るため、食うため、肉や皮をとるためです。そうでなければ遊牧などで生きられません。
 ヨーロッパ、アメリカの動物愛護団体の人も、捕鯨反対をヒステリックに叫ぶ団体の人も「牛や羊は、人に食べられるために生まれてきた」と都合のいいことを言います。
 
 ノルウェーや日本で鯨をいかに大切にし、きちんと料理して食料にしているいることなど知らないのです。知っても知らん振りです。「白鯨」のエイハブ船長のように、油だけをとって後は捨ててしまう、昔のアメリカの捕鯨とは違うのです。
 それに鯨は大量に魚を食います。資源荒らしは鯨の方です。そういうことに聞く耳を持たないのが、欧米のヒステリックな団体と、それを支持しないと選挙に受からない議員たちです。マスコミはその尻馬に乗るばかりなのです。
 
 山羊を「食えるように」すぐ傍で処理して売る人たちや、食ったジジたちは「食われるために、生まれてきた動物を、その運命の流れに沿って、口に入れ、満腹になって寝たのです。欧米のヒステリックな人たちも相手が山羊ですから、決して文句は言わないでしょう。彼らが正当性を主張している「食い物」なのです。
 
 それでも何となく、日本人には生々しいものです。
 「残酷じゃないよな」
 「当然だ。弱肉強食は生あるのの掟よ」
 「誰もが綺麗事を言うけど、殺して食うことには変わりないんだ。自分は知らん顔し“このお肉、おいしいわ”なんて言って、血のしたたるステーキを、着飾った女が食うんだよ」
 
久々にパンパンに張った腹をさすったのを覚えています。こういう時、砂漠の星空は、とびきり綺麗なのです。今はもう、こんなことはありません。山羊を食い尽くして間もなく、話を聞いたのでしょうか、猿を売りに闇の中から男が現れました。大昔ならともかく、いまは猿を食べる人々は少ないはずです。バッタでも生で食ってしまうフランス人の“食い物猛者”も、さすがに遠慮です。男は猿を抱えて闇の中に去っていきました。

32)ところ変われば売り物も変わる。

8
 パリダカのキャンプ地には物売りが来ます。80年代の終わり頃でした。マリのトンブクツー近くにキャンプしたとき、私のテント近くに1本の杭が打たれました。男は袋から大きなトカゲを出しました。トカゲには長い紐がついていて、それを杭に結びつけました。1㍍を超す大きなトカゲで、ノソノソとはい回る姿は、気持ちのいいものではありません。
 
 遠くから見ていた私に「買わないか」と男は声を掛けました。
 
 「食うのか?」に、男は笑いました。
 「食えないことはないが、いい使い道がある」
 言葉はいい加減で、身振り手振りが入ります。通じない言葉に慣れてしまうと、ボディーランゲージは達人の域に達します。意志は自ずから通じるのです。
 
 「こいつをテントのそばに繋いでおけば、夜は心配ない。安心して寝られる」
 
 理由はオオトカゲがサソリを食うというのです。長い紐はそのためで、テント周辺をはい回るようにしてあるのでした。目立ちませんが、サソリは結構いるのです。石の転がる砂漠で、いくつか石をひっくり返してみると、小さいサソリは何度か見つかりました。一人前に尾の方をピント反らせ、格好はなかなかです。
 
 パリダカのテストを見にチュニジアへ行ったとき、小さな動物園で猛毒のあるサソリをタバコの箱に飼い、それを歩かせ、なにがしかの料金をせしめている男がいました。
 
 ―サソリで死ぬ人は年間どのくらいいる?
 「この近くじゃ、1人か2人だな」
 人口は5000人ほどの街です、かなりの確率ということになります。サソリは色の綺麗なものが危ないと聞きました。澄んだ黄色だったりオレンジ色のサソリが特にいけないようです。
 
 死に至る人はそう多くはないのですが、数日間、高熱が出て、激しい痛みに苦しむようです。サソリが恐れられるのは、そういう人を見るからでしょう。
 三菱のラリー・チームをの食事や、現地での受け入れを担当しているフランス人の「ジェフさん」は、アフリカ浪人のような人です。モロッコのテストでキャンプしているとき、黄色く透き通ったサソリをメカニックたちが見つけ、遠巻きにして騒いでいました。ジジもその1人だったのですが、ニコニコしているジェフさんの行動はいつもと違いました。
 
 大男でひ面のジェフさんは、サソリを見るなり、つかつかと近づき、大きな靴でドカンと力一杯踏みつけました。サソリの運命はいうまでもありません。
 
 「危ないことをして遊ぶんじゃないよ」
 
 それだけ言って、また料理テントへ戻っていきました。きっと猛毒のあるサソリだったのでしょう。死ぬほどの毒を持っているのは7、8種類で、殆ど無害なサソリもいるそうです。こんな話しを覚えていたので、トカゲは魅力的でしたが、やはり枕元にオオトカゲを侍らせるのは、薄気味悪いので遠慮しました。
 
 男はまずは売れる当てもないと思えるトカゲを前に、悠々と座り込んでいました。夕方になると袋へトカゲを入れ、気軽に担いで帰って行きました。売り物は1匹の大トカゲだけです。男が1日を棒に振ったのは確かですが、何事もなかったような様子に、砂漠に住む人の悠然とした感覚を理解するのは大変だと感じたものです。

31)雪山、そして砂漠を制覇
 
 ◇喜びのパリダカ新チャンピオン。
 
 ダカール2006が15日にゴールしました。ダカール海岸を走り、ナツメヤシの繁る砂丘を越すと、バラ色の湖(ラック・ローゼ)があります。2㌔X1㌔ほどの湖で、微生物の影響で、ワインカラーに見えるのです。
 フランス植民地だったセネガルなので、洒落た名前をフランス人がつけたのでしょう。増岡さんも現地にいます。
 「レースは勝たなければ駄目です。改めて悔しさがあります。次はオレだ、の気持ちが湧いてきます」と話しています。
 パリダカ悲喜こもごも、はゴールのナマ情報です。
以下はニュース速報などです。
 
 
 ダカール2006(通称パリダカ)は15日、ダカール郊外のラックローゼにゴール。三菱パジェロ・エボリューションに乗るリュク・アルファン(フランス)が優勝。三菱チームは史上初の6連勝、通算11勝のパリダカ新記録を達成した。
 
 2位はフォルクスワーゲン・レース・トゥアレグ2のジニール・ドゥヴィリエ(南ア)、3、4位はナニ・ロマ(スペイン)、ステファン・ペテランセル(フランス)の三菱パジェロ・エボリューション。三菱チームは1、3、4位を獲得しライバルフォルクスワーゲンに圧勝して16日間の戦いを終えた。
 
 最終日の15日はダカール海岸で31㌔の最終ステージが予定されていたが、13、14日に観客の死亡事故が連続したため、主催者はSSをキャンセル。全参加者は14日にダカールに到着した順位でダカール海岸からラックローゼに向かい正式にゴール。アルファンは喜びのシャンペンを振りまいた。
 
 2輪ではマルク・コマ(スペイン、KTM)、トラックではウラジミール・チャグイン(ロシア、カマズが優勝。日本人参加者では4輪の池町佳生、浅賀敏則(ともにとよた・ランドクルーザー)が、22、26位。バイクは堀田修(KTM・37位、柏秀樹(ヤマハ)が63位で完走した。
 とトラックの菅原義正、照仁親子(ともに日野レンジャー)は5位、7位と健闘してラリーを終えた。
 
 優勝したリュク・アルファン
 「ダカール・ラリーに参戦してから8年。最高の感激だ。ダカール海岸やラックローゼは今までにないほど美しく見えたよ。SSはキャンセルされ、勝負は終わったのだが表彰台の上に上がるまではリエゾン中に“何かあってはいけない”と緊張がとけなかった。
 ワールドカップのダウンヒルでの3年連続チャンピオンも嬉しかったが、あれは昔のこと。レースを始めてからは、パリダカで勝つことを目指して頑張ってきた。やっと1つの目標が達成できた。三菱の連勝、優勝記録の更新が私の優勝で達成できたことも最高だ。チームの皆、支援してくれた人たちに感謝したい。そして、来年も勝ちたい」
 
 
 ◇雪山から砂漠へ
 スキーのスーパースターがパリダカのヒーローになった。海岸から椰子の繁る砂丘の間を抜け“ラックローゼ”を半周。表彰台に上がって両拳を突き上げた。
 「スキーで勝ったのはもうずいぶん昔だ。1998年にパリダカに参加してから、ずっとこの日のために頑張ってきた。最高の喜びだ」
 フランス・スキー界では今でもカリスマだ。1980年代の後半から90年代にかけて、アルペンスキーの滑降と言えば、アルファンだった。“リュッチョ”の愛称でフランスでは広く知られている。
 ワールドカップの滑降で12回優勝、1995年から3年連続ワールドカップの滑降ナンバーワン。フランス選手権を9回獲得している。
 「日本では考えられないほどの知名度です。ペテランセルが去年、パリダカ2連勝したんですが、アルファンと一緒にいると、殆どの人はアルファンの方へ行き、サインをもらっています。スキーの人気なのかパリダカで頑張るからなのか…。スキーでしょうね」と増岡は言う。
 筋肉で盛り上がった太ももは、今でも衰えていない。寸分の狂いもなく体重を支え、バランスを保ち、時速200キロにもなる高速で、氷の壁を“落ちる”ようにゴールを目指す。強靱な神経も不可欠だが、そのアルファンさえ「最後の数日は緊張の連続だった」と言う。
 「木にぶつかったのはバマコへのSSだった。あれでステファンとの差が開いてしまった。今年も優勝は駄目か、と思ったら、次の日にはステファンが木にぶつかって後退したんだ。ゴールまで近いけど、ジニールとの差を考えると、やはり寝付きは悪かったよ」
 14日にはまさかのミスコースだったが、アルファンをマークして追走していたドゥヴィリエもそのまま間違ったコースへ入り込み、タイムロスはお互い様。
 「ナビゲーションは難しかった。最後の数日あんなに緊張するとは…。オリンピックで勝てなかったことを想い出したりして、辛い日々だったよ。それも終わった。今度は2連勝を狙う!」
 アルファンは明るく、陽気に関係者と握手し、観客に手を振り、久々に雪山から砂漠へ―。“ダウンヒル・キング”だった栄光を、今度は“砂漠の王者”としても味わっているのだった。(フランス生まれの40歳)。

30)ラリーの事故に思う

29)砂漠の戦友

 “砂漠の悪役”を自称するのはパリダカの名物男、ジャン-ルイ・シュレッサーさん(フランス)です。増岡浩さんがトップでダカールへあと1日でゴールできる日に、スタートの際にもう1台とともに増岡さんの間へ割込み、強引に先を走ったのです。これがもとで追い越しを掛けた増岡車は、木の根に当たり、サスペンションを壊して2位になりました。2001年の事件です。
 
 勝てるラリーを失った増岡さんが無念なのは当然ですが、その後、増岡さんが2連勝したのに対し、翌、2003年のシュレッサーさんは、モロッコで車が燃え、砂漠の中でラリーを終えました=写真=。“悪役も、悪運も尽き果てたか”とジジは思ったものです。
 
 シュレッサーさんは2006年、満57歳になっています。まだ元気で相変わらずプライベートチームを率い、自らもハンドルを握っています。今回のラリー、ポルトガルの第2ステージのことです。増岡さんのパジェロ・エボリューションが2分先に出たシュレッサーさんの車に追いつきました。
 
 今回からセンティネル・システムという警報装置が各車に取り付けられています。200㍍以内に近づき、追い越しを掛けようというときに、このスイッチを押すと、前の車やバイクの中で警報が鳴ります。バイクは自分の音で聞えないこともありますが、車は分かるそうです。
 
 「ジャン-ルイが前なので、絶対に抜かせてくれるとは思わなかった。ボクの車と分かってますから。それがどうしたわけか、端によって抜かせてくれたのです」
 
 増岡さんとナビのパスカル・メモンさん(フランス)は驚きました。メモンさんは事件の時も増岡さんのナビで、邪魔をし続けたジャン-ルイの子分、ジョセフ-マリー・セルビアさん(スペイン)の車の前に立ちはだかり、止めようとして轢かれそうになったのは、フランスのテレビで大写しになり、何度も放映されました。
 
 恨みの増岡・メモン組にシュレッサーさんも敬遠気味でした。マラガ(スペイン)からモロッコへのフェリーの食堂で、増岡さんはシュレッサーさんの姿を見つけました。
 
 「ジャン-ルイがいるよ。今日は抜かせてくれたから挨拶だけしておこうか」と増岡さん。
 メモンさんも「そうしてみたら」とはいったのですが、気は進まないようでした。増岡さんだけがシュレッサーさんのテーブルに行きました。
 
 「ジャンールイ、今日は道を空けてもらった。有り難う」
 
 そこで意外なことが起こりました。ジャンールイが立ち上がり、握手を求めて手を差し出して来たのです。
 
 「今日は譲った。明日はオレが行くから道を空けろよ」
 
 ジジもジャンールイとは仲良しです。逞しいドライバーですが、普段はとてもいいオヤジです。増岡さんに言わせると、ハンドルを握ると人が変わる、そうです。ジジも昔、イタリアン・バハでスピンしたあと、最短距離でコースに復帰するのに夢中で、ジジに向かって突進してきたのを記憶しています。砂丘で写真を撮っていた多賀まりおさんは、ジャンールイの車を避けるため、飛び込みのように砂に倒れ込み、難を逃れました。確かにハンドルを握ると危ない男です。
 
 そんな砂漠の悪役が、自分から握手を求めることは殆どないのです。「ラストラン」でダカールに着けず、リタイヤした篠塚建次郎さんと同年の57歳ですが、勢いも良く、豪快で、精力的な男です。女性でただ1人、パリダカ優勝の“砂漠の女帝”クラインシュミットさんをソデにした=12)男と女のパリダカ4=くらい勝手な男ですから、万事タフなのです。
 
 「シュレッサーさんも枯れたのかも知れないね」と何度か一緒に記念写真も撮ったことのあるババが言います。
 「ボクに握手を求めるなんて、昔のジャンールイには絶対なかったからね」と増岡さんはババの手料理を食いながら話します。
 
 「F1にも乗ったし、スポーツカーでル・マンも走ったし、プライベートなのに三菱と戦い、2回も優勝したんだから、そりゃ、普通じゃないよ」とジジ。ジャンールイの話でしばらく盛り上がりましたが、ついジャン-ルイが関係したり、関係するクラインシュミットやテニスの元・ボルグ夫人の方に話しが行き、ババがなぜか威張り、ジジはどうしても逃げ腰になるのでした。
 
 勝負を賭け、正々堂々とはほど遠い、インチキなスタートをし、増岡さんの優勝を妨害した“砂漠の悪役”も、だんだんと柔らかくなってきているようです。その代わり、順位の方も下がってしまいました。シュレッサーさんもサハラ砂漠が大好きなのです。バギーを開発し、メーカー・チームを向こうに回して、砂漠戦に挑んだ過去の勢いはありません。
 
 ジジの良く知っている人が、年々パリダカから消えていきます。増岡さんに握手を求めたジャンールイは、2001年の悪行を精算したつもりなのかも知れません。来年、ジャンールイは出てくるかなー。増岡さんの話を聞きながら、ジャンールイがずっと身近な存在に思て来るのです。

28)天国と地獄

 Dakarへゴールするのは順位を問わず皆、嬉しそうです。遙かヨーロッパからサハラ砂漠を越え、たどり着いた喜びです。その喜びに浸ろうという、その時に地獄へ突き落とされた日本人参加者がいます。 1996年のグラナダ~ダカールの総合28位になった浅井明さん、青柳暁子さんです。
 
 ダカールのホテルのロビーで、2人が深刻な顔をしていました。ジジを見ると「何か情報はありませんか」というのです。なんのことか、ホテルへ戻ったばかりのジジには分からなかったのですが、ロビーのテレビにはビルが倒壊し、町が炎上している光景が映し出されました。阪神淡路大震災です。
 
 「電話を掛けたけど通じないんです。少しでも神戸の情報が欲しいんです」と青柳さんはすがるような目つきです。神戸に住む青柳さんは、2人の娘さんとマンション住まいです。母親はパリダカ大好きで2人を残して参戦していたのです。
 
 「うちのマンションは傾いたようです。それは仕方がないんです。娘の一人は居場所が分かりましたが、もう1人が分からないんです」
 
 相棒の浅井さんはベテランですが、日本で起こっている大災害をどうすることもできません。ジジも同様です。あらゆるルートで連絡を取り、もう1人の娘さんを探すしかありません。結局、親戚の家にいることが分かり、ほっとしたのですが、ダカールに着いたその日に、自分のマンションが倒壊するなどと言う悲惨な話しは、滅多にありません。
 
 偶然の一致としても酷すぎますが、ラリー中だったらテレビは見られないし、電話もままなりません。ダカールに着いていたから、なんとか連絡も取れたのです。それでも「不幸中の幸い」などといえた状況ではありません。2人は完走の喜びなど吹き飛びました。青柳さんはもっとも早い便を探し、日本へ戻りました。浅井さんが車を送り返す手続きなどのため残りました。
 
 阪神淡路大震災からもう10年が経ちます。ラックローゼからダカールのホテルへ凱旋パレードし、その直後の悲報はゴールが近づくたびに思い出します。ダカールへのゴールは天国です。その直後、災害に見舞われた住み家やその街を知り、どうにもならないもどかしさは地獄です。
 
 チーム・アオヤギは確か7回連続出場でしたが、この年を最後に青柳さんはパリダカ出場をやめました。

39    27)夢は無惨に砕けて
 ダカールへ到着するのを最大の目標としていた篠塚建次郎さんが、9日のヌアクショット~キッファ間(モーリタニア)を走りきれず、リタイヤしました。11日に分かったことです。ジジが鋭意、調べたところ、篠塚さんは9日のSSでエンジンがストップ。修復できずトラックに引かれてヌアクショットへ戻りました。ダカールへは飛行機で入りました。
 
 遅い車に乗ってのラストランは、勝負度外視の完走狙いでしたが、リタイヤとはさぞ残念でしょう。「最後はダカールにゴールしたい」との夢は、無惨にも砕け散ったのです。スポーツには勝利の感動の裏に、敗北の無惨さがあります。かつて日本を代表してきたパリダカ・ドライバーの最後は、砂漠で星を見ながら終わりました。
 
 モーリタニア砂漠は風があると、地吹雪のように砂が舞い、粒子が細かいので地平線はぼんやりと霞みます。風が収まり、砂丘のてっぺんに立つと大げさに言えば、上は180度、周囲は360度ぐるりと星に取り巻かれているのです。
 
 吸い込まれるように、どこまでもどこまでも星が重なり合っています。ジジは思います。篠塚さんはきっと砂漠に仰向けに転がり、無限の彼方まで重なり合う星を見ながら、21年間に渡るパリダカ・ドライバーとしての過去を思い返しただろうと…。
 
 1991年のパリ~トリポリ~ダカールで篠塚さんはテネレ砂漠で大きな転倒をしました。4回転して車はバラバラになりましたが、怪我はありません。ナビのアンリ・マーニュ(アンドラ)はヘリコプターで運ばれましたが、篠塚さんは日本のプレスカーでアガデス(ニジェール)へ、2日間かけて戻ってきました。
 
 プレスカーの友人は、先に着いていたジジに、深夜到着したことを知らせに来ました。
 
 「プレスカーがあんなに遅いとは思わなかった。ラリーを走るよりよほど草臥れた」と篠塚さんは苦笑です。食べ物がないのでジジは、自分用に秘蔵していた焼きそばを、アガデスの暗いホテルの調理場を借り、篠塚さんに振る舞いました。
 
 「旨いね―、日本の食い物は…。甘い非常食ばかり食ってたんで、特別旨いよ」
 
 ジジも食いたいのに、目の前でぺろりと平らげてしまいました。恨めしさと嬉しさがありました。ホテルと言っても日干し煉瓦の壁、砂混じりの土間でした。
 
 篠塚さんとの思い出は沢山あります。ダカール~アガデス~ダカールで優勝したときには、アガデスに着く1日前に、キャメルグラスのコブに激突。危うく転倒・クラッシュを逃れ、奇跡的にラジェターも無事でした。
 
 猛然とCPへ向かう篠塚さんの車を、そのときジジはヘリコプターで追っていましたが、広大な砂漠を篠塚車とそれに続くジャンーピエール・フォントネ車(ともにパジェロ)が、長いホコリの尾を引いて走る様子は、今でもくっきりと脳裏に残っています。
 
 三菱のパリダカ・プロジェクトは篠塚さんを中心に進んできました。増岡さんはその輪の中で、じっと腕を磨いてきたのです。ニッサンに移った篠塚さんは、その後いいことがありません。三菱の篠塚であっても「ニッサンの篠塚」にはなりきれないままでした。
 
 篠塚さんはさぞ残念でしょう。動かなくなった車の横で、何を思ったか…。ジジの頭や心には篠塚さんを追いかけて走り回ったサハラの日々が、懐かしさとともに刻み込まれています。
 
 日が沈んだ後、サハラの空は次第にざわめく星に支配されます。月が出ると、月の移動で砂の色が変わっていきます。そんな光景を思い出すと、なんだかしんみりとした気持ちになるのです。
 篠塚さんを追って、サハラを旅することは、もうないのです。

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39    27)夢は無惨に砕けて
 ダカールへ到着するのを最大の目標としていた篠塚建次郎さんが、9日のヌアクショット~キッファ間(モーリタニア)を走りきれず、リタイヤしました。11日に分かったことです。ジジが鋭意、調べたところ、篠塚さんは9日のSSでエンジンがストップ。修復できずトラックに引かれてヌアクショットへ戻りました。ダカールへは飛行機で入りました。
 
 遅い車に乗ってのラストランは、勝負度外視の完走狙いでしたが、リタイヤとはさぞ残念でしょう。「最後はダカールにゴールしたい」との夢は、無惨にも砕け散ったのです。スポーツには勝利の感動の裏に、敗北の無惨さがあります。かつて日本を代表してきたパリダカ・ドライバーの最後は、砂漠で星を見ながら終わりました。
 
 モーリタニア砂漠は風があると、地吹雪のように砂が舞い、粒子が細かいので地平線はぼんやりと霞みます。風が収まり、砂丘のてっぺんに立つと大げさに言えば、上は180度、周囲は360度ぐるりと星に取り巻かれているのです。
 
 吸い込まれるように、どこまでもどこまでも星が重なり合っています。ジジは思います。篠塚さんはきっと砂漠に仰向けに転がり、無限の彼方まで重なり合う星を見ながら、21年間に渡るパリダカ・ドライバーとしての過去を思い返しただろうと…。
 
 1991年のパリ~トリポリ~ダカールで篠塚さんはテネレ砂漠で大きな転倒をしました。4回転して車はバラバラになりましたが、怪我はありません。ナビのアンリ・マーニュ(アンドラ)はヘリコプターで運ばれましたが、篠塚さんは日本のプレスカーでアガデス(ニジェール)へ、2日間かけて戻ってきました。
 
 プレスカーの友人は、先に着いていたジジに、深夜到着したことを知らせに来ました。
 
 「プレスカーがあんなに遅いとは思わなかった。ラリーを走るよりよほど草臥れた」と篠塚さんは苦笑です。食べ物がないのでジジは、自分用に秘蔵していた焼きそばを、アガデスの暗いホテルの調理場を借り、篠塚さんに振る舞いました。
 
 「旨いね―、日本の食い物は…。甘い非常食ばかり食ってたんで、特別旨いよ」
 
 ジジも食いたいのに、目の前でぺろりと平らげてしまいました。恨めしさと嬉しさがありました。ホテルと言っても日干し煉瓦の壁、砂混じりの土間でした。
 
 篠塚さんとの思い出は沢山あります。ダカール~アガデス~ダカールで優勝したときには、アガデスに着く1日前に、キャメルグラスのコブに激突。危うく転倒・クラッシュを逃れ、奇跡的にラジェターも無事でした。
 
 猛然とCPへ向かう篠塚さんの車を、そのときジジはヘリコプターで追っていましたが、広大な砂漠を篠塚車とそれに続くジャンーピエール・フォントネ車(ともにパジェロ)が、長いホコリの尾を引いて走る様子は、今でもくっきりと脳裏に残っています。
 
 三菱のパリダカ・プロジェクトは篠塚さんを中心に進んできました。増岡さんはその輪の中で、じっと腕を磨いてきたのです。ニッサンに移った篠塚さんは、その後いいことがありません。三菱の篠塚であっても「ニッサンの篠塚」にはなりきれないままでした。
 
 篠塚さんはさぞ残念でしょう。動かなくなった車の横で、何を思ったか…。ジジの頭や心には篠塚さんを追いかけて走り回ったサハラの日々が、懐かしさとともに刻み込まれています。
 
 日が沈んだ後、サハラの空は次第にざわめく星に支配されます。月が出ると、月の移動で砂の色が変わっていきます。そんな光景を思い出すと、なんだかしんみりとした気持ちになるのです。
 篠塚さんを追って、サハラを旅することは、もうないのです。

 26)日本のラリー・エースだった

 篠塚建次郎さんといえば、日本の“パリダカの顔”でした。三菱パジェロの「砂漠スペシャル」で走り続け、1997年のダカール~アガデス~ダカールでは優勝しています=写真=。時代は移り三菱のエースは増岡浩さんになりました。増岡さんは2002年、2003年と優勝し、パリダカの世界に君臨します。
 
 篠塚さんは2002年の総合3位を最後に、長い三菱でのドライバー生活にピリオドを打ち、パリダカへの挑戦を開始したニッサンへ移籍します。三菱の社員でありながら、プロドライバーとして活躍していた珍しい存在でしたが、社員としての生活より、ドライバーとして「可能性を追求したい」と退社・移籍したのです。
 
 ニッサンは3年間でパリダカ優勝を諦め、撤退していきました。ワークス解体です。企業の論理は個人の思惑を超えます。篠塚さんはフリーになりました。昨年はノルマンディーのディーラーから、今年はイタリアのディーラーからの出場で、ワークス・ドライバーではありません。
 
 「大変ですよ。部品もないし、メカニックも1人しかいません。ワークスなら休息日に車はすっかり直りますが、今はそういうわけにはいきません。ティッファまで、モーリタニアの砂丘群を抜けられれば、ダカールに着けるかな、と言うところです」と篠塚さんは言います。
 
 世界最速の「パリダカスペシャル」に乗り、ニッサン・ピックアップで走り、砂漠を軽々と越えたトップドライバーの時代は去ったのです。
 
 「今度走っていて、こういうパリダカもあるのか、と改めて思いました。初めてパリダカに出た1986年には、パジェロのディーゼルでした。遅くて参りましたが、今はあのときのことを想い出します」
 
 ワークス・パジェロは飛ぶように砂の上を走ります。もちろんスタックもありますが、市販車クラスが何度もトライしてやっと乗り越える砂丘も、軽々と走り抜けるのです。短い日は3時間、だいたい5時間ほどで目的地に着くのが普通でした。キャンプ地に着けばちょっとした村のホテルでシャワーにも入れることが多かったのです。休養テントも、食べ物も用意されていました。
 
 ところがプライベートだとそういうものはないのです。篠塚さんの環境は大変わりしています。その上、乗っている車は、ワークス・パジェロのより3時間、時には倍以上も長く走らないと目的地に着きません。キャンプ地に暗くなってから到着することも珍しくないのです。ワークス時代には考えられないことです。
 
 2003年から昨年まで連続リタイヤで、辛い目に遭っている篠塚さんは「ラストランは是非ともダカールに着きたい」の思いが強いようです。車のクラスは異なりますが、出場20回の浅賀敏則さんは、休養日にこんなことを言いました。
 
 「篠塚さんはなんとかフィニッシュしたいという走りです。リタイヤ続きでは今度こそダカールに着きたいでしょう。しかし、ラリーとしてのパリダカは力の世界です。ボクも考えることがあります。そろそろ潮時かな、と」
 
 トラックで走っている菅原義正さんは24回連続出場です。篠塚さんの栄光の時代を知る数少ない参戦者の1人です。
 
 「ボクも息子がしっかり走れるようになりつつあるので、トシを考えて=64歳=そろそろかな、ですね。ジジーがまだ頑張っているんですが…。ドライバーでは最高齢だそうです」
 
 57歳になる篠塚さんはジャンールイ・シュレッサーと同い年。ダカール・ラリーに四半世紀を注ぎ込んだ日本の“元・エース・ドライバー”は、ダカールまでの残る数日、車が壊れないよう「祈る気持ち」でハンドルを握り続けることになります。
 
 長い間、篠塚さんのパリダカを追ってきたジジは、華やかな栄光の時代を良く知っています。パリダカが大好きな篠塚さんが、大きなスポンサーもなく頑張って出場している姿に、ちょっと寂しい気持ちもあります。好きなことを一生懸命やり、それを楽しんでいるのだからいいか―、と考えながら、なんとかダカールへ着いて欲しい、と思っているのです。