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![]() ![]() その影響はあちこちにあり、山脈に隔てられた内陸部より、海岸沿いに強く見られます。深い入り江と背後の岩山は、格好の港です。ベネチアはこの港を点々と支配し、一時代を築いたのです。 ![]() 1)ザグレブ 2)ザダール 3)バグ島、ニンの町 4)ザダール、シーオルガン 5)シベニク、トロギール 6)サローナ フプリット 7)ピサク、マカルスカ 8)フベル、プラチェ島 9)ドブロクニクを歩く 10)強靱な要塞都市 11)モンテネグロ、コトル 12)コトル背後の山に登る 13)モンテネグロの港 14)ボスニア・ヘルツゴビナ 15)洒落た海岸の村 16)Kob島 17)プーラの旧市街 18)ロヴィニの表裏 19)ポルチェの世界遺産 20)トリフの産地 21)ザクレブ 21)ネクタイ 【寄り道】 クロアチアで流通している通貨はこの国のお金、クーナです。ユーロもかなり使えますが、基本はクーナで1クーナ約18円でした。レンタカーは3週間契約で保険はフルカバー。何があっても金銭的な補償は一応、カバーできることになっています。 宿は例によってその日に決めます。ホテルもたまには使いますが、多くはキッチン付きのアパルトマンと呼ばれる部屋を借ります。数日間、同じ所に泊まり、近辺を車で回ったり、海で遊んだり、フェリーや渡し船で島へ出掛けるからです。 宿でSobe(そべ)と書いてあるのは部屋貸しで、多くはキッチンはありません。海岸沿いを南下し、北上したのですが、海沿いは急な崖で、村は崖の下にあります。海岸線は狭い道を下って行くのですが、Sobeと書いた札を持った客引きがいます。特に悪いわけではありませんが、窓やベランダからの展望などもあるので、ジジ・ババは必ず部屋を見せて貰ってから決めます。値段もこのとき確認します。 食べ物は和洋折衷です。旅は1ヶ月ほどになりますから、いつも日本から炊飯器(220V)を持って行きます。日本の米は2㌔ほどで、後は現地調達です。キッチンには調理用具、食器など一通りはありますが、スーパーで紙コップ、皿などを少し買っておけば便利です。 【註】以下は本文です.上の目次が面倒なら、下までスクロールすると!)続いて見る事が出来ます。 |
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![]() ![]() 【余談・コースアウト】 クロアチアは「ネクタイ発祥の地」と言っています。17世紀にクロアチア兵がパリに入り、ルイ13世を護衛することになったとき、その行進を見たルイ13世が「あれは何だ」と聞いた。側近が「あれはクラヴァット=Cravat=です」と答えた。ルイ13世はクビに巻いた布を指したのだが、側近は兵隊だと誤解した。以来、クビに巻く布をクラヴァットと呼ぶようになった。 しかし、異論も有り14世紀には既にフランスにCravateという言葉はあったともいう。英国でも幅広ネクタイをクラバッットと呼ぶ。ちなみにアスコトットタイはクラヴァットの結び目だけを残したものでボウ(蝶)ネクタイを指し、アスコット競馬場のダービーなどに集まる紳士の正装となった。(ザグレブ旧市街の店はKRAVATAとある) |
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![]() ![]() ザグレブに到着してからすぐに、海岸に沿って南下しました。行き着いた先はモンテネグロのコトルです。コトルは込んでいたので一山越えた街に泊まり、半島を走った後にフェリーで本道に戻り、今度はボスニア・ヘルツゴビナの世界遺産の橋を見に行きました。記事をスクロールしていただければ、簡単なレポートは書いてあります。しかし、それぞれを見て回って、あまりにも書いたり、写真を掲載したりしたいことが多く、辟易とする有様です。 ![]() ![]() しかし、教会内にはいるときには、帽子を取り、訳も分からない十字を切るより、キチンと頭を下げるようにしています。ジジ・ババは日本人で「八百万津(ヤオヨロズ)の神」が信仰対象なので、キリスト教も神を敬う点で、全く異存はないのです。イスラムの国々を旅するときにも、同じ気持ちだし、同じように行動します。 ちょっと昨日の「危うい話」を書きましょう。パジンという古い、小さい街に泊まりましたが、クロアチア通貨のクーナをフランスの銀行、クレディ・リオネのカードで引き落とそうとしたのです。ATMは銀行の入り口にあるので、保守は万全と思ったのですが、カードを“食い取って”後は音無です。金は出ないは、カードは戻らないはで、往生して通りかかった親切な夫婦に助けを求めたところ、非常用の通報電話で銀行に連絡してくれました。しかし、ヨーロッパの銀行はどこでも同じように無責任です。 「明日の8時に銀行が開く。そこで話をすれば、カードは戻る」という返事です。 「大丈夫だ。心配は要らない。私も同じ目に遭っているが、明日の朝来ればカードは戻る」と別のオッさんも言いました。 銀行カードでクレジット機能もありますが、暗証番号は ![]() 翌朝、即ち今日の8時少し前に銀行へ行きました。前のカフェーでコーヒーでも飲んでいたのでしょう。3人の女性が銀行へ向かいました。鍵を開けようとしているので早速の話しかけです。 「昨日の夕方、ここのATMで引き落としをしようとしたら、誤作動でカードが戻らない。金も出ない。地元の人に問い合わせて貰ったら、8時にここへ来れば大丈夫だといっていた」 「調べてみます。カードは出てくるでしょう。問題ありません」 問題があると言うのはのはこっちで、銀行のATMがおかしいし、トラブルが起きたときの対策もなってない。銀行員に「問題ない」といわれる理由はないのだ。 「夕べはろくな飯が食えなかった。カードがないと金もない」 「ダイエットに良かったでしょう」 これだよ!ヨーロッパではこういうことが珍しくない。カードは注意して使わないと酷い目に遭う。ATMに食われてしまったら、急ぎの旅はお手上げだ。ジジ・ババは2人併せると5枚のカードを持っているが、そうでもないとヨーロッパの旅を1ヶ月も続けるには、危なくてしょうがない。 ま、無事にカードは戻ったのだが、40分も待たされた。それでも、行員は一生懸命やってくれたようだった。 日本なら、先ず「済みません」で始まるのだが、こちらではそう言うことはない。行員が悪いのではなく、機械が悪いのだ。そう言う文化だということを承知していないと、国同士のつきあいもうまくはいかないだろうと思う。 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【寄り道】 トリュフを探すのに犬を使うとは知りませんでした。豚なら雑食ですからトリュフの匂いや味を覚え、エサとして探すのも分かりますが、犬は草食とはいえません。どうやってトリュフ探しを覚えさせたのか、気になるところでした。しかし、世界の空港で活躍する麻薬犬は、やはり草を食べるわけではなく、いってみれば薬物中毒でしょう。禁断症状寸前で連れ歩けば、薬物の匂いを探し回るのは当然です。 ![]() モトヴァンの城壁の下に、いくつかの犬小屋があり、2匹ほどの犬が金網の中にいました。車を止めて上っているときには、特別どうとも思いませんでしたが、土産屋のビデオを見た後では、なんだかしょんぼりしているように見えたものです。 |
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![]() ![]() こういうことには詳しくないし、それほど興味もありませんが、世界的な評価を受けているというのですから、観ないわけにはいかないし、鐘楼にも例によって息を切らせながら登ったのです。 ローマ時代の石畳が残っているという通りには、昼も夜も、観光客が絶えません。かなりの人気はあるようですが、街そのものの魅力となると、ドヴロヴニクやコトルには及びません。それでも街がコンパクトなのと、イタリアが近いために、食い物も結構旨いので、旅人が立ち寄るにはいいところでしょう。 ![]() 【寄り道】 世界遺産の教会は街の中央を貫く石畳の道から6階ほどの古いビルの間を抜ける横町の ![]() 教会はどこでも同じように見えてしまいますが、ここでは教会の中へ入ってすぐ似ちょっとした広場が有り、そこから鐘楼を見たのが上にある写真です。ローマ時代のものがかなりあり、裏庭はローマの遺跡が掘り出されています。モザイクも見事で、教会が大事にしているのが、カラフルな魚のモザイクです。 |
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![]() ![]() しかし、旧市街の坂道には、入り組んだ路地が続き、今にも崩れそうな家が密集しています。観光地の表と裏はどこでもそうですが、猛烈な貧富の差があります。 ![]() 澄んだ水と晴れ上がった空。昼間は猛烈な暑さですが、水は思いの外冷たく、長く入っていられません。水遊びをするなら、やはりギリシャの海でしょう。今度の旅はクロアチアという馴染みの薄い国と、その隣のモンテネグロやボスニア・ヘルツゴビナを覗いてみることでした。 ![]() |
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![]() ![]() 頑丈な城壁を巡らせているのは、どこの入り江の古い街でも同じことですが、アドリア海の東に連なる、入り江と島々に本拠を置く小さな都市が、連携したという話は聞きませんし。都市国家といえるかどうかくらいの街が、いくら武装し、城壁を巡らせても、ローマやベネチアにかなうはずもありません。 プーラの旧市街には立派な円形劇場が残っています。円形劇場という訳語はいったい誰が作ったのでしょうか。劇場というのが芝居をするようなところだとする日本的な観念なら、大間違いです。剣闘士が猛獣や人間を相手に、血なまぐさい戦いをし、それを見るために大勢がコロセウムに集まったのです。お芝居や音楽会とは大違いです。よくもまあ、円形劇場などと訳したものです。もっとも、今の時代、劇場だらけでどこが芝居小屋なのか区別もつきません。何をやっても、その場が劇場なのですから…。 ![]() どこへ行くにも道中不案内は当たり前です。たまたま、アメリカ人らしき団体を率いているガイドに「セルギ門へはどう行ったらいいでしょう」と聞いたら「フォローミー」という返事。無料ガイドの出現というわけです。でも、狭い街なのですぐにセルギ門=右上=は見つかり、余計なご託を聞く気もないのでアウグスト神殿を見つけ出し、プーラの見所の大方は、歩いたことになったのです。 ![]() |
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![]() ![]() ヤブラナックという村はフェリー乗り場とそう離れていないのですが、途中で分かれていて、村の方へ入ると、船着き場まで4キロほど崖っぷちの回り道になります。 ![]() ![]() ラブ島には4つの鐘楼がありますが、そのうち最も背の高いのが聖マリア大聖堂のそばにあります=写真左上=。高さは25㍍ほどです。1人10ユーロの入場料を払い、木と金のハシゴを6階ほど上り、最高部に出ます。なかなかの高度感です。旧市街や港が一望できます。アドリア海の澄み切った水が、鐘楼の上からだと良く分かります。 |
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![]() Sv.Juraj(スベーティ・ユライ)という海岸の村です ![]() 村の中心部は、レジャー客が多く、宿も一杯のようだし、クロアチア全体にいえることですが、海岸の村や町には、駐車場という物があっても、どこも一杯で観光客が駐めるスペースなど殆どありません。とにかく宿があるかどうか尋ねようと駐めると、誠に意地の悪そうな人物が現れ「車を駐めるな」といいます。 クロアチアの海岸は綺麗ですが、駐車場探しもままならないので、レンタカードライブはお勧めではありません。いい人も沢山いるのですが、宿探しで街を巡っていて、いい人に巡り会ったことは殆どなしです。それに元々崖っぷちの村が多いので、住民自身が駐車場を持たず、路上駐車や好況駐車場を占拠してしまっています。ヨーロッパからの観光客も往生していて、2度とクロアチアへは来ない、と思う人も結構いそうです。 ![]() Senjの街へ行ってみました。旧市街の背後に丘があり、そこには要塞がありました。街を見下ろす場所です。陸路より海路が主だった昔は、遠くから見える要塞は外敵を防ぐのに大きな役目を果たしたのでしょう。旧市街は礼によって内戦の痕跡が残っています。砲弾の穿った穴がそのまま壁に残っている廃屋もありました。博物館へ寄ったら、内戦の様子や、この町で亡くなった人たちの写真などが沢山ありました。 ローマ時代の遺跡から発掘されたもの、海中から見つかった様々な物なども展示されていました。ギリシャ、ローマ、ベネチア、オスマントルコ…、とアドリア海を彩る支配者たちは、様々な物を残しています。 |
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![]() ![]() 正直言ってガッカリです。ほかには内戦の弾痕の残るビルや廃墟、どこにでもある教会くらいの物で、敢えて出かける価値があるとも思えません。 わざわざ行ってみたので、こういうことがいえるのですが、行かなければそれはそれで悔いが残るのでしょう。橋の下の方に降りる道があり、下から見上げたところで、この程度の橋なら日本に幾らでもあります。ただ、古い橋で内戦前には重要な街の人たちの通路だったのが、内戦で壊されて悲劇をエスカレートさせる物語などが生まれたのです。 ![]() ユネスコがカネを集め、橋を造り直して世界遺産にしたのだそうです。橋には物語はあっても、橋そのものは新しく作られた物なので、情緒も何もありません。車は通れませんし、今ではほかの車が行き来する橋もあるので、単なる観光名所、近くに家のあった人が大もうけをする場所ということになります。 少年が橋の上から川へ飛び込んでいました。ハイティーンの男と2人でいましたが、ハイティーンの方は観光客からカネを集めて、飛び込みで稼いでいました。いやですね!少年の方は無料ですが、拍手を求め、大きな拍手が起こると、得意げに飛び込んでいました(右の縦長の写真をよく見てください)。 郡上八幡の橋から飛び込む少年たちは、それ自体を得意として楽しんでいますし、カネを取るようなヤツはいません。もっとも高さは桁違いでしょう。橋からの飛び込みで金を稼ぐのは、面白いような馬鹿馬鹿しいような…。命がけの飛び込みです。 ![]() この国は昔の、それこそチトー大統領の統治したユーゴスラビアから、チトー亡き後の分裂、内戦、民族のいがみ合いなどを思い起こすと、旅をするのが厭ななります。橋を見物し、2,3日は泊まるつもりでしたが、なんだか厭な感じなので早々に切り上げ、クロアチア国境の町に泊まっています。そう言えば、ボスニア・ヘルツゴビナに入って日の丸とつけたバスを何台も見かけました。 「日本国民より…」と書いてありました。観光ガイドや外務省の地域情報には、こういうバスを日本が寄贈していることくらい書いてもいいでしょう。お粗末な日本外交の典型です。国民が知らないでどうする!馬鹿な外務省の役人め!国民のカネを使って、自分だけその場でいい顔をすれば、それでお終いなのが、日本外務省、国連職員、海外協力隊などの「いい顔シー」の連中なのです。 |
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![]() ![]() この港を見るまで、幾つもプレジャーボートやヨットの係留されている港を見ましたが、ほかの船と入り交じっているのが普通です。ところが、この港は完全に分けられていて、貨物船や漁船などは一艘も入っていません。港の人に聞いてみたら、多くの観光客を乗せた船はコトルへ、貨物船は対岸の港へとはいるそうです。従ってモンテネグロの新しい港は「遊びのシンボル」みたいな物です。 大型のリゾートマンションが幾つもあります。それと一緒にホテルも作られています。ブランドの店、高級レストラン、高級スーパーなども、区画を区切ってできています。この港の一区画だけが、まさに別天地なのです。アドリア海といっても東岸は、遺跡こそ多くても、民族紛争などで疲弊しています。立ち直りはじめているのですが、ここではいち早く、港と「レジャー特別区」を作っているようです。 ![]() 明日はボスニア・ヘルツゴビナのモステルへ向かうつもりです。世界遺産の街です。宿はどこかにあるでしょう。 |
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![]() ![]() ベネチアがコトルを確保し、通商の拠点の一つにしたのは、アドリア海の島々の奥の奥、さらに奥のどん詰まりに街があったからでしょう。海賊は攻めにくいところです。 街は意外と小さく、写真にあるのがほぼ旧市街全部です。ドブロヴニクの旧市街の半分以下です。やはり城壁に囲まれていて、裏山にまで城壁が築かれています。教会が山腹にあり、最上部には砦があります。旧市街から1時間半ほど、大汗をかかないと上れません。上から見下ろすと、街は思いの外小さく、掘り割り=写真・左下=と海、城壁で守られている様子が分かります。(右下は正門) ![]() ベネチアは運河が張り巡らされていますが、アドリア海東岸のベネチアの息がかかった昔の街には、運河こそなくても細い路地と、階段と日当たりの悪い家が密集していることが似通っています。 コトルからティヴァトへは長いトンネルを潜るのですが、今日は「きっと山越えの道があったはずだ」と、別の道を走ってみました。山越えの旧道がありました。コトルの街や湾が綺麗に見えました。ティヴァトには小さいながら国際空港があるので、トンネルも空港作りと同時進行で行われたのでしょう。立派な峠道が続いていました。 ![]() いずれにしてもコトルへ行かず、今いる半島を先端へと走ると、フェリーがあります。深く入り込んだコトルへの湾の最も狭い部分をフェリーがつないでいるので、おそらく50㌔以上は近道になるはずです。昨日、半島を巡ったのでフェリーがあることは分かっています。行ってみないと分からないところもありますが、それもまた旅の楽しさです。 |
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![]() ![]() ![]() 旧市街の近くに泊まろうと思いましたが、ホテルも民宿も、「何様だ」と思うほど威張っていて、態度が悪いのです。多くの観光客がやってくるので強気なのでしょうが、こういうところは大嫌いです。内戦の悪い面、悪い奴ら、を思い出してしまうので、早々に切り上げて山を一つ越えたモンテネグロ港に近い、ティバトという町の民宿に泊まりました。 宿は古びていますが、親父も女将も息子も感じがいい人で、気に入ったので3日泊まることにしました。レストランで飯を注文したら、飲み物は来たのですが、肝心の料理をキチンとキッチンへ伝えなかったようで、30分以上待たされました。もちろん、文句百も並べたら、ボーイや注文担当の4人が頭を抱え、特急で料理を作ったので、間もなくありつけました。 「申し訳ない。パフェを無料でサービスする」といいます。珍しいことです。腹一杯なのでコーヒーでいい、といってチップを置いてきました。コトルの感じの悪さに比べ、ティバトは人種が違うのではないかと思うほど、いい人が多いように感じました。 ![]() そう言えばこの国はユーゴスラビアから独立した後、EUにも加盟していないし、ユーロ圏でもないのですが、自国の通過を持たずに、ユーロが正式通貨です。ユーロに切り変わる前にはドイツ・マルクを使っていたそうです。自国で通貨を発行しないだけでも、ずいぶんと経済的でしょう。 ![]() |
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![]() ![]() きっちりと城壁に囲まれていて、これまで見たいろいろな都市と比べても、守りの堅さではトップクラスでしょう。ナポレオンに統治されるまでは、ベネチアと上手につきあい、独立を守っていたようです。 ![]() ![]() 宿の前がすぐ海で=写真=、急に深くなっています。砂のビーチではないので人が殆どいないのは幸いです。明日はモンテネグロへ向かうつもりです。 昔は陸路より海路の方が一般的だったのでしょう。海岸沿いの古い道は、村と村をつないでないことも多いのです。いったん崖の上に登り、そびえ立つ岩山の下を地形に沿って、国道が走っています。高速道路の建設も進んでいますが、多くは山の裏側(東)を通り、アドリア海に沿った町や村へは、一山越えるか、谷に沿ってかなりの距離を走ることになります。 従って、クロアチアの南へとたどり、昔ながらの村や町、港や教会などを見るには、国道を走り、さらに急な崖を下る細い道をたどって、海岸にへばりつくような街や村へ行ってみることになります。レンタカーを借りるのなら小さいもの、日本車ならフィットやヴィッツ・クラスが適当かと思います。海岸へ下る多くの道は、とても狭く崖っぷちですが、ガードレールなどありません。ヨーロッパの多くの田舎道では、ガードレールがない方が普通です。日本のように林道でも運転を誤って崖下に落ちると「ガードレールがなかった」などと、管理者責任を追及するような、奇妙なお化けマスコミはありません。 |
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![]() ![]() ![]() 「ここはヨーロッパで、この先もヨーロッパだ。だけど、ここの7㌔はヨーロッパじゃない」 クロアチアは今月にはいると同時に、EU28番目の加盟国になりました。まだ、1週間も経たないのに、ヨーロッパだ、と自慢しています。ヨーロッパじゃない、というのはボスニア・ヘルツゴビナのことです。 「どこから来た?日本か?」 「そう。日本の東京だ」 「そうか。子供は何人いる?」 「2人だ」 「オレは4人だ。歳は58だ」 「そうか」 「うーん。うちの親父は74になる前に死んだ」 全く、それがどうした、というような会話です。少し走ると親父が自慢していた国境に行き当たります。同じ道路でも約7㌔はボスニア・ヘルツゴビナの領域ですから、形式的でもパスポートのチェックがあります。EUに加盟してなかったので「ヨーロッパではない」の言葉になったのでしょう。そして、ドブロヴニクの領域は、再びクロアチアなのでまた、形式的なパスポート・チェックがあります。ここには真新しいEUの旗が誇らしげに翻っています。 今度は民宿のお婆さんです。 「宿代はカードで払えるか?」 「駄目。現金ですよ」 「クロアチアのカネで幾ら?」 「クーナは駄目ですよ。ユーロでください。クーナは“バイバイ”だからね」 ![]() 自国の通貨にこれほどあっさりと見切りをつけるとは、日本人には理解しにくいのですが、民族紛争を乗り越えて生き延びた年寄りにとっては、いつ何があるか分からないのでしょう。とりあえず、大船に乗った気持ちでユーロこそが頼りになるのかも知れません。 旅人はうっかりATMでたくさんのクーナに両替すると、酷い目に遭いそうです。スーパーやガソリンスタンドではカードが通じるので、カード払いにして、クーナはなるべく持たないようにしないと、紙切れになってしまいそうです。 ドブロヴニクの旧市街はゆっくり見物しました。町を囲む城壁の上を歩いて一回り。1人90クーナ(約1700円ほど)。いい値段だけど払わないわけにはいきません。なるほど城壁の上から眺めると世界遺産の町らしい情景です。しかし、ボリすぎでしょう。階段を自分の足で歩くのですから、もう少し安くてもいいはずです。「観光客の足下を見る」とはこのことでしょう。 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 【寄り道】 下水について書いたので、ついでにトイレのことにも触れておきましょう。日本ではここ10年ほどの間に、公衆トイレが次々と出来ています。しかもほとんど全部と言っていいくらいが無料で、とても綺麗です。これほどの国は世界にどこにもありません。綺麗すぎて使い方の分からない近隣国の観光客がいる始末です。 クロアチアではレストランやカフェに入らない限り、無料のトイレはありません。1人が2クーナから5クーナくらいです。3人の子供を連れた観光客が、シベニクの教会広場にあるトイレに入りかけ、すぐに出てきました。親子5人で20クーナ要求されたようです。出てきてどうするのか、その後は知りませんが、無料だったのはドブロヴニクで管理人が席を外していないときだけでした。高くても100円ほどですが、日本の公衆便所になれた人には、馴染みにくいことです。それに観光地にトイレが少なすぎます。 ヨーロッパはおおむねどこでもトイレが少なく、あっても有料がほとんどです。綺麗に磨き上げられているのならともかくj、かなり汚いのに平気で金だけは取ります。細かい金を探すより、先に用を足そうとしても、断固金を払うまで入れない頑固な管理人もいます。従って、駐車スペースのある人気の少ない道ばたには、大物や紙が散らばっていることは、珍しくありません。これはクロアチアばかりではなく、ヨーロッパ全体です。欧州崇拝の人は、こういう所もきちんと見ているのでしょうか。 |
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![]() ![]() それでいて、有料の歴史的な遺跡などには、人が少ないのでとにかくヨーロッパのバカンスを「我々も味わうんだ」と主張しているようです。アドリア海に沿った細長い国なので、海運は開けていたのでしょうが、海沿いの鉄道はありません。移動は飛行機、船、バス、自家用車ということになります。昔は船でしょうが、今はバスより自家用車です。飛行機は大きな機体は空港の設備から言って今のところ無理でしょう。 ![]() ![]() 泊まっている民宿のおばさんと言葉は殆ど、いや全く通じませんが、コミニュケーションは完璧です。お互い、言いたいことを言い、分かればそれでいいのです。明日は島へ出かける予定です。 綺麗な国ですが、観光立国にはEU加盟28番目の国として、やるべきことは山積です。EUからの補助金を鉄道整備に充てるという話もありますが、さてどうでしょう。観光地は南のアドリア海沿いだし、ザグレブの北側は、それほど魅力はありません。アドリア海を行き来する船と港の整備の方が早道とも思えますが…。 |
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![]() ![]() ![]() スプリットはクロアチアでも有数の大きな街で、旧市街を探すのに戸惑いました。地図を頼りに一度はきっちりと行き着いたのですが、旧市街の入り口は、駐車場のゲートになっていて、どうも様子が変だと思い、フェリーの係員に聞いたら「街は向こうだ」と指さします。旧市街だといっているのですが、それよりもフェリーへの誘導に忙しかったようです。 ![]() 王宮前の広場は駐車場とレストラン、後は花壇や噴水でした。ちなみに王宮前広場のレストランは、ものすごく“不味い”ので、念のため。王宮の中は裏へ抜ける通路は無料ですが、両側に幾つもの部屋があり、そちらは有料です。教会や門、様々な部屋を見て回りました。 ピサク(Pisak)という小さな崖の下の町に泊まることにしました。スプリットからドブロヴニクに向かうと。オミスという綺麗な町があります。そこから20キロほど走ったところで、マカルスカの町へも20キロほどのところです。 ![]() このあたりはイタリアのソレント付近にちょっと似ています。建物の豪華さは比べようもありませんが、海の色や地形、崖の下にある町などが似通っているように思うのです。明日は近くで泳ぐか、どこかの島へ行ってみようかと思います。とりあえず、ここへ3日泊まることにしました。 ベランダから海がとてもきれいです。 |
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![]() ![]() 頂上は城になっていて、今補修中でした。教会の建物は世界遺産になっています。城の側まで上ると、海と教会、それに家々が綺麗です(写真・左上)。 急な坂の旧市街の坂道と階段は、一汗かく意味が十分にあります。山の上からの見晴らしも、それは素晴らしいものでした。南へたどる国道の海岸線はとても綺麗です。深く入り込んだ入り江や、それを囲んだり、点在する島は深い蒼とコバルトブルーの海に映えます。 ![]() しかし、古い建物がビッシリと建っているのですが、土産物屋ばかりで面白くありません。教会前の広場も、清涼飲料の宣伝が入った大きなテントが張られ、飲食店に占拠されていて、昔の雰囲気を味わうのは無理でしょう。どうも世界遺産としての風格は、商業主義にすっかり奪われています。日程が詰まっている人には、この町の見物はお勧めできません。 ![]() (右はトロギールの見張り台上から見る町) |
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![]() ![]() ![]() もちろん人為的に作られた物ですが、夕方になると沈む夕日と波の音ではなくて、オルガンの音色を聞きに多くの観光客が集まって来ます。 ![]() ローマ時代の遺跡、フォーラムから見る聖ヤナド教会(写真・左上)は円形の建物で知られる。その背後にあるにある鐘楼は、聖ストラシャ大聖堂のもので上に上ると旧市街全体が見渡せる。 【寄り道】 ザダールは“ベネチア印”の街といえそうです。城門を始め多くの場所に、翼をつけたライオンが刻まれています。海洋国なのにライオンとは妙ですが、強さと速さを象徴したのでしょうか。ローマの遺跡と教会はザダールを代表する場所です。 |
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