何にもない小島です。西側の岩礁にはそれこそ人っ子1人いません。

 東側の家々の合間からは、ブルーの海とエギナ島が見えます。何もない島ですし、オナシス−ジャックリーヌさんが、素っ裸でヨットやモーターボートに乗った過去もないので、この島に行ったからと言って、ホラを吹く材料もありません。

 スペッツェス島なら作家の村上春樹さんが1年ほど滞在した島なので、日本人も時に姿がありますが、村上さんが泊まっていた高級ホテルは、05年シーズンを最後に閉鎖されました。お金持ちがのんびりするには、スペッツェス島は俗化しすぎたのでしょう。

 

▼寄り道
 島は港の西側に旧市街とビーチがあり、その先数`で道は途絶えます。港の東は別荘地と島では高級なレストラン、岩礁へ続くテラスを持つお茶やがあります。子供連れは西のビーチ、大人だけのグループや別荘に来る人は東です。

 上の写真は港から西を見たところで、白とブルーの教会が目立ちます。東側はお洒落ですが、人影はまばらで、泳ぐ人はいくらもいません。白く塗った家の壁や崖際の階段などは、部分的ですがミコノス島より綺麗です。ミコノスは観光客相手の客引きや、とってつけたような貴金属店などがあり、ド田舎なのに気取ってみせるのです。

 
 飲んだり、騒いだりする施設はありません。島へ行きビーチで遊ばない人は、海を見下ろす崖の上のカフェーで一杯やりながらまどろみます。


エギナ島の南端にへばり付いたような小島です。島へは小さな渡し船で行きます。船頭さんは「何時に帰る?」と聞きます。その時間に迎えに来ます。
2003年頃までは渡る人も少なく、無人島状態でしたが、04年頃から人が増え、06年には小さな売店が出来、10年を過ぎるとパラソルが華やかでした。

 アギストリはエギナの西、モニはエギナの南に張り付いたようにあります。サラミス湾は古代ギリシャを攻めたペルシャ海軍を、ギリシャ軍が破った由緒あ所です。今は本土に近いためすっかりベッドタウンとなり、大型フェリーで通勤者が大勢います。



サラミス島

島の風見鶏はカラスです。

アギストリ島

大昔の海戦の他にサラミスにまつわる話は聞きません。エギナからピレウスへバイクを積んで渡り、サラミスまでの連絡船に乗りました。
 サラミス島内を走りましたが、面白くもありませんでした。鰯の開きの揚げ物を食べました。

整備されました。下はモニ島全景。

▼寄り道
 歴史上、サラミスの海戦は地中海世界をギリシャが制覇する切っ掛けとなったものとされます。スパルタ軍300人が皆殺しに会ったテルモピュライの戦いの後、ペルシャ軍はアテネを占領。勢いに乗ってギリシャ連合艦隊の攻撃に移ります。

 紀元前480年9月の夕刻が決戦だったようです。圧倒的に有利なペルシャ艦隊に対し、アテナイのデミストクレスはペルシャ軍に使者を送り、ギリシャ艦隊が逃げる準備をしていると伝えたそうです。誘いだったのか、裏切りだったのか、いずれにしてもペルシャ軍の総攻撃が始まるのです。

 狭い水道とシロッコと言われる潮流、マイストロと呼ばれる日没前の風で、波が高まったところでギリシャ軍の攻撃です。重装備で大型のペルシャ艦隊は狭いサラミスの湾内で自由が利かず、敗れ去ったのです。

クセルクセス王は残った艦隊を率いて北方へと敗走。その後もペルシャ軍はアテネ北方などで勢力を保ちましたが、本国から遠く離れた戦いに、次第に疲弊し、結果としてギリシャの勝利となったのです。

 この戦いを機に、ギリシャは地中海の制海権を握り、その後、スパルタとの確執からペロポネソスの戦いなどで“自壊”していくまで、地中海世界を支配したのです。ローマが強国に躍り上がるのは、ギリシャの衰退後です。



エギナとの連絡船は頻繁に行き来します。野菜、果物を始め食料品はこの船で運ばれます。

座礁しているのはギリシャ船籍の船のようでした。乗り合わせた元海軍士官が教えてくれました。ペルシャを破ったことが自慢で、それを言うためにジジに話しかけてきたのです。「ギリシャが勝たなければ、今のヨーロッパはペルシャのものになっていた」と強調していました。

2000年まではボロ舟でお爺さんが1人でやっていましたが、03年からは見かけません。隠居したのだろうと、ババと話しました。

モニ島

 泳ぐのは港でもどこでも自由です。フェリーが来ると避け、停泊中は水に入ります。海は澄んでいて港とは思えないほどです。海が比較的静かなので、防波堤もろくにありません。

 連絡船では幼児が船縁に座っていました。速度を上げるので飛沫がかかり、船は揺れます。親はいましたが平気な顔です。こういうことには慣れっこなのでしょう。