ターラントから長靴型の踵の付け根をほぼ東に横切るとブリンディシです。ギリシャや地中海の島々、遠くトルコ沿岸まで、この港から船は行き来していたそうです。
 当時の人口は10万。町の規模はローマをしのぎ、イタリア最大の都市に膨れあがっていたのです。商人は逞しく生き、町に繁栄と活気を注ぎ込むのです。

 

アッピア街道

ポンペイの西、海岸近くにやはりベスビオスの噴火で埋まった町があります。エルコラーノです。
ローマの貴族の別荘などがありました。
豪壮な家(下)には見事な彫刻やモザイクの壁があり、ゆっくり見ることが出来ました。貴族の生活がいかに贅沢だったかをうかがわせます

エルコラーノの廃墟

ローマからアテネへ
ブリンディシに有名遺跡は見当たりません。港だった場所に太い石柱が半ば折れて2本立っていました。神殿や町の遺跡で見かける丸いものではなく、四角の堂々たる大理石です。(数年後には修復されていた)
 ブリンディシから半島の内陸を北北西に100`ほどでしょうか、アルベロベーロの町へ行ってみました。石を瓦代わりに使ったとんがり屋根の家が有名です。今では南東部最大の観光地です。アドリア海岸から30キロほど内陸です。
 近郊に点在する農家=写真上=も石造りですが、畑の中にあるのを遠くから見ると、アフリカ・サバンナの家のようにも見えます。

▼寄り道

ポンペイの街路(右)、競技場(左上)

アッピア街道の終点、ブリンディシです。階段の上の柱がローマ時代のローマへの門です。
 ギリシャとの交流もこの港を経て行われました。クレオパトラに惚れ込み、人生を棒に振ったアントニウスもこの港からギリシャへと向かったのです。柱は数年後にいってみたら、修復され高い見事な柱になっていました。

古代高速の渡し場

○…街道の宿は随分といい加減だったようです。ローマ時代の有名な外科医が、書き残したものがあります。
 「宿の主人が豚肉の代わりに、人肉を旅人に食べさせた。私と道連れの1人がおいしいと喜んで食べた肉汁の中に、人の指が入っているのを見つけた」

ベスビオス山の噴火は強烈な火砕流を巻き起こしました。ポンペイの町は一瞬にして高熱の火砕流に襲われ、数日前から逃げなかっ人たちは即死状態。
 右の写真は飲み屋でワインの壺を傾けたまま、ひっくり返った史上最古のノンべいの姿です。

ポンペイの飲み屋で幸せな最期?

ガセッタから7,8`走ったところに見事な水道橋がありました。道路で寸断されているとはいえ、しっかりとトウモロコシ畑の中に続いていました。
 水道橋を辿れば、立派なローマ時代の街が土の下にあるのでしょう。遺跡の多いイタリアでは、ローマ時代のものを皆、保存していたら道路も出来ないのでしょう。

左はローマのトロカデロ広場です。コロシアムの側から街道は始まります。街道には古い宿泊所があります

エルコラーノ・貴族の館(追加)

ローマ郊外のアッピア街道です。石畳が見事で、両側には記念碑や墓地があります。死んでも人の往来を見て楽しもうというわけです。

古代に作られたイタリアの街道で、殆どを車でたどれるのがアッピア街道ビア・アッピアです。アッピウス・クラウディウス(前315年)が最初に建設を始めたということです。
 ジジ・ババがこの街道を走ってみたのは1998年でした。ローマからナポリ、ターラントを経て、アドリア海沿岸のブリンディシまで行きました。ローマからテラシーナまでは真っ直ぐな道です。ローマ人は直線道路が好きだったと言う話しもあります。
 武田信玄は信濃への進軍が容易なように、八ヶ岳山麓を真っ直ぐに切り裂いた棒道作りましたが、ローマの直線道路も軍事上の理由もあったようです。

ポンペイの近くにあるばかりに、あまり注目を集めないのがエルコラーノです。貴族の保養地は素晴らしい建物や内部の装飾があります。ついでに見るには惜しいくらいの遺跡です。ポンペイと同時に廃墟となりました。

▼寄り道

○…アッピア街道は軍事、産業、生活道路でもありましたが、観光道路としても人気があったようです。しかし、宿は少なく、料金はベラボウな請求も多かったといいます。
 宿で働く女は娼婦でもあり、姦通の罪には問われなかったそうです。男の旅人は、日本のお伊勢参りの男どもが、街道で袖を引かれ、困った振りをしながら、いそいそと引き込まれたように、ローマ時代の男も、喜んで女に引かれて、大金をむしり取られたと書いている本もあります。
 ジジ・ババがローマ近郊のアッピア街道を見ていたとき、松の美しい街道の木陰に、黒服姿の女が2人いました。近くにはキャンピングカーが止まっていました。現代の娼婦です。アッピア街道で真っ昼間から客を引くのには驚きました。


夕暮れのナポリ港から見るベスビオス山です。



になると大きなテントを張り、そこに泊

○…ローマ皇帝ネロの妃がアッピア街道を旅した記録があります。馬車の金具を金で作り、飾り立てていたそうです。一般の旅行者は、大方野宿で金持ちしか宿には泊まれなかった時代です
 妃は大勢の従者とともに、500頭もの雌ロバを連れていました。ロバは従者が乗ったり、荷を運ぶためではありません。妃の“美容”のためだったのです。夕方

牛乳風呂ではなく、ロバ乳風呂ですが、贅沢も極まれりでしょう。

まるのですが、毎晩、ロ
バの乳を満たした風呂
に入り、肌を綺麗に保つ
ためだったのです。

▼寄り道

上はターラントの町です。


ミントゥルニアの遺跡です。前290年頃のものです。大きな町だったようで、市場や水場、石畳の街路が残っています。
  アッピア街道にはこういう遺跡が沢山あります。山の上だったり、川に近いところだったり、様々な町や村の様子です。
 崩れ去り放置されているものも珍しくありません。もったいないようにも思います。