奥州の史跡と温泉めぐり

 謙信、鷹山、兼続




上杉謙信の知恵袋、直江兼続ゆかりの地であり、米沢藩の城下町米沢市は

観光誘致に力を入れていた。町の中心部にある上杉神社をはじめ、

直江兼続屋敷跡、兼続墓所、上杉家歴代廟所などが点在し、駐車場の整備や

拝観料受付所などが設置されていた。

食堂や土産物屋の看板も塗り替えられたり、派手な色彩の店内には上杉謙信や直江兼続などのグッズがところ

狭しと並べられていた。「静かだった東北の田舎町が今年は賑わうべぇ」と笑み浮かべて話す食堂の店主

がいた。大河ドラマ、テレビの影響力の大きさに改めて驚くばかりだ。

「父謙信死後に家督を継いだ景勝を支えた山城、越後の春日山城の修復を兼続に命じた後、

上杉景勝は関ヶ原の戦いで敗れ米沢に30万石に減封された」など上杉城史苑内にある観光案内所で、

いろいろ話を聞いているうちに、謙信の居城、越後の春日山城へも行くことになった。


     

<コース>C-(国道47号線)-鳴子温泉-(県道28号線)-銀山温泉-(国道347号線)-尾花沢市-(国道13号線)-上山市-(県道21号線)
-蔵王温泉-(国道13号線)-米沢市-(国道-会津若松市-(磐越自動車道・北陸自動車道)-上越市-(関越自動車道)-東京
行程約350km




●米沢城址と上杉神社

JR米沢駅から西へと真っ直ぐ延びる国道121号線沿い城址跡内に上杉神社がある。

この神社が鎮座するかつての米沢は、鎌倉時代中期、鎌倉幕府の重臣の大江氏の次男、

時広が出羽の国に赴任した際、築城したのがはじまりとされている。時広は赴任地の

地名であった長井姓を名乗り、以来長井氏の支配が150年続いた。そして応永9年(1403)

伊達宗遠に侵略され、伊達氏の城となった。ここは、伊達政宗の生誕地でもある。

その後上杉景勝が会津120万石の城主となり、米沢城は家臣直江兼続が城主となった。

しかし、関ヶ原の敗戦で上杉家は米沢30万石へと減封となり、のちに15万石に半減さ

れたが、明治の廃城まで続いた。いまは堀と橋、土塁などが残されている。


    
      


上杉神社拝殿。意外と質素

  
     謙信をはじめ遺品を展示する稽照殿    伊達政宗は米沢生まれ


江戸時代、謙信の遺骸は本丸の隅にあった御堂に歴代藩主の位牌とともに安置されていたが、

明治5年(1872)上杉神社の神号が許され、同9年(1876)米沢城本丸跡に上杉謙信を祭神と

する社殿が建てられた。だが、大正8年(1919)米沢の大火で本殿はじめ、ほとんどの建物

が焼失した。

その翌9年から再建工事がはじめられ、本殿・拝殿などは檜造りで日本建築の美が生かされた

が、宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」は鉄筋コンクリートで和風耐火建築となってい

る。宝物殿には、上杉謙信を中心に景勝・兼続・鷹山公の遺品などが展示されている。


  
 米沢城趾の謙信像         上杉鷹山公像

境内には白地に黒で染め抜かれた「毘」と「龍」軍旗がはためき、大勢の観光客が

鳥居をくぐり抜けていく。

城趾には上杉謙信と並んで、米沢藩9代藩主上杉鷹山(ようざん)公の立像がある。

兼続が守った30万石が跡継ぎを定めないままに3代藩主綱勝の急逝。かろうじて家

名断絶は免れたが半分の15万石に減封され、困窮した藩を、鷹山公は農村の復興

と産業振興、国家の財政支出の半減をもって再建させた名政治家であった。

「成せばなる成さねばならぬ何事も……」の名言でも知られる鷹山公は、戦前は

小学校の修身教科書に登場していた。戦後は日本人の中でも知る人が少なくなっ

たが、アメリカ第35大統領ジョン・F・ケネディ(1917~1963)が「日本で一番尊敬

できる政治家」として上杉鷹山公の名を挙げた。情報開示や具体的な指示は現在の

危機管理の手法にも通じると、兼続ブームにのって再び脚光をあびている。

     

   
松が岬公園 
鷹山、景勝、兼続などの
祀られている松岬神社

上杉鷹山公は謙信の上杉神社と堀を隔てた旧二の丸の跡地に建てられた「松岬神社」

祀られている。祭神は上杉鷹山公だが、大火のあとには上杉景勝、直江兼続も合祀された

藩主と家臣が一緒に祀られているのは珍しく、米沢の人々のおおらかさが伺える。

松岬神社の前には、米沢市の歴史や文化を展示紹介をする「上杉博物館」がある

博物館で必見は「上杉本洛中洛外図」だ。天正2年(1574)、織田信長から上杉謙信に贈ら

れたと伝えられている。

桃山時代を代表する画家、狩野永徳作で、京の都を一望

し、そこに暮らす人々・生活・風俗

を描いたもの。平成7年(1995)国宝に指定された。


  
上杉博物館             酒も兼続です

  
酒、Tシャツ…。兼続もビックリだろう
土産は兼続ものが一杯

●兼続夫妻の墓所・林泉寺

城址苑から北へ車で数分のところにある。正式名称は「春日山林泉寺」という。明応5年(1496)越後守護代の長尾能景が

亡父重景のために開基建立した、曹洞宗の禅刹である。その後、開基3代目景虎(謙信)が上杉家を継いだことで、上杉家

の菩提寺となった。

現在の本堂は、享保17年(1732)火災で焼失後、元文5年(1740)に再建された。墓所には初代藩主景勝の夫人菊姫

(武田信玄4女)をはじめ、景勝の母であり、謙信の姉である綾夫人(仙洞院)や歴代の藩主夫人、一族の墓石が並ぶ。

上杉家墓所の隣りの一画には直江兼続夫妻の墓がある。俄作りの拝観料徴収所は、いささか興ざめだったが、本堂にある

寺宝の経典や上杉謙信少年時代初見の「毘沙門天」、直筆「もりの番」、兼続直筆の短冊など各種文物を、丁寧に案内し

説明を受けられたのは嬉しかった。


   
 林泉寺山門           林泉寺


  
兼続、お船(右)の墓地。上杉家のすぐ隣だ
林泉寺の上杉家墓所。
初代藩主・景勝夫人菊姫などの墓がある


  
景勝夫人・菊姫は武田信玄の4女
景勝の母、綾夫人(仙洞院)


●旧米沢高等工業学校本館



春日山林泉寺の近くにあるネオバロック調の優美な建物は、国指定の重要文化財で現在は

山形大学工学部となっている。米沢高等工業学校は、明治43年、東京・大阪・京都・名古屋・

熊本・仙台と続いて、全国で7番目の高等工業学校とし

開校した。山形県が建設費の10万円を、内1万円を米沢市が寄附をすることで国から

同校の誘致が認められた。その1万円は上杉家から3千円、各町内ごとの募金によって調達

したという。

木造2階建ての洋風建築。設計者はイギリス人技師といわれていたが、実は日本の技師

の中島泉郎の設計によるもの。彼は旧文部省建築課の設計技師で、この他、多くの帝

国大学の設計も手がけている。

●上杉家廟所




上杉神社より国道121号線を西へ約1km。国道から僅かに横道に入るが、幸いに「天地人」

の幟が立っているのですぐわかる。

国の史跡として指定されている「米沢藩主上杉家の墓所」で昔から「御廟」「おたまや」

と呼ばれ、親しまれていた。

東西約110m、南北約180mの廟所の外には幅4m近い空堀がめぐらされている。墓所全域に

ついては、昔とは若干異なるところもあるが、江戸時代の大名墓所の代表的なものといわれている。

  
謙信公墓所    歴代藩主の廟

廟屋は火葬の場合は、入母屋造りであり、土葬の場合は宝形造りで、全体として上杉家古来の

質実剛健の家風の通り装飾はない。

廟堂の配列は中央正面の奥にあるのが、上杉謙信公の廟であり、前に並ぶ廟堂は、12代斉定公まで景勝公

を中心に左右交互に並んでいる。

宝泉寺


和4年(1618)兼続によって創建された。最初の名は禅林寺といい「禅林文庫」を備え、米沢藩士の子弟

を教育するための学問所であった。後に上杉鷹山公が創設した興譲館へと受け継がれた。

兼続が集めた蔵書は、現在も貴重な文化財として残されている。

境内には2代藩主定勝の四女で、吉良上野介義央の夫人三姫(富子)の墓がある。この夫人の墓から白髪の髻(もとどり)

がみつかっている。これは上野介の遺髪ともいわれている。忠臣蔵の隠れた史跡として興味深いところである。


●財団法人宮坂考古博物館



故・宮坂善助前館長が生涯をかけて収集した貴重な資料・文化財を約700点展示している。その大部分は

米沢・置賜地方の考古、歴史、民俗史料だ。甲冑はじめ、火縄銃、槍や屏風など米沢藩のもの。

必見は直江兼続が長谷堂の合戦で着用したといわれる甲冑、上杉討伐で北上した徳川家康を迎え討つと

き上杉景勝が着用したという甲冑だろう。

●上杉謙信の居城「春日山城」(上越市)


春日山から見る街並み

JR信越本線の直江津駅から西方向へ約4kmの位置にある。城は小高い山の上にあり、石垣の代わりに自然の起伏

を活かした空堀・土塁などで郭を守る造りであった。天守閣は持たず周囲の山々に砦を築くという、戦国時代の

山城の特徴を持つ城であった。

上杉謙信は、享禄3年(1530)城主長尾為景の末っ子として生まれた。寅年に生まれたことから、幼名を虎千代

といい、7歳で山の麓の寺、林泉寺に預けられた。そして元服後に景虎となり、永禄4年(1561)に鎌倉の鶴岡八幡宮

で上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られ、上杉を名乗ることになった。

  
          春日山の謙信像  春日山神社は雪囲いされていた   
 
   
春日山神社は長い石段の上      春日山は謙信誕生の地

上杉謙信の養子、景勝(母は謙信の姉)は、謙信の跡を継いで直江兼続とともに城の整備・拡大を図り、

春日山城の黄金時代を築いた。関東・信濃・北陸への往来が一目で監視できたという山城も景勝のあとを

引き継いだ堀秀治が、慶長12年(1607)直江津港近くに城を移したため、春日山城は城としての運命を

終えた。
春日山神社を参拝し、ここで車を駐め本丸跡へは徒歩で山道を登る。この日はあいにくの雨、三の丸景虎屋敷跡あ

たりで、急に雨足が強くなったため本丸跡への道は断念し、引き返す



本丸への道標