色濃く残す   ベネチアと歩んだ中世

  

 クロアチアの旅です。悲惨な内戦を経て、独立した国ですが、アドリア海に面した長い海岸線と多くの島々をっています。ベネチアがアドリア海に勢力を張った時にも、この国は戦うこともなく、地中海からエーゲ海を行き来するベネチアの船に、食料や漕ぎ手を提供して来たということです。
 その影響はあちこちにあり、山脈に隔てられた内陸部より、海岸沿いに強く見られます。深い入り江と背後の岩山は、格好の港です。ベネチアはこの港を点々と支配し、一時代を築いたのです。

 目次
1)ザグレブ 2)ザダール 3)バグ島、ニンの町  4)ザダール、シーオルガン

5)シベニク、トロギール 6)サローナ フプリット 7)ピサク、マカルスカ 

8)フベル、プラチェ島  9)ドブロクニクを歩く 10)強靱な要塞都市 

11)モンテネグロ、コトル 12)コトル背後の山に登る 13)モンテネグロの港

 14)ボスニア・ヘルツゴビナ 15)洒落た海岸の村 16)Kob島
 
17)プーラの旧市街 18)ロヴィニの表裏 19)ポルチェの世界遺産

 20)トリフの産地 21)ザクレブ 21)ネクタイ

 
【寄り道 クロアチアで流通している通貨はこの国のお金、クーナです。ユーロもかなり使えますが、基本はクーナで1クーナ約18円でした。レンタカーは3週間契約で保険はフルカバー。何があっても金銭的な補償は一応、カバーできることになっています。

 宿は例によってその日に決めます。ホテルもたまには使いますが、多くはキッチン付きのアパルトマンと呼ばれる部屋を借ります。数日間、同じ所に泊まり、近辺を車で回ったり、海で遊んだり、フェリーや渡し船で島へ出掛けるからです。

 宿でSobe(そべ)と書いてあるのは部屋貸しで、多くはキッチンはありません。海岸沿いを南下し、北上したのですが、海沿いは急な崖で、村は崖の下にあります。海岸線は狭い道を下って行くのですが、Sobeと書いた札を持った客引きがいます。特に悪いわけではありませんが、窓やベランダからの展望などもあるので、ジジ・ババは必ず部屋を見せて貰ってから決めます。値段もこのとき確認します。

 食べ物は和洋折衷です。旅は1ヶ月ほどになりますから、いつも日本から炊飯器(220V)を持って行きます。日本の米は2㌔ほどで、後は現地調達です。キッチンには調理用具、食器など一通りはありますが、スーパーで紙コップ、皿などを少し買っておけば便利です。


【註】以下は本文です.上の目次が面倒なら、下までスクロールすると!)続いて見る事が出来ます。

  
 【余談・コースアウト】 クロアチアは「ネクタイ発祥の地」と言っています。17世紀にクロアチア兵がパリに入り、ルイ13世を護衛することになったとき、その行進を見たルイ13世が「あれは何だ」と聞いた。側近が「あれはクラヴァット=Cravat=です」と答えた。ルイ13世はクビに巻いた布を指したのだが、側近は兵隊だと誤解した。以来、クビに巻く布をクラヴァットと呼ぶようになった。

 しかし、異論も有り14世紀には既にフランスにCravateという言葉はあったともいう。英国でも幅広ネクタイをクラバッットと呼ぶ。ちなみにアスコトットタイはクラヴァットの結び目だけを残したものでボウ(蝶)ネクタイを指し、アスコット競馬場のダービーなどに集まる紳士の正装となった。(ザグレブ旧市街の店はKRAVATAとある)

 
    ザグレブ着。旧市内を歩く21
 アドリア海の東を辿ってみようという旅は、3週間超の25日ほどになりました。ギリシャ、ローマ、そしてベネチアの支配する時代を美しい島々や、城塞を巡らせた都市国家は今にその痕跡を残しています。それが世界遺産として評価され、クロアチアは新しい観光地として発展途上です。

 ザグレブに到着してからすぐに、海岸に沿って南下しました。行き着いた先はモンテネグロのコトルです。コトルは込んでいたので一山越えた街に泊まり、半島を走った後にフェリーで本道に戻り、今度はボスニア・ヘルツゴビナの世界遺産の橋を見に行きました。記事をスクロールしていただければ、簡単なレポートは書いてあります。しかし、それぞれを見て回って、あまりにも書いたり、写真を掲載したりしたいことが多く、辟易とする有様です。

 日本で売られているガイドブックも、かなり努力しているのは分かりますが、クロアチアで出版されている物の焼き直しが殆どで、所々間違いも、車で旅していると気づきます。大きな間違いはそれほどないので、文句はつけませんが、改訂版には心して欲しいものです。

 ザグレブの旧市街はいろいろと見所がありますが、教会建築などに興味のない人にとっては、それほどの街ではありません。教会だらけでどこで誰が祈るのか、異教徒にはわかりにくいところがあります。

 しかし、教会内にはいるときには、帽子を取り、訳も分からない十字を切るより、キチンと頭を下げるようにしています。ジジ・ババは日本人で「八百万津(ヤオヨロズ)の神」が信仰対象なので、キリスト教も神を敬う点で、全く異存はないのです。イスラムの国々を旅するときにも、同じ気持ちだし、同じように行動します。

 ちょっと昨日の「危うい話」を書きましょう。パジンという古い、小さい街に泊まりましたが、クロアチア通貨のクーナをフランスの銀行、クレディ・リオネのカードで引き落とそうとしたのです。ATMは銀行の入り口にあるので、保守は万全と思ったのですが、カードを“食い取って”後は音無です。金は出ないは、カードは戻らないはで、往生して通りかかった親切な夫婦に助けを求めたところ、非常用の通報電話で銀行に連絡してくれました。しかし、ヨーロッパの銀行はどこでも同じように無責任です。

 「明日の8時に銀行が開く。そこで話をすれば、カードは戻る」という返事です。
 「大丈夫だ。心配は要らない。私も同じ目に遭っているが、明日の朝来ればカードは戻る」と別のオッさんも言いました。
 銀行カードでクレジット機能もありますが、暗証番号は分かりようもないし、例え戻らなくても別のカードで決済は可能なので、宿へ戻りました。

 翌朝、即ち今日の8時少し前に銀行へ行きました。前のカフェーでコーヒーでも飲んでいたのでしょう。3人の女性が銀行へ向かいました。鍵を開けようとしているので早速の話しかけです。

 「昨日の夕方、ここのATMで引き落としをしようとしたら、誤作動でカードが戻らない。金も出ない。地元の人に問い合わせて貰ったら、8時にここへ来れば大丈夫だといっていた」

 「調べてみます。カードは出てくるでしょう。問題ありません」
 問題があると言うのはのはこっちで、銀行のATMがおかしいし、トラブルが起きたときの対策もなってない。銀行員に「問題ない」といわれる理由はないのだ。

 「夕べはろくな飯が食えなかった。カードがないと金もない」
 「ダイエットに良かったでしょう」

 これだよ!ヨーロッパではこういうことが珍しくない。カードは注意して使わないと酷い目に遭う。ATMに食われてしまったら、急ぎの旅はお手上げだ。ジジ・ババは2人併せると5枚のカードを持っているが、そうでもないとヨーロッパの旅を1ヶ月も続けるには、危なくてしょうがない。

 ま、無事にカードは戻ったのだが、40分も待たされた。それでも、行員は一生懸命やってくれたようだった。

 日本なら、先ず「済みません」で始まるのだが、こちらではそう言うことはない。行員が悪いのではなく、機械が悪いのだ。そう言う文化だということを承知していないと、国同士のつきあいもうまくはいかないだろうと思う。

 
     20

 クロアチアの海岸を離れ、内陸のモトヴァンへ行ってみました。トリフの産地として知られ、イタリアへ輸出しているそうです。昔、トリフは豚に匂いを嗅がせ、探させたようですが、今は犬を使っているようです。土産物屋では瓶詰めにした物を沢山売っていますが、それでは面白くないので、黒トリフの玉を買いました。スライスしてオリーブ油につけるか、摺り下ろして熱い目玉焼きやスパゲティにかけると、とてもいい香りなのです。

 日本の松茸もそうですが、食べてことさらおいしい物ではなく、香りを楽しむ食材というより、香料の一種と考えた方がいいようです。瓶詰めなども買い込んだので、帰京したら料理に振りかけて楽しみます。モトヴァンは丘の上の街です。イタリアではよく見かけるのですが、丘の頂上付近に城壁を巡らし、小さな街を作り、てっぺんに城があるのです。海岸の街は城壁で囲い、海や山からの侵入を防ごうとしていますが、丘のてっぺんも同じことです。

 とにかく中世やそれ以前のヨーロッパは海賊や山賊がゴロゴロいて、チュニジア辺りからも盛んに海賊が押しかけ、町や村を襲撃すると人は奴隷に、財産は根こそぎかっ攫う荒っぽさだったようです。だから、イタリアの街の多くは山奥にあったり、頑丈な城壁を持っていますが、それでも被害は絶えなかったようです。アドリア海はベネチアが強力だったので、それほど海賊に荒らされることはなかったようですが、それでも油断なく構えていたのでしょう。

 今日の泊まりはパジンというという古い街です。大きな教会がありローマ時代の立像がさりげなく置かれていました。宿のベランダからは崖の上の城が見えます。ここもまた城塞都市だったのでしょう。明日はザグレブに向かうつもりです。

 
【寄り道】 トリュフを探すのに犬を使うとは知りませんでした。豚なら雑食ですからトリュフの匂いや味を覚え、エサとして探すのも分かりますが、犬は草食とはいえません。どうやってトリュフ探しを覚えさせたのか、気になるところでした。しかし、世界の空港で活躍する麻薬犬は、やはり草を食べるわけではなく、いってみれば薬物中毒でしょう。禁断症状寸前で連れ歩けば、薬物の匂いを探し回るのは当然です。

 トリュフを売っている店でビデオを放映していました。見ていると犬は、半ば“発狂状態”でトリュフを掘り出そうとします。やはり“トリュフ中毒”にでもしているのでしょう。そうでなければビデオにあるほど狂的に掘り出そうとはしないと思います。

 モトヴァンの城壁の下に、いくつかの犬小屋があり、2匹ほどの犬が金網の中にいました。車を止めて上っているときには、特別どうとも思いませんでしたが、土産屋のビデオを見た後では、なんだかしょんぼりしているように見えたものです

    ポレチュの世界遺産 19

 世界遺産の教会があるというので立ち寄ってみました。紀元前2世紀頃からローマが作った都市で、その後、ベネチアやオーストリアの支配下に置かれてきたということです。世界遺産のエウフラシス聖堂は543~554年の間に原型が造られ、6世紀のビザンチン時代に様々なモザイクが描かれ、それがビザンツ芸術の傑作ということです。

 こういうことには詳しくないし、それほど興味もありませんが、世界的な評価を受けているというのですから、観ないわけにはいかないし、鐘楼にも例によって息を切らせながら登ったのです。

 ローマ時代の石畳が残っているという通りには、昼も夜も、観光客が絶えません。かなりの人気はあるようですが、街そのものの魅力となると、ドヴロヴニクやコトルには及びません。それでも街がコンパクトなのと、イタリアが近いために、食い物も結構旨いので、旅人が立ち寄るにはいいところでしょう。

 ロヴィニから早く着いたので、ホテルに部屋があるかどうか聞いたところ、簡単にOKで午前中だというのに鍵を渡してくれました。目の前の海で泳いだり、街を見物したり、それはもう2泊したような1泊となりました。夜はレストランでいろいろと食ったのですが、メニューの中身を聞いているのに、ボーイはそれを注文と受け止めてメモしたようで、沢山食い物が出てきて満腹を通り越してしまいました。時にはこういうこともあります。

 
【寄り道】 世界遺産の教会は街の中央を貫く石畳の道から6階ほどの古いビルの間を抜ける横町のような幾分細い道の突き当たりにあります。うっかり中央通りを歩いていると、見過ごしそうです。横町の奥まで60㍍ほどですが、突き当たりの教会の入り口は、遠くから見ると変哲もない鉄格子とアーチなので、教会には見えないのです。
 教会はどこでも同じように見えてしまいますが、ここでは教会の中へ入ってすぐ似ちょっとした広場が有り、そこから鐘楼を見たのが上にある写真です。ローマ時代のものがかなりあり、裏庭はローマの遺跡が掘り出されています。モザイクも見事で、教会が大事にしているのが、カラフルな魚のモザイクです。
   ロヴィニの表と裏 18
 ロヴィニの旧市街はローマ、ベネチアなどの影響が強く、古い街が丘の上の教会を中心に残っています。昔は島だったそうですが、埋め立てて、半島のようになっています。船で沖から眺めると、とても綺麗18日

 しかし、旧市街の坂道には、入り組んだ路地が続き、今にも崩れそうな家が密集しています。観光地の表と裏はどこでもそうですが、猛烈な貧富の差があります。


 遠くから見ると、とても綺麗な旧市街の建物の重なりですが、その街中へ入っていくと、狭い路地と急な坂の石畳が続きます。すり減った石畳は風情もありますが、上を見ると洗濯物が路地を横切ってぶら下がっています。路地裏には土産物屋もありません。観光客は入ってこないのです。

 澄んだ水と晴れ上がった空。昼間は猛烈な暑さですが、水は思いの外冷たく、長く入っていられません。水遊びをするなら、やはりギリシャの海でしょう。今度の旅はクロアチアという馴染みの薄い国と、その隣のモンテネグロやボスニア・ヘルツゴビナを覗いてみることでした。

 世界遺産は沢山ありますが、ローマ時代からベネチアの活躍した時代、そして中世からの遺跡などが多く、かなり似通った物が目立ちます。研究者にはそれなりに面白いでしょうが、素人は同じような町並みや遺跡を見ても、次第に興奮もしなくなります。でも、人の姿や顔かたち、さらには言葉も次々と変化するので面白い旅ではあります。


  プーラの町17

 アドリア海もどん詰まりに近いイストラ半島のプーラです。アドリア海を渡るとイタリアで、即ち昔はローマやベネチアの支配下に置かれた街です。

 頑丈な城壁を巡らせているのは、どこの入り江の古い街でも同じことですが、アドリア海の東に連なる、入り江と島々に本拠を置く小さな都市が、連携したという話は聞きませんし。都市国家といえるかどうかくらいの街が、いくら武装し、城壁を巡らせても、ローマやベネチアにかなうはずもありません。

 プーラの旧市街には立派な円形劇場が残っています。円形劇場という訳語はいったい誰が作ったのでしょうか。劇場というのが芝居をするようなところだとする日本的な観念なら、大間違いです。剣闘士が猛獣や人間を相手に、血なまぐさい戦いをし、それを見るために大勢がコロセウムに集まったのです。お芝居や音楽会とは大違いです。よくもまあ、円形劇場などと訳したものです。もっとも、今の時代、劇場だらけでどこが芝居小屋なのか区別もつきません。何をやっても、その場が劇場なのですから…。

 自動車専用道路や高速道路、そして一般路を走り「こんなところかな」と訳も分からずに中心街を目指して走り、さて、どこだろう。どこにいるのか、どこへ向かっているのか―。そんなときに、いつものように「お助けの神様」が現れ、ヒョイと見ると円形劇場がすぐそこにあるではないですか。おまけに、駐車場所を探していたら、ちょうど1台が出るところで、これもまたラッキーというものです。「運も腕のうち」というのですから、ジジ・ババの腕は、びっくりするほどたいしたもので、筋金入りの旅人ということになります。

 どこへ行くにも道中不案内は当たり前です。たまたま、アメリカ人らしき団体を率いているガイドに「セルギ門へはどう行ったらいいでしょう」と聞いたら「フォローミー」という返事。無料ガイドの出現というわけです。でも、狭い街なのですぐにセルギ門
=右上=は見つかり、余計なご託を聞く気もないのでアウグスト神殿を見つけ出し、プーラの見所の大方は、歩いたことになったのです。

 ローマの遺跡が良く残っている街です。小規模ですが昔は「都市国家」といっても、住んでいる人は少なく、今とは比べものにならないほど少人数でも、大きな街と考えられたと思いますよ。人口が少ないということは、生産性も低いのですが、消費も少なく、無駄のない生活をせざるを得なかったのでしょう。そう言う環境で、凄い建築物を造っています。人の能力、努力のすばらしさを改めて感じるとともに、今の世の、あまりにも無駄の多い消費生活を続ける限り、人類は「長くはないな」と思いましたよ。
   Rab島(クロアチア) 16

 アドリア海の最奥はベネチアであり、トリエステ(イタリア)ですが、クロアチアの深い入り江の奥にリエカという都市があります。その南にいくつかの島が並びますが、ラブ島はそのうちの一つで、SV.Juraj(スベーティ・ユライ)に泊まっているので、ヤブラナックという村のフェリー乗り場からラブ島へ渡りました。

 ヤブラナックという村はフェリー乗り場とそう離れていないのですが、途中で分かれていて、村の方へ入ると、船着き場まで4キロほど崖っぷちの回り道になります。

 フェリー乗り場の地名が分からず、回り道をしたのですが、フェリーは4艘がピストン輸送です。1艘に車なら50台は積めるので、込んでいるようでも順番はすぐに回ってきました。島まで約15分ほどです。島は大陸側から見ると全く木が生えていませんが、島の西側は樹木があり、何とか人の住める環境です。ラブの旧市街まで行き、教会を見たり、昼飯にしたりと、まずまずの見物でした。

 中世の町並みはどこでも同じような物で、入り組んだ路地と教会、それに小さな広場があるのです。それをそっくり城壁が囲んでいたわけです。今に残る城壁は部分的ですが、教会の建物や鐘楼が城壁の役目もしています。

 ラブ島には4つの鐘楼がありますが、そのうち最も背の高いのが聖マリア大聖堂のそばにあります
=写真左上=。高さは25㍍ほどです。1人10ユーロの入場料を払い、木と金のハシゴを6階ほど上り、最高部に出ます。なかなかの高度感です。旧市街や港が一望できます。アドリア海の澄み切った水が、鐘楼の上からだと良く分かります。

  可愛い海岸の村15
          Sv.Juraj(スベーティ・ユライ)という海岸の村です

 ボスニア・ヘルツゴビナとクロアチア国境の町に泊まり、400㌔少しを走って、Senj(セニ)という古い港町近くのSv.Jurajという寒村に泊まっています。

 村の中心部は、レジャー客が多く、宿も一杯のようだし、クロアチア全体にいえることですが、海岸の村や町には、駐車場という物があっても、どこも一杯で観光客が駐めるスペースなど殆どありません。とにかく宿があるかどうか尋ねようと駐めると、誠に意地の悪そうな人物が現れ「車を駐めるな」といいます。

 クロアチアの海岸は綺麗ですが、駐車場探しもままならないので、レンタカードライブはお勧めではありません。いい人も沢山いるのですが、宿探しで街を巡っていて、いい人に巡り会ったことは殆どなしです。それに元々崖っぷちの村が多いので、住民自身が駐車場を持たず、路上駐車や好況駐車場を占拠してしまっています。ヨーロッパからの観光客も往生していて、2度とクロアチアへは来ない、と思う人も結構いそうです。

 しかし、ついているというのか、自画自賛で勘がいいというのか、昨日はとてもいいお婆さんの宿を探し当てました。広い部屋でダイニングキッチンも広く、一泊40ユーロです。この価格がこの周辺で高いのか安いのかはどうでもかまいません。駐車場はあるし、綺麗だし、2人で5000円にも満たないので、上々です。3泊することにしました。

 Senjの街へ行ってみました。旧市街の背後に丘があり、そこには要塞がありました。街を見下ろす場所です。陸路より海路が主だった昔は、遠くから見える要塞は外敵を防ぐのに大きな役目を果たしたのでしょう。旧市街は礼によって内戦の痕跡が残っています。砲弾の穿った穴がそのまま壁に残っている廃屋もありました。博物館へ寄ったら、内戦の様子や、この町で亡くなった人たちの写真などが沢山ありました。

 ローマ時代の遺跡から発掘されたもの、海中から見つかった様々な物なども展示されていました。ギリシャ、ローマ、ベネチア、オスマントルコ…、とアドリア海を彩る支配者たちは、様々な物を残しています。


ボスニア・ヘルツゴビナ      とモスタルの町  14
  

 国境線は入り組んでいて、モンテネグロからボスニア・ヘルツゴビナへ来るのに、何度もパスポート・チェックがありました。モスタルの街は内戦で落とされた古い橋を、ユネスコが修復して観光名所にしたので、もちろん世界遺産になっていますが、どうということもない街だし、橋も特筆するほどの物ではありません。

 正直言ってガッカリです。ほかには内戦の弾痕の残るビルや廃墟、どこにでもある教会くらいの物で、敢えて出かける価値があるとも思えません。

 わざわざ行ってみたので、こういうことがいえるのですが、行かなければそれはそれで悔いが残るのでしょう。橋の下の方に降りる道があり、下から見上げたところで、この程度の橋なら日本に幾らでもあります。ただ、古い橋で内戦前には重要な街の人たちの通路だったのが、内戦で壊されて悲劇をエスカレートさせる物語などが生まれたのです。

 ユネスコがカネを集め、橋を造り直して世界遺産にしたのだそうです。橋には物語はあっても、橋そのものは新しく作られた物なので、情緒も何もありません。車は通れませんし、今ではほかの車が行き来する橋もあるので、単なる観光名所、近くに家のあった人が大もうけをする場所ということになります。

 少年が橋の上から川へ飛び込んでいました。ハイティーンの男と2人でいましたが、ハイティーンの方は観光客からカネを集めて、飛び込みで稼いでいました。いやですね!少年の方は無料ですが、拍手を求め、大きな拍手が起こると、得意げに飛び込んでいました
(右の縦長の写真をよく見てください)

 郡上八幡の橋から飛び込む少年たちは、それ自体を得意として楽しんでいますし、カネを取るようなヤツはいません。もっとも高さは桁違いでしょう。橋からの飛び込みで金を稼ぐのは、面白いような馬鹿馬鹿しいような…。命がけの飛び込みです。
  それよりも、クロアチア国境からボスニア・ヘルツゴビナに入って少し走ったポチテリジという村に、イスラム教会と城塞の廃墟がありました。細かいいわれなどは書かれていませんが、内戦で徹底的に破壊されたように感じました。

 この国は昔の、それこそチトー大統領の統治したユーゴスラビアから、チトー亡き後の分裂、内戦、民族のいがみ合いなどを思い起こすと、旅をするのが厭ななります。橋を見物し、2,3日は泊まるつもりでしたが、なんだか厭な感じなので早々に切り上げ、クロアチア国境の町に泊まっています。そう言えば、ボスニア・ヘルツゴビナに入って日の丸とつけたバスを何台も見かけました。

 「日本国民より…」と書いてありました。観光ガイドや外務省の地域情報には、こういうバスを日本が寄贈していることくらい書いてもいいでしょう。お粗末な日本外交の典型です。国民が知らないでどうする!馬鹿な外務省の役人め!国民のカネを使って、自分だけその場でいい顔をすれば、それでお終いなのが、日本外務省、国連職員、海外協力隊などの「いい顔シー」の連中なのです。

  モンテネグロ13

 ティヴァトの街を誤解してました。この町は発展途上もいいところで、モンテネグロ最大の観光地になるかも知れません。観光地といっても、名所旧跡があるわけではないのですが、小さいながら国際空港があり、さらにアドリア海で有数のプレジャー・ヨット、ボートの基地を作っているのです。モンテネグロ港の名で売り出し中ですが、個人や会社の所有する豪華船、ヨット、ボートなどを係留する専用の港が作られているのです。

 この港を見るまで、幾つもプレジャーボートやヨットの係留されている港を見ましたが、ほかの船と入り交じっているのが普通です。ところが、この港は完全に分けられていて、貨物船や漁船などは一艘も入っていません。港の人に聞いてみたら、多くの観光客を乗せた船はコトルへ、貨物船は対岸の港へとはいるそうです。従ってモンテネグロの新しい港は「遊びのシンボル」みたいな物です。

 大型のリゾートマンションが幾つもあります。それと一緒にホテルも作られています。ブランドの店、高級レストラン、高級スーパーなども、区画を区切ってできています。この港の一区画だけが、まさに別天地なのです。アドリア海といっても東岸は、遺跡こそ多くても、民族紛争などで疲弊しています。立ち直りはじめているのですが、ここではいち早く、港と「レジャー特別区」を作っているようです。

 宿は港から歩いて15分ほどです。こちらは鄙びた港町です。地元の人たちが、老若男女を問わず、水遊びに来ています。ボートもヨットも月並みな物です。宿賃も1泊35ユーロなので、5000円はしません。近くのスーパーで買い物をし、適当に生活できるところです。

 明日はボスニア・ヘルツゴビナのモステルへ向かうつもりです。世界遺産の街です。宿はどこかにあるでしょう。

 
  コトルの旧市街から城塞へ登る12

 モンテネグロのティヴァト近くにいます。コトルから山を越えたアドリア海の町で、大きな島が目の前にありますが、船でコトルへ行くにははこの街の前を通り、さらに狭い海峡を通過して、暫く奥へとたどらなければなりません。

 ベネチアがコトルを確保し、通商の拠点の一つにしたのは、アドリア海の島々の奥の奥、さらに奥のどん詰まりに街があったからでしょう。海賊は攻めにくいところです。

 街は意外と小さく、写真にあるのがほぼ旧市街全部です。ドブロヴニクの旧市街の半分以下です。やはり城壁に囲まれていて、裏山にまで城壁が築かれています。教会が山腹にあり、最上部には砦があります。旧市街から1時間半ほど、大汗をかかないと上れません。上から見下ろすと、街は思いの外小さく、掘り割り
=写真・左下=と海、城壁で守られている様子が分かります。(右下は正門)

 ここもしっかりしていて、山道を登るのに3ユーロ徴収されます。約400円ほどですが、これもまた世界遺産になったからでしょう。旧市街の中は、どこでも似たようなものです。ベネチアもドブロヴニクも、コトルも大きいか小さいかの違いはあっても、歩いている限り大差はありません。

 ベネチアは運河が張り巡らされていますが、アドリア海東岸のベネチアの息がかかった昔の街には、運河こそなくても細い路地と、階段と日当たりの悪い家が密集していることが似通っています。

 コトルからティヴァトへは長いトンネルを潜るのですが、今日は「きっと山越えの道があったはずだ」と、別の道を走ってみました。山越えの旧道がありました。コトルの街や湾が綺麗に見えました。ティヴァトには小さいながら国際空港があるので、トンネルも空港作りと同時進行で行われたのでしょう。立派な峠道が続いていました。

 明日もモンテネグロをうろつき、明後日にはクロアチアへと戻るつもりですが、ボスニアヘルツゴビナの内陸へ、ちょっと寄ってみる気にもなっていて、まだどういうルートを取るか決まっていません。

 いずれにしてもコトルへ行かず、今いる半島を先端へと走ると、フェリーがあります。深く入り込んだコトルへの湾の最も狭い部分をフェリーがつないでいるので、おそらく50㌔以上は近道になるはずです。昨日、半島を巡ったのでフェリーがあることは分かっています。行ってみないと分からないところもありますが、それもまた旅の楽しさです。

 モンテネグロのティバト、コトル11

 モンテネグロへ来ました。国境で30分ほど待たされましたが、長い列は地元の人の検査で時間を食うのです。旅人は何の問題もなくパスしていきます。ペラストという小さな町には、古い教会があり、コトルに通じる入り江が目の前にあります。入り江の中に島があり、教会が建てられています。島は2つで一つは静かですが、もう一つは観光客を乗せた小舟が行き来しています。

 別に大したことはなかろうと思いながら、1人5ユーロの船賃を払い、教会の島を往復しました。その後船着き場へ戻り、昼飯を食ってからコトルへと走りました。コトルは古い町で、ベネチアの時代から堅牢な港町として、ベネチア人が重宝してきたところです。

 旧市街の近くに泊まろうと思いましたが、ホテルも民宿も、「何様だ」と思うほど威張っていて、態度が悪いのです。多くの観光客がやってくるので強気なのでしょうが、こういうところは大嫌いです。内戦の悪い面、悪い奴ら、を思い出してしまうので、早々に切り上げて山を一つ越えたモンテネグロ港に近い、ティバトという町の民宿に泊まりました。

 宿は古びていますが、親父も女将も息子も感じがいい人で、気に入ったので3日泊まることにしました。レストランで飯を注文したら、飲み物は来たのですが、肝心の料理をキチンとキッチンへ伝えなかったようで、30分以上待たされました。もちろん、文句百も並べたら、ボーイや注文担当の4人が頭を抱え、特急で料理を作ったので、間もなくありつけました。

 「申し訳ない。パフェを無料でサービスする」といいます。珍しいことです。腹一杯なのでコーヒーでいい、といってチップを置いてきました。コトルの感じの悪さに比べ、ティバトは人種が違うのではないかと思うほど、いい人が多いように感じました。

 さて写真を見てください。車のナンバーです。EU加盟国は、空色に黄色の星が円く輪を描き、その下に国の表示があります。ところがモンテネグロの車は「EUもどき」で、ナンバープレートの左端に空色のスペースがあり、地方の頭文字などが白で書かれています。EUの車とそっくりですが、肝心の星のサークルがありません。

 そう言えばこの国はユーゴスラビアから独立した後、EUにも加盟していないし、ユーロ圏でもないのですが、自国の通過を持たずに、ユーロが正式通貨です。ユーロに切り変わる前にはドイツ・マルクを使っていたそうです。自国で通貨を発行しないだけでも、ずいぶんと経済的でしょう。 自国の通貨を持たない国は、ヨーロッパに幾つもありますが、いずれも属国、または国境の町と言っていいほど小さな国です。モンテネグロほどの国が、自国の通貨を持たない生き方をするのは、ベネチア時代からの伝統なのかも知れません。

   山上から見る要塞都市 10

 ドブロヴニクの旧市街を山の上の要塞から見ました。ロープウェイが通じていて、運賃は90クーナ(約1700円)です。旧市街が見事に見えます。
 
 きっちりと城壁に囲まれていて、これまで見たいろいろな都市と比べても、守りの堅さではトップクラスでしょう。ナポレオンに統治されるまでは、ベネチアと上手につきあい、独立を守っていたようです。

 山上の要塞には1991年から95年までの悲惨な内戦の記録が展示されています。複雑な民族紛争は、一口では到底言えない物があります。旧市街が炎上している写真もありました。美しいアドリア海の町を戦車が走り回り
=写真右=、大砲の撃ち合いも繰り返されたのです。

 昨日はお休みです。目の前の海で泳いだり、甲羅干しで過ごしました。夜は近くにある唯一のレストランで鰯のグリルです。鰯ですからどこでも同じような味ですが、オリーブ油で焼いているので結構旨いのです。
 宿の前がすぐ海で
=写真=、急に深くなっています。砂のビーチではないので人が殆どいないのは幸いです。明日はモンテネグロへ向かうつもりです。
  
【寄り道】 クロアチアでの宿選びは思い切り海岸線に沿って走らないと、海を見ながらのんびりというわけにはいきません。ことにザダールからドブロヴニク、さらにはモンテネグロのコトル付近までは、急な崖が海際まで迫っていて、砂浜などほとんどなく、崖がそのまま海中へ突っ込んでいるのです。

 昔は陸路より海路の方が一般的だったのでしょう。海岸沿いの古い道は、村と村をつないでないことも多いのです。いったん崖の上に登り、そびえ立つ岩山の下を地形に沿って、国道が走っています。高速道路の建設も進んでいますが、多くは山の裏側(東)を通り、アドリア海に沿った町や村へは、一山越えるか、谷に沿ってかなりの距離を走ることになります。

 従って、クロアチアの南へとたどり、昔ながらの村や町、港や教会などを見るには、国道を走り、さらに急な崖を下る細い道をたどって、海岸にへばりつくような街や村へ行ってみることになります。レンタカーを借りるのなら小さいもの、日本車ならフィットやヴィッツ・クラスが適当かと思います。海岸へ下る多くの道は、とても狭く崖っぷちですが、ガードレールなどありません。ヨーロッパの多くの田舎道では、ガードレールがない方が普通です。日本のように林道でも運転を誤って崖下に落ちると「ガードレールがなかった」などと、管理者責任を追及するような、奇妙なお化けマスコミはありません。

   ドブロヴニクとその途中9 
 クロアチアを代表する世界遺産の町、ドブロヴニクへやってきました。やってきたと言っても、市内に泊まるのは、うるさいし駐車が面倒なので、スプリット側に5㌔ほど寄った小さな村に泊まっています。深い入り江の奥に綺麗な宿があったのですが、なんだか愛想が悪すぎたので、ちょっと湾を回り込んだところに寄ってみたら、思いの外いい宿がありました。

 ピサクから走ってきたのですが、途中でドゥボウカとか言う小さな村で、朝飯兼、昼食にしました。その時、店の親父に道や村の名を聞いたのです。親父は元気に地図を見ながら言いました。

 「ここはヨーロッパで、この先もヨーロッパだ。だけど、ここの7㌔はヨーロッパじゃない」

 クロアチアは今月にはいると同時に、EU28番目の加盟国になりました。まだ、1週間も経たないのに、ヨーロッパだ、と自慢しています。ヨーロッパじゃない、というのはボスニア・ヘルツゴビナのことです。


 「どこから来た?日本か?」
 「そう。日本の東京だ」
 「そうか。子供は何人いる?」
 「2人だ」
 「オレは4人だ。歳は58だ」
 「そうか」
 「うーん。うちの親父は74になる前に死んだ」
 
 全く、それがどうした、というような会話です。少し走ると親父が自慢していた国境に行き当たります。同じ道路でも約7㌔はボスニア・ヘルツゴビナの領域ですから、形式的でもパスポートのチェックがあります。EUに加盟してなかったので「ヨーロッパではない」の言葉になったのでしょう。そして、ドブロヴニクの領域は、再びクロアチアなのでまた、形式的なパスポート・チェックがあります。ここには真新しいEUの旗が誇らしげに翻っています。

 今度は民宿のお婆さんです。

 「宿代はカードで払えるか?」
 「駄目。現金ですよ」
 「クロアチアのカネで幾ら?」
 「クーナは駄目ですよ。ユーロでください。クーナは“バイバイ”だからね」

 まだEU加盟からたった4日しか経っていないのにこの始末。「早々とバイバイされた」クーナは気の毒の限りです。
 
 自国の通貨にこれほどあっさりと見切りをつけるとは、日本人には理解しにくいのですが、民族紛争を乗り越えて生き延びた年寄りにとっては、いつ何があるか分からないのでしょう。とりあえず、大船に乗った気持ちでユーロこそが頼りになるのかも知れません。

 旅人はうっかりATMでたくさんのクーナに両替すると、酷い目に遭いそうです。スーパーやガソリンスタンドではカードが通じるので、カード払いにして、クーナはなるべく持たないようにしないと、紙切れになってしまいそうです。

 ドブロヴニクの旧市街はゆっくり見物しました。町を囲む城壁の上を歩いて一回り。1人90クーナ(約1700円ほど)。いい値段だけど払わないわけにはいきません。なるほど城壁の上から眺めると世界遺産の町らしい情景です。しかし、ボリすぎでしょう。階段を自分の足で歩くのですから、もう少し安くてもいいはずです。「観光客の足下を見る」とはこのことでしょう。


フベル、プラチェ8
マカルスカへ車で走り、乗合船でフバル島、ブラチュ島を巡りました。フバル島はジェルサの港に着き、約1時間半の滞在でした。小さい港町なのでこれと言って見る物もありませんから、教会とその裏に連なる村の中を歩きました。かなり古い町のようですが、ギリシャやイタリアの古い町に比べると、やはり気の毒なほど何もありません。島や海の美しさが取り柄ですが、船に戻るときに港でガッカリの物を見てしまいました。

 排水が港に勢いよく流れ込んでいるのですが、なんとトイレットペーパーが大量に流れてきていて、近くの船をつなぐロープにも沢山引っかかっているのです。これじゃ、到底泊まったり魚を食う気にはなりません。観光立国ならば、トイレットペーパーの流れ出す排水溝をそのまま港は流し込むのは、絶対にいけませんよ。クロアチアはこの一点で大減点です。世界遺産の町も同じような構造なのかも知れません。政府は大至急、対策を講ずるべきでしょう。

 ブラチュ島はバルのビーチが有名です。観光案内にも沢山出ていますが、日本のビーチになれた人にはどうということはありません。ただ、船でマカルスカの港に戻るとき、町の背後にそびえる岩山は大迫力です。

 
【寄り道】 下水について書いたので、ついでにトイレのことにも触れておきましょう。日本ではここ10年ほどの間に、公衆トイレが次々と出来ています。しかもほとんど全部と言っていいくらいが無料で、とても綺麗です。これほどの国は世界にどこにもありません。綺麗すぎて使い方の分からない近隣国の観光客がいる始末です。

 クロアチアではレストランやカフェに入らない限り、無料のトイレはありません。1人が2クーナから5クーナくらいです。3人の子供を連れた観光客が、シベニクの教会広場にあるトイレに入りかけ、すぐに出てきました。親子5人で20クーナ要求されたようです。出てきてどうするのか、その後は知りませんが、無料だったのはドブロヴニクで管理人が席を外していないときだけでした。高くても100円ほどですが、日本の公衆便所になれた人には、馴染みにくいことです。それに観光地にトイレが少なすぎます。

 ヨーロッパはおおむねどこでもトイレが少なく、あっても有料がほとんどです。綺麗に磨き上げられているのならともかくj、かなり汚いのに平気で金だけは取ります。細かい金を探すより、先に用を足そうとしても、断固金を払うまで入れない頑固な管理人もいます。従って、駐車スペースのある人気の少ない道ばたには、大物や紙が散らばっていることは、珍しくありません。これはクロアチアばかりではなく、ヨーロッパ全体です。欧州崇拝の人は、こういう所もきちんと見ているのでしょうか。

 Pisak7

 ピサクという地名はミシュランの75万分の1、道路地図には載っていません。スプリットとドブロクニクの間にマカルスカの地名はありますが、そこから20キロほどスプリット側へ寄ったところです。昨日も書きましたが、崖っぷちを道路が走っていて、村や町へ入るには、急な崖を下ります。EU加盟の話があってから、リゾート開発は急激に進み、クロアチアの人たちは、なんだか浮かれたように海へ遊びに来ています。

 それでいて、有料の歴史的な遺跡などには、人が少ないのでとにかくヨーロッパのバカンスを「我々も味わうんだ」と主張しているようです。アドリア海に沿った細長い国なので、海運は開けていたのでしょうが、海沿いの鉄道はありません。移動は飛行機、船、バス、自家用車ということになります。昔は船でしょうが、今はバスより自家用車です。飛行機は大きな機体は空港の設備から言って今のところ無理でしょう。

 観光収入が大きな比率を占めている国ですが、これ以上観光客が増えたら、アドリア海沿岸のリゾート地はパンクです。その大きな理由は道路事情と駐車場でしょう。今でも崖の下にある町では、駐車難もいいところです。もう少し経って観光シーズン真っ盛りになったら、海へはいる前に駐車場探しで日が暮れるでしょう。クロアチアの世界遺産などを見ようと思う人は、春か秋を選び、時には冬にでもしないと、動きがとれなくなる可能性があります。とにかく、レンタカードライブは7月末から8月は避けた方がいいでしょう。

 泊まっている民宿のおばさんと言葉は殆ど、いや全く通じませんが、コミニュケーションは完璧です。お互い、言いたいことを言い、分かればそれでいいのです。明日は島へ出かける予定です。

 綺麗な国ですが、観光立国にはEU加盟28番目の国として、やるべきことは山積です。EUからの補助金を鉄道整備に充てるという話もありますが、さてどうでしょう。観光地は南のアドリア海沿いだし、ザグレブの北側は、それほど魅力はありません。アドリア海を行き来する船と港の整備の方が早道とも思えますが…。

  サローナ、スプリット 6


 クロアチアの旅を続けています。今日はギリシャの植民地でその後、ローマが支配したスプリットの遺跡(サローナ、王宮跡など)を見ました。ギリシャ、ローマの遺跡は本国やトルコでさんざん見ていますが、アドリア海東岸で見たのは初めてです。ここで生まれ育ち、戦士として頭角を現し、皇帝にまでなって生きているうちに引退して町中に住んだ珍しいローマ時代末期の皇帝の遺跡でもあります。

(上は円形劇場跡、右は闘技場跡、下はピサクの海)

 スプリットはクロアチアでも有数の大きな街で、旧市街を探すのに戸惑いました。地図を頼りに一度はきっちりと行き着いたのですが、旧市街の入り口は、駐車場のゲートになっていて、どうも様子が変だと思い、フェリーの係員に聞いたら「街は向こうだ」と指さします。旧市街だといっているのですが、それよりもフェリーへの誘導に忙しかったようです。

 いったんまた街へ出て、あれこれ尋ねたら、警官らしきスクーターに乗った男が教えてくれました。例の駐車場へ入るのです。駐車スペースはかなりありますが、満車で、イエローラインの所に空きがありました。駐車したばかりの地元の人に聞いたら「ここはいいんだ。大丈夫」とのことでした。

 王宮前の広場は駐車場とレストラン、後は花壇や噴水でした。ちなみに王宮前広場のレストランは、ものすごく“不味い”ので、念のため。王宮の中は裏へ抜ける通路は無料ですが、両側に幾つもの部屋があり、そちらは有料です。教会や門、様々な部屋を見て回りました。

 ピサク(Pisak)という小さな崖の下の町に泊まることにしました。スプリットからドブロヴニクに向かうと。オミスという綺麗な町があります。そこから20キロほど走ったところで、マカルスカの町へも20キロほどのところです。
 このあたりはイタリアのソレント付近にちょっと似ています。建物の豪華さは比べようもありませんが、海の色や地形、崖の下にある町などが似通っているように思うのです。明日は近くで泳ぐか、どこかの島へ行ってみようかと思います。とりあえず、ここへ3日泊まることにしました。
 ベランダから海がとてもきれいです。


  シベニク、トロギール5

 ザダールを切り上げ、海岸沿いの国道を走り、シベニク、トロギールへとやってきました。シベニクは世界遺産の教会があります(写真・左)。日曜日でミサをやっていました。中世の建物ですが、ローマ時代の石柱や石の飾りが転がっています。ことに教会の前から山の上まで、迷路のような細い階段と道が続き、その急な坂のあちこちの建物は、相当くたびれていますが、まだ現役で住人がいます。

 頂上は城になっていて、今補修中でした。教会の建物は世界遺産になっています。城の側まで上ると、海と教会、それに家々が綺麗です
(写真・左上)

 急な坂の旧市街の坂道と階段は、一汗かく意味が十分にあります。山の上からの見晴らしも、それは素晴らしいものでした。南へたどる国道の海岸線はとても綺麗です。深く入り込んだ入り江や、それを囲んだり、点在する島は深い蒼とコバルトブルーの海に映えます。

 トロギールの町は運河で陸と区切られ、島になっています。島全体が世界遺産ですが、広い街ではありません。狭い運河に架かった橋を渡ると、城壁があり、さらに歩くと200メートルほどで入り江に行き当たります。入り江と運河の間が島になり、全体が世界遺産と言うことです。

 しかし、古い建物がビッシリと建っているのですが、土産物屋ばかりで面白くありません。教会前の広場も、清涼飲料の宣伝が入った大きなテントが張られ、飲食店に占拠されていて、昔の雰囲気を味わうのは無理でしょう。どうも世界遺産としての風格は、商業主義にすっかり奪われています。日程が詰まっている人には、この町の見物はお勧めできません。

 街の中は例によって狭い路地が続きます。崩れそうなアパートもかなりありますが、狭い街(島)なので、路地の奥まで観光客は入り込みます。従って、どこでも店を開いています。世界遺産は環境も大切と聞きますが、目を背けたくなるような汚水問題を見てしまったので、こういうことを含めて、これでは「世界遺産を商売にする標本」とでも言うべきでしょう。クロアチアは美しい国ですが、ここばかりは頂けません。
(右はトロギールの見張り台上から見る町)

   シー・オルガンザダール 4

 ザダールの海岸にシーオルガンと呼ばれる“名所”があります。半島の先端にある港のそばで、広い海岸の公園に海に向かって階段があり、打ち寄せる波の圧力で、様々な音色が出るのです。相手が波の圧力ですから、音楽を奏でるわけではありませんが、心地良い音が出るのです。
 もちろん人為的に作られた物ですが、夕方になると沈む夕日と波の音ではなくて、オルガンの音色を聞きに多くの観光客が集まって来ます。

 こちらはローマ時代の遺跡です。遺跡にはつきものの石柱
(右)が立っていますが、これは「恥の塔」と呼ばれています。犯罪者をこの塔の下に縛り付け、さらし者にして反省を促したのです。重罪人はあっさり処刑されますが、それほど重くない罪を犯した人を人目にさらし、罪を悔いさせたのだそうです。

 ローマ時代の遺跡、フォーラムから見る聖ヤナド教会
(写真・左上)は円形の建物で知られる。その背後にあるにある鐘楼は、聖ストラシャ大聖堂のもので上に上ると旧市街全体が見渡せる。

 【寄り道 ザダールは“ベネチア印”の街といえそうです。城門を始め多くの場所に、翼をつけたライオンが刻まれています。海洋国なのにライオンとは妙ですが、強さと速さを象徴したのでしょうか。ローマの遺跡と教会はザダールを代表する場所です。

 
   パグ島、ニンの町 3

  パグ島とニンの町へ行ってみました。バグ島はザダールの北にある島で、深い入り江を持った半島と間違いそうな島です。今は橋でつながっていますが、昔は高い崖があり、島へ渡るにはかなりの距離を回り込まないと無理だったでしょう。島の南島には古い砦があり、狭い海峡を通り抜ける船を見張っていたのでしょう。

 パグの町は塩の産地として栄えたようです。今でも大きな塩の倉庫が残っています。製塩工場は南の方へ異動し、近代的な製塩をしているようです。町には砲弾の跡の残った建物もあり、内戦の激しさを残しています。昔から戦略の要地でもあったのでしょうが、半島の先で丘には木もなく、城を築くほどではなかったようです。

 ニンの町
(写真・右上)はザダールの北にありますが、昔のベネチアが勢力を持っていた頃、海が荒れるとザダールに入港せず、より波の静かなニンへ寄港したようです。城壁に囲まれた町で、古い教会などがあります。

 この教会は9世紀に作られたもので、地元の人は「世界で最も小さい大聖堂」と話していました。小さな島ですが今はいくつか橋が出来ていて、島とは思えません。

 ベネチアの船はこのあたりではザダールを本拠としていましたが、天候が悪いとニンの港へ入ったそうです。第4次十字軍が作った教会もあります。海岸には塗りたくると美容にいいと言われる泥の海がありますが、旅の途中で「ムツゴロウ」みたいなことをする気にもならず通り過ぎました。


   ザダール 2

 ザダールに3日間泊まります。ここを根拠に町の中や近くを見て回ります。古代ギリシャ、ローマの時代から開けた港町で、ベネチア時代はベネチアから地中海、アドリア海へと向かうベネチアの商船やガレー船の基地として賑わいました。今は観光地として旧市街は賑わっています。



 ベネチア時代の城門やローマ時代の遺跡なども沢山あり、教会も見事な物があります。特に有名なのはドナト教会で、海に向かっての遺跡の背後に尖塔と円形の教会があります。海岸には「シー・オルガン」と名付けられた、波の圧力を利用して、様々な音色が出ることで人気の階段があります。夕日を見ながらオルガンの音色を聞くのは観光客に人気です。
(ベネチアの時代に作られた城門=上、と海岸の散歩道)

  【寄り道】 半島を囲むように築かれた城壁の中が旧市街です。歩いて巡って問題ない広さです。市内の地図を持っていれば、特別ガイドがいなくても、名所などを巡るのに不自由は感じません。ただ、旧市街の中はホテルが混んでいるし、アパートメントも多くはありません。中心の広場近くに観光案内所があり、昼間なら問い合わせてくれます。レンタカーだったので、駐車場には難儀しましたが、アパートメントのオーナーが「無料で駐められるところがある」というのでその場所へ行ったら、地元の人たちの「知る人ぞ知る」場所でした。早い者勝ちです。うまい具合に3日ともぎりぎりスペースがありました。なかったら旧市街の外の駐車場を探すことになります。現地で部屋を見て確かめてから泊まる主義なので、予約はしません。こういう狭いところではちょっと困りそうな時があります。
  ザグレブ1

 東京からウィーンを経由してザグレブに到着です。空港でレンタカーを借り、しないのホテルへと走りました。地理は全く不案内ですが、地図を見ながらの「カンピューター」が上手く的中して、一発でホテルへ着きました。
 ザグレブの町をゆっくり見るのは、帰りにしようとなって、何かあったときに連絡できるよう、携帯電話を買ったり、地図を揃えたりで、後はちょっとぶらぶらしただけです。
(写真は考古学博物館)

 【寄り道】 クロアチアは何となく馴染みのない国でした。カリスマ大統領、チトーの率いたユーゴスラビアの時代には、共産圏に留まりながら、ソ連と一線を画して西側へも門を開いていた国でした。チトー亡き後、求心力を失ったのか、モザイクのように入り組んみ、仲良く生活していた人々が、ふとしたことから人種問題へと発展。激しい内戦となったのです。1991年から94年までクロアチアでも凄まじい戦いがあったのです。今はすっかり落ち着き、2013年7月1日をもってクロアチアは28番目のEU加盟国になったのです。
 日本からクロアチアへの直行便はありません。ウィーンで乗り換え、ザグレブに入りました。ザグレブの空港も大型機の離着陸はかなり難しそうです。レンタカー会社は日本で予約を入れておいたジジ・ババだけを待っていたようでした。数社がありますが、レンタカー会社の駐車場には10台ほどしか車はなく、どうやらヨーロッパからやって来る人々は、直接、自分の車に乗ってくるようでした。