アドリア海の女王
ベネチアの支配

ベネチアの海   翼を持つライオン ベネチア散策


ベネチアの海 アドリア海、エーゲ海


海から見るベネチアの街

 ドロミテの山群から流れ出る川が、アドリア海のおとなしい海に押し流してきた土砂で浅瀨を作る。"ラグーン=英、ラグーナ=イタリア)と現地で呼ぶ堆積した島、または浅瀨が形成された。そこへ6世紀頃、異民族に追われて本土から逃げ出し、砂州などに住み着いた人々の作った国がベネチアの始まで、小島の高い場所を見つけて家を建てた。人口が増えるにつれて、砂州を拡張したり、丈夫にするために頑丈な木材を深く打ち込んで基礎を固めた。その数は膨大でちょっとふざけた言い伝えまである。

「ベネチアを裏返せば、森林が生まれる」と。


頑丈な建物は砂州に打ち込まれた丸太が支える

 街は小島が基礎となり、その周辺に干拓などで乾いた部分を作り出している。従って、船でなければ行き来出来ないし、その航路は難解極まる。海の干潮などによる、浅い水路で航行が困難になるため、自然の防御が外敵を防ぎ、街は次第に発展した。ドージェと呼ばれる総督(697年)を頂点とする政体が発達し、836年にイスラムの侵略を、900年には、マジャールの侵攻を撃退し、国としての基礎を築いた。


サンマルコ寺院の広場と鐘楼
 6~8世紀には各国が独自の守護聖人を持っていたが、ベネチア政府は商人達の動きに注目した。彼らはエジプトで倒れた聖マルコの遺骸をベネチアへ運んで祀るためにサン・マルコ寺院を作る大事業に着手した。時の政府は、守護聖人の象徴、翼を持つライオン、をベネチアの紋章とした。

 
鐘楼から見る広場
寺院のドーム

以来、砂州の街は商業都市として発展を続け、海洋進出とともに軍船も整備、10世紀には、イスラムとの交易も開始した。フランク王国の支配も際どく逃れ、800年には東ローマ帝国とフランク王国間で結ばれた条約で、ベネチアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易も開始し、商業・貿易都市へと大きく前進した。かくして兵器・造船などでは世界的な交易の拠点となっていった。



 その後も第4回十字軍側についたベネチア艦隊はコンスタンチノーブル(イスタンブール)の東ローマ帝国を攻め、勝利した代償としてクレタ島を得たほか、アドリア海沿岸の港湾都市はそっくりベネチアの影響下に置かれた。さらにフランク側に加わったベネチアは、東ローマ帝国の分割で莫大な利益を手にし、地中海でヨーロッパ最大の勢力を誇る国家になっていった。東地中海から黒海は”ベネチアの海”と言える状態になっていた。



 しかし、ベネチアの栄華にも限界があった。オスマントルコの勢力拡大で次第に押され、さらにはナポレオンの野望の下、ヨーロッパに君臨する海洋帝国の命脈は絶たれた。しかし、長い栄光の時代に培ったノウハウや、巧妙な外交戦略を展開し紋章(右)、市旗に往時からのライオンを描き、イタリアの海洋都市として交易、観光などで繁栄を続け、今日へと続いている。

アドリア海東岸は現在殆どをがロアチアとなっているが、港々の城門などには、ライオンの彫り物が有り、ベネチア支配の名残を留めている。

古に生きる   水の都

翼を持つライオン


 

      


 


 翼を持つライオンは戦略も巧妙だった。強大な“国家”に成長しても、海洋国家であることを確実に守り続けた。イタリア半島の西側、リグリア海方面のジェノバや内陸ではあるが繁栄していたミラノへと進出することはなかった。

そして何よりもベネチアを安定させたのは、アドリア海東岸の“都市国家”だった。あえて都市国家というのは、岩壁に囲まれた入り江の街を征服すると、背後の岩に覆われた山を後ろからの防御にあて、石灰岩の山々を越えて、東へ進出しようとはしなかった。港とそう大きくもない街を頑丈な城壁で守り、自らの海戦用の船や商船を港に入れて外敵を迎え討った。補給基地であり、休憩地でもあったので物資は豊富だ。海賊に襲われたとしても、港へ入れば安泰だった。当時の海は物騒でもあった。ベネチアが商圏を広げるには何よりも船や船員の安全が大切だった。そのために内陸には目もくれず、防御港を点々と作ったのだろう。

 地中海へ出て行けば別だが、アドリア海にいいる限り、ベネチアの船は補給も防御も十分。時によっては“助っ人”まで呼び寄せられたのだ。アドリア海はまさにベネチアの海だった。今もアドリア海東岸の港湾都市のゲート近くには、ベネチア支配下の街を示すライオンの彫り物を見かける。



ベネチアの国旗はもちろん、かつて支配した都市国家の城壁や門にベネチアを象徴する翼を持ったライオンが存在する


翼を持つライオンは戦略も巧妙だった。強大な“国家”に成長しても、海洋国家であることを確実に守り続けた。イタリア半島の西側、リグリア海方面のジェノバや内陸ではあるが繁栄していたミラノへと進出することはなかった。

そして何よりもベネチアを安定させたのは、アドリア海東岸の“都市国家”だった。あえて都市国家というのは、岩壁に囲まれた入り江の街を征服すると、背後の岩に覆われた山を後ろからの防御にあて、石灰岩の山々を越えて、東へ進出しようとはしなかった。港とそう大きくもない街を頑丈な城壁で守り、自らの海戦用の船や商船を港に入れて外敵を迎え討った。補給基地であり、休憩地でもあったので物資は豊富だ。海賊に襲われたとしても、港へ入れば安泰だった。当時の海は物騒でもあった。ベネチアが商圏を広げるには何よりも船や船員の安全が大切だった。そのために内陸には目もくれず、防御港を点々と作ったのだろう。

 地中海へ出て行けば別だが、アドリア海にいいる限り、ベネチアの船は補給も防御も十分。時によっては“助っ人”まで呼び寄せられたのだ。アドリア海はまさにベネチアの海だった。今もアドリア海東岸の港湾都市のゲート近くには、ベネチア支配下の街を示すライオンの彫り物を見かける。


ベネチア散策



イタリア屈指の観光地ヴェネチアは、いまから約1500年前ローマ帝国が衰亡しはじめたころ、それまで北東イタリアが中心だった人々がこの安全な中州のような潟地帯に住み着いたのがはじまり。
そして6世紀後半東ローマ帝国がラヴェンナの総督を創設すると、潟地帯の住民は塩の供給地として発展、商人としての旺盛な活動で貿易圏を広げていった。828年、エジプトのアレキサンドリアから聖マルコの遺骸を運び、それ以来ヴェネチアは聖マルコの守護のもとに繁栄していった。11世紀初頭に建立されたヴェネチアの中心聖マルコの墓廟を納めたサン・マルコ寺院と大理石を敷き詰めたサン・マルコ広場を巡る回廊は、いま有名なカフェやブティックが軒を並べる。




大運河を往くゴンドラ(イタリア政府観光局)

9世紀から13世紀にかけてはアドリア海に本拠を置くスラヴ人海賊やイスラム教徒のサラセン人などとの苦難が続いたが、十字軍と共同戦線を張りコンスタンチノーブルを征服、その膨大な勝利品(略奪品)が流れ込み、一方では高価な物産の取引が盛んになった。その上、マルコ・ポーロMarco・Polo(1254~1324)が中国への大遠征を行い、から巨万の富を持って帰ってきた。

ヴェネチアの町は118の島々からなり150の運河を400の橋が結ぶ。通りは狭く、車は乗り入れることはできないが、島に渡る手前には大駐車場がある。島々への交通は列車と船で、街の移動は主として大運河(Kanal・Grande)で、水上バスが頻繁に運行され、水上タクシーもある。

狭い運河には観光用のゴンドラが行き交う。
ゴンドラは時間単位でその料金は異なる。1時間かけて運河から名所を案内してもらうと約2万円。6名まで乗れるのでひとり4,000円弱だから時間と仲間があったらぜひゴンドラに乗ってみたい。映画などで見る美声のカンツォーネ付きはもちろん別料金だ。

観光ゴンドラは約800艘もあるとか。コロナ前の客の8割は日本人というから驚きだ。

「雨の日も風の日も、また雪の日もゴンドラに乗るのは日本人」と船頭はいった。

かつては世界の富を集め経済の中心として栄華を欲しいままにした商業都市も1453年トルコ人によるコンスタンチノーブル占領から衰退がはじまり、コロンブスのアメリカ大陸発見の後は通商路も変わり痛手を受ける。そして18世紀ナポレオンが侵入し、10世紀にわたる伝統ある政体が廃止された。





海上から見るベネチア中心部。まさに水上都市だ

大陸を追われて砂州や小島に逃れたベネチアの人々は、スラブ人の海賊、イスラム教徒のサラセン人などに攻められて苦闘続きだったが、十字軍と共にコンスタンチノーブルをせめて勝利。戦利品を得て凱旋した。同じ頃海運を利用した物産の取引が盛んになるなどで、小国ベネチアは一気に”強国”へと跳ね上がった。海上の都市はその富の象徴でもある。
   
         

左=仮想パーティーのお面。右=ガラス工芸の店


大運河沿いの高級住宅。庶民の乗り合い船が行く


  
ベネチアが最も強大な時代は15世紀前半。建築、会が彫刻などが、見事に花を開いた。12~13世紀はビザンチン風。16世紀はルネッサンス様式で、大理石をふんだんに使い、モザイク画が壁面を飾った。


大運河沿いのマーケット

 
左-=ベネチアへの主要な連絡路は列車。バス、タクシーもあるが、本土からH列車がラク。
駅前の大運河にかかる橋。ここからは水上バス、タクシー(モーターボート)、ゴンドラもあるが、」水上バスせ十分。秘図を見て適当な所で降りれば良い。ただし、橋と狭い道。面白いが迷いやすい。

 
ダンディーなゴンドラの客引き

 
狭い水路には道路と似た標識がある
左=ゴンドラ侵入可。右=右折禁止


多くのゴンドラが行き来する”ため息の橋”下の水路。囚人が最後に外界を見る窓。

今は観光客が覗く


このような風景が囚人の見納め。中世でこの牢から解放された囚人はいないと聞いた。


ガラス工芸の島、ムラーノ。


ムラーノので作られたガラスの人形。

ベネチアの大運河や観光キャ君お集まる広場からムラーノへ乗合船や水上タクシーが出ている。観光客相手の水上タクシーだと10分そこそこでムーラーのまでいけたと記憶している。本島を離れると、道しるべを兼ねた木材を組んだ杭が、転々と続き、ムラーノへと導くが、途中でいくつかの航路と付いたり離れたりして、外部の人が正確に航路をたどるのはかなり困難だと見た。

ムラーノは写真のようにカラフルな家が建ち並んでいる。この写真はイタリア観光局で貰った物だが、係と思える人は「家の色が異なるのは、酔っ払った家主が、家を間違わないようにするためだ」とニヤニヤしながらいった。どうせ冗談だろう。オヤジ達の全部が全部、酔っ払いではあるまいし、しかも、自分の家の見分けがつかない程酔っ払うようでは、色を塗ったところでおなじことだろう。

両側の家の前には広い歩道がある。中央は掘り割りで、船が行き来出来るくらいの幅で水路がある。普通の街に読み替えると、水路が車道、両側に歩道ということになる。ガラス工芸はどこでも同じような物、熱したガラスを長いパイプの先に巻き付けて反対側を職人が吹きながら、巧みに形を作って行く。フェラーリのエンブレムにもなっている跳ねる馬をかたどった物を買ったが、持って帰って自慢していたら、友人がいつの間にか足を折ってしまった。ギプスをあてがうわけにも行かず、ゴミ屋さんのお世話になった。




ベネチアの住人は水路、ゴンドラと同居して過ごす



窓辺の住人。毎日が一等船室暮らし?

ベネチアは118の小島から成り立っている。橋でつながっていない独立した島は、それぞれ特技を持っている。ムラーノはガラス工芸品で知られるし、ブラーノはレース編みが得意の島。サン・ミケーレ島は全島が墓地になっている。

これらの島へは観光客を運ぶモーターボート(タクシー)が行き来する。太い丸太を数本束ねて海上の航路が示されているが、かつて外敵に攻められることが多かった時代は、この表示を分かりにくくして浅瀨に導いたり、動きの取れない砂州へ誘導したりで、防御に利用したと言われる。



ベネチアは駆け足で見ては面白くないので、島内に適当な宿が取れなかったら、列車で本土へ戻り、そこから"通い”でゆっくり見物が良いようだ。なお、ベネチア得意のサン・マルコ寺院正面にある四頭のブロンズの馬像=上=は、紀元前400年頃の作品で、ベネチア十字軍が13世紀にコンスタチノーブルから持ち帰ったものと言われる。

ベネチア支配下の“港国家”
アドリア海東岸の国や都市