”汽笛一声”は    こちらがお先

新橋に一歩、先んじました
 
 品川駅と汽笛一声 関連記事=汽笛一声と沢庵和尚=

 今は(2023年)はリニア駅など品川大改造でどこかへ保管してあるので相が、品川駅の西口(高輪口)の正面、京浜国道の手前にある車寄せに「品川駅創業記念碑」が立っていました。気づいた人は希でしょう。タクシーや不法駐車が居座る狭い構内と歩道の間にあったのです。実はジジも気づかずにいたのですが、先日港区の文化財のしおり、と言う冊子を手に入れ、めくっているうちに高輪界隈の散歩も、ちょっと見直そうと思ったのです。そこで手っ取り早く、品川駅へ行ってみたわけです。その時の話しです。駅が整備され、記念碑が戻ってきたら再度、掲載しましょう。今は工事前の話しをします。

 ありました。記念碑には品川横浜間の鉄道開通は、明治5年5月七日(新暦・6月12日)でした。「汽笛一声新橋を…」が東京〜横浜間の開通日だと思っていたのですが、新橋と品川間の工事が遅れ、品川〜横浜を仮開業したのだそうです。新橋〜横浜間が営業開始になったのは、明治5年9月12日(新暦・10月14日)です。品川駅は日本でもっとも古い駅なのですが、鉄道の日は10月14日で、新橋へ通じた日になっています。

 表には創業記念碑とあり、明治5年5月7日と書かれています。まさに「汽笛一声」は子の品川という何よりの証拠でしょう。

固いことは止めましょう。それより記念碑の裏が面白いのです。時刻表と運賃が書いてあります。横浜発の上り、品川発の下りともに二本ずつです。上り・横浜発=午前八字、品川到着=午前八字三十五分と言った案配。字と書いてあり、時ではありません。漢字の使い方は江戸時代のものはもちろん、明治になってもかなり音の通りで、意味と異なっても気にしないようなところがあります。

 口語文学が一般に広まりはじめたのは明治も半ば過ぎからですから、現代文で書く日本文学の歴史も知れたものです。古典は世界に誇るべきものですが‥。余計な話になりましたが、料金も書いてありました。

 ▽上等 片道 壱円五拾銭
 ▽中等 同   壱円
 ▽下等 同  五拾銭

 この料金は明治5年5月7日のものです。差別だ何だと騒ぐ前に、皆、中等、上等へ乗れるように頑張ったのです。能力もないのに一流企業を狙い、当然、入社できないと「自分の狙いに合わない」「好きな仕事ではない」などとほざく馬鹿が多い世の中です。しかし、グリーン車はありますね。国内航空路線のスーパーシートもあります。国際線ではファースト、ビジネス、エコノミーがあり、さらに料金で細分化されています。いつの間にか、職業の選り好みをしている馬鹿は落ちこぼれます。いずれ生活保護の原資などなくなります。その頃、頼りにしていた立民党のセンセは落選しています。

 初めからトップの座に座りたいとか、優良企業でぬくぬくと給料をもらいたいなどと言うのは夢空事です。一流になればなるほど仕事は過酷です。怠けた甘え学生の務まる世界ではありません。こういう人は「午前八字」の横浜発の下等切符を買えるかどうかも、怪しいものです。「八字は八時の間違いだろう」などと言うのは野暮です。漢字の使い方はこんなものだったのです。

 明治5年には生活保護や、何でも可愛そうでお金をばらまく、お助けマンなどはいませんでした。立民党に絵空事を期待した馬鹿が、泣きを見るのは時間の問題でしょう。

 ゆうれい地蔵 高輪3丁目、光福寺
  三田から御殿山にかけて、高輪の高台が続きます。昔の東海道は幾つかのルートが時代によって変わっていますが、江戸時代に高輪二本榎と呼ばれた一帯は、お寺が多く寺町と言われていました。

 港区教育委員会の出している小冊子には、ゆうれい地蔵に関する話が出ています。二本榎は門前町のように賑わっていたのですが、飴屋へ毎日母子が飴を買いに来たそうです。
 「雨の日でも傘をささずに来る」
 不思議に思った飴屋の主人が後をつけていくと光福寺へ入りました。何か曰くがあるのではないか,と今度は住職と一緒に後をつけると、この地蔵の前にたどり着いたのです。

 住職が手厚く供養すると、母子は飴屋に姿を見せることはなくなりました。この地蔵は死んでしまった母親に代わって子供を育てたとの言い伝えもあります。江戸時代から子安地蔵として信仰されてきているのです。

 どうしてゆうれい地蔵というのでしょうか。左の写真がそのお地蔵さんです。普通、お地蔵さんは足がありますが、この地蔵さんは上体からスッと細くなり、足なのかどうか分かりませんが、一本の線になって下へ続きます。こんな形から“幽霊”と言われるようになったのでしょうか。

 光福寺はこぢんまりしたきれいなお寺です。入るとすぐに沢山の石仏があります。無縁仏が供養されている石仏の山もあります。今ではゆうれい地蔵の前にある「開運稲荷」の方に人気があるようですが、静かな境内で地蔵さんの話を思いながら時を過ごすのも悪くはありません。

               高輪牛町の牛供養塔
                            願生寺
 高輪神社は泉岳寺駅から品川方面へ200bほど行った右側にあります。大晦日には境内で大きなたき火をし、お参りに来る人が暖を取ります。神社も境内も大きくはないのですが、第一京浜から入る参道は結構な幅があり、昔は両側が林か空き地で、広木路とした高台に会ったように思います。

 この神社には江戸時代の石工が彫った仏像の浮き彫りや、古い御神輿などがあって、誰もいない境内でのんびり出来ます。面白いのは力石と庚申塔です。田舎の神社ではよく見かけるのが力石。庚申塔はあちこちにあります。しかし、東京に残る力石
=左=はそう多くはないようです。社殿の左右に置かれていますが、1つには「奉納」「五拾八貫目」とあります。向かって左の方は欠けていて読めませんがほぼ同じ大きさです。地方によっては目方が異なる何種類もの石があって、力比べの様子が忍べます。

 庚申信仰は人の体内に住む三尸(さんし)虫が、庚申の日の夜に抜け出し、天帝にその人の罪科を報告するので命を縮めるので、庚申塔(または塚)
=右=を祀り一晩中起きている講を組織しました。社殿の裏にあり、神輿の安置してある建物の横から見えます。
  泉岳寺駅への入口は品川寄りと東京寄りにありますが、泉岳寺の坂に近い品川寄りのちょっと引っ込んだ山側に願生寺があります。ここには牛供養塔があります。昔、車坂と言われたこの辺りには牛飼いが住んでいて、牛の供養のために建てたそうです。今は牛町とか車坂の地名は使われていません。

  牛町とも呼ばれたようで江戸城や江戸の町を整備するためには、沢山の牛の力が必要で、京都牛町の牛飼いと牛を移住させたというのです。洒落た感じで受け取られる高輪界隈も、当たり前のことですが、牛町や車引きの多い車坂などと呼ばれるところがあったのです。

 鳥獣供養塔などは日本のあちこちにあります。昔から日本人は食用にしたり、使役したりの動物供養を忘れませんでした。心優しかったのでしょう。この供養塔は願生寺前の牛町(車坂)に住んでいた牛屋7軒が立てたと説明されています。

   元和キリシタン遺跡
 高輪界隈には元和キリシタンの遺跡が2カ所あります。元々は同じものですが、一つはJR田町駅から品川寄りに500bほど、札の辻交差点から200bほどの三田ツインビル西館の公開空地=写真・左=。もう一つは品川駅から高輪プリンスホテル方面への坂を上り切った角にあるカトリック教会の玄関にあります=写真・右= 札の辻に近いツインビルの公開空地は緩い階段の先に大きな石が置かれ、元和キリシタン遺跡、の標示と説明があります。ツインビルは大きな茶色の建物でガラスが多い高層なのですぐ分かります

 徳川三代将軍・家光が元和九年(1623年)10月13日、キリシタンを処刑したとあります。徳川実記に記されているもので、京都に通ずる東海道の入口に当たる丘が選ばれたと考えられ、今はない“智福寺”地内であろうと推定されています。寛永15年(1638年)12月3日にも同じ場所でキリシタンが処刑されていると東京都教育委員会の説明文があります。広い敷地に緩やかな階段があり、その先に遺跡としての標示や石が据えられているが、お寺の痕跡はビル建設などの影響で全くありません。

 一方、カトリック教会の玄関先にある石碑は1956年に信者が三田の遺跡、智福寺に作り、その後石碑を移したもので、同じ処刑跡のものです。こちらは“江戸の大殉教”と説明にありました。説明文は教育委員会のものと基本は同じですが、日付が異なります。教会の方は1623年12月4日とありますが、教育委員会は10月と12月3日です。いずれにしてもキリシタン禁制の中で江戸にも大勢いた信者が処刑されたのははっきりしています。

 キリシタンというと天草ですが、江戸の徳川幕府のお膝元でも、こういうことがあったのか、と改めて思った次第です。