北陸、中部を巡る

北陸、中部を巡るのは容易ではありません。日本列島の中央部、モットも南北広い地域です。しかし、ここには、東海道、中山道、甲州街道など江戸時代に出来上がった主要街道があります。北国街道なども見え隠れして、知られた宿場や現在に残る戦国・江戸の人々の行き来を垣間見ることが出来ます。宿場などを克明に辿るのは止めて、ここでは気になるところや宿場、街道にまつわるエピソードなどを盛り込んで、ちょっと趣向を変えたレポートです。

1秋山郷 2武田真田夢のあと 3信濃の古刹 4木曽路から高山 5郡上八幡、下呂

6 残雪の平湯、上高地 7 金沢、那谷寺 8福井金沢永平寺 9金沢、福井2

10 越後平野と豪農  
11 食の国石川福井 12 秋の新潟日本海1 13 秋の新潟日本海

14北陸の歴史と味(富山・金沢) 15 北陸の歴史と味(能登半島内浦)

16北陸(能登半島外浦 )
17合掌造りの村 8琵琶湖、敦賀,若狭 19鯖街道

20松本付近の温泉 21信州高遠


17 奥飛騨合掌造りの村へ



昔、金沢・富山方面に国道が通っていなかったころ、五箇山村、白川郷を経て高山へ通じる飛騨の山中は秘境とまで言われたところ。


それでも、江戸時代、白川は煙硝(火薬)の集荷や木工、竹細工などが盛んだったが、豪雪地帯のため冬は外部との交通も絶たれたという。降り積もる雪の中で、人々は過ぎ行く冬をじっと待っていた。その代表的なものが、五箇山、白川郷に残る合掌造りの建築であり、食や工芸の文化でもある。
また、高山には江戸時代から明治維新に至るまでの177年間、江戸幕府の直轄領として政務を行ってきた旧陣屋をはじめ、当時を偲ぶ武家屋敷をいまに残す。
これから秋にかけて北アルプスや白山の山懐に佇む歴史ある集落を訪ね、色移りゆく山々を縫いながら心豊かなドライブが楽しめる。




富山空港-(北陸自動車道)-小矢部砺波JCT-(東海北陸自動車道)-福光IC-(国道304号線)-五箇山-(国道156号線)-白川村-荘川村-高山市
全行程約120km、1泊2日



 


●五箇山へ

富山空港から高速道路で一気に
福光ICまで走ってしまうこともできるが、途中、砺波ICを出て木工彫刻の町、井波経由( 「北陸の歴史と味を訪ねて富山・金沢編」を参照)で五箇山へ向かうのもよい。

●五箇山

福光または井波より国道304号線を南に約20km、五箇山トンネルを抜けて山を下り、庄川の谷あいに延びる国道156号線沿いに、 合掌造り の集落や民家が点在する。古くは平家の落人の隠れ里とも言われ、江戸時代には加賀藩領として火薬の原料である煙硝などを製造。
また、藩の罪人流刑地でもあった村や越中豪族の建てた豪邸など、当時の合掌造り建築、人々の生活様式や用具など、見るものは多い。
その他、山の清水を利用した豆腐や和紙、そば、地酒と山村ならではの特産品も数多くある。

●相倉合掌造り集落

五箇山トンネルを下ってすぐ出会う最初の集落は、平村の相倉合掌造り20戸。
山間の僅かな平地に寄り添うように建つ茅葺き屋根の大きな民家は、合掌造りの原形とも言うべき古い様式を伝える集落。土蔵、石垣や雪持林などの環境物件とともに、平成7年に
世界文化遺産の指定を受けた。
昔ながらの板張り障子の庭先には野菜や花などが植えられ、生活の匂いがある。
世界文化遺産とは言っても、現在も人々により生活が営まれている。多くは民宿や蕎麦、茶屋、土産屋などだが、民家もあるのでむやみに覗かないよう気をつけたい。

●村上家



平村の合掌造りで典型的な家屋の村上家は、
16世紀後半に建てられたもの。国の重要文化財に指定されている。
国道156号線に面した家屋は、茅葺き屋根の4階建て。高さ10.9mという大建築でありながら、釘やかすがいなどは一切使われていない。
1階は塩硝を製造していたという作業場と居間など、2~3階には煙硝や和紙の製造道具、民俗資料、4階には日常生活用品などが展示されている。陳列された数千点に及ぶ道具や資料から、五箇山の文化を見ることができる。
/入館料 300円、TEL 0763-66-2711

村上家と国道をはさんで建つのは、羽馬家。五箇山で最も古い建築様式を残している。その他、縄文から現代までの平村の生活を紹介する“平村郷土館”、紙すきが体験できる“和紙工芸館”など見どころも多い。
/問い合わせ平村産業観光課 TEL 0763-66-2131

●菅沼集落

平村から6kmほどで上平村に着く。
ここには相倉合掌造りと並んで五箇山二大合掌造りとして知られる“菅沼集落”がある。相倉集落ほどの規模はないが、同じく世界遺産に選ばれた日本の風景だ。
これより数km先には、約300年前の藩政時代に煙硝の揚荷役を務めた豪族が建てたという間口が26mもある大規模な合掌造民家“岩瀬家”がある。
国の重要文化財の指定を受けた民家は、1階は総ケヤキ造りで役人などをもてなす書院がある。3~5階は養蚕に使われていた。当時の生活様式や道具類が展示されている。
/入館料 300円、TEL 0763-67-3338

●白川郷

五箇山から白川郷への国道156号線は、別名を飛越峽合掌ラインという。
現在はいくつものトンネルで結ばれているが、東海北陸自動車道の工事が急ピッチで進んでいる。
白川郷(萩町合掌集落)の合掌造りの民家は、旧国道をはさんだ山あいに広がっている。
江戸時代には唯一の現金収入であった火薬の原料煙硝。その集荷の元締めであり集落で最大の合掌造りである民家“和田家”は、代々名主を努めてきたという家格にふさわしく、約400年の風雪にも耐え、いまなおどっしりと力強い佇まいをみせている。現在も住宅として使用されているため内部の見学はできない。

民家へは小道が続き、さまざまな角度から合掌造りの集落を眺めることができるため、記念撮影から写真マニアの被写体にもこと欠かない絵になる風景が広がっている。また、民家の中には民宿、食堂、甘味処や土産屋などを営むところもあり、観光客の足を止める。
国道バイパス沿いには
「合掌造り民家園」がある。集団離村した集落から民家や小屋などを移築、公開し、5月~11月中旬の間は竹細工などの民芸品、茶碗や壷などの陶芸、木工伝統工芸の「手仕事」の実演が見られる。
/入場料 700円、TEL 0576-96-1231

また、10月14~15日には白川郷のビッグイベントである“どぶろく祭り”が行われる。白川八幡宮で神様に供えられたどぶろくがふるまわれる。

●高山へ

白川郷を過ぎて荘川村へ向かう国道156郷線は、通称白川街道と呼ばれ、飛騨高山へと続く。
岐阜方面へ上る越前街道(飛騨街道)は荘川村で分れる。高山へは約70km。
途中、ダム湖である
御母衣湖のほとりにある駐車場で湖の眺めを楽しみながら一休みする。ここで荘川村にある合掌造りを訪ねるのもよいだろう。

高山市に入ると、JR高山線の線路を越え最初の信号を左折し、高山駅前の観光案内所へ。ここで市内観光地図を手に入れよう。車は市内6ヶ所にある市営駐車場(1時間300円)か私営駐車場(1時間400円)に置いて、徒歩で散策したい。

●高山陣屋

JR高山駅から東、宮川沿いにある江戸時代の御役所飛騨の歴史を語る「陣屋」が最初にして最大の見どころだ。
重厚な門構え、公式の会議に使用されたという大広間や年貢米を収めた蔵、拷問も行われた取り調べ所など、300年の時をいまに語る。
元禄5年(1692)、徳川幕府はここで177年間の明治維新に至るまで、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行ってきた。明治維新後も、この主要な建物はそのまま地方官庁として使われてきたが、昭和44年、飛騨県事務所が移転したことで役所としての役割を終えた。その後修復工事が行われ、平成8年に完成。江戸時代の姿が再現された。
/入館料 420円、TEL 0577-32-0643

●上三之町

高山で最も古い面影を残す町並みは城下町。商人の町として栄えた一之町、二之町、三之町の三つの町を称して「上三之町」と呼び、市の真中を流れる宮川の東に広がっている。
低い軒、出格子軒下には用水が流れ、狭い道の両側には味噌屋、漬物屋、酒屋、旅館、料亭、民芸品店などの商店が続き、
飛騨の味 にも出会える。
また、こうした町並みには白壁の土蔵や老舗らしい店構えも多く、古い看板など通り全体にノスタルジックな風情が漂う。
これからの季節、飛騨の山々は紅葉の彩られ、10月9、10日に行われる桜山八幡宮祭り
「高山祭」など、晩秋にかけて観光シーズンだ。
/高山市商工観光課 TEL 0577-32-3333
/飛騨観光と交通情報 TEL 0577-33-5566

○高山の見どころ

飛騨の伝統工芸として知られる春慶塗りの代表作品約1,000点を展示する「春慶会館」TEL 0577-32-3373)、重要文化財の明治建築の町家「日下部家住宅」TEL 0577-32-0072)、代々酒造りを営んできた商家で造り酒屋の住宅を一般公開している「吉島家住宅」TEL 0577-32-0038)、飛騨に伝わる獅子舞とからくり人形の実演が見られる「獅子会館」TEL 0577-32-0881)、その他、郷土館や美術館、高山城址公園、山寺めぐりと、高山見物には見どころがたくさんあり、1泊はしたい。

○朝市

「宮川朝市」と「陣屋前朝市」がある。
宮川朝市は、宮川にかかる鍛冶橋と弥生橋の間に約90点のテントが張られ、店が並ぶ。ここでは食料品から日常雑貨、衣類、みやげもの屋と商品の種類も多い。
一方、
陣屋前朝市は、近郊の農家の人々によってその日に採れた新鮮な野菜や果物、自家製の味噌や漬物などが並ぶ。旬のもの、しかも露地ものが扱われている。
これからは栗、りんご、きのこの季節。売り手のおばさんたちと話がはずんでいるうちに袋いっぱいの野菜などを買い込んでしまった。

高山から富山へ戻るのは国道41号線で約90km。松本へは国道158号線で約110kmだ。



 

16北陸の歴史と味を訪ねて
~能登半島外浦編~



能登半島の西側にあたる外浦は、日本海がその本来の荒々しさをむき出しに見せる場所だ。そのため内浦とはまた違った断崖や奇岩など迫力ある景観が形作られている。

さらに、日本海の厳しい自然のもとで育った魚介は身が締まり味も良い。能登半島ドライブの後半は、新鮮な海の幸を味わい、力強い自然を感じる旅だ。

 2023年の能登半島沖地震でダイナミックな魅力を持った
外浦一帯は大きな被害を受けた。輪島の待ちも壊滅状態で、復旧が急がれている。観光客の受け入れは徐々に行われているが、以前のような環境になるには、まだ数年はかかる。観光旅行は復興途上であることを十分に心得、」関係方面に状況を確かめる必要がある。

富山空港-(北陸自動車道)-富山市-(国道156号線)-砺波市-井波町-金沢市-(能登有料道路)-千里浜-(国道415号線)-氷見市-(国道160号線)-七尾市-和倉温泉-(国道249号線)-珠洲市-禄剛崎-輪島市-能登金剛-(能登有料道路)-金沢市
全行程約400km、2泊3日



●揚げ浜塩田

禄剛岬から西にまわり狼煙町から高屋町へかけて続く木の裏海岸は、海の透明度が高いことで知られるところ。
一帯は国定公園特別保護区に指定され、自然の遊歩道などで散策を楽しむことができる。
これより約10km西の
仁江海岸も国道249号線沿いに古い藁葺き屋根と昔ながらの塩田がある。ここに今でも、日本最古と言われる製塩法をかたくなに守り続けている方がいるという。
このあたりでは加賀藩三代藩主前田利常公が財源確保と農民救済のため塩造りを奨励した。当時は重要産業だった製塩業もいまではすっかり廃れてしまったが、ただひとり土地に伝わる砂取節の哀調とともに民宿を経営しながら製塩法を守っている。一袋200gで500円。塩でありながら甘味もあってうまい。ミネラルもいっぱいだ。
問い合わせ/民宿・揚げ浜塩田 TEL 0768-87-2857

●曽々木海岸

揚げ浜塩田からさらに西には岩礁がきれいな曽々木海岸がある。
冬には激しく吹き上げられた海水の泡が
「波の花」となって遊歩道にまであがってくることもある。
ここから少し内陸に入ったところには平家の落武者がやって来たという「下時国家」「上時国家」がある。
入り組んだ海岸線が多い能登半島だが、禄剛岬から輪島にかけては海沿いの快適なドライブが楽しめる。

●輪島

奥能登最大の観光地である輪島、中でもみどころは「朝市を見ないと輪島は語れない」といわせる朝市だ。
輪島の朝は早い、と聞いて、さっそく出かけてみた。(実際には朝市は7時~11時)
通称
朝市通りは海辺に近い河井町本町通り。海辺には大きな駐車場(無料)がある。通りにびっしりと並ぶ店は屋台から地面に一枚の布やゴザを敷いただけのものまで約200店ある。
海産物や干物、野菜、民芸品からおもちゃまで、また屋台では魚や貝、干物まで焼いて食べさせてくれるところもある。「なんかこうてくだぁ」という売り声の中、大勢の観光客が行き交う。
もともとは生活に根付いた朝市だったが、いまは観光客相手の店が多いと地元の人の話。
せっかくの朝市だったが、品物は周辺の町と比べるとやや高めのようだ。しかし、朝市の雰囲気や地元のオバサンたちが持ち寄る採りたての野菜、旬の魚をその場でさばいてくれるのを見るのは楽しい。

朝市の通りを少し入ったところに地元で有名な
朝めし屋 がある。朝市に合わせて早朝から店を開いているので営業時間は朝だけ。
カウンターだけのこじんまりした店だが、ひとりできりもりしているという女主人は、地元ではちょっと知られた人らしい。地元の客が「この店のオバサンと料理は有名だ」という。その日の朝、輪島に水揚げされた地物の魚以外使わない、と胸を張る。

この日の夕食は輪島駅前で客待ちしているタクシーの運転手にお薦めの店を紹介してもらった。駅から徒歩で約15分、タクシーでは3~4分の弥生町にある
季節料理屋 だ。

○輪島塗

輪島塗1000年の歴史を紹介する
「石川県立輪島塗芸美術館」は輪島市の西南、小加勢川沿いにある。日本で唯一の漆専門の美術館で、館内には人間国宝、芸術院会員をはじめ、古今の漆芸家による多くの作品が展示されている。
/入館料 600円、TEL 0768-22-9788

また、若い漆塗り作家の作品の展示されている
「うるし工芸作品館」が朝市通りからほど近い海岸通りにある。日本が世界に誇る伝統美術工芸品だ。
/入館料無料、TEL 0768-22-0859

●能登金剛

山が海まで突き出した海岸線が続く能登金剛は断崖絶壁、奇岩や洞窟の宝庫。自然の力強く美しい造形美が堪能できる。
この迫力ある海岸線は季節やその日の天候によってその姿を一変させる。風のなくよく晴れた日は穏やかに、悪天候の日には荒々しく岩に砕け散る白波も魅力的だ。とくに厳しい冬は怒涛となって岩を噛み、砕けた波は白い泡となって天に舞う。

岩を見る名所がいくつかあるが、とりわけ国道249号線を生神から県道36号線沿いの巌門が有名だ。幅6m、高さ15m、奥行き60mの「巌門洞窟」。駐車場から徒歩5分くらい。
この巌門や高さ27mの鷹の巣岩、千畳敷岩などを観る遊覧船も出ている。
/所要時間約20分、料金 800円

輪島から能登金剛の間、県道沿いの海辺の村、大沢では潮風、とくに厳しい冬の冷たい風や吹きつける雪を防ぐため、家々は「間垣」(写真)と呼ばれる葦簾で囲われていた。珍しい集落の佇まいといえよう。

また、門前町には曹洞宗大本山
「総持寺祖院」がある。いまから約700年前(1321)開祖されてたいう古刹の境内には総ケヤキ造りの法堂や座禅修行を行う僧堂などがある。
総持寺の奥の裏山には湧く霊水と伝えられる清水「古和秀水」がある。お茶会や仏前の献茶として使われ、地元の人も広く愛用されている。

 」




 

15 北陸の歴史と味を訪ねて
~能登半島内浦編~



能登半島は内浦と呼ばれる富山湾側と外浦と呼ばれる日本海側とは全く様相が異なる。
内浦の中でも、ことに能登島に守られた七尾湾は湖のように静かで日本海の荒波とは無縁に思える。しかし、半島先端の禄剛崎(珠洲岬)を東から西に回り込むと、豪快な荒磯や奇岩、断崖絶壁が続き、冬の厳しさを思わせる。吹き付ける雪混じりの潮風を防ぐため、間垣(よしず)を張り巡らせた村や、急峻な岸壁を削った曲がりくねった細い道の遥か下に小さな船着き場や集落があったりする。

能登有料道路ができて、北陸自動車道から穴水町方面へは簡単に行くことができるようになったが、やはり能登は昔ながらの海岸線に沿って辿りたい。
古い民家や小さな漁村、人の姿も稀な海岸に岩だなで足を浸し、漁師宿で採れたての魚介に舌鼓を打つ。晩夏から初秋にかけての奥能登をのんびりドライブしてみよう。




富山空港-(北陸自動車道)-富山市-(国道156号線)-砺波市-井波町-金沢市-(能登有料道路)-千里浜-(国道415号線)-氷見市-(国道160号線)-七尾市-和倉温泉-(国道249号線)-珠洲市-禄剛崎-輪島市-能登金剛-(能登有料道路)-金沢市
全行程約400km、2泊3日



<ルート付近のリンクポイントの地名をクリックしてみてください> 

 

 



●金沢から能登へ

北陸自動車道からは金沢東ICを出て国道8号線バイパスを経て
能登有料道路へと入る。
この有料道路には5ヶ所の料金所がある。終点の穴水まで行く場合は、全線通行券(料金1,180円)を購入する方が手間が省けるが、今回は千里浜まで約20km(料金所は3ヶ所、料金650円)を利用した。
この有料道路の今浜から千里浜の間、約5.5kmは
"千里浜なぎさドライブウェイ"といわれ、広い砂浜の続くドライブウェイだ。
時間のある人は有料道路を出てマリンスポーツを楽しむのもいいだろう。
千里浜ICを出て国道415号線を氷見市へと走る。富山や金沢から奥能登を結ぶこの国道は幹線道路とあってトラックなどの大型車が多い。約22kmで氷見市だ。
氷見市は富山随一の漁港。定置網発祥の地ともいわれ、この港で水揚げされる魚は鮮度一と漁師は胸を張っていう。
湾の彼方には立山連峰の雄々しい姿が望める。また氷見には縄文時代の遺跡もあり、市立博物館には古代から現代までの人々の生活や文化の資料が展示されている。
/氷見市立博物館入館料 100円、TEL 0766-74-8231

●大境洞窟住居跡

氷見市から国道160号線を辿る。富山湾を望む快適なドライブウェイだ。交通量も少ない。
氷見市から6kmほど走ったところで「大境洞窟」の標識を見る。海水浴場の脇を通り抜けると、神社とその奥に大きな洞窟が口を開いているのが見える。高さ8m、幅16mという。
洞窟からは、大正7年(1918)神社改装にともない土砂をとり除いた際に地中から人骨、土器、石器などが発見された。
この洞窟は日本で最初に発掘調査されたところであり、また落盤によってできた遺物を含む6つの地層が、時代順に区別されたことで貴重なもの。とくに縄文と弥生がどちらが古いかを実証した洞窟である。国の指定遺跡。

●七尾市へ

氷見から七尾市を通って和倉温泉への富山湾沿いの国道160号線は風光明媚な海辺の道だ。
交通量も少なく穏やかな海岸に点在する漁村。ファーストフード店やドライブインはほとんどないが、釣り宿や旅行者のための民宿、鮮魚が自慢の食堂をときどき目にする。
そんなのどかな街道を約30kmほどドライブすると
七尾市内へ入る。
七尾市にある
七尾城は、室町時代に守護大名として能登を統治した畠山氏によって築城、戦国時代上杉謙信によって落城した。七尾城資料館があり、城跡から発掘した陶磁器や武具などが展示されている。
/入館料 450円、TEL 0767-53-4215

●和倉温泉

能登最大の温泉地。いまから1200年もの昔、沖合いの海上で白鷺が傷を癒す姿を見て発見されたと伝えられている。
その海上に湧いた湯を明治13年に海中を埋め立てて陸続きとしたのがいまの和倉温泉だ。
七尾湾に面した温泉街には豪華な旅館が建ち並ぶ。一泊8万円もする高級旅館から1万円弱の民宿まで約40軒の宿がある。
源泉は94度と沸騰点に近い高温で、湯は海水同様かなりきつい塩味だ。飲用もでき胃腸に効果があるが、飲用の場合は2倍に薄めるとか。そのほか効用は神経痛、貧血など。
能登島を望む景勝地で全国の温泉ファンの憧れでもあるという。

●能登島へ

七尾湾に浮かぶ能登島は和倉温泉から行く能登島大橋の完成とともに、水族館をはじめゴルフ場やキャンプ場、美術館などが整備され、島全体が観光地化された。
七尾湾を見下ろす
「石川県能登ガラス美術館」は立ち寄ってみる価値がある。トンネル状になった展示室にはピカソ、シャガール、ミロがデザインし、イタリアのガラス工房で製作された現代美術品などがある。
また、北寄りにある長浦とを結ぶ
ツインブリッジがある。この全長230mのツインブリッジの開通は平成11年3月。地域の農産物出荷を目的に造られたものだが、スリムで美しいデザインと橋から眺める和倉温泉や七尾湾のパノラマが人気を呼び、いまではドライブ向きの観光スポットとなっている。

●明治の館

豪農の室木家は古くからこの一帯の百姓代や組頭を務め、幕末期には庄屋となり、江戸から明治にかけて回船、酒造業を手がけた大地主だった。
現在の建物は明治12年から10年の歳月をかけて建てられたもの。豪壮な合掌組入母屋造りの茅葺き屋根、柱や梁の太さや名工の手による美しさに目を見張るばかり。百年余りの歳月を経たとは思えない塗りや用材の立派さに驚かされる。お座敷はお茶会に利用することができる。
/入館料 300円、TEL 0767-66-0157

●七尾から穴水

ツインブリッジを渡り、国道249号線のジャンクションになかじま峠茶屋がある。
国道沿いにはドライブインなどほとんどないのでこの茶屋で一休み。食堂のメニューは日本そばとラーメンだけだったが、その素朴さも能登らしい。
七尾北湾の入り組んだ海岸線の風景を楽しみながらのドライブが続く。
北陸一帯の民家は新築されたものでも多くは白壁や木材板張りそれに黒瓦屋根の日本古来の建築だ。入り江ごとにある日本家屋の集落を見るとき、能登には特別な観光地は少ないが、こうした漁村や農村の日本の風景に心がなごむ。この景色こそ能登の最大の魅力なのではないかと思う。

七尾北湾の北側に位置する
穴水町は、千里浜で降りた能登有料道路の終点でもある。この先川尻でいったん海岸沿いを離れて内陸に入るルートをとり、能都町で再び海岸線に出る。

●内浦町から珠洲市へ

能都町宇出津で国道249号線と分かれ、海岸線を辿る。
岩礁が広がる“千畳敷き”やリアス式海岸独特の美しい入り江、それに最も大きく入り組んだ九十九湾と水のきれいな恋路海岸、軍艦そっくりの姿をした見附島(軍艦島)などがこの海岸線のみどころだ。

九十九湾には
海中公園があり、遊覧船のガラス張りの船底から魚たちの泳ぐ姿を観察することができる。
この九十九湾から約10km北にある
恋路海岸は白い砂浜に奇岩の連なりを望む景勝地。その昔、2人の仲を嫉妬する男に騙されて溺れ死んだ恋人のあとを追って女が身を投げたという悲恋伝説の残る海岸だ。最近この伝説にあやかって“ラブロード”と名付けられ、恋人のモニュメントが設置されている。
問い合わせ/内浦町企画観光課 TEL 0768-72-1111

●松波松岡寺

恋路海岸の手前、国道249号線のバイパスへは入らず、松波市街を通る道筋で山の手に大きな寺の屋根が見えた。
小さな町の大きな寺、ガイドブックや案内書にはないのが不思議な気持ちで訪ねてみた。大きな本堂には人影もなく荒れてはいたが現在も住職や宗徒たちに守られているという。

宝徳3年(1451)本願寺第八代蓮如上人によって加州能美郡波佐谷(現在の小松市)に建てられたのがはじまり。
後に加賀藩主、前田利家より寺地を受けて堂宇を建て、元和元年(1615)この地に移り松波松岡寺として開いた。
明治13年(1880)本堂が焼失、現本堂は越中(富山)井波の工匠によって12年の歳月をかけて明治25年(1892)再建されたもの。
しかし、鐘楼堂は焼失を免れ、開祖当時のままの姿を残している。これだけでも大変貴重なものだが、この寺には木造の
聖徳太子立像が本堂の厨子の中に納められていた。ごく最近「重要文化財」に指定されたもので、御尊顔にあずかり大感激。訪れる人も少なく拝観料もない能登の海辺の大きな寺で、思いがけなく出会った喜びはひとしおだった。

●禄剛崎(ろっこうざき)

能登半島の最先端、内浦と外浦の境界にあたる。ここから日本海を一望すると、見渡すかぎり広い海に感激。ここでは海上に昇る朝日と海中に沈む夕日が同じ場所で見られるのだ。
日本海を隔てた先を示す“釜山783km・ウラジオストク772km”というユニークな標識も立つ。先端に立つ白い灯台は明治16年、イギリス人技師によって造られたもの。
駐車場から徒歩6~7分のところにあり、一帯が公園になっている。晴れた日には立山連峰や佐渡ヶ島も見える。

 



 

14 北陸の歴史と味を訪ねて
富山・金沢編



立秋が過ぎお盆休みも終わると、観光地も賑わいの中にどこか秋の気配がまじってくる。紅葉を迎える前のこの時期こそ、人は本来の旅人になれる。

加賀百万石の城下町金沢は、優雅な文化と奥深い伝統の町。この土地の代表ともいえる兼六園をはじめ、加賀藩ゆかりの文化史跡が集まるところ。武家屋敷や茶屋街など情緒ある町並みは、北陸の観光名所だ。
そして、これより北へ向かえば能登半島。加賀の殿様の治めた土地には北前船の寄港地として栄えた港や寺社などみどころも多い。岩礁に砕ける白波、御陣乗太鼓にキリコ祭り、ダイナミックな自然と人。北陸能登半島は実に魅力的だ。
また、日本海の海の幸。有名な輪島の朝市に代表されるように、新鮮な魚介類のうまさは格別だ。
ぜひお薦めしたいドライブコースの一つである。

今回は、「富山・金沢編」(本編)、
「能登半島内浦編」「能登半島外浦編」に分けてご紹介します。



富山空港-(北陸自動車道)-富山市-(国道156号線)-砺波市-井波町-金沢市
-(能登有料道路)-千里浜-(国道415号線)-氷見市-(国道160号線)-七尾市-和倉温泉-(国道249号線)-珠洲市-禄剛崎-輪島市-(能登有料道路)-金沢市
全行程約400km、2泊3日


 

 


[富山]

●富山市から

富山空港や北陸自動車道富山ICのある富山市は、北陸地方の玄関口として、また立山黒部アルペンルート出発点として多くの人々で賑わう。
一方、能登半島への玄関口でもある石川県金沢市は、歴史ある城下町として観光客に親しまれている。
この二つの都市を結ぶ距離は約50km。北陸自動車道で一気に走ればわずか30分だ。しかし、今回は
砺波ICから彫刻の町井波へ寄り道をしながらのドライブとした。

○富山で食べる

富山市のガイドブックを開くと、グルメどころの紹介が多いことに気づく。富山市随一の繁華街
総曲輪通り(昔、富山城の外濠があったところ)と、老舗や有名店が集まる西町がその中心。デパートやブティック、飲食店などが建ち並ぶ。
とくに西町から一歩入った桜木町は、割烹や居酒屋、スナックなどの並ぶナイトスポット。たいていは居酒屋でも近郊の海で採れた新鮮な魚介類を食べさせてくれるが、割烹ならなお結構に違いない。しかし、そうなると値もはることだろう。
そこで割烹でありながら料金も手ごろで、富山湾からその日に水揚げされたばかりの魚介を扱うという
お店 を探してみた。

また、富山名物といえば「鱒ずし」。これはどこで食べても旨い。

●砺波から彫刻の町井波へ

庄川沿いの平野に広がる庄川町は、春は色鮮やかに咲き誇るチューリップ畑が有名だ。毎年5月の連休前後になると、「となみチューリップフェア」が開催される。問い合わせは砺波市商工観光課へ。
その庄川町の隣り、
井波町600余年の歴史を持つ名刹瑞泉寺の門前町として伽藍彫刻が盛んなところ。現在約300人がその伝統を受け継いでいる。
石畳の八日町通りは匠たちのノミの音と楠やケヤキの香りが漂う情緒ある通りで、日本の風景百選にも選ばれた。ノミを振るう多くは若者だ。
伝統の伽藍彫刻を伝承する若者たちは、師匠のもと、昔ながらの徒弟制度で腕を磨いているという。その作品も昔と変わらない神社仏閣。御輿から欄間と、一枚の板に龍や鷹、松竹梅を掘り刻む。現代の"左甚五郎"たちの仕事ぶりを見られるのも、この町の楽しさだ。

●瑞泉寺

北陸の歴史の中で重要な位置を占めるこの寺は、明徳元年(1390)、本願寺5代目法主が建立し、北陸の浄土真宗の拠点とした。
京都の大工棟梁が建てたという、総ケヤキ造りの重層伽藍入り母屋造りの山門に出会う。山門正面に彫られた龍
「雲水一匹龍」は、見るものを圧倒する。
また、北陸最大の木造建築の本堂、さらに井波彫刻の粋を集めたという太子堂、宝物殿には国の重要文化財及び県の重要文化財などが多く納められている。
かつては「越中の府」とも言われ瑞泉寺とともに栄えた井波も、いまは訪れる人も少なく、境内ではセミの声ばかりが響いていた。

[金沢]

井波から金沢までは国道304号線で約20km。
金沢といえば兼六園、金沢城祉、忍者寺、茶屋町と加賀百万石の華やかな歴史と文化の町。みどころ食べどころがいっぱいだ。ゆっくり観てまわるには、この町だけでも一泊したいところだ。ここでは、主なところだけを紹介しよう。

●兼六園

 

 

金沢のシンボル兼六園は、延宝4年(1676)、加賀藩5代藩主前田綱紀が城の外庭としてここに蓮池御亭を建てたのがはじまり。完成までには160年の歳月を要し、13代斎秦の時代に現在の庭園としての姿になった。林泉回遊式庭園で、琴柱の形をした灯籠、霞ヶ池、雁行橋、それに茶室夕顔亭と、優雅な純日本庭園である。
兼六園の名は「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の六勝を兼ね備えていることから命名された。

霞ヶ池や瓢池、燈籠、曲水など水辺の佇まいの美しさはもちろんのこと、春は梅や桜、初夏はつつじ、かきつばた、秋は紅葉、そして冬は雪吊り、と四季を通して様々に色彩を変え、心和む風景が見事に演出されている。
また、霞ヶ池を水源にする
噴水(写真上右)は自然水圧を利用し、池の水位の変化によって水の高さがかわる。通常は3.5m。文久元年(1861)に造られた日本最古の噴水である。
園内には茶室夕顔亭の他、休息所として
"時雨亭"が今年3月にオープンした。もとは安永2年(1773)の大火の後に別荘として建てられたものだが、明治に入って取り壊されたものを再現した。内部は開放されており、お菓子つきで抹茶が楽しめる。
/入園料 300円(時雨亭 700円)
問い合わせ/金沢市観光課 TEL 0762-20-2194

●金沢城跡

400年前、前田利家によって築城された金沢城は、度重なる火災によって焼失し、現在残っているのは石川門と石垣、三十間長屋のみ。
兼六園と道路をはさんで石川門へ通じる橋は、明治時代のものを平成7年に復元したもの。
周辺の景観も修復され、城内は二の丸御殿を含め城の修繕が進められているため、現在は工事中だが、加賀百万石のかつての栄華を味わいながら鬱蒼とした樹木の茂る城内をゆっくり歩くのもよし。石川門付近を除けば、観光客の姿も少ない。夜、石川門はライトアップされる。
問い合わせ/石川県公園緑地課 TEL 0762-32-3113

●妙立寺

兼六園から犀川をはさんだ寺町周辺にはその名の通り70以上の寺院が集まる。仏像や工芸品など歴史的文化遺産が数多く、のんびりと散策するのにうってつけだ。金沢出身の文豪室生犀星ゆかりの地でもある妙立寺に立ち寄ってみた。
別名
"忍者寺"と呼ばれるこの寺は、三代藩主前田利常が寛永20年(1643)に金沢城近辺から移築建立した日蓮宗の古刹。外見は2階建てだが、中部は7層4階からなっている。23の部屋と29の階段が仕組まれ、いたるところにカラクリがある。落し穴階段・仕掛け賽銭箱・城への逃げ道といわれる大井戸などがある。
だが、実際には忍者の寺として建てられたものではなく、幕府の隠密や外敵の目をあざむくために装備されたもの。火災にも遭わず、頑強な建物は今日に残っている。
要予約で30分ごと十数人のグループで案内人がつく。
/入館料 700円、TEL 0762-41-0888

●茶屋町

かつて、遊郭街は城と兼六園をはさんで3ヶ所あったが、現在は東と西の2ヶ所にその名残りがある。
西の寺町にある茶屋街は最近復元されたため建物の新しさが目立つが、卯辰山麓を流れる浅野川の川岸に残る東の茶屋街は昔ながらの紅殻格子の軒を連ね、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような佇まいを見せている。夕暮れ時には、いまでも茶屋から三味線や太鼓の音が流れ、昔の雰囲気が漂う。
中でも市の指定文化財となっている
"志摩"は一般公開され、以前の茶屋遊びの雰囲気を知ることができる。
資料館となっている
"懐華樓"は、朱塗りの階段、草木染めの畳など、当時のあでやかな茶屋文化を再現している。
その他、かつての茶屋の多くはその佇まいを残し、土産物屋や喫茶店を営んでいる。五木寛之著「朱鷺の墓」の舞台になったことでも知られているこの町は、これから秋にかけて若い女性の観光客で賑わうとか。

○金沢旨いもの

食べる・遊ぶ・買う、と金沢きっての繁華街は、香林坊・片町。とくに食に関しては、居酒屋、割烹料理店、洋食レストラン、焼き肉屋、中華料理店、赤ちょうちん、一杯飲み屋と、食いしん坊にはたまらない町だ。
この香林坊の町中に宿をとった筆者は、数ある旨いもの屋の中でもさらに旨いものを見つけようと夜の町へ出た。
旅先で旨いものを探すコツは、まずホテルのフロントに尋ねる。次に自分の足で歩き、地物を食べさせる店を見つけたら開けてみる。地元客らしい人が沢山入っていれば、旨い店だ。
こうして見つけた店の中から、魚介類を扱い値段もリーズナブルな店
「いたる」 と、少し値ははるが能登牛ステーキの旨い店 「山下屋」 を紹介しよう。

金沢はみどころと食にはこと欠かない。これから秋にかけては北陸の観光シーズン。心ゆくまで旅をたのしんで欲しいものである。



 

13 秋の新潟日本海2



日本海パークラインから酒田市へ

「海は荒海、向こうは佐渡よ」と詠われた新潟から山形へ北上する日本海沿いは、冬を除いて穏やかな日も多い。松林や岩礁、奇岩の続くシーサイドを佐渡や粟島の島影を眺めながらのドライブは実に快適。
とくにこれからの季節は観光客も少ない。また工場やドライブイン、色とりどりの看板のひしめく太平洋岸に比べ、自然の多く残る長い海岸線をのんびり辿るのもいいものだ。
途中には芭蕉や親鸞上人の足跡、由緒ある古刹、城下町村上に残る武家屋敷などみどころもいっぱいある。
また、いくつもの小さな港では近海で捕れる魚の水揚げ風景が見られたりと変化に富んだコースでもある。

 

 

 

 

 




新潟市-(国道113号線)-乙宝寺-村上市-笹川流れ-山北町
全行程約90km、1日


 


●国道113号線と乙宝寺(おっぽうじ)

新潟市から約40km、乙宝寺への道は海辺沿いの通称“夕日ライン”、国道113号線を走る。
20kmほど過ぎると道は見事な松林の中へと続く。昔の街道の多くはこんな風景ではなかったか、と思える道だ。
その名も“下越の松林”といわれるあたり、荒川より数km手前に乙宝寺への標識があり、それに従って右折。約4kmで鬱蒼とした老杉や松などの林の中にこの寺があった。
門前には、湧き水の池に鯉やスッポンが泳ぐ。
創建は、天平8年(736)聖武天皇の勅願により開山されたという。「古今物語」「古今著聞集」などにこの寺にまつわることが記されている古い寺である。

本堂に向かって右に立つ三重の塔は、国の重要文化財でもある。そのほか朱塗りの門に立つ仁王尊は金堂の古材を使用した1745年行基菩薩の作とされている。
ガイドブックなどではあまり紹介されていないが、一見の価値のある古刹である。境内に湧く水は弘法大師お授けの清水といわれている。胎内川の伏流水が自噴したもので、上質の自然水。お茶や健康薬用として用いられている。

門前には2軒の旅館とわずかな土産物屋があり、いまはこうして寂れているが、昔は各地からの参拝者で賑わっていたとか。

●瀬波温泉

国道113号線は荒川を渡ると同じ海岸を走りながら国道345と番号を変える。約20kmで村上市に入る。
その少し手前、岩礁と砂浜の風光明媚な海岸線にある温泉は湯量が多いのが自慢の
“瀬波温泉”だ。
ホテルや旅館の多くは海の見える露天風呂を設けているが、露天でなくても展望風呂と銘打って海を望めるところもある。
湯量の豊富さと夕日の海が見えることで人気がある。
日帰り用の露天風呂の温泉施設もある。ただし、ここは周囲が緑に囲まれ海は見えない。食事処などもあるので、ゆっくり温泉が楽しめる。
/入浴料 840円、TEL 0254-52-5251

●城下町・村上

三面川が海に注ぐ流域に広がる村上市は、その歴史も古く、とくに約千年もの昔から三面川の鮭漁は国家への大きな貢納物とされ、密漁は罪科に処されるほどであった。
後に秩父行長が鎌倉将軍(北条)の地頭として移り住み、文書に村上として地名が出てきたのは16世紀中ごろ。
やがて豊臣秀吉の命を受けて村上頼勝が加賀小松からここに移り、城下町として発展した。しかし、元和4年(1618)村上氏の家中騒動のため城は没収された。その後、姫路より城主を迎え、村上は15万石と越後きっての雄藩となる。
元禄2年(1689)俳人芭蕉が「奥の細道」行の途中、村上の久左衛門方に二泊した。現在その家のあったところは民家となっており往時の面影もないが、この町には重要文化財の若林家をはじめ、いくつかの武家屋敷が残る。

●若林家住宅

JR村上駅前から車で5分くらい、山を背に昔の町並みがある。かつての中級武士の住まいだ。
茅葺き屋根の曲がり屋造りで美しい庭がある。階級によって決められた部屋の多くは公のもので家族の生活するスペースはわずか。当時この地方の中級武士では人は雇えなかったという、案外こじんまりとした建物だが、江戸時代の武士の暮らしの一面が分かる。
/料金資料館と共通で 500円、TEL 0254-52-7840

●村上市郷土資料館

若林家に隣接するこの建物は、吹き抜けの広い展示スペースがあって、村上大祭(毎年7月6日~8日の3日間)に19台もの“オシャギリ”と呼ばれる山車が出る内、常時4台が展示されている。
村上は中国から伝わった堆朱といわれる漆塗りが盛んだ。山車はそれぞれの町内で歌舞伎や獅子などのデザインをあしらった絵や彫刻などを漆で色付けられて装飾されている。華やかで重厚な山車はさすが伝統の町、村上の堆朱工芸の粋を凝らしたものといえる。
また、現皇太子妃雅子さまの祖父の実家がこの村上であったという証の文書から系図や戸籍謄本の写しも展示されている。
TEL 0254-52-1347

●イヨボヤ会館

村上に注ぐ三面川、その上流の朝日村にダムが完成したのはつい先日(2000年10月)のこと。
縄文時代の遺跡がダムの底に沈んだことで新聞やテレビを賑わせていたので多くの人も記憶に新しいと思う。
その三面川は、先に述べた通り、千年も前から鮭漁が行われていたところ。
そして江戸時代から鮭の養殖に取り組んでいたことなど、村上と鮭との切り離せない歴史をここで知ることができる。また鮭の生態も解説されている。イヨボヤとはこの地方で鮭のことをいう。普通、鮭漁といえば北海道を連想するが、それは時代がずっと下がってのこと。村上の鮭の歴史は長い。
/入館料 600円、TEL 0254-52-1347

○鮭の酒びたし

鮭をひと冬乾燥させたものを北海道では“とば”というが、ここ新潟村上では “酒びたし” という。
もちろんその製法も気象条件も違うが、その違いを知らない者には似た保存食のようにも思う。
ただ、“とば”は粗削りで素朴だが、ここでは長い歴史のためか繊細であり、製造の長い物語さえ感じる。
塩漬けした鮭を全開きはせず、腹の部分を少し残す裂き方をする。村上は武士の町、腹切りはしない、ということで腹の一部を残すのだと地元の人に聞いた。
乾燥した鮭は酒だけ、あるいは味醂を加えたものに浸せば酒の肴には最高の珍味とか。

●笹川流れ

村上市から北へ約11kmの海岸線を“笹川流れ”といい、日本屈指の名勝だ。地元では美しい海の代名詞と自慢する。
“笹川流れ”とは、コバルトブルーの海に浮かぶ沢山の岩の間を盛り上がるように流れる潮流で、この景勝地の中心にあたる笹川集落の地名にちなんで名付けられたもの。
橋を渡り、いくつものトンネルを抜けて走るドライブの途中でこの絶景を眺めるため、いくつものパーキング場が設けられている。これらを利用しながらゆっくり走りたい。
めがね岩、びょうぶ岩、恐竜岩などと名の付いた岩礁や奇岩地帯を過ぎると、夏は海水浴客で賑わうが、いまは静かな砂浜だ。
できれば夕日を迎える時間に来られるようスケジュールを立てたい。
このあたりはまた、海の幸はもちろんのこと、多くの川が流れ込んでいるためイワナやヤマメ、山菜と川や山の幸も豊富だ。

●山北町

すっかり日も短くなった秋、なにも見えなかった水平線の彼方から港に戻る漁船が姿を見せた。彼らが帰る山北の港に、こちらもまるで誘われるようにハンドルを切って寄り道だ。
沿岸での漁だという船の乗組員はたった一人か二人。これから冬にかけて、あんこうやいなだ、たこなど数種類の魚を水揚げする。
岸壁には奥さんたちが待ち構えていて、魚でいっぱいになったリヤカーをひく。手際よい仕分けをすると、その場で仲買屋によってせり落され、そのまま冷凍車に。この間わずか2時間。
この港町には、水揚げされたばかりの魚を食べさせてくれる店はないという。「
酒田の料理屋 で」と漁師がいった。とれたての魚は都市へと運ばれていく。これは日本の多くの漁師町の姿である。

思いっきり海岸線のドライブを楽しむ旅はまだまだ続く。ここから山形県酒田市まで100km近い。


 

12 秋の新潟日本海1



秋から冬にかけての日本海沿岸の魅力はなんといっても魚介類がもっとも美味しくなる季節ということ。また、新潟といえば魚沼産に代表される最上級の米どころだ。
こうした秋の味覚もさることながら、新潟は小学校の教科書にもあった良寛さまのふるさとでもある。
日本海沿岸を走る国道や県道沿いには弧を描いて広がる砂浜や奇岩を彩る松、弥彦山など、魅力あふれるドライブコースである。

 

 

 

 

 




新潟市-(国道402号線)-寺泊-分水町-弥彦神社-室岩-新潟市
全行程約100km、1泊2日



<ルート付近のリンクポイントの地名をクリックしてみてください> 

 

 


●良寛のふるさと分水町へ

越後出雲崎に生まれた江戸時代の歌人であり書家であった
良寛は、生涯寺を持たず托鉢で生活し、万葉を愛し、こどものように純真で自由な詩を詠んだ。
晩年は分水町の国上寺内の庵で自然を愛し、こどもたちと過ごしたという。知っているようで知らない良寛さまの足跡を訊ねてみた。
また、
寺泊の魚市場、越後の人々の信仰を集めた「弥彦神社」とみどころも多い。

●国道402号線シーサイド

新潟市街を海に向かって走ると、国道402号線へ出る。
港近くにあるアクアミュージアム
「マリンピア日本海」の看板に誘われて立ち寄ってみるのも良い。頭上をブリやタイ、ウミガメなどが泳ぐマリントンネル、イルカのショーなどが楽しめる。
また、隣接する公園には北原白秋詩「海は荒海、向こうは佐渡よ」の童謡の碑がある。
/マリンピア日本海入園料 1,500円、TEL 025-222-7500

砂防林の松林が続くシーサイドラインにはところどころに駐車場が設けられ、日本海に沈む夕日を見るポイントが多くある。

●越後七浦シーサイドライン

新潟市内より約30kmほど南、巻町の角田浜あたりから寺泊野積までは「越後七浦シーサイドライン」といわれ、立岩などの奇岩があり日本海の美しい海岸線が続く。
トンネルも多いが、ビューポイントにはパーキングエリアもいくつかあり、佐渡ヶ島を眺めながらの快適なドライブが楽しめる。
とくに水平線に沈む夕暮れどき、赤い空に黒ずむ佐渡の島影を見るのは最高だ。

●弥彦山スカイライン

岩室町間瀬の信号を左折、道は弥彦山を目指して上る。このスカイラインは通称「だいろ」ともいう。
「だいろ」とは新潟の言葉でかたつむり。そのかたつむりの殻のように大きく曲がったカーブが少しの間続く。
急なカーブを曲がるごとに日本海が広がり、佐渡ヶ島が大きく見えてくる。変化に富んだ道だが、片道一車線の狭い道に大型観光バスも通るので注意しよう。また、降雪の時期には閉鎖される。

●弥彦山

スカイラインを上りきったところ一帯は「山上公園」だ。ミニ遊園地、展望台、展望レストラン、パノラマタワーなどがある。
駐車場から展望台へは徒歩で約30分。または急な斜面を一分ほどで上る傾斜式観光エレベーター
「クライミングカー」(片道料金180円)で行く。あるいは弥彦神社からロープウェイを利用する。(弥彦神社からは徒歩1時間)
この他、360度の展望を楽しむなら100mの回転展望台
パノラマパワー(料金600円)がある。展望台からは大海原と佐渡ヶ島を望める。
展望台より弥彦神社奥の院へは徒歩約10分。奥の院境内からの展望はすばらしく、米どころの広い越後平野、豊かな水量の信濃川、遠く越後の山々が見渡せる。ただ、残念なことに奥の院を取り巻くように乱立するテレビや通信器等の大きなアンテナが気になる。

●弥彦神社

遠く古代から神の宿る山として信仰されてきた弥彦山。
また、農業や漁業、製塩などといった生活の技をもたらしたといわれる弥彦神社。
越後の人にとっては生涯一度は参拝したいと願う神社といわれている。お祭りの多い社でもあることでも知られている。いわば越後地方の氏神様である。
6月には茅の輪くぐり、7月は燈篭祭り、そして11月1日から24日までは全国にも知られた
菊祭りがある。この菊祭りが終わると紅葉した山に雪が舞う。
まだ紅葉には少し早いが、深い樹木の奥に鎮座する社には参拝客の姿が絶えない。

○弥彦神社宝物殿

弥彦神社境内にある宝物殿は、徳川家康の6男越後国高田城主となった松平忠輝が奉納した青磁香炉(重要美術品)をはじめ、重要文化財の志田大太刀が必見だ。
応永22年(1415)現在の寺泊の豪族・志田三郎定重が、時の備前国長船の刀匠に打たせ、弥彦神社に奉納したもので、のち慶長15年(1610)時の二代将軍徳川秀忠の上覧に供したともいわれる大太刀だ。刃渡り220.4cmもある。
その他、同じく重要文化財である大鉄鉢など、展示品は少ないが価値あるものが多い。
/入館料 300円、TEL 0256-94-2001

●弥彦温泉と岩室温泉

名物のところてん、それにコンニャクが主な具のおでん屋などが並ぶ弥彦神社の鳥居の前、参道ともいえる通りに大小さまざまな温泉旅館が軒を連ねている。どういうわけか昔から鳥居に近いほど格が上とされてきたとか。

その鳥居に最も近い温泉旅館はいまは団体用の大きな宿だが、その斜め向かいには昔ながらの格式高い旅館 「冥加屋」 がある。
もともと本陣の置かれた宿でそれらしい風格がある。ただし、大正時代に弥彦神社の火災とともに旅館街も焼失。再建には御神材の残りを賜り、現在も柱や梁に当時の面影を残す。

一方、
岩室温泉は江戸時代からの湯の街で、徳川幕府から「温泉所」として認められていたところ。弥彦参りした後は“岩室で神落し”といわれ大勢の湯女と遊んだという。
現在も若い芸者さんの姿は多いそうだが、弥彦参り客もバブル崩壊後は半減。土曜温泉(週末以外は客足が少ない)となってしまったと、温泉街の人の話。

●分水町(良寛さまのふるさと)

信濃川とその分水、大河津分水路北に広がる分水町は水の利を得て、古くから近郷の中心都市として発展してきたが、現在は静かな農村風景が広がっている。
この町には、寺を持たず生涯托鉢僧として自由に自然の中に生きたひとりの禅僧、良寛のふるさととして知られたところ。
また、ここには昔むかしのお伽草子「大江の酒呑童子」のゆかりの寺もある。
良寛さまが住んだ「五合庵」や酒呑童子が少年時代を過ごしたといわれる「国上寺」などへの道は少し分かり難いので、JR越後線分水駅近くにある
「良寛史料館」へ行ってみよう。
ここで良寛さまの生涯について知識を得るとともに、町の地図を手にいれると良い。
/入館料 300円、TEL 0256-97-2428

●国上寺

弥彦山に続く国上山(くがみやま)は標高が低いが森は深い。
その中腹にある国上寺には駐車場から、徒歩で数分。樹木に囲まれた中にある寺は真言宗の古刹で、
酒呑童子絵巻が残されている。
住職が親子二代にわたって絵巻酒呑童子を現代訳の本に仕上げた。絵巻き物語を写真製版し、こどもたちにも読めるような文体で書かれたこの本(定価1,500円)は、住職から直接購入できる。
寺の裏木戸を過ぎると、古井戸がある。
「いまから1000年もの昔、美男子だった酒呑童子は、多くの娘たちから沢山の恋文をもらったが、その数が多かったため読むこともなく箱に詰めたままだった。或る日、片思いに焦がれた娘が自らの命を絶ったため、酒呑童子が恋文を詰めた箱を開けたとたん、煙りとともに美青年は醜い鬼の形相となり、大江山の鬼となった」という。この古井戸の水に鬼の顔になった我が身を映したとか。
国上山を下ったところに酒呑童子の生誕地があり、平成7年に建てられたという五重の塔がある。

●五合庵

国上寺から少し下った大樹の茂る中に6畳一間ほどの小さな茅葺きの庵がある。
国上寺の住職の隠居所であったこの庵に、良寛さまが文化1年(1804)47歳から10余年間、ひとりで過ごした。いまは涸れてしまったが、裏庭には湧き水の池があったという。
現在の庵は復元されたものだが、ひっそりと樹木の中に佇むさまには、
「柴の戸のふゆの夕の淋しさを浮き世の人にいかで語らむ」と詩を詠む姿が偲ばれる。

その他にも良寛さまの足跡の残るみどころは多い。分水町からもう少し南、出雲崎町は生誕地であり、4年間修行をしたという寺、
光照寺良寛記念館などがある。興味のある人は、ぜひ訪ねてほしい。
/良寛記念館入館料 400円、TEL0258-78-2370

●寺泊アメヤ横丁

寺泊町の国道402号線沿いに、地元の水産会社などの出店である大型鮮魚の店が並ぶ。各店の間口も大きいが奥行きも深い。
そこに日本海沿岸の港に水揚げされたばかりの鮮魚から魚介類の乾物から冷凍ものまで、ところ狭しと並べられており、威勢のよい掛け声が市場内に響く。
また、ここの名物は店頭で煙をもうもうと立てて魚を焼いて売っていること。香ばしい匂いとともに旬の魚の焼きたてを店先のベンチでほおばるのも旅の楽しさだ。
どこでも同じだが、買い物上手の秘訣は季節の魚を知って地物を選ぶこと。これから冬にかけての日本海はズワイガニの季節だ。

●夕日の日本海

来た道、越後七浦シーサイドラインを新潟市へと戻る。
短い秋の日は、トンネルを通過するたびに落ちていく。奇岩に砕ける白い波もいつしか赤味をおび、佐渡の島も紫色へと変わる。
角田浜海岸では、いま水平線に沈まんとする太陽に誘われて車を止める。瞬く間に落ちた日は、一瞬あたりを赤く染めて水平線の彼方へと消えた。そして闇は早足でやってきた。
このシーサイドラインを毎日のように利用している地元の人も、この日没の瞬間は思わず車を止めてしばし眺め入るという。間もなく訪れる雪国の長い冬を前に、この地に住む人々ばかりか、旅人にとっても秋の夕日は感傷的にさせるものなのかも知れない。




11 食の国、石川・福井の冬



福井、石川、富山3県は北陸三国と呼ばれ、冬は日本海の荒波とともに、その海で捕れるズワイガニをはじめ甘エビ、ブリ、ノドグロ(アカムツ)ホタルイカやハタハタ、ナマコにコノワタなど旨いものがいっぱい。
また美食家で知られる北大路魯山人が、加賀の山中町で生まれ山代で育った九谷焼や旬の素材を生かした加賀の懐石料理、さらに漆器の山中塗りに魅せられる。ここで魯山人の優れた味覚や「器は料理の衣」と洗練された加賀の食文化に傾倒していったところ。

金沢から加賀、山代、山中町を経て雪の永平寺を訪ねた。そして3月中旬まで漁を行うという冬の味覚の王様“越前ガニ”(ズワイガニ)の越前海岸を北へ、壮大な柱状の岩礁で有名な東尋坊まで、日本海の荒波を砕く奇岩風景を眺めながらのドライブだ。
寒さは少し厳しいが、幹線道路はいつも除雪されスタッドレスタイヤを履いたレンタカーなら雪の北陸路も安心してドライブができる。

 

 

 

 

 

 




<コース>
小松空港-金沢(泊)-(北陸自動車道)-加賀IC-(国道364号線)-山代温泉-山中温泉-永平寺-福井市-(国道365号線)-越前町-(国道305号線)-東尋坊-加賀IC-(北陸自動車道)-小松空港
行程 3泊4日



<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください> 

 

 


●小松空港から金沢

小松空港へ着いたのは北陸地方に豪雪があった3日後だった。金沢の冬の風物詩である樹木を守る縄がけの風景が見たいと思った。このところの暖冬で兼六園の雪景色はしばらく観ていなかったから、と予定を一日変更して金沢へ。

 


金沢・兼六園

小松空港からの距離は50km足らずの上、北陸自動車道を走ると、市内までもわずか1時間だ。
だが、残念ながら市内の道路は当然のことだが雪はなく、樹木に積もった雪も落ちていた。それでも豪雪のあとは公園や道路脇に残っていた。
兼六園周辺の雪見をし、さっそく北陸の冬の味覚をたっぷりと味わせてくれる町の繁華街、香林坊・片町へと足を運ぶ。

 

旬のものを美味しく食べるには、やはり少し値の張りそうな料亭風や割烹と書かれた店を選ぶことだろう。地方都市でその土地の食材料理を食べることは、高級料亭以外はひとり1万円は食べきれない。泊まりをホテルにすれば2食付き一泊2万円の宿の食事代より安い。さらに好きな時間に好きな物だけ食べられるというのが魅力だ。また、店探しも旅の楽しさである。もちろんホテルやタクシー運転手などに尋ねるのもいい。

 

やっと見つけた店は10人ほど座れるカウンターと2階にも2つの座敷があり、年輩の夫婦と娘に若い板前がいるだけの小さなところだった。
熱燗に付いてきた「お通し」はナマコと岩もずくの甘酢。旬の旨いものを頼むと寒ブリとヤリイカ、甘エビのさしみ盛り合わせからはじまった。だだみ(鱈の白子)の酢和え、寒ブリのかま焼き、ノドグロの塩焼きなど、どれも新鮮で旨い。

 


ブリ、甘エビ、イカは冬の北陸の味覚


寒ブリのカマ焼きは絶品


●加賀市

金沢より北陸自動車道で約70km、加賀藩といえば金沢市を中心とした百万石の城下町だ。加賀市はその分藩で大聖寺藩十万石の城下町であった。
加賀百万石、前田家の菩提寺やゆかりのある寺をはじめとした建造物や遺跡も多く残る。市の中心部には藩が集めた前田家菩提寺の「萩の寺」、浄土宗の「正覚寺」、日蓮寺の「宗蓮寺」など7寺1神社があり“山の下寺院群”と呼ばれている。

 


芭蕉と曽良の碑(加賀・全昌寺)

その中の法華宗の寺「本光寺」には『日本百名山』の著書で知られる深田久弥の墓がある。
7寺の内、もっとも有名なのは曹洞宗の寺「全昌寺」だ。松尾芭蕉が一夜の宿を求め、お礼に寺の庭を掃き清めたたときに詠んだ句

「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」

の句碑が立つ。
また江戸末期に作られた517体の五百羅漢がある。一体も欠けずに今日にある。

 

近くには「石川県九谷焼美術館」があり、九谷焼の歴史や時代の作者による作品が展示されている。
/入館料 500円、TEL 0761-72-7466

 

九谷焼は江戸前期の古九谷を江戸の後期、吉田屋伝右衛門という人が、私財を投げうってオリジナルデザインで再現復活させた。
“九谷焼”とは山中町の“九谷”で焼き始めたからだ。江戸後期には珍しく大胆な構図に細かさの対比、青手と赤絵で表現する作品を作った。吉田屋窯の青手四彩のうち特に緑に特徴がある。量産せず手間暇かけ、良質の一点ものの制作にこだわりを持つ。
現在もかなりのお値段はするが、種類は少ないが良心的なところは山代町にある町営「九谷焼窯跡展示館」だ。九谷の三大窯元である吉田屋、宮本屋、九谷本窯などの作品展示と即売がされている。
/入館料 310円、TEL 0761-77-0020

 


現存する最古の九谷焼の窯
(山代・九谷焼窯跡展示館)


いろりと展示場は民家を移築したもの

 


赤と青。九谷焼はきれいだ


山代温泉の九谷焼窯跡展示館には
手頃な価格の焼き物もある


●山代町


山代温泉の街路

加賀市街より国道8号線経由、国道364号線に入って間もなく山代町に着く。
加賀市内にある温泉町としても有名だが、書家であり美食家であり、「器は料理の衣」と焼き物もみずから手がけ、食文化を広めた北大路魯山人の出発点として名高いところだ。


○魯山人寓居

魯山人の恩人のひとりでもある細野甲三は漢学者で茶人、書や美術・骨董に造詣が深く、大正4年に細野家の食客となった魯山人(当時は福田大観といった)を山代の旦那衆(温泉旅館の主人や陶芸家、料理人など)に紹介。書家と刻字看板で生計をたてていた魯山人に、大きな転機を与えた。
当時、山代温泉の吉野屋旅館の主人の別邸で美術談義に華を咲かせ、茶会を楽しんでいたという。ここで魯山人は加賀料理と懐石料理、陶芸(九谷焼)、山中塗りの漆器に魅せられ、やがて独自の食文化を築く。
この吉野屋旅館の別邸は2002年4月に一般開放されたという。明治の山代の文化サロンと魯山人等の談笑が聞こえてくるような建物だ。
/入場料 500円 説明とお茶付き
  TEL 0761-77-7111


魯山人が使っていた机と火鉢

 

情緒ある古い温泉旅館も多く、魯山人がはじめて焼き物に絵付けをした初代陶芸家菁華窯は今もその店があり、魯山人の彫った刻字看板がかかげられている。


魯山人の彫った看板を掲げる店もあった


●山中町

北陸の温泉町山代とならんで湯量豊富で昔から有名な温泉地だ。山代町から僅か10km南、大日系の山々から流れる大聖寺川と動橋川に沿った集落。
この町には約400年前から伝わる繊細なろくろ挽きの技術が現在に受け継がれ「山中漆器」として、この町の工芸品として知られる。国道364号線沿いには「山中漆器伝統産業会館」がある。ここで山中塗りのことをいろいろ教えてくれる。
漆器本来の味わいを大切にするための木地は欅、栃、桜など日本産で漆塗りだが、安いものは外国産の木に化学塗料が使われている。“山中漆器まつり”が毎年5月には行われる。

 


山中塗り。さまざまな樹木から作られる


●永平寺

山中温泉から約20km、永平寺町のその奥、樹齢600年の杉の巨木に囲まれた幽谷に、寛元2年(1244)道元禅師によって創建された曹洞宗の大本山の永平寺がある。
約10万坪の広大な境内には七堂伽藍をはじめ70余りの殿堂楼閣が建つ。聖宝には国宝「普勧坐禅儀」や「正法眼蔵仏性第三」など貴重な文化財が展示されている。
急いで車を走らせたが、冬の時期は拝観は午後4時までということで、今回は内部を知ることができなかった。
しかし、雪景色の中の永平寺の荘厳な佇まいに寒さを忘れるほどの美しさだった。

 


永平寺は雪に閉ざされていた
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


永平寺


●福井市内へ

短い冬の日にせきたてられるように市の繁華街へ。ホテルは前日にインターネット予約、または当日車内から携帯で探す。
福井の冬の味覚は「越前がに」である。テレビで紹介されるような高級ホテルや料理屋というわけにはいかないが、本物が食べたいと地元の人に尋ねての情報探し。
そもそも「越前がに」とは福井県越前町から三国町までの海岸線に沿った深海(約400m)から揚がったズワイガニのことを指す、と地元の漁師の話。要するにブランド蟹というわけだ。

 

 
 

 

16北陸の歴史と味を訪ねて
~能登半島外浦編~



能登半島の西側にあたる外浦は、日本海がその本来の荒々しさをむき出しに見せる場所だ。そのため内浦とはまた違った断崖や奇岩など迫力ある景観が形作られている。

さらに、日本海の厳しい自然のもとで育った魚介は身が締まり味も良い。能登半島ドライブの後半は、新鮮な海の幸を味わい、力強い自然を感じる旅だ。




富山空港-(北陸自動車道)-富山市-(国道156号線)-砺波市-井波町-金沢市-(能登有料道路)-千里浜-(国道415号線)-氷見市-(国道160号線)-七尾市-和倉温泉-(国道249号線)-珠洲市-禄剛崎-輪島市-能登金剛-(能登有料道路)-金沢市
全行程約400km、2泊3日



<ルート付近のリンクポイントの地名をクリックしてみてください> 

 

 



●揚げ浜塩田

禄剛岬から西にまわり狼煙町から高屋町へかけて続く木の裏海岸は、海の透明度が高いことで知られるところ。
一帯は国定公園特別保護区に指定され、自然の遊歩道などで散策を楽しむことができる。
これより約10km西の
仁江海岸も国道249号線沿いに古い藁葺き屋根と昔ながらの塩田がある。ここに今でも、日本最古と言われる製塩法をかたくなに守り続けている方がいるという。
このあたりでは加賀藩三代藩主前田利常公が財源確保と農民救済のため塩造りを奨励した。当時は重要産業だった製塩業もいまではすっかり廃れてしまったが、ただひとり土地に伝わる砂取節の哀調とともに民宿を経営しながら製塩法を守っている。一袋200gで500円。塩でありながら甘味もあってうまい。ミネラルもいっぱいだ。
問い合わせ/民宿・揚げ浜塩田 TEL 0768-87-2857

●曽々木海岸

揚げ浜塩田からさらに西には岩礁がきれいな曽々木海岸がある。
冬には激しく吹き上げられた海水の泡が
「波の花」となって遊歩道にまであがってくることもある。
ここから少し内陸に入ったところには平家の落武者がやって来たという「下時国家」「上時国家」がある。
入り組んだ海岸線が多い能登半島だが、禄剛岬から輪島にかけては海沿いの快適なドライブが楽しめる。

●輪島

奥能登最大の観光地である輪島、中でもみどころは「朝市を見ないと輪島は語れない」といわせる朝市だ。
輪島の朝は早い、と聞いて、さっそく出かけてみた。(実際には朝市は7時~11時)
通称
朝市通りは海辺に近い河井町本町通り。海辺には大きな駐車場(無料)がある。通りにびっしりと並ぶ店は屋台から地面に一枚の布やゴザを敷いただけのものまで約200店ある。
海産物や干物、野菜、民芸品からおもちゃまで、また屋台では魚や貝、干物まで焼いて食べさせてくれるところもある。「なんかこうてくだぁ」という売り声の中、大勢の観光客が行き交う。
もともとは生活に根付いた朝市だったが、いまは観光客相手の店が多いと地元の人の話。
せっかくの朝市だったが、品物は周辺の町と比べるとやや高めのようだ。しかし、朝市の雰囲気や地元のオバサンたちが持ち寄る採りたての野菜、旬の魚をその場でさばいてくれるのを見るのは楽しい。

朝市の通りを少し入ったところに地元で有名な
朝めし屋 がある。朝市に合わせて早朝から店を開いているので営業時間は朝だけ。
カウンターだけのこじんまりした店だが、ひとりできりもりしているという女主人は、地元ではちょっと知られた人らしい。地元の客が「この店のオバサンと料理は有名だ」という。その日の朝、輪島に水揚げされた地物の魚以外使わない、と胸を張る。

この日の夕食は輪島駅前で客待ちしているタクシーの運転手にお薦めの店を紹介してもらった。駅から徒歩で約15分、タクシーでは3~4分の弥生町にある
季節料理屋 だ。

○輪島塗

輪島塗1000年の歴史を紹介する
「石川県立輪島塗芸美術館」は輪島市の西南、小加勢川沿いにある。日本で唯一の漆専門の美術館で、館内には人間国宝、芸術院会員をはじめ、古今の漆芸家による多くの作品が展示されている。
/入館料 600円、TEL 0768-22-9788

また、若い漆塗り作家の作品の展示されている
「うるし工芸作品館」が朝市通りからほど近い海岸通りにある。日本が世界に誇る伝統美術工芸品だ。
/入館料無料、TEL 0768-22-0859

●能登金剛

山が海まで突き出した海岸線が続く能登金剛は断崖絶壁、奇岩や洞窟の宝庫。自然の力強く美しい造形美が堪能できる。
この迫力ある海岸線は季節やその日の天候によってその姿を一変させる。風のなくよく晴れた日は穏やかに、悪天候の日には荒々しく岩に砕け散る白波も魅力的だ。とくに厳しい冬は怒涛となって岩を噛み、砕けた波は白い泡となって天に舞う。

岩を見る名所がいくつかあるが、とりわけ国道249号線を生神から県道36号線沿いの巌門が有名だ。幅6m、高さ15m、奥行き60mの「巌門洞窟」。駐車場から徒歩5分くらい。
この巌門や高さ27mの鷹の巣岩、千畳敷岩などを観る遊覧船も出ている。
/所要時間約20分、料金 800円

輪島から能登金剛の間、県道沿いの海辺の村、大沢では潮風、とくに厳しい冬の冷たい風や吹きつける雪を防ぐため、家々は「間垣」(写真)と呼ばれる葦簾で囲われていた。珍しい集落の佇まいといえよう。

また、門前町には曹洞宗大本山
「総持寺祖院」がある。いまから約700年前(1321)開祖されてたいう古刹の境内には総ケヤキ造りの法堂や座禅修行を行う僧堂などがある。
総持寺の奥の裏山には湧く霊水と伝えられる清水「古和秀水」がある。お茶会や仏前の献茶として使われ、地元の人も広く愛用されている。

 」




 

15 北陸の歴史と味を訪ねて
~能登半島内浦編~



能登半島は内浦と呼ばれる富山湾側と外浦と呼ばれる日本海側とは全く様相が異なる。
内浦の中でも、ことに能登島に守られた七尾湾は湖のように静かで日本海の荒波とは無縁に思える。しかし、半島先端の禄剛崎(珠洲岬)を東から西に回り込むと、豪快な荒磯や奇岩、断崖絶壁が続き、冬の厳しさを思わせる。吹き付ける雪混じりの潮風を防ぐため、間垣(よしず)を張り巡らせた村や、急峻な岸壁を削った曲がりくねった細い道の遥か下に小さな船着き場や集落があったりする。

能登有料道路ができて、北陸自動車道から穴水町方面へは簡単に行くことができるようになったが、やはり能登は昔ながらの海岸線に沿って辿りたい。
古い民家や小さな漁村、人の姿も稀な海岸に岩だなで足を浸し、漁師宿で採れたての魚介に舌鼓を打つ。晩夏から初秋にかけての奥能登をのんびりドライブしてみよう。




富山空港-(北陸自動車道)-富山市-(国道156号線)-砺波市-井波町-金沢市-(能登有料道路)-千里浜-(国道415号線)-氷見市-(国道160号線)-七尾市-和倉温泉-(国道249号線)-珠洲市-禄剛崎-輪島市-能登金剛-(能登有料道路)-金沢市
全行程約400km、2泊3日



<ルート付近のリンクポイントの地名をクリックしてみてください> 

 

 



●金沢から能登へ

北陸自動車道からは金沢東ICを出て国道8号線バイパスを経て
能登有料道路へと入る。
この有料道路には5ヶ所の料金所がある。終点の穴水まで行く場合は、全線通行券(料金1,180円)を購入する方が手間が省けるが、今回は千里浜まで約20km(料金所は3ヶ所、料金650円)を利用した。
この有料道路の今浜から千里浜の間、約5.5kmは
"千里浜なぎさドライブウェイ"といわれ、広い砂浜の続くドライブウェイだ。
時間のある人は有料道路を出てマリンスポーツを楽しむのもいいだろう。
千里浜ICを出て国道415号線を氷見市へと走る。富山や金沢から奥能登を結ぶこの国道は幹線道路とあってトラックなどの大型車が多い。約22kmで氷見市だ。
氷見市は富山随一の漁港。定置網発祥の地ともいわれ、この港で水揚げされる魚は鮮度一と漁師は胸を張っていう。
湾の彼方には立山連峰の雄々しい姿が望める。また氷見には縄文時代の遺跡もあり、市立博物館には古代から現代までの人々の生活や文化の資料が展示されている。
/氷見市立博物館入館料 100円、TEL 0766-74-8231

●大境洞窟住居跡

氷見市から国道160号線を辿る。富山湾を望む快適なドライブウェイだ。交通量も少ない。
氷見市から6kmほど走ったところで「大境洞窟」の標識を見る。海水浴場の脇を通り抜けると、神社とその奥に大きな洞窟が口を開いているのが見える。高さ8m、幅16mという。
洞窟からは、大正7年(1918)神社改装にともない土砂をとり除いた際に地中から人骨、土器、石器などが発見された。
この洞窟は日本で最初に発掘調査されたところであり、また落盤によってできた遺物を含む6つの地層が、時代順に区別されたことで貴重なもの。とくに縄文と弥生がどちらが古いかを実証した洞窟である。国の指定遺跡。

●七尾市へ

氷見から七尾市を通って和倉温泉への富山湾沿いの国道160号線は風光明媚な海辺の道だ。
交通量も少なく穏やかな海岸に点在する漁村。ファーストフード店やドライブインはほとんどないが、釣り宿や旅行者のための民宿、鮮魚が自慢の食堂をときどき目にする。
そんなのどかな街道を約30kmほどドライブすると
七尾市内へ入る。
七尾市にある
七尾城は、室町時代に守護大名として能登を統治した畠山氏によって築城、戦国時代上杉謙信によって落城した。七尾城資料館があり、城跡から発掘した陶磁器や武具などが展示されている。
/入館料 450円、TEL 0767-53-4215

●和倉温泉

能登最大の温泉地。いまから1200年もの昔、沖合いの海上で白鷺が傷を癒す姿を見て発見されたと伝えられている。
その海上に湧いた湯を明治13年に海中を埋め立てて陸続きとしたのがいまの和倉温泉だ。
七尾湾に面した温泉街には豪華な旅館が建ち並ぶ。一泊8万円もする高級旅館から1万円弱の民宿まで約40軒の宿がある。
源泉は94度と沸騰点に近い高温で、湯は海水同様かなりきつい塩味だ。飲用もでき胃腸に効果があるが、飲用の場合は2倍に薄めるとか。そのほか効用は神経痛、貧血など。
能登島を望む景勝地で全国の温泉ファンの憧れでもあるという。

●能登島へ

七尾湾に浮かぶ能登島は和倉温泉から行く能登島大橋の完成とともに、水族館をはじめゴルフ場やキャンプ場、美術館などが整備され、島全体が観光地化された。
七尾湾を見下ろす
「石川県能登ガラス美術館」は立ち寄ってみる価値がある。トンネル状になった展示室にはピカソ、シャガール、ミロがデザインし、イタリアのガラス工房で製作された現代美術品などがある。
また、北寄りにある長浦とを結ぶ
ツインブリッジがある。この全長230mのツインブリッジの開通は平成11年3月。地域の農産物出荷を目的に造られたものだが、スリムで美しいデザインと橋から眺める和倉温泉や七尾湾のパノラマが人気を呼び、いまではドライブ向きの観光スポットとなっている。

●明治の館

豪農の室木家は古くからこの一帯の百姓代や組頭を務め、幕末期には庄屋となり、江戸から明治にかけて回船、酒造業を手がけた大地主だった。
現在の建物は明治12年から10年の歳月をかけて建てられたもの。豪壮な合掌組入母屋造りの茅葺き屋根、柱や梁の太さや名工の手による美しさに目を見張るばかり。百年余りの歳月を経たとは思えない塗りや用材の立派さに驚かされる。お座敷はお茶会に利用することができる。
/入館料 300円、TEL 0767-66-0157

●七尾から穴水

ツインブリッジを渡り、国道249号線のジャンクションになかじま峠茶屋がある。
国道沿いにはドライブインなどほとんどないのでこの茶屋で一休み。食堂のメニューは日本そばとラーメンだけだったが、その素朴さも能登らしい。
七尾北湾の入り組んだ海岸線の風景を楽しみながらのドライブが続く。
北陸一帯の民家は新築されたものでも多くは白壁や木材板張りそれに黒瓦屋根の日本古来の建築だ。入り江ごとにある日本家屋の集落を見るとき、能登には特別な観光地は少ないが、こうした漁村や農村の日本の風景に心がなごむ。この景色こそ能登の最大の魅力なのではないかと思う。

七尾北湾の北側に位置する
穴水町は、千里浜で降りた能登有料道路の終点でもある。この先川尻でいったん海岸沿いを離れて内陸に入るルートをとり、能都町で再び海岸線に出る。

●内浦町から珠洲市へ

能都町宇出津で国道249号線と分かれ、海岸線を辿る。
岩礁が広がる“千畳敷き”やリアス式海岸独特の美しい入り江、それに最も大きく入り組んだ九十九湾と水のきれいな恋路海岸、軍艦そっくりの姿をした見附島(軍艦島)などがこの海岸線のみどころだ。

九十九湾には
海中公園があり、遊覧船のガラス張りの船底から魚たちの泳ぐ姿を観察することができる。
この九十九湾から約10km北にある
恋路海岸は白い砂浜に奇岩の連なりを望む景勝地。その昔、2人の仲を嫉妬する男に騙されて溺れ死んだ恋人のあとを追って女が身を投げたという悲恋伝説の残る海岸だ。最近この伝説にあやかって“ラブロード”と名付けられ、恋人のモニュメントが設置されている。
問い合わせ/内浦町企画観光課 TEL 0768-72-1111

●松波松岡寺

恋路海岸の手前、国道249号線のバイパスへは入らず、松波市街を通る道筋で山の手に大きな寺の屋根が見えた。
小さな町の大きな寺、ガイドブックや案内書にはないのが不思議な気持ちで訪ねてみた。大きな本堂には人影もなく荒れてはいたが現在も住職や宗徒たちに守られているという。

宝徳3年(1451)本願寺第八代蓮如上人によって加州能美郡波佐谷(現在の小松市)に建てられたのがはじまり。
後に加賀藩主、前田利家より寺地を受けて堂宇を建て、元和元年(1615)この地に移り松波松岡寺として開いた。
明治13年(1880)本堂が焼失、現本堂は越中(富山)井波の工匠によって12年の歳月をかけて明治25年(1892)再建されたもの。
しかし、鐘楼堂は焼失を免れ、開祖当時のままの姿を残している。これだけでも大変貴重なものだが、この寺には木造の
聖徳太子立像が本堂の厨子の中に納められていた。ごく最近「重要文化財」に指定されたもので、御尊顔にあずかり大感激。訪れる人も少なく拝観料もない能登の海辺の大きな寺で、思いがけなく出会った喜びはひとしおだった。

●禄剛崎(ろっこうざき)

能登半島の最先端、内浦と外浦の境界にあたる。ここから日本海を一望すると、見渡すかぎり広い海に感激。ここでは海上に昇る朝日と海中に沈む夕日が同じ場所で見られるのだ。
日本海を隔てた先を示す“釜山783km・ウラジオストク772km”というユニークな標識も立つ。先端に立つ白い灯台は明治16年、イギリス人技師によって造られたもの。
駐車場から徒歩6~7分のところにあり、一帯が公園になっている。晴れた日には立山連峰や佐渡ヶ島も見える。

 



 

14 北陸の歴史と味を訪ねて
富山・金沢編



立秋が過ぎお盆休みも終わると、観光地も賑わいの中にどこか秋の気配がまじってくる。紅葉を迎える前のこの時期こそ、人は本来の旅人になれる。

加賀百万石の城下町金沢は、優雅な文化と奥深い伝統の町。この土地の代表ともいえる兼六園をはじめ、加賀藩ゆかりの文化史跡が集まるところ。武家屋敷や茶屋街など情緒ある町並みは、北陸の観光名所だ。
そして、これより北へ向かえば能登半島。加賀の殿様の治めた土地には北前船の寄港地として栄えた港や寺社などみどころも多い。岩礁に砕ける白波、御陣乗太鼓にキリコ祭り、ダイナミックな自然と人。北陸能登半島は実に魅力的だ。
また、日本海の海の幸。有名な輪島の朝市に代表されるように、新鮮な魚介類のうまさは格別だ。
ぜひお薦めしたいドライブコースの一つである。

今回は、「富山・金沢編」(本編)、
「能登半島内浦編」「能登半島外浦編」に分けてご紹介します。



富山空港-(北陸自動車道)-富山市-(国道156号線)-砺波市-井波町-金沢市
-(能登有料道路)-千里浜-(国道415号線)-氷見市-(国道160号線)-七尾市-和倉温泉-(国道249号線)-珠洲市-禄剛崎-輪島市-(能登有料道路)-金沢市
全行程約400km、2泊3日



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[富山]

●富山市から

富山空港や北陸自動車道富山ICのある富山市は、北陸地方の玄関口として、また立山黒部アルペンルート出発点として多くの人々で賑わう。
一方、能登半島への玄関口でもある石川県金沢市は、歴史ある城下町として観光客に親しまれている。
この二つの都市を結ぶ距離は約50km。北陸自動車道で一気に走ればわずか30分だ。しかし、今回は
砺波ICから彫刻の町井波へ寄り道をしながらのドライブとした。

○富山で食べる

富山市のガイドブックを開くと、グルメどころの紹介が多いことに気づく。富山市随一の繁華街
総曲輪通り(昔、富山城の外濠があったところ)と、老舗や有名店が集まる西町がその中心。デパートやブティック、飲食店などが建ち並ぶ。
とくに西町から一歩入った桜木町は、割烹や居酒屋、スナックなどの並ぶナイトスポット。たいていは居酒屋でも近郊の海で採れた新鮮な魚介類を食べさせてくれるが、割烹ならなお結構に違いない。しかし、そうなると値もはることだろう。
そこで割烹でありながら料金も手ごろで、富山湾からその日に水揚げされたばかりの魚介を扱うという
お店 を探してみた。

また、富山名物といえば「鱒ずし」。これはどこで食べても旨い。

●砺波から彫刻の町井波へ

庄川沿いの平野に広がる庄川町は、春は色鮮やかに咲き誇るチューリップ畑が有名だ。毎年5月の連休前後になると、「となみチューリップフェア」が開催される。問い合わせは砺波市商工観光課へ。
その庄川町の隣り、
井波町600余年の歴史を持つ名刹瑞泉寺の門前町として伽藍彫刻が盛んなところ。現在約300人がその伝統を受け継いでいる。
石畳の八日町通りは匠たちのノミの音と楠やケヤキの香りが漂う情緒ある通りで、日本の風景百選にも選ばれた。ノミを振るう多くは若者だ。
伝統の伽藍彫刻を伝承する若者たちは、師匠のもと、昔ながらの徒弟制度で腕を磨いているという。その作品も昔と変わらない神社仏閣。御輿から欄間と、一枚の板に龍や鷹、松竹梅を掘り刻む。現代の"左甚五郎"たちの仕事ぶりを見られるのも、この町の楽しさだ。

●瑞泉寺

北陸の歴史の中で重要な位置を占めるこの寺は、明徳元年(1390)、本願寺5代目法主が建立し、北陸の浄土真宗の拠点とした。
京都の大工棟梁が建てたという、総ケヤキ造りの重層伽藍入り母屋造りの山門に出会う。山門正面に彫られた龍
「雲水一匹龍」は、見るものを圧倒する。
また、北陸最大の木造建築の本堂、さらに井波彫刻の粋を集めたという太子堂、宝物殿には国の重要文化財及び県の重要文化財などが多く納められている。
かつては「越中の府」とも言われ瑞泉寺とともに栄えた井波も、いまは訪れる人も少なく、境内ではセミの声ばかりが響いていた。

[金沢]

井波から金沢までは国道304号線で約20km。
金沢といえば兼六園、金沢城祉、忍者寺、茶屋町と加賀百万石の華やかな歴史と文化の町。みどころ食べどころがいっぱいだ。ゆっくり観てまわるには、この町だけでも一泊したいところだ。ここでは、主なところだけを紹介しよう。

●兼六園

 

 

金沢のシンボル兼六園は、延宝4年(1676)、加賀藩5代藩主前田綱紀が城の外庭としてここに蓮池御亭を建てたのがはじまり。完成までには160年の歳月を要し、13代斎秦の時代に現在の庭園としての姿になった。林泉回遊式庭園で、琴柱の形をした灯籠、霞ヶ池、雁行橋、それに茶室夕顔亭と、優雅な純日本庭園である。
兼六園の名は「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の六勝を兼ね備えていることから命名された。

霞ヶ池や瓢池、燈籠、曲水など水辺の佇まいの美しさはもちろんのこと、春は梅や桜、初夏はつつじ、かきつばた、秋は紅葉、そして冬は雪吊り、と四季を通して様々に色彩を変え、心和む風景が見事に演出されている。
また、霞ヶ池を水源にする
噴水(写真上右)は自然水圧を利用し、池の水位の変化によって水の高さがかわる。通常は3.5m。文久元年(1861)に造られた日本最古の噴水である。
園内には茶室夕顔亭の他、休息所として
"時雨亭"が今年3月にオープンした。もとは安永2年(1773)の大火の後に別荘として建てられたものだが、明治に入って取り壊されたものを再現した。内部は開放されており、お菓子つきで抹茶が楽しめる。
/入園料 300円(時雨亭 700円)
問い合わせ/金沢市観光課 TEL 0762-20-2194

●金沢城跡

400年前、前田利家によって築城された金沢城は、度重なる火災によって焼失し、現在残っているのは石川門と石垣、三十間長屋のみ。
兼六園と道路をはさんで石川門へ通じる橋は、明治時代のものを平成7年に復元したもの。
周辺の景観も修復され、城内は二の丸御殿を含め城の修繕が進められているため、現在は工事中だが、加賀百万石のかつての栄華を味わいながら鬱蒼とした樹木の茂る城内をゆっくり歩くのもよし。石川門付近を除けば、観光客の姿も少ない。夜、石川門はライトアップされる。
問い合わせ/石川県公園緑地課 TEL 0762-32-3113

●妙立寺

兼六園から犀川をはさんだ寺町周辺にはその名の通り70以上の寺院が集まる。仏像や工芸品など歴史的文化遺産が数多く、のんびりと散策するのにうってつけだ。金沢出身の文豪室生犀星ゆかりの地でもある妙立寺に立ち寄ってみた。
別名
"忍者寺"と呼ばれるこの寺は、三代藩主前田利常が寛永20年(1643)に金沢城近辺から移築建立した日蓮宗の古刹。外見は2階建てだが、中部は7層4階からなっている。23の部屋と29の階段が仕組まれ、いたるところにカラクリがある。落し穴階段・仕掛け賽銭箱・城への逃げ道といわれる大井戸などがある。
だが、実際には忍者の寺として建てられたものではなく、幕府の隠密や外敵の目をあざむくために装備されたもの。火災にも遭わず、頑強な建物は今日に残っている。
要予約で30分ごと十数人のグループで案内人がつく。
/入館料 700円、TEL 0762-41-0888

●茶屋町

かつて、遊郭街は城と兼六園をはさんで3ヶ所あったが、現在は東と西の2ヶ所にその名残りがある。
西の寺町にある茶屋街は最近復元されたため建物の新しさが目立つが、卯辰山麓を流れる浅野川の川岸に残る東の茶屋街は昔ながらの紅殻格子の軒を連ね、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような佇まいを見せている。夕暮れ時には、いまでも茶屋から三味線や太鼓の音が流れ、昔の雰囲気が漂う。
中でも市の指定文化財となっている
"志摩"は一般公開され、以前の茶屋遊びの雰囲気を知ることができる。
資料館となっている
"懐華樓"は、朱塗りの階段、草木染めの畳など、当時のあでやかな茶屋文化を再現している。
その他、かつての茶屋の多くはその佇まいを残し、土産物屋や喫茶店を営んでいる。五木寛之著「朱鷺の墓」の舞台になったことでも知られているこの町は、これから秋にかけて若い女性の観光客で賑わうとか。

○金沢旨いもの

食べる・遊ぶ・買う、と金沢きっての繁華街は、香林坊・片町。とくに食に関しては、居酒屋、割烹料理店、洋食レストラン、焼き肉屋、中華料理店、赤ちょうちん、一杯飲み屋と、食いしん坊にはたまらない町だ。
この香林坊の町中に宿をとった筆者は、数ある旨いもの屋の中でもさらに旨いものを見つけようと夜の町へ出た。
旅先で旨いものを探すコツは、まずホテルのフロントに尋ねる。次に自分の足で歩き、地物を食べさせる店を見つけたら開けてみる。地元客らしい人が沢山入っていれば、旨い店だ。
こうして見つけた店の中から、魚介類を扱い値段もリーズナブルな店
「いたる」 と、少し値ははるが能登牛ステーキの旨い店 「山下屋」 を紹介しよう。

金沢はみどころと食にはこと欠かない。これから秋にかけては北陸の観光シーズン。心ゆくまで旅をたのしんで欲しいものである。



 

13 秋の新潟日本海2



日本海パークラインから酒田市へ

「海は荒海、向こうは佐渡よ」と詠われた新潟から山形へ北上する日本海沿いは、冬を除いて穏やかな日も多い。松林や岩礁、奇岩の続くシーサイドを佐渡や粟島の島影を眺めながらのドライブは実に快適。
とくにこれからの季節は観光客も少ない。また工場やドライブイン、色とりどりの看板のひしめく太平洋岸に比べ、自然の多く残る長い海岸線をのんびり辿るのもいいものだ。
途中には芭蕉や親鸞上人の足跡、由緒ある古刹、城下町村上に残る武家屋敷などみどころもいっぱいある。
また、いくつもの小さな港では近海で捕れる魚の水揚げ風景が見られたりと変化に富んだコースでもある。

 

 

 

 

 




新潟市-(国道113号線)-乙宝寺-村上市-笹川流れ-山北町
全行程約90km、1日



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●国道113号線と乙宝寺(おっぽうじ)

新潟市から約40km、乙宝寺への道は海辺沿いの通称“夕日ライン”、国道113号線を走る。
20kmほど過ぎると道は見事な松林の中へと続く。昔の街道の多くはこんな風景ではなかったか、と思える道だ。
その名も“下越の松林”といわれるあたり、荒川より数km手前に乙宝寺への標識があり、それに従って右折。約4kmで鬱蒼とした老杉や松などの林の中にこの寺があった。
門前には、湧き水の池に鯉やスッポンが泳ぐ。
創建は、天平8年(736)聖武天皇の勅願により開山されたという。「古今物語」「古今著聞集」などにこの寺にまつわることが記されている古い寺である。

本堂に向かって右に立つ三重の塔は、国の重要文化財でもある。そのほか朱塗りの門に立つ仁王尊は金堂の古材を使用した1745年行基菩薩の作とされている。
ガイドブックなどではあまり紹介されていないが、一見の価値のある古刹である。境内に湧く水は弘法大師お授けの清水といわれている。胎内川の伏流水が自噴したもので、上質の自然水。お茶や健康薬用として用いられている。

門前には2軒の旅館とわずかな土産物屋があり、いまはこうして寂れているが、昔は各地からの参拝者で賑わっていたとか。

●瀬波温泉

国道113号線は荒川を渡ると同じ海岸を走りながら国道345と番号を変える。約20kmで村上市に入る。
その少し手前、岩礁と砂浜の風光明媚な海岸線にある温泉は湯量が多いのが自慢の
“瀬波温泉”だ。
ホテルや旅館の多くは海の見える露天風呂を設けているが、露天でなくても展望風呂と銘打って海を望めるところもある。
湯量の豊富さと夕日の海が見えることで人気がある。
日帰り用の露天風呂の温泉施設もある。ただし、ここは周囲が緑に囲まれ海は見えない。食事処などもあるので、ゆっくり温泉が楽しめる。
/入浴料 840円、TEL 0254-52-5251

●城下町・村上

三面川が海に注ぐ流域に広がる村上市は、その歴史も古く、とくに約千年もの昔から三面川の鮭漁は国家への大きな貢納物とされ、密漁は罪科に処されるほどであった。
後に秩父行長が鎌倉将軍(北条)の地頭として移り住み、文書に村上として地名が出てきたのは16世紀中ごろ。
やがて豊臣秀吉の命を受けて村上頼勝が加賀小松からここに移り、城下町として発展した。しかし、元和4年(1618)村上氏の家中騒動のため城は没収された。その後、姫路より城主を迎え、村上は15万石と越後きっての雄藩となる。
元禄2年(1689)俳人芭蕉が「奥の細道」行の途中、村上の久左衛門方に二泊した。現在その家のあったところは民家となっており往時の面影もないが、この町には重要文化財の若林家をはじめ、いくつかの武家屋敷が残る。

●若林家住宅

JR村上駅前から車で5分くらい、山を背に昔の町並みがある。かつての中級武士の住まいだ。
茅葺き屋根の曲がり屋造りで美しい庭がある。階級によって決められた部屋の多くは公のもので家族の生活するスペースはわずか。当時この地方の中級武士では人は雇えなかったという、案外こじんまりとした建物だが、江戸時代の武士の暮らしの一面が分かる。
/料金資料館と共通で 500円、TEL 0254-52-7840

●村上市郷土資料館

若林家に隣接するこの建物は、吹き抜けの広い展示スペースがあって、村上大祭(毎年7月6日~8日の3日間)に19台もの“オシャギリ”と呼ばれる山車が出る内、常時4台が展示されている。
村上は中国から伝わった堆朱といわれる漆塗りが盛んだ。山車はそれぞれの町内で歌舞伎や獅子などのデザインをあしらった絵や彫刻などを漆で色付けられて装飾されている。華やかで重厚な山車はさすが伝統の町、村上の堆朱工芸の粋を凝らしたものといえる。
また、現皇太子妃雅子さまの祖父の実家がこの村上であったという証の文書から系図や戸籍謄本の写しも展示されている。
TEL 0254-52-1347

●イヨボヤ会館

村上に注ぐ三面川、その上流の朝日村にダムが完成したのはつい先日(2000年10月)のこと。
縄文時代の遺跡がダムの底に沈んだことで新聞やテレビを賑わせていたので多くの人も記憶に新しいと思う。
その三面川は、先に述べた通り、千年も前から鮭漁が行われていたところ。
そして江戸時代から鮭の養殖に取り組んでいたことなど、村上と鮭との切り離せない歴史をここで知ることができる。また鮭の生態も解説されている。イヨボヤとはこの地方で鮭のことをいう。普通、鮭漁といえば北海道を連想するが、それは時代がずっと下がってのこと。村上の鮭の歴史は長い。
/入館料 600円、TEL 0254-52-1347

○鮭の酒びたし

鮭をひと冬乾燥させたものを北海道では“とば”というが、ここ新潟村上では “酒びたし” という。
もちろんその製法も気象条件も違うが、その違いを知らない者には似た保存食のようにも思う。
ただ、“とば”は粗削りで素朴だが、ここでは長い歴史のためか繊細であり、製造の長い物語さえ感じる。
塩漬けした鮭を全開きはせず、腹の部分を少し残す裂き方をする。村上は武士の町、腹切りはしない、ということで腹の一部を残すのだと地元の人に聞いた。
乾燥した鮭は酒だけ、あるいは味醂を加えたものに浸せば酒の肴には最高の珍味とか。

●笹川流れ

村上市から北へ約11kmの海岸線を“笹川流れ”といい、日本屈指の名勝だ。地元では美しい海の代名詞と自慢する。
“笹川流れ”とは、コバルトブルーの海に浮かぶ沢山の岩の間を盛り上がるように流れる潮流で、この景勝地の中心にあたる笹川集落の地名にちなんで名付けられたもの。
橋を渡り、いくつものトンネルを抜けて走るドライブの途中でこの絶景を眺めるため、いくつものパーキング場が設けられている。これらを利用しながらゆっくり走りたい。
めがね岩、びょうぶ岩、恐竜岩などと名の付いた岩礁や奇岩地帯を過ぎると、夏は海水浴客で賑わうが、いまは静かな砂浜だ。
できれば夕日を迎える時間に来られるようスケジュールを立てたい。
このあたりはまた、海の幸はもちろんのこと、多くの川が流れ込んでいるためイワナやヤマメ、山菜と川や山の幸も豊富だ。

●山北町

すっかり日も短くなった秋、なにも見えなかった水平線の彼方から港に戻る漁船が姿を見せた。彼らが帰る山北の港に、こちらもまるで誘われるようにハンドルを切って寄り道だ。
沿岸での漁だという船の乗組員はたった一人か二人。これから冬にかけて、あんこうやいなだ、たこなど数種類の魚を水揚げする。
岸壁には奥さんたちが待ち構えていて、魚でいっぱいになったリヤカーをひく。手際よい仕分けをすると、その場で仲買屋によってせり落され、そのまま冷凍車に。この間わずか2時間。
この港町には、水揚げされたばかりの魚を食べさせてくれる店はないという。「
酒田の料理屋 で」と漁師がいった。とれたての魚は都市へと運ばれていく。これは日本の多くの漁師町の姿である。

思いっきり海岸線のドライブを楽しむ旅はまだまだ続く。ここから山形県酒田市まで100km近い。


 

12 秋の新潟日本海1



秋から冬にかけての日本海沿岸の魅力はなんといっても魚介類がもっとも美味しくなる季節ということ。また、新潟といえば魚沼産に代表される最上級の米どころだ。
こうした秋の味覚もさることながら、新潟は小学校の教科書にもあった良寛さまのふるさとでもある。
日本海沿岸を走る国道や県道沿いには弧を描いて広がる砂浜や奇岩を彩る松、弥彦山など、魅力あふれるドライブコースである。

 

 

 

 

 




新潟市-(国道402号線)-寺泊-分水町-弥彦神社-室岩-新潟市
全行程約100km、1泊2日



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●良寛のふるさと分水町へ

越後出雲崎に生まれた江戸時代の歌人であり書家であった
良寛は、生涯寺を持たず托鉢で生活し、万葉を愛し、こどものように純真で自由な詩を詠んだ。
晩年は分水町の国上寺内の庵で自然を愛し、こどもたちと過ごしたという。知っているようで知らない良寛さまの足跡を訊ねてみた。
また、
寺泊の魚市場、越後の人々の信仰を集めた「弥彦神社」とみどころも多い。

●国道402号線シーサイド

新潟市街を海に向かって走ると、国道402号線へ出る。
港近くにあるアクアミュージアム
「マリンピア日本海」の看板に誘われて立ち寄ってみるのも良い。頭上をブリやタイ、ウミガメなどが泳ぐマリントンネル、イルカのショーなどが楽しめる。
また、隣接する公園には北原白秋詩「海は荒海、向こうは佐渡よ」の童謡の碑がある。
/マリンピア日本海入園料 1,500円、TEL 025-222-7500

砂防林の松林が続くシーサイドラインにはところどころに駐車場が設けられ、日本海に沈む夕日を見るポイントが多くある。

●越後七浦シーサイドライン

新潟市内より約30kmほど南、巻町の角田浜あたりから寺泊野積までは「越後七浦シーサイドライン」といわれ、立岩などの奇岩があり日本海の美しい海岸線が続く。
トンネルも多いが、ビューポイントにはパーキングエリアもいくつかあり、佐渡ヶ島を眺めながらの快適なドライブが楽しめる。
とくに水平線に沈む夕暮れどき、赤い空に黒ずむ佐渡の島影を見るのは最高だ。

●弥彦山スカイライン

岩室町間瀬の信号を左折、道は弥彦山を目指して上る。このスカイラインは通称「だいろ」ともいう。
「だいろ」とは新潟の言葉でかたつむり。そのかたつむりの殻のように大きく曲がったカーブが少しの間続く。
急なカーブを曲がるごとに日本海が広がり、佐渡ヶ島が大きく見えてくる。変化に富んだ道だが、片道一車線の狭い道に大型観光バスも通るので注意しよう。また、降雪の時期には閉鎖される。

●弥彦山

スカイラインを上りきったところ一帯は「山上公園」だ。ミニ遊園地、展望台、展望レストラン、パノラマタワーなどがある。
駐車場から展望台へは徒歩で約30分。または急な斜面を一分ほどで上る傾斜式観光エレベーター
「クライミングカー」(片道料金180円)で行く。あるいは弥彦神社からロープウェイを利用する。(弥彦神社からは徒歩1時間)
この他、360度の展望を楽しむなら100mの回転展望台
パノラマパワー(料金600円)がある。展望台からは大海原と佐渡ヶ島を望める。
展望台より弥彦神社奥の院へは徒歩約10分。奥の院境内からの展望はすばらしく、米どころの広い越後平野、豊かな水量の信濃川、遠く越後の山々が見渡せる。ただ、残念なことに奥の院を取り巻くように乱立するテレビや通信器等の大きなアンテナが気になる。

●弥彦神社

遠く古代から神の宿る山として信仰されてきた弥彦山。
また、農業や漁業、製塩などといった生活の技をもたらしたといわれる弥彦神社。
越後の人にとっては生涯一度は参拝したいと願う神社といわれている。お祭りの多い社でもあることでも知られている。いわば越後地方の氏神様である。
6月には茅の輪くぐり、7月は燈篭祭り、そして11月1日から24日までは全国にも知られた
菊祭りがある。この菊祭りが終わると紅葉した山に雪が舞う。
まだ紅葉には少し早いが、深い樹木の奥に鎮座する社には参拝客の姿が絶えない。

○弥彦神社宝物殿

弥彦神社境内にある宝物殿は、徳川家康の6男越後国高田城主となった松平忠輝が奉納した青磁香炉(重要美術品)をはじめ、重要文化財の志田大太刀が必見だ。
応永22年(1415)現在の寺泊の豪族・志田三郎定重が、時の備前国長船の刀匠に打たせ、弥彦神社に奉納したもので、のち慶長15年(1610)時の二代将軍徳川秀忠の上覧に供したともいわれる大太刀だ。刃渡り220.4cmもある。
その他、同じく重要文化財である大鉄鉢など、展示品は少ないが価値あるものが多い。
/入館料 300円、TEL 0256-94-2001

●弥彦温泉と岩室温泉

名物のところてん、それにコンニャクが主な具のおでん屋などが並ぶ弥彦神社の鳥居の前、参道ともいえる通りに大小さまざまな温泉旅館が軒を連ねている。どういうわけか昔から鳥居に近いほど格が上とされてきたとか。

その鳥居に最も近い温泉旅館はいまは団体用の大きな宿だが、その斜め向かいには昔ながらの格式高い旅館 「冥加屋」 がある。
もともと本陣の置かれた宿でそれらしい風格がある。ただし、大正時代に弥彦神社の火災とともに旅館街も焼失。再建には御神材の残りを賜り、現在も柱や梁に当時の面影を残す。

一方、
岩室温泉は江戸時代からの湯の街で、徳川幕府から「温泉所」として認められていたところ。弥彦参りした後は“岩室で神落し”といわれ大勢の湯女と遊んだという。
現在も若い芸者さんの姿は多いそうだが、弥彦参り客もバブル崩壊後は半減。土曜温泉(週末以外は客足が少ない)となってしまったと、温泉街の人の話。

●分水町(良寛さまのふるさと)

信濃川とその分水、大河津分水路北に広がる分水町は水の利を得て、古くから近郷の中心都市として発展してきたが、現在は静かな農村風景が広がっている。
この町には、寺を持たず生涯托鉢僧として自由に自然の中に生きたひとりの禅僧、良寛のふるさととして知られたところ。
また、ここには昔むかしのお伽草子「大江の酒呑童子」のゆかりの寺もある。
良寛さまが住んだ「五合庵」や酒呑童子が少年時代を過ごしたといわれる「国上寺」などへの道は少し分かり難いので、JR越後線分水駅近くにある
「良寛史料館」へ行ってみよう。
ここで良寛さまの生涯について知識を得るとともに、町の地図を手にいれると良い。
/入館料 300円、TEL 0256-97-2428

●国上寺

弥彦山に続く国上山(くがみやま)は標高が低いが森は深い。
その中腹にある国上寺には駐車場から、徒歩で数分。樹木に囲まれた中にある寺は真言宗の古刹で、
酒呑童子絵巻が残されている。
住職が親子二代にわたって絵巻酒呑童子を現代訳の本に仕上げた。絵巻き物語を写真製版し、こどもたちにも読めるような文体で書かれたこの本(定価1,500円)は、住職から直接購入できる。
寺の裏木戸を過ぎると、古井戸がある。
「いまから1000年もの昔、美男子だった酒呑童子は、多くの娘たちから沢山の恋文をもらったが、その数が多かったため読むこともなく箱に詰めたままだった。或る日、片思いに焦がれた娘が自らの命を絶ったため、酒呑童子が恋文を詰めた箱を開けたとたん、煙りとともに美青年は醜い鬼の形相となり、大江山の鬼となった」という。この古井戸の水に鬼の顔になった我が身を映したとか。
国上山を下ったところに酒呑童子の生誕地があり、平成7年に建てられたという五重の塔がある。

●五合庵

国上寺から少し下った大樹の茂る中に6畳一間ほどの小さな茅葺きの庵がある。
国上寺の住職の隠居所であったこの庵に、良寛さまが文化1年(1804)47歳から10余年間、ひとりで過ごした。いまは涸れてしまったが、裏庭には湧き水の池があったという。
現在の庵は復元されたものだが、ひっそりと樹木の中に佇むさまには、
「柴の戸のふゆの夕の淋しさを浮き世の人にいかで語らむ」と詩を詠む姿が偲ばれる。

その他にも良寛さまの足跡の残るみどころは多い。分水町からもう少し南、出雲崎町は生誕地であり、4年間修行をしたという寺、
光照寺良寛記念館などがある。興味のある人は、ぜひ訪ねてほしい。
/良寛記念館入館料 400円、TEL0258-78-2370

●寺泊アメヤ横丁

寺泊町の国道402号線沿いに、地元の水産会社などの出店である大型鮮魚の店が並ぶ。各店の間口も大きいが奥行きも深い。
そこに日本海沿岸の港に水揚げされたばかりの鮮魚から魚介類の乾物から冷凍ものまで、ところ狭しと並べられており、威勢のよい掛け声が市場内に響く。
また、ここの名物は店頭で煙をもうもうと立てて魚を焼いて売っていること。香ばしい匂いとともに旬の魚の焼きたてを店先のベンチでほおばるのも旅の楽しさだ。
どこでも同じだが、買い物上手の秘訣は季節の魚を知って地物を選ぶこと。これから冬にかけての日本海はズワイガニの季節だ。

●夕日の日本海

来た道、越後七浦シーサイドラインを新潟市へと戻る。
短い秋の日は、トンネルを通過するたびに落ちていく。奇岩に砕ける白い波もいつしか赤味をおび、佐渡の島も紫色へと変わる。
角田浜海岸では、いま水平線に沈まんとする太陽に誘われて車を止める。瞬く間に落ちた日は、一瞬あたりを赤く染めて水平線の彼方へと消えた。そして闇は早足でやってきた。
このシーサイドラインを毎日のように利用している地元の人も、この日没の瞬間は思わず車を止めてしばし眺め入るという。間もなく訪れる雪国の長い冬を前に、この地に住む人々ばかりか、旅人にとっても秋の夕日は感傷的にさせるものなのかも知れない。




11 食の国、石川・福井の冬



福井、石川、富山3県は北陸三国と呼ばれ、冬は日本海の荒波とともに、その海で捕れるズワイガニをはじめ甘エビ、ブリ、ノドグロ(アカムツ)ホタルイカやハタハタ、ナマコにコノワタなど旨いものがいっぱい。
また美食家で知られる北大路魯山人が、加賀の山中町で生まれ山代で育った九谷焼や旬の素材を生かした加賀の懐石料理、さらに漆器の山中塗りに魅せられる。ここで魯山人の優れた味覚や「器は料理の衣」と洗練された加賀の食文化に傾倒していったところ。

金沢から加賀、山代、山中町を経て雪の永平寺を訪ねた。そして3月中旬まで漁を行うという冬の味覚の王様“越前ガニ”(ズワイガニ)の越前海岸を北へ、壮大な柱状の岩礁で有名な東尋坊まで、日本海の荒波を砕く奇岩風景を眺めながらのドライブだ。
寒さは少し厳しいが、幹線道路はいつも除雪されスタッドレスタイヤを履いたレンタカーなら雪の北陸路も安心してドライブができる。

 

 

 

 

 

 




<コース>
小松空港-金沢(泊)-(北陸自動車道)-加賀IC-(国道364号線)-山代温泉-山中温泉-永平寺-福井市-(国道365号線)-越前町-(国道305号線)-東尋坊-加賀IC-(北陸自動車道)-小松空港
行程 3泊4日



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●小松空港から金沢

小松空港へ着いたのは北陸地方に豪雪があった3日後だった。金沢の冬の風物詩である樹木を守る縄がけの風景が見たいと思った。このところの暖冬で兼六園の雪景色はしばらく観ていなかったから、と予定を一日変更して金沢へ。

 


金沢・兼六園

小松空港からの距離は50km足らずの上、北陸自動車道を走ると、市内までもわずか1時間だ。
だが、残念ながら市内の道路は当然のことだが雪はなく、樹木に積もった雪も落ちていた。それでも豪雪のあとは公園や道路脇に残っていた。
兼六園周辺の雪見をし、さっそく北陸の冬の味覚をたっぷりと味わせてくれる町の繁華街、香林坊・片町へと足を運ぶ。

 

旬のものを美味しく食べるには、やはり少し値の張りそうな料亭風や割烹と書かれた店を選ぶことだろう。地方都市でその土地の食材料理を食べることは、高級料亭以外はひとり1万円は食べきれない。泊まりをホテルにすれば2食付き一泊2万円の宿の食事代より安い。さらに好きな時間に好きな物だけ食べられるというのが魅力だ。また、店探しも旅の楽しさである。もちろんホテルやタクシー運転手などに尋ねるのもいい。

 

やっと見つけた店は10人ほど座れるカウンターと2階にも2つの座敷があり、年輩の夫婦と娘に若い板前がいるだけの小さなところだった。
熱燗に付いてきた「お通し」はナマコと岩もずくの甘酢。旬の旨いものを頼むと寒ブリとヤリイカ、甘エビのさしみ盛り合わせからはじまった。だだみ(鱈の白子)の酢和え、寒ブリのかま焼き、ノドグロの塩焼きなど、どれも新鮮で旨い。

 


ブリ、甘エビ、イカは冬の北陸の味覚


寒ブリのカマ焼きは絶品


●加賀市

金沢より北陸自動車道で約70km、加賀藩といえば金沢市を中心とした百万石の城下町だ。加賀市はその分藩で大聖寺藩十万石の城下町であった。
加賀百万石、前田家の菩提寺やゆかりのある寺をはじめとした建造物や遺跡も多く残る。市の中心部には藩が集めた前田家菩提寺の「萩の寺」、浄土宗の「正覚寺」、日蓮寺の「宗蓮寺」など7寺1神社があり“山の下寺院群”と呼ばれている。

 


芭蕉と曽良の碑(加賀・全昌寺)

その中の法華宗の寺「本光寺」には『日本百名山』の著書で知られる深田久弥の墓がある。
7寺の内、もっとも有名なのは曹洞宗の寺「全昌寺」だ。松尾芭蕉が一夜の宿を求め、お礼に寺の庭を掃き清めたたときに詠んだ句

「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」

の句碑が立つ。
また江戸末期に作られた517体の五百羅漢がある。一体も欠けずに今日にある。

 

近くには「石川県九谷焼美術館」があり、九谷焼の歴史や時代の作者による作品が展示されている。
/入館料 500円、TEL 0761-72-7466

 

九谷焼は江戸前期の古九谷を江戸の後期、吉田屋伝右衛門という人が、私財を投げうってオリジナルデザインで再現復活させた。
“九谷焼”とは山中町の“九谷”で焼き始めたからだ。江戸後期には珍しく大胆な構図に細かさの対比、青手と赤絵で表現する作品を作った。吉田屋窯の青手四彩のうち特に緑に特徴がある。量産せず手間暇かけ、良質の一点ものの制作にこだわりを持つ。
現在もかなりのお値段はするが、種類は少ないが良心的なところは山代町にある町営「九谷焼窯跡展示館」だ。九谷の三大窯元である吉田屋、宮本屋、九谷本窯などの作品展示と即売がされている。
/入館料 310円、TEL 0761-77-0020

 


現存する最古の九谷焼の窯
(山代・九谷焼窯跡展示館)


いろりと展示場は民家を移築したもの

 


赤と青。九谷焼はきれいだ


山代温泉の九谷焼窯跡展示館には
手頃な価格の焼き物もある


●山代町


山代温泉の街路

加賀市街より国道8号線経由、国道364号線に入って間もなく山代町に着く。
加賀市内にある温泉町としても有名だが、書家であり美食家であり、「器は料理の衣」と焼き物もみずから手がけ、食文化を広めた北大路魯山人の出発点として名高いところだ。


○魯山人寓居

魯山人の恩人のひとりでもある細野甲三は漢学者で茶人、書や美術・骨董に造詣が深く、大正4年に細野家の食客となった魯山人(当時は福田大観といった)を山代の旦那衆(温泉旅館の主人や陶芸家、料理人など)に紹介。書家と刻字看板で生計をたてていた魯山人に、大きな転機を与えた。
当時、山代温泉の吉野屋旅館の主人の別邸で美術談義に華を咲かせ、茶会を楽しんでいたという。ここで魯山人は加賀料理と懐石料理、陶芸(九谷焼)、山中塗りの漆器に魅せられ、やがて独自の食文化を築く。
この吉野屋旅館の別邸は2002年4月に一般開放されたという。明治の山代の文化サロンと魯山人等の談笑が聞こえてくるような建物だ。
/入場料 500円 説明とお茶付き
  TEL 0761-77-7111


魯山人が使っていた机と火鉢

 

情緒ある古い温泉旅館も多く、魯山人がはじめて焼き物に絵付けをした初代陶芸家菁華窯は今もその店があり、魯山人の彫った刻字看板がかかげられている。


魯山人の彫った看板を掲げる店もあった


●山中町

北陸の温泉町山代とならんで湯量豊富で昔から有名な温泉地だ。山代町から僅か10km南、大日系の山々から流れる大聖寺川と動橋川に沿った集落。
この町には約400年前から伝わる繊細なろくろ挽きの技術が現在に受け継がれ「山中漆器」として、この町の工芸品として知られる。国道364号線沿いには「山中漆器伝統産業会館」がある。ここで山中塗りのことをいろいろ教えてくれる。
漆器本来の味わいを大切にするための木地は欅、栃、桜など日本産で漆塗りだが、安いものは外国産の木に化学塗料が使われている。“山中漆器まつり”が毎年5月には行われる。

 


山中塗り。さまざまな樹木から作られる


●永平寺

山中温泉から約20km、永平寺町のその奥、樹齢600年の杉の巨木に囲まれた幽谷に、寛元2年(1244)道元禅師によって創建された曹洞宗の大本山の永平寺がある。
約10万坪の広大な境内には七堂伽藍をはじめ70余りの殿堂楼閣が建つ。聖宝には国宝「普勧坐禅儀」や「正法眼蔵仏性第三」など貴重な文化財が展示されている。
急いで車を走らせたが、冬の時期は拝観は午後4時までということで、今回は内部を知ることができなかった。
しかし、雪景色の中の永平寺の荘厳な佇まいに寒さを忘れるほどの美しさだった。

 


永平寺は雪に閉ざされていた
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


永平寺


●福井市内へ

短い冬の日にせきたてられるように市の繁華街へ。ホテルは前日にインターネット予約、または当日車内から携帯で探す。
福井の冬の味覚は「越前がに」である。テレビで紹介されるような高級ホテルや料理屋というわけにはいかないが、本物が食べたいと地元の人に尋ねての情報探し。
そもそも「越前がに」とは福井県越前町から三国町までの海岸線に沿った深海(約400m)から揚がったズワイガニのことを指す、と地元の漁師の話。要するにブランド蟹というわけだ。

 

 

21春の信州・高遠



松本から諏訪そして高遠へ

日本一の桜の名所とまでいわれる高遠城址は雪の中央アルプスをバックに、年輪を重ねた大木が誇らかに咲く日を待つ。もうすぐ自慢の桜が山一面をピンクに染める。
ここ高遠城は、天正10年(1582)織田信長が信玄亡きあとの武田氏を滅ぼすために一挙に兵を送り込んだ古戦場でもある。高遠城の戦いは武田氏滅亡の場としても有名なところ。いまはその悲しい歴史の跡をとどめるものはほとんどないが、城址公園の春はもうすぐ桜をお目当てに訪れる人々で賑わう。
また高遠から人工湖美和湖周辺には江戸時代の悲恋物語、絵島の資料館や戦前の教科書で知られた“孝行猿”の話の舞台の家などがある。のどかな山村をドライブしながら伊那市へと、春の一日を走ってみた。




松本-(長野自動車道)-諏訪IC-(国道152号線)-高遠町-長谷村-(国道361号線)-伊那市-松本
全行程約100km、1泊2日


 

 

 


●松本から諏訪

春とはいえまだ冷たい風の吹く信州、松本。時に粉雪も舞う3月も下旬のある日、
長野自動車道を諏訪へと向かった。
岡谷を過ぎると視界が開け、諏訪湖が時折さす春の明るい光の中で輝いていた。諏訪湖の全容を眺められ、温泉もある諏訪サービスエリアは長距離ドライバーにとって人気の場所だ。松本からたった25kmほどなのに、つい立ち寄ってしまう。

諏訪ICを出て国道20号線を少し下ると高遠方面への分岐点へ。標識に従いながら高遠への国道152号線を辿る。
やがて急なつづら折れの山道へとさしかかる。桜の季節から夏にかけて交通量もかなり多いので、ぜひ安全運転を心がけたいところだ。
一気に山を上ると、八ヶ岳連峰やその山麓に広がる茅野市が木々の梢の間から望める。間もなく杖突峠だ。
この峠の茶屋からは諏訪湖や茅野市、白く曲線を描いて延びる中央道、さらに八ヶ岳、霧ヶ峰、美ヶ原の山々などが一望できる。茶屋付近には無料駐車場がある。

●高遠へ

高遠へのこの国道152号線は別名
"杖突街道"とも呼ばれている。
藤沢川沿いに走る国道はかつては高遠から諏訪へ抜け、甲州街道や中山道へと通じる重要な道であった。いまは静かな山村風景がひろがるのどかなドライブウェイだ。

●高遠城址公園

高遠はかつて伊那谷と甲州を結ぶ要衝の地として栄え、明治に至るまで伊那地方の政治、経済、教育、文化の中心でもあった。
戦国時代、武田信玄によって築城されたが、織田信長との戦いで敗れた後、江戸時代には内藤氏の居城としてこの高遠の高台に建っていた城も明治になって取り壊された。だが、掘、石垣、橋などが残り、高遠はいま城址公演として人々の憩いの場になっている。
城址に植えられた
コヒガンザクラは約1500本余り。樹齢100年を超える老木もある。県の天然記念物に指定され、花見の時期には遠く県外からも沢山の人で賑わう。
残雪の南アルプス、中央アルプスを背景に眺める桜は天下一品。小ぶりだが赤味を帯びた可憐な花があたりを埋め尽くすさまは「天下一の花」とたたえられるほどに壮観だ。
取材時は、まだ花には早かったが、公園内は花見の準備に追われていた。

●高遠郷土館

城址公園から車で3分ほどにある郷土資料館で、町内から出土した土器や高遠焼、高遠石工などの資料が展示されている。
また、隣には絵島囲屋敷がある。
江戸時代の奥女中頭であった絵島は、当時御法度であった歌舞伎役者の生島との恋に落ちたのをとがめられ、ここ高遠に流された。
この地で28年という長い歳月を囲屋敷の中で過ごし生涯を閉じた悲恋物語は小説や芝居にもなって多くの人々を泣かせたという。絵島の暮らした屋敷の部屋が復元されている。
ここから車で数分のところにある蓮華寺には絵島の墓がある。

●長谷村

高遠から南へ少し行くと人工湖、美和湖があり、湖畔にはおしゃれなホテルもある。
この南に細く延びる湖に沿って国道152号線に車を走らせると、
「孝行猿」の物語の家がある。といってもいまはほとんどの人にはなんのことがか分からない話だ。昔の小学生の教科書に「修身」があった時代の話である。
人間に捕えられた母猿の身を案じて子猿がそばに付き添うという。猿でも親孝行をするという教科書の教えがあったそうだ。その物語の発祥地であり、いまは民家の一角に当時の物語の猿の親子がいたという囲炉裏などが残されている。

鹿塩川沿いに走る国道を注意深く見ていくと狭い橋のたもとに「孝行猿」という標識に従って橋をわたり約7km、こんな山奥の何処にと思われる山道を上ると、十数軒の家が寄り添うように建つ集落へ着く。この集落がそれ。
囲炉裏の他、昔の教科書などが展示されている。最近では小さな子供を連れた若い家族も訪れるという。
このあたりは南アルプスの山深いところ。鹿やいのししも多く、国道沿いにはそれを食べさせる料理屋もある。

●伊那市

国道152号線はこれより大鹿村でぷつりと途切れるが、駒ヶ根市、あるいは松川町へと伊那谷へ下る道がある。
ただし、取材当時は長谷村から駒ヶ根市に向かうところで土砂崩れのため通行ができず、再び高遠へ戻り、国道361号線を伊那市へと下った。
中央アルプスと南アルプス、その山々を源流に持つ天竜川沿いに広がる風光明媚な伊那市は、古くから
三州街道と権兵衛街道、また高遠を経由して甲州街道などが交差する要衝の宿場町として発展してきた。いまは伊那谷一の大きな町である。
ここから伊那谷と木曽谷を結ぶ
権兵衛街道は、300年前に切り開かれた中央アルプス越えの峠道だ。馬を引いて登った峠道も一時は中央線の開通で車での通行ができなくなったこともあったが、現在は木曽と結んでいる。
車でも通れるが、信濃路自然歩道ルートに指定され観光ルートにもなっている。
市内には南アルプスを望む春日公園と、天竜川東岸にある伊那公園という2つの市民の憩いの場所がある。どちらも
桜の名所だ。

時間のある人は伊那より約10km南の
駒ヶ根市からロープウェイで中央アルプス駒ヶ岳山頂近くへ登ってみるのもいい。また、天竜川沿いをアルプスを眺めながら伊那谷を下るのもいいだろう。これらのコースはまた改めて紹介したいと思う。

 

20 信州松本周辺の温泉



温泉は体の疲れやストレス解消の場ばかりか娯楽として古来から人々に親しまれてきた。大きな湯舟にあふれ出る豊富な湯にゆったり浸かるときの表現し難い解放感と心地よさは何度味わってもよいものだ。
本来温泉の多くは湯治とともに人々の触れ合いの場であったはずが、宿はいつしか華やかで豪華な旅館と宴会場となり、ほとんどが高級化や大型化してしまった。

ところが最近は昔ながらの温泉を楽しめるかつての風情の温泉が公共や第3セクターなどにより復活。
長引く不況を逆手にとってか、安くて設備の良い温泉場が日本各地にでき、なかでも北海道と並んで温泉地の多い長野県にぞくぞくとオープン。とくに源泉であり泉質良く湯量豊富が自慢という、温泉好きにはありがたいこと。
宿泊設備のあるところもあるが、ただ温泉だけを楽しむ“日帰り温泉”も多い。

関東、関西からも車で3~4時間ほどで行ける松本周辺のこうした温泉場をいくつか紹介したいと思う。また、アルプス登山や観光の帰り松本駅前からレンタカーを利用しての“温泉めぐり”で疲れを癒してみてはいかがだろうか。

 

 

 

 

 




<コース>
東京-松本間は中央自動車道で約200km、所要時間約3時間。
松本駅前のホテルに宿をとり、地元の人より薦められた温泉3ヶ所を巡った。そのほかのお薦めを2ヶ所と少し距離はあるが白馬方面の温泉2ヶ所を参照の項で紹介します。


 

 

●松本駅周辺

取材や遊びで松本を訪れる機会は多いが、今回あらためて
松本駅周辺を見渡してみると、その変貌ぶりに驚く。
駅前には新しいホテルが姿を見せていた
。そんな駅前も間もなく登山や旅行客で賑わうシーズンを迎える。
●湯多里 山の神温泉

10年ほど前、当時の竹下首相により地方に活力をと「ふるさと創生事業」が行われたのは周知の通り。かなりの市町村でそれをもとに温泉を堀り当てたという話を聞いた。この温泉もそのひとつだ。幸運にもナトリウム炭酸水素塩泉の良質な泉質に恵まれ平成4年にオープン。


山の神温泉

“お湯がいい”と評判も高く近隣ばかりか関東方面からもわざわざ訪ねてくる人も少なくないとか。
源泉だが34度と温度は少し低め。しかし、発掘の副産物としてメタンガスも噴出。お湯を温めることはもとより、施設で使う電気まで賄うという。

 

国道19号線を豊科方面へ。
松本駅前より約15kmの田沢北交差点を右折、約1kmのところ、山裾の樹木に囲まれた中に民芸調のこぢんまりした平屋の建物だ。
男女別に内湯と露天風呂がある。ただ残念なことに眺めはきかない。とくに露天風呂は山側はコンクリートの壁が視界を塞ぐ。
お湯は幾分臭いがあるが透明で柔らかく、お肌がつるつるになる。
効能:胃腸、肝臓、糖尿、痛風、皮膚病、胆石、利尿など。


湯煙の山の神温泉



○休憩室

30人ほど休める畳の部屋で冬は床暖房が効いて気持ちがよい。
食堂はないが食事の持ち込みは可能。ただし、アルコール類はダメ。

午前10時30分~午後8時30分(入場は午後8時まで)、第2火曜日休み
入浴料400円(休憩室とも2時間まで。追加は可)
問い合わせ/豊科町商工観光課 TEL 0263-72-3111

●安曇野みさと温泉(ファインビュー室山)

信州リンゴの最大の産地ともいえる
三郷村、松本駅より約15km。国道158号線の新村交差点を右折。
このあたりは一面リンゴ畑で、秋の収穫期には農家の庭先でもぎたてのリンゴが売られ、これを目当てに車を走らせてくる観光客も多い。そのリンゴ畑を見下ろす「でいだらぼっちゃ」(村の民話の中の大男の名前)とよばれる山の上に平成10年にリニューアルオープンした温泉。
湯量豊富で大浴場と露天風呂からは安曇野・松本平の向こうに美ヶ原の山々を見渡す素晴らしいロケーションに建つ。宿泊施設と食堂や売店を備え、ジャグジーやマッサージ室などの施設もある。

泉質は単純温泉の源泉で温度は40度。男女別の広い浴場にはジャグジーもある。また石造りの露天風呂からの眺めは眼下に広がる安曇野が一層の開放感を味わわせてくれる。
効能:神経痛、リューマチ、筋肉疲労、あせも、疲労回復など。

○休憩室

広いガラス張りの部屋で美ヶ原の展望もよくくつろげるが、食べ物などの持ち込みは禁止だ。飲食は同じ見晴らしのよい食堂でということだ。
入浴料金:日帰りの場合 500円
宿泊:和式と洋式の部屋がある。一泊二食付き1万1,000円から。
問い合わせ/三郷村経済課 TEL 0263-77-3111

●竜島温泉

松本駅より国道158号線、上高地への玄関口でもある島々線の終点駅
新島々(しんしましま)より2kmほど、梓川の対岸にオープンして3年目という新しい日帰り温泉場だ。
3年前のこと飲料水のための発掘をしていたが、わき出る水が温泉成分を含むことが分かり、堀り進んだところ43度という温泉が噴き出した。
偶然の産物だがこれが泉質良好で、いまや地元でも大人気の温泉場となった。


竜島温泉の庭

梓川に面した谷底なので広い視界は望めないが、山に樹木が美しい。
冬は雪見風呂が楽しめるが、これからは新緑の季節、露天風呂からはもちろんのこと内湯からも鮮やかな新緑を眺めることができる。

 

1日400人、週末は600人からの入浴客があるというが、そのわりには檜の湯舟は小さめだ。とくに露天風呂は6~7人ほどで満員だ。
一滴の水も加えていないというのが自慢、湯量には限度があるので湯槽は小さめとか。これほどの人気が得られるとは思ってもみなかった、とは温泉に働く人の話。


竜島温泉(松本電鉄・島々)


お湯はわずかに乳白色、お湯に入ったとたんにお肌はつるつるだ。
効能:胃腸、屎尿、筋肉痛、便秘、糖尿、便秘、打ち身、皮膚病など。

○休憩室

宿泊施設はないが、一般休憩室とは別に個室がある。8畳と10畳で数は4部屋と少ないが、家族や仲間とゆっくりくつろげる。
入浴と一般休憩室は時間制限はないが、個室は2時間1,000円から。部屋が空いていれば時間延長ができる。
食堂もあるが、持ち込み自由でアルコール類もOKだ。食堂のメニューは多くはないが、味はよし。とくにお米は安曇の米を使用していてとてもうまい。


竜島温泉の貸し切り部屋

 

その他のお薦め温泉

●明科(あかしな)温泉(長峰荘)


白鳥と鴨が一杯の犀川堰堤

北アルプスを源に流れ下る梓川・高瀬川が合流して流れ下れば犀川となり、その豊かな水に恵まれた町、明科町にある安曇野の中で最も眺望が良いといわれる温泉だ。露天風呂からは北アルプス常念岳が眺められ、解放感と贅沢な気分がたっぷり味わえる。
長野自動車道豊科ICから国道19号線田沢交差点を左折、案内板に従い約6km。

 

泉質

単純硫化水素泉、温度15度

効能

神経痛、リューマチ、高血圧、糖尿病など。

施設

男女別大浴場・露天風呂・売店・食堂・宿泊設備もある。

料金

入浴料 300円+休憩料 500円、宿泊料 一泊二食付6,900円


問い合わせ/明科町産業課 TEL 263-62-2195


犀川上空を飛ぶ白鳥


犀川堰堤の白鳥


●馬羅尾天狗岩温泉

安曇野の田園の中にある
松川村、村営「すずむし荘」は宿泊設備もある温泉。天然ラドンを含んだ湯は昔から痛風によく効くといわれている。
村民はもちろん旅行や登山帰りの人たちに人気だという。広い敷地には大きな駐車場もある。
露天風呂も芝生の敷かれた庭にある露天風呂は、昼は太陽の光を存分に浴び、夜は月明かりや星空を望む。
長野自動車道豊科ICから国道147号線を約10km。

泉質

単純弱放射泉、温度38度

効能

痛風、筋肉痛、動脈硬化、高血圧、慢性皮膚病など。

施設

男女別大浴場、露天風呂、休憩室、食堂
(宿泊料金はお問い合わせください)


問い合わせ/松川村観光協会 TEL 0261-62-8500

●倉下の湯(白馬)

松本から車で約1時間と少し遠いが、白馬の山を眺めるながらのんびりと解放感に浸れる温泉。河川工事中に偶然堀り当てたという湯は、地下1,000mから汲み上げる太古の海水とか。
わき出るお湯は48度とやや高温だが、ほとんど純粋の天然湯だ。塩分を含んだ褐色の湯は、空気に触れて色付いたもの。塩の成分がうるおいを与えるため肌がつるつるになる。
檜造りの湯槽は半分屋根のある露天風呂。ただし、冬の寒い時期は回りを透明で厚いビニールで囲う。
JR大糸線白馬駅から和田野村への途中で岩岳方面へ松川にかかる白馬大橋を渡ったところにある。

泉質

炭酸水素塩泉、温度48度

効能

筋肉痛、関節のこわばり、打ちみ、くじき、慢性消化器病、疲労回復、運動麻痺など。

施設

休憩所

料金

400円


問い合わせ/倉下の湯 TEL 0251-72-7989

●八方温泉

北アルプス白馬山麓の八方地区にある4つの温泉の総称だ。みみずくの湯・第一郷の湯・第二郷の湯・小日向の湯と成分は同じだが、それぞれが異なる趣がある。
小日向の湯は猿倉方面へ向かう途中にあるが、他3ヶ所の湯はJR白馬駅の近くにあり、冬はスキー、これからは登山客でかなり込み合う。ゆっくり入りたい人は夕方から夜にかけては避けた方がよい。
国道148号線を白馬駅で左折、すぐに
みみずくの湯がある。八方バス停前には第一の郷湯、その少し奥には第二郷の湯がある。このあたりは駐車場が少ないので、駅周辺の有料駐車場を利用するとよい。

泉質

アルカリ性単純泉

効能

筋肉痛、冷え性、神経痛、疲労回復など。

施設

小日向の湯以外は内湯のみ。露天風呂のみの小日向の湯は冬期は閉鎖。


問い合わせ/白馬村産業課 TEL 0261-72-5000

今回、こうして温泉を取材してみて、温泉旅館やホテルだけでなく、こうした源泉の天然温泉だけを求め歩いている温泉好きの人が多いことを知りました。また、公共の施設を利用して地元の人と文字通り“裸のお付き合い”を楽しんでいる人もたくさんいることに驚きました。日本人にとって温泉は最大の“癒しの場”であることを改めて知った旅でした。

 

19「鯖街道]

御食国(みけつくに)」と京都を結ぶ



「京は遠ても十八里」といわれ、古代より朝廷に食材を送っていた「御食国」、若狭から京都へ至る数多い街道には、本来それぞれ固有の呼び名があった。小浜から上中町の熊川宿を経由、滋賀県の朽木村から京都大原に至る「若狭街道」、京都へ最短距離で結ぶ「針畑峠越え」や、熊川から滋賀県の琵琶湖のほとりの今津に至る「九里半越え」、そして多数の峠を越える「鞍馬街道」などがあった。
これらの道は、江戸時代以降、運ばれた物資の中で「鯖」が多く、注目されるようになったことから、「鯖街道」と、いつのころからか呼ばれるようになった。
その中で最も、利用されたのが「若狭街道」だ。若狭の小浜港で水揚げされた鯖が海産物の主な物であったことが鯖街道の呼び名となった。運ばれた鯖が京の都に着くころは、ほどよい塩加減になったといわれている。
現在、鯖街道が代名詞となった「若狭街道」を辿ってみた。

 

 

 

 

 

 




<コース>
小浜-(国道27号線)-上中町-(国道303号線)-熊川町-(国道367号線)-朽木村-大原-(県道40号線)-鞍馬山-京都
全行程約100km



 

 


●熊川宿

小浜から「みほとけの里」をたどりながら、上中町で三方五湖方面へ行く国道27号線と分かれると、間もなく「旧熊川宿」の標識を目にする。
旧街道は国道303号線とほぼ平行に走り、上ノ町、中ノ町、下ノ町と続く約1,200mの平入と妻入の町家が混じって建ち並ぶ宿場町だ。


鯖街道には静かな風景も…

 


熊川宿の標識


熊川宿にある鯖街道の表示

 

3つの町と町の間には「まがり」といって道に折れ曲がりがある。町の中心部である中ノ町には町奉行所、蔵奉行所、問屋や社寺があり、下ノ町や上ノ町には旅籠や茶屋、また上ノ町の端には関所が設けられていたものが復元されている。
秀吉のころ諸役免除されて宿場町になってから400年の歴史を持つ。現在は国の「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受け、住民は先祖からの遺産を守ろうと努力している。町の中を流れる前川はこの宿場町が設けられたころに造られたもので、生活用水だった。
中ノ町には、昭和15年に熊川役場として建築された洋風の建物はいま「鯖街道」の資料館となっている。
/入館料 200円
  問い合わせ 若狭熊川宿まちづくり特別委員会 TEL 0770-62-1111

 


熊川宿は古い建物が並ぶ


熊川宿の茶店

 


熊川宿関所跡には人形の役人


徳川家康が腰掛けたといわれる松は枯れ、
切り株だけがあった


●熊川・松木神社

関ヶ原の戦いのあと若狭の領主となった京極高次は、領内の百姓に年貢の増徴と労役の提供を求めた。その後、領主が酒井忠勝になっても改められなかった。
苦しみにあえぐ百姓たちは年貢の引き下げを願ったが、全く聞き入れられなかった。そこで年貢の軽減を求めて立ち上がった上中町・新道村庄屋松本庄左衛門が直訴、慶安5年(1652)5月16日、悲願は聞き入れられたが、庄左衛門は、直訴の罪で処刑された。28歳の若さであった。

 


松木神社

この若狭の義民、松木庄左衛門が祭られているのが松木神社。熊川宿の背後にある。旧小浜藩は近郊の年貢米を収納するために神社境内に12棟の米蔵を建て、約3万俵の米を貯蔵していた。ここより人馬により大津へ出荷していたという。
この神社下にある逸見勘兵衛家で生まれた伊藤竹之助は現在の伊藤忠商事二代目の社長で、故郷熊川のことを思い、松木神社義民館や熊川村役場、青年学校を建てた。その顕彰碑が松木神社参道口に立っている。


●朽木宿

滋賀県で唯一の村である朽木は、熊川宿と並んで鯖街道の宿場町である。織田信長が越前の朝倉義影を討つため敦賀まで兵を進めたが、浅井長政の裏切りにより急遽京へと戻るとき、鯖街道の、ここ朽木宿で一泊したという。そのとき殿(しんがり)を務めていた羽柴秀吉は、針畑峠(根来)を越えて京へ帰ったとされている。
安曇川(あどがわ)沿いに走る国道367号線上に「朽木宿新本陣」という道の駅があり、これより「鯖街道ロマン朽木宿へようこそ」の看板から旧道を辿れば、かつての宿場町へと入る。

 


水路は宿の生活用水でもあった


朽木宿
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

 

司馬遼太郎の「街道をゆく」の中に「道路わきを堅固に石がこいされて溝川が流れており、家並みのつづくかぎり軒が低く…」とある通りの町並みだ。
だが、指定保存地のように観光地化されたものではなく、この町には普通の生活がある。細い道には電柱と不規則に張られた電線や、床屋やスーパーの賑やかな色彩もあるが、古い建物も多く昔の街道の風景を色濃く残している。


●朽木の名刹・興聖寺(こうしょうじ)

「かっての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞宗の巨刹として、さかえたらしいが、いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない。」(司馬遼太郎『街道をゆく』より)
この古刹の本堂には、重要文化財である木造釈迦如来坐像が安置されている。国宝や重要文化財など多くは撮影禁止となっているが、ここでは「どうぞ、ご自由に」という。もちろん触れることやフラッシュ撮影はダメ。
お茶の接待を受けながら如来像をこころゆくまで拝顔させていただけた寺など、めったにないことだけに本当の仏さまに出会えたようでうれしかった。
/拝観料 400円、TEL 0740-38-2103

 


朽木・興聖寺


釈迦如来座像(重文・興聖寺)

 

境内には、享禄元年(1528)朽木稙綱が将軍足利義晴のために館を建てた際に築造したと伝えられる「旧秀隣寺庭園」がある。


●大原・三千院

「京は遠ても十八里」おおよそ65kmの道のりを熊川と朽木の2つの宿を継いで、大原まで来たとき京の都はもう間近である。
その昔、平安京への薪炭の供給地だった大原はいまも緑に包まれた山里だが、柴や薪などを頭に乗せて売り歩く大原女の姿はない。観光用に大原女の衣装一式を貸すところもあり、衣装を身につけた観光客が僅かに残る棚田や三千院の門前で賑やかに個人的撮影会を楽しんでいた。
(三千院は「新緑の古都1 京都から大津へ」を参照)


三千院門跡
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

 


大原の棚田


三千院前の茶店

 


後鳥羽天皇、順徳天皇大原陵


大原にあった地蔵さん


●勝林院

大原問答の霊地として知られる。平安の初期、慈覚大師が声明の道場として開いた大原寺といわれる本堂。大原問答は、鎌倉時代、比叡山の高僧顕真法印、法然上人がともに念仏往生について大議論し、理解し合ったとして有名である。
閑静な佇まいと庭、そこに建つ梵鐘を打つ心しみる音が、いまにも聞こえて来るようだ。隣接する「宝泉院」は平安時代に宿坊として建てられた勝林院の塔頭のひとつ。書院庭園は竹林と大原の里の代表的な風情が展開され、柱を額縁にたとえ日本庭園の絵である。
/拝観料 600円(抹茶・菓子付き)、TEL 075-744-2409

 


法然など学僧が論議した
大原問答の旧跡、勝林院


勝林寺の梵鐘(重要文化財)


●鞍馬山

三千院から国道367号線、鯖街道の出入り口である出町柳へ達する。だが、これより県道40号線を経て鞍馬山へと急いだ。陽は長いとはいえ鞍馬寺は5時で閉門だ。
鞍馬寺への道のりは鞍馬街道の途中の山門前で車を降り、ここから先は杉木立に覆われた薄暗い山道を登る。
鞍馬山は“尊天”の活力がみなぎるところ。尊天とは「宇宙の大霊であり大光明、大活動体」をいう。この世の生きとし生きる物、万物を生かし存在させてくれる宇宙生命・宇宙エネルギーのことと信じられている。鞍馬山信仰とは尊天を信じ、尊天の世界に近づき、尊天と合一することという。

 


鞍馬山中、木の根道


鞍馬寺

 


鞍馬寺山門

奈良時代、鑑真和上の高弟・鑑禎が毘沙門天を祀り創建した。鞍馬山中腹に本殿を構え鞍馬弘教の総本山となっている。本尊は魔王尊、毘沙門天、千手観音で奥の院魔王殿に祀られている。

山には牛若丸や天狗の伝説もあり、義経を祀る義経堂や義経と鞍馬天狗が出合った場所など義経にまつわるみどころも多い。

 


鞍馬寺本殿


鞍馬山本殿の獅子


●仁王門

木立に囲まれた門前へは個人が運営する駐車場から大きな石段を上ると俗界から浄域への道を守る仁王門をくぐる。ここから奥の院までは約1時間の登山コースだ。幸い本殿まではケーブルカーがある。
ここではケーブルに頼らずゆっくり上る。まず最初に出合う建物は天慶3年(940)鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請した由岐神社だ。その少し上には牛若丸が7歳から約10年間住んだ東光坊跡に祀られた義経公供養塔と牛若丸の守り本尊であったという川上地蔵堂がある。


由岐神社(鞍馬山)

 

清少納言が『枕草子』の「近うて遠きもの」の中にある「くらまの九十九折といふ道」と記された道を登る。
そこからは中門、寝殿、などを経て本殿金堂に着く。ここから奥の院までの道は険しく長い。途中には義経が喉を潤したといわれる「義経公息次ぎの水」(800年後の今も湧き続けている)や牛若丸が山をあとに奥州平泉へ下るとき名残を惜しんで背を比べたといわれる「義経公背比べ石」は上り詰めた峠にある。
こうして奥の院まで薄暗い山道を行く。人の姿も少なくなった夕暮れ中、もと来た道を下る。

 


義経公息つぎの水


奥の院への峠、頂上にある義経背比べ石

 

山道には「女性のひとり歩きは危険」という注意書きがある。また「僧侶の姿をした男が賽銭をせびることがある」といった注意書きがあった。俗界と離れ尊天の活力が満ちる鞍馬山といえども、いまの世は油断はできないことも教えてくれた。

 

18 琵琶湖と敦賀若狭湾



 

日本海に面した敦賀市は、遠く奈良時代から北陸地方の海運の玄関口として北は北海道、南は九州・沖縄まで、また海外貿易も盛んな港町として栄えた。明治のはじめ日本海側では一番早く鉄道が敷かれ多くの人と荷物で賑わった。そして戦国の世、織田信長、徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が一堂に会した金ヶ崎城がある。
現在では敦賀・美浜の2つの原子力発電所が、電力供給基地となっている。
松原と白浜から敦賀半島を越えて起伏に富んだ若狭湾沿いを小浜へと向かう道は絶景と海の幸を存分に楽しめる快適なドライブウェイだ。

 

 

 

 

 

 




<コース>
敦賀市-(県道33号線)-弁天崎-佐田-(国道27号線)-美浜町-レインボーライン-(県道213号線)-常神岬-田井-(国道162号線)-小浜市
全行程約90km



 

 


●敦賀・気比神社

大宝2年(702)に創建された北陸の総鎮守。天保2年(1831)に建立された大鳥居は、木造では奈良の春日大社、広島の厳島大社と並んで日本三大鳥居といわれ、その高さが約11mもある。明治時代に国宝に指定され、現在では国の重要文化財となっている。
敦賀の地は往古より良質の水が豊富に湧き出ており、境内はその水脈の中心といわれ、大規模な「神水苑」が造られている。こうした湧き水は境内をめぐる水路となって流れている。
/TEL 0770-22-0794

 


木製では日本で3番目の気比神社の大鳥居


気比神社本殿


●金ヶ崎城跡

敦賀湾を望む高台に「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とある。この城がいかに天然の要塞地であったかを物語っている。
元亀元年(1570)4月、織田信長の朝倉義景討伐の折り、浅井氏が朝倉氏に寝返り、窮地に陥ったため、急遽総退却する信長を救ったのが、金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めた木下藤吉郎(豊臣秀吉)であった。またこの殿の危機を救ったのは徳川家康である。
この城を舞台に戦国の世の命をかけた戦いと、後に天下人の命運を分けた三人の武将たちの気迫が迫ってくるようだ。
本丸跡からは天候がよければ越前海岸まで望むことができる。


金ヶ崎城跡


●金崎宮


金ヶ崎城跡の古戦場あと

金ヶ崎城がある高台の中腹には南北朝時代、延元元年(1336)常良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場跡がある。
そこには戦い敗れて自害した両親王が祭られている。
いまは桜の名所としても知られている。

 


城山の麓にある金崎宮


大谷吉継の寄進した石灯籠


●敦賀港駅ランプ小屋


敦賀港駅は新橋を発ち、
欧州へ向かう基地だった

金崎宮の下、敦賀港に面した「敦賀港駅」は明治15年(1882)、日本海側で最初に鉄道が通ったときの港の荷物を直接扱った「金ヶ崎駅」だ。
その後、明治45年(1912)新橋~金ヶ崎間に“欧亜国際連絡列車”が週3往復走るようになり、国際港として賑わった。
そのころの建物はほとんどなくなったが、小さなレンガ造りの「ランプ小屋」が残った。電気器具等が未発達だった当時、列車運行時に後方にその存在を知らせる光がカンテラだった。ランプ小屋はこうした油類を保管するための危険物倉庫だった。

 

周囲を建物や板で囲われているが、黒ずんだレンガの小さな小屋は、この地から遠く欧州やアジアへ旅立った明治の人々の姿を浮かべ、心を思う。
/問い合わせ 敦賀市観光協会 TEL 0770-22-8167

 


敦賀港駅のランプ小屋


敦賀港には煉瓦造りの倉庫も残っていた
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


●武田耕雲齊等の墓

1864年水戸の天狗党を率いる武田耕雲齊は、尊王攘夷を唱えて挙兵。朝廷に訴えようと京都へ上る途中幕府によって、ここ敦賀で捕らえられた。翌年2月から2ヶ月の間に353人が斬首されるという厳しい処刑をされた。道路をはさんだ松原神社境内には、一行が監禁されたニシン蔵が記念館として残されている。
茨城県水戸市の「常盤共有墓地」に天狗党烈士の墓石が374基あり、敦賀から移築されたニシン蔵もあった。
/問い合わせ 松原公民館 TEL 0770-23-8990

 


水戸天狗党の墓。
左はリーダーの武田伊賀守


水戸藩士の収容されたニシン蔵


●アクアトム

「海」とエネルギーをテーマにした科学施設。市の中心部にある高層の建物で、入館するとすぐ、まるで深海をゆっくり泳いでいるようなロボット魚シーラカンスが出迎えてくれる。最先端の科学について見る、触れる、感じることができる。また、海底都市を映像でバーチャル体験できる「アクアトムライド」など家族で遊べるところだ。
/入館無料、TEL 0120-89-3196


●敦賀の昆布

昆布というのは北海道のものと決め込んでいたが、敦賀には「昆布館」というところまであるほどだ。昔、北前船で敦賀に運ばれた昆布の多くは大阪に運ばれて、おぼろやとろろ昆布、塩昆布などに加工された。荷揚港となった敦賀港近くでも、昆布加工が盛んに行われた。
この老舗では、さまざまな製品のほか、利尻、礼文島で収穫される高級昆布を、昆布臭とぬめりをおさえ旨みを磨くために、昆布蔵で数年寝かせるという。だしとして、おかずとして、また主役としての昆布の奥の深さを教えてくれた。


北前船時代から昆布加工が続いている


●気比の松原

日本の三大松原(佐賀の虹の松原・静岡の三保の松原)に数えられている名勝。
約1,500mも緩やかに弧を描いて続く白浜と2万本近い赤松・黒松の浜辺は、夏には海水浴場として賑わい、民宿などに30人以上で参加予約すれば4月~11月には観光地引き網が体験できる。

 


気比の松原


気比の松原公園入口


●若狭湾へ


遠くに美浜原発

敦賀半島の先端付近には敦賀湾側には「もんじゅ」、若狭湾側には美浜原子力発電所がある。その半島を横断する県道33号線は若狭湾へ出ると、海岸線は岩礁や小さな島の点在する景勝地が続く。
最初に若狭湾に出合うと、海に向かって小島が連なる弁天崎。半島の先端方面を見ると、無機質な美浜の原子炉があったが、透明度の高い青い海が広がっていた。

 


美浜の海岸は綺麗だ


●若狭湾は魚の宝庫

この日は午後から雨。風光明媚な三方五湖へのドライブのため、翌日の好天を期待して美浜町で一つというビジネスホテルへ早めの宿をとった。
その夜、ホテルに併設する食堂では、魚はすべて地ものを食べさせてくれるというので、期待しながらのれんをくぐった。
中年の女性が経営し、自らが漁師の娘であり今も毎日港に出て魚を競り、近郊の料理店に卸す仕事もしているという。
「なんでも捕れるが冬は越前ガニや若狭フグ、あんこうなどだが、いま(初夏)はアジ、サヨリ、サバ、ブリもあるよ。でも珍しくて旨いものは『これ!エチオピアがよ』といって見せてくれた。地方で呼び名が異なり富山ではテツビンともいうとか。正式名はハマシマガツオだと教えてくれた。刺身で食べた。白身で油がのっていながらさっぱりとした味だ。

 


早瀬市場の競り


ハマシマ鰹。美浜での通称は
何故かエチオピア

 

「競りを見たい!」といったら「ああ、いいよ、8時まで早瀬港へきなさい」ということで、いつもより早めに起きて、車で10分ほどの早瀬港へ行った。
市場にはすでに人が集まり、水揚げされた魚の多くはまだ生きていて発泡スチロールの箱の中で跳ねていた。いか、たこ、さば、あじ、たいなど種類も多く、次々と競り落とされていく。この時期のブリは寒ブリの10分の1の値段だそうだが、結構旨い。
競りは1時間ほどで終了した。


●三方五湖

若狭湾を南にのびる三方断層にあたる古生代の山脈が沈降して形成された陥没湖といわれている。
五湖とは三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖の5つの湖の総称。淡水の三方湖のほか最大の湖、水月湖は深い海底から硫化水素が湧く海水と淡水が混じるなど、それぞれ異なる性質を持つことからこの名が付いた。
これら5つの湖の美しい景色を眺める有料道路全長11km(料金1,000円)のレインボーラインが走る。


三方五湖

 

このラインの中程には大駐車場があり、これより海抜400mの梅丈岳山頂までリフトまたはケーブルカー(各500円)で2分ほどだ。山頂からは五湖と若狭湾が一望できる。

 


展望台からはいくつもの湖が見える


三方五湖の観光道路


●常神岬

若狭湾に突きだした常神半島へはレインボーラインを出た信号を右折、県道213号線は複雑に入り組んだ海岸線を忠実に曲がりくねって走る。海岸線の美しさもさることながら、半島を包み込むように原生林が生い茂る神秘的な雰囲気がただよう。やっとたどり着いた岬には旅館や民宿がひしめくように建ち並んでいたのは、少し驚きでもあった。
樹齢1300年のソテツがあるというので、探した。それは旅館の庭の片隅にあった。高さ6m、根元から分かれた8本の幹はそれなりの風格があったが、家々にはさまれて息苦しそうでもあった。国の天然記念物指定。

 


常神の漁村でアジの干物を作っていた


日本海側最北端の大ソテツ。
旅館の裏庭にある

 

岬からグラスボートが出ていると知り、あまりの海の水のきれいさに飛び乗った。だが、運悪く魚の姿はなく、最後に観光生け簀に入っている数匹のブリをみただけだった。相手が生き物だから運不運はつきものだろう。
岬はこれから釣りや海水浴客でいっぱいになるという。

 


常神岬


 

10 越後平野と豪農建築



新潟県は日本を代表するコシヒカリの産地。米どころ越後平野は黄金色に染まっていた。
「今年は幸い台風被害はなかったけれど、雨が多く米の刈り入れが一週間ほど遅い」とつぶやいていた農家も、いま稲刈りの真っ最中だ。新米が市場に出回るのは10月半ばと、人々は明るく語る。
かつて、千町歩(1,000ヘクタール)以上の田畑を持つ地主が全国に9家あった。そのうち5家が新潟という。戦後の農地改革で千町歩地主は解体されたが、その豪華な屋敷は修復、移築されながらも文化遺産として保存されている。信濃川、阿賀野川、その支流と豊な水に恵まれた越後平野を一巡り。日本海に足を延ばせば彼方に佐渡を望む“日本海夕日ライン”と名付けられた海岸線が続く。

 

 

 

 

 

 




<コース>
新潟市街-(国道49号線)-沢海・北方文化博物館-(国道460号線)-白根経由-(国道8号線)-味方・笹川邸-(国道460号線)-浦浜-(国道402号線・通称日本海夕日ライン)-新潟市街-(北陸自動車道)-燕三条-(国道8号線)-長岡-(国道403経由117号線)-越後川口
全行程 230km、2泊3日



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●新潟市中心部

県庁所在地新潟市は2005年、新潟市をはじめ周辺14市町村の大規模合併で面積や人口が増大し、日本海側最大規模の市である。

 

信濃川河口の中心市街地は、古くから川をはさんで西側を新潟町、東を沼垂町と呼び、2つの町を結ぶのが萬代橋だ。河口の万代島(もとは中州だったが埋められて島ではない)には佐渡への定期航路の船が発着する港がある。

現在のJR新潟駅を中心に1950年代後半から開発され、新しい町造りがはじまったころ萬代橋を渡った旧新潟町は堀が巡らされ、それに沿って柳が植えられていたことから「水の都」とも呼ばれていた。残念ながらいまはその面影はないが、生活の場でもある市場や古い民家、移築された豪商の館など、みどころがある。


波とガス灯をあしらった
新潟駅前のモニュメント


●燕喜館(えんきかん)

JR新潟駅より萬代橋を渡った西岸に県民の総鎮守である「白山神社」がある。神社の裏一帯の「白山公園」の中に、港町にあった豪商斉藤家の一部を移築した日本の伝統的建築だ。
かつて北前船の寄港地であった新潟港は、江戸時代に開港した5港の一つであり、港を中心に栄えた商人の町であった。その港町で明治から昭和にかけて活躍した斉藤家三代目の邸宅の一部で、明治40年代の建築。
「燕喜館」とは「宴を催し、楽しみ喜ぶ」という意味で斉藤家が命名したもの。
前座敷、奥座敷、居室、茶室など、長さ十間(18m)にも及ぶ一本ものの桁などを用い、欄間の細工など贅を凝らした造りである。また和室にシャンデリアの取り合わせも、当時では洒落たものであっただろう。四季を彩る庭園も訪れる人の心を和ませる。
現在は、伝統的な文化や芸能活動などに各部屋を貸し出している。
/見学のみは無料、TEL 025-224-6081

 


燕喜館


燕喜館の大広間


●県政記念館・新津記念館及び砂丘館

白山公園に隣接する明治16年に完成したという県議会議事堂は、唯一現存する建物で、国の重要文化財に指定されているが、残念ながら取材時(9月)は修理中のため公開されていなかったが、間もなく開館する。
/問い合わせ 新潟県教育庁文化行政文化係 TEL 025-280-5619

 

公園より北へ車で3分、新津記念館がある。昭和の石油王、新津恒吉が昭和13年外国人向け迎賓館として建てたバロック様式建築。内部はフロアごとに、イギリス、フランス、ドイツ風に仕上げられている。
/入館料 800円、TEL 025-228-5050

 


新津記念館
(写真提供:新津記念館)


イギリスの間、17世紀のジャコビアン様式
(写真提供:新津記念館)

 


旧・日銀支店長の砂丘館
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さらに北へ約3分、かつて日本銀行新潟支店長宅であった和風家屋がある。新潟支店は大正3年(1914)、全国で10番目に開設されたが、建物は昭和8年(1933)の築だ。
外観は和風だが、玄関には洋風応接間などがあり、女中、書生部屋なども揃う。奥座敷、二階の広縁ガラス戸からは市街が望まれる。現存する支店長宅は福島と新潟の2ヶ所だけ。現在は市が購入し、芸術・文化施設として使用している。
/見学無料、TEL 025-222-2670


●本町市場

JR新潟駅から車で6~7分、町の中心部、デパートやショッピングモールなどがある賑やかな一画にある市場。本町通りに栄えた明治初期からの歴史を持つ市民の台所である。アーケードの中には近隣の農家からの新鮮な季節の野菜や果物、新潟港に水揚げされたばかりの魚介類から衣料、雑貨までを商う店舗は露天商を含めて約60店が並ぶ。それでも最盛期には330店舗もあったという。市場の人は「郊外に大型店舗が沢山できたので、ここは寂れる一方だよ」と嘆いていたが、あちこちからは売り手と買い手の元気な声がアーケードに響く。

 


魚屋には行列もできる


野菜は安かった

 

この市場は正確には「本町6商店街」といい、本町5~6番地にある。一方、本町11番には「本町下市場」があり、こちらは米、味噌、豆などや雑貨店などが多い。平屋の続く商店街だ。


●北方文化博物館(伊藤邸)


阿賀野川の西岸にある沢海という集落に、全国的にも有数の規模を誇った越後千町歩地主「伊藤家」がある。江戸中期、農家より身を起こし代を重ねて巨万の富みを得、明治時代の全盛期には1市4郡64ヶ町村にわたり、農地を所有、越後随一の田畑を所有していた。その屋敷は、敷地8,800坪(29,100平方メートル)部屋数65を数える純日本式住居だ。


北方文化博物館(伊藤家)に
移築された江戸時代の民家

 

戦後の農地改革で田畑は手放したが、豪邸は昭和21年(1946)遺構保存のため『財団法人北方文化博物館』を創設、これをすべて寄附する形で残された。平成12年、国の有形文化財に指定された。
鎌倉・室町式に造られた回遊式庭園には5つの茶室が点在し、大広間の開け放たれた縁からの眺めは、まるで大きな屏風か襖絵のようだ。白壁の蔵は現在、歴代当主の収集した美術品などを展示しているが、当時は2000俵の米俵が積まれていたという。
そして資料館になっている台所の2階の板の間は物置や作業室兼子供の遊び部屋だった。階下の台所は、最盛期には50人もの従業員のために、毎朝1俵(60kg)の米を炊いていたという。その他、敷地内には江戸後期の藁葺き農家が移築されている。
/入館料 800円、TEL 025-385-2001

 


伊藤邸の広間と庭園
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伊藤家の徳利と杯


●笹川邸


笹川邸

国の重要文化財にもなっている越後・大庄屋の邸宅。新潟市街からは国道8号線を辿り、信濃川の支流中ノ口川沿いの集落・味方にある。
笹川氏は江戸時代、旧村上藩の大庄屋をつとめ、旧味方村など八か村を支配していた。徳川時代、大庄屋は村々の庄屋を統治し、年貢の取り立てはもちろん、命令の伝達、治安、警察、裁判までの権利を与えられていた。明治維新まで九代約220年間にわたって大庄屋を世襲、明治以降も大地主として君臨していた。

 

この屋敷は天正年間(1570頃)の建築で、茅葺き屋根の表門と石燈籠は当時のままと推定されている。その他の表座敷、住宅、土蔵、文庫など建物総面積約500坪は文政9年(1826)の建築で、屋敷を巡る塀にいたるまで、重要文化財に指定されている。
穀物地帯が広がる豊かな水と田園風景の中の豪勢な屋敷は、当時の支配者とそれを支えた農民たちの生活が映画や小説のシーンと重なって見えてくるようだった。
/入館料 500円、TEL025-372-3006

 


大庄屋・笹川邸の広間。重厚で貫禄もある


笹川邸の六尺棒。不審者に備えた


●日本海夕日ライン

糸魚川から北は山形県境の新潟県の日本海沿いを走る国道の愛称。起点終点は明確にされていないが、美しい砂浜や奇岩を眺め、時には佐渡を望む快適なドライブウェイだ。好天に恵まれた夕方には、水平線に沈み行く真っ赤な太陽に染まりながらの旅が楽しめる道なのである。

 


国道402号から佐渡島を望む

 

笹川邸から国道460号線を辿り、日本海岸浦浜に出た。これより夕日ラインを北上し、一旦新潟市街へ戻ることになった。
浦浜を出て間もなく、角田岬灯台を回り砂浜の続く角田海岸へ。くっきりと佐渡島が見えた。ここから間もなく国道402号線は松の防砂林に入り、海から遠ざかっていった。

 


日本海夕日ライン
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角田岬灯台


●燕・三条

金物の産地として知られるところ。歴史は古く江戸時代の和釘づくりからはじまった。明治・大正にはキセルが作られ、昭和には輸出産業の花形として、スプーン、フォークなど洋食器用のテーブル用品の製造で栄えた。現在でもは洋食器、三条は刃物といわれ、その加工技術を誇っている。

 


鯉の鱗はスプーンを利用


●山本五十六記念館と生家

明治17年(1884)、儒学者、高野家に生まれた五十六は、旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぎ旧会津藩士族の娘と結婚、山本五十六となった。文武両道に長け、早くから航空の重要性を力説していた。そして、アメリカの国民の気性を知る五十六は太平洋戦争開戦にあくまで反対し、早期講和を望んでいた。
しかし、その意に反し連合艦隊指令長官として大戦争の指揮をとった。結果、昭和18年(1943)アメリカ軍に山本長官機の飛行ルートなどの暗号が解読され、待ち受けた米戦闘機群にブーゲンビル島で撃墜され戦死。


撃墜された山本五十六搭乗機の左翼

 

館内には、撃墜された搭乗機の左翼が展示されている。近くには五十六の意外に質素だった生家があり、公園となった庭には胸像がある。
/入館料 500円、TEL 0258-37-8001(生家は無料)。

 


信濃川の長生橋。花火の名所でもある

 

毎年8月2・3日と2日間に及ぶ花火大会は長岡市の大イベントだ。会場となる国道351号線、信濃川にかかる長生橋を渡った関原町に地酒「長岡藩」の酒造元がある。2年前の新潟中越地震で、震度6の激震に3度も襲われたという酒蔵の土蔵がゆがんでいた。

 


花火の打ち上げ筒(長岡駅前)


酒蔵の壁は中越地震でゆがんだ

 

小千谷から南の信濃川、魚野川周辺の豊かな地帯は“魚沼産コシヒカリ”の一大産地だ。まだ早場米の収穫がはじまったばかりの稲は、見渡す限りの大地を黄金色に染め、重たげに垂れた穂は、ゆさゆさと風に揺れていた。


ハザ木。かつては棒を横に渡し、稲を干した

 


コシヒカリの刈り入れ


刈入機は袋詰めまでしてくれる

 

信濃川と魚野川が合流する越後川口、その魚野川沿いに「簗場」をみつけた。梁には鮎が勢いよく跳ねていた。
「昔は養殖に頼ることはなかったが、いまは天然の鮎は少なくなったよ」といいながら、「注文するときは“天然もの”といってくれ!」という。メニューの料金には天然ものは“時価”とあった。小ぶりだったが身がしまり、懐かしい川の香りがしてうまかった。
/川口簗場・男山漁場 TEL 0258-89-3104

 


流れを引き込み鮎を捕るヤナ(魚野川)


鮎やウナギを炭火で焼く(魚野川のヤナで)

 


新潟に豊かな実りをもたらす信濃川

 

静寂な杜の福井と華やかな
伝統の町金沢(2)



古都金沢は若い女性に圧倒的人気の観光地だったが、いまや訪れる数は中高年の方が多いという。(金沢に限ったことではないが)
なんといっても加賀百万石の城下町、第二次世界大戦の戦火を免れた町には、藩主自慢の兼六園と今に残る武家屋敷群、また寺町としての風情を残す。
さらに金箔、友禅、銘菓など雅な文化の香りが漂い、かつての花柳界の風情ある茶屋街からは、いまも聞こえる三味線の音。中高年の人には、昔、仕事帰りにさまよった懐かしいあの繁華街がいまも健在というのも、この町の魅力である。そこには日本海の新鮮な魚介類、山の幸から懐石料理と、旅人の満足度は高い。

 

 

 

 

 

 




<コース>
福井市-(国道416号線)-永平寺-(国道364号線)-千古の家-丸岡城-称念寺-あわら市-三国-東尋坊-(国道8号線)-安宅の関跡-(北陸自動車道小松I.C.)-金沢市街
行程約20km



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●兼六園と金沢城

水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つ。江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴を今に残す金沢観光のメインエリアだ。
加賀藩5代藩主前田綱紀から13代斉泰までの約170年もの歳月をかけて完成された庭園だ。中国宋代の詩人李格非の「洛陽名園記」の「宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の6つの景勝を兼ね備えた庭」というところから命名された。園内を流れる曲水の豊かな水は、寛永の大火(1631)の翌年、三代藩主・利常の命により、城の「防火用水」としてつくった辰巳用水を利用。周辺には季節の草花や、桜、松、もみじなどが植えられている。
とくに、枝ぶりのよい唐崎松は、毎年11月1日に雪吊り作業がはじめられ金沢の冬の風物詩として全国に知られている。

 


兼六園・桂坂口


どこを見ても見事

 


兼六園の灯籠


兼六園

 

庭園内には、いくつかの建物や噴水、灯籠、橋などがある。園内で最も古い「夕顔亭」は安永3年(1774)に建てられた茶室で、文久元年(1861)、金沢城内に作られた噴水の試作で日本最古といわれる自然の水圧であがる噴水もある。通常は水の高さ3.5mだが、水位の変化で変わる。
霞が池に浮かぶ蓬莱島をバックに建つ徽軫(ことじ)灯籠は兼六公園のシンボルであり、カメラスポットだ。
/入園料 300円、TEL 076-234-3800


●金沢城址公園

兼六園桂坂入り口前、お堀通りを挟んだ橋を渡ると、加賀百万石前田家の金沢城だ。石川門の白く輝く屋根は珍しい鉛瓦で天明8年(1778)に建てられたもの。他、三十三間長屋と並んで国の重要文化財だ。
17世紀の大火に建物の大半を焼失した金沢城だったが、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓などを復元。明治以降、釘を使わない木造城郭建築としては日本最大級の建造物である。
/入園無料(菱櫓など入館料は300円)
  TEL 076-234-3800


金沢城。広い堀の一部は
道路になっている
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●長町武家屋敷跡

金沢城下の西に位置する長町一帯は、藩時代の中級以上の武家の住居が並んでいたところ。細い路地に木羽板葺き屋根の屋敷が続く。巡らされた土塀の下部には、当時、中級以上の武士でなければ許されなかった戸室石が使われ、武者窓のある門構えの屋敷も多い。屋敷が並ぶ路地は狭く、駐車場もない。そこで、市営の兼六駐車場に車を停め徒歩での散策となる。
駐車場近く、最初に出合うのは「前田土佐守家資料館」だ。前田利家の次男、利政を家祖とする前田土佐守家代々伝わる武具や書などが展示されている。興味深いものに織田信長の黒印状やまつの直筆の書状、歴代当主の絵画などがある。
/入場料 300円、TEL 076-233-1561

 


石畳の屋敷街


武家屋敷・長町

 


上級武士の豊かさを思わせる


屋敷街の中央を用水が流れる

 

これより、約400年前に造られた金沢最古の用水路「大野庄用水」に沿うように武家屋敷が続く。水量豊かに流れる大野庄用水とは、防火用や灌漑用、さらには荷物を運ぶ水路としての役目を果たすとともに、家庭用の水としても欠かせないものだった。

 

武家屋敷の多くは現在も普通の住宅となっているが、一般公開している屋敷もある。
「野村家」は前田家家臣の邸宅。後に邸宅跡に豪商・久保彦兵衛宅の一部を移築したもの。総檜の格天井に桐板張りの床の部屋は、藩主を招いたという謁見の間だ。
襖に狩野派の山水画が描かれた豪華な造りからは、当時の豪商の贅沢な暮らしぶりがうかがえる。武家屋敷群の中で、唯一の駐車場を持つところ。
/入館料 500円、TEL 076-221-3535


野村家の玄関
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がっしりと木組み、白壁が見事


長町の飴屋


●旧加賀藩士高田家

大野庄用水周辺、中級武士の屋敷の再現された長屋門に、用水を取り入れた江戸時代の代表的な池泉回遊式庭園がある。近くには屋敷を開放した休憩館があり、観光案内もしてくれる。
/どちらも入園無料


高田家長屋門


●香林坊・片町・竪町

金沢一の繁華街。古い地方都市の繁華街の多くはJR駅からかなり離れたところにあることが多い。ここもまたJR金沢駅から約1km、金沢城祉や兼六園と武家屋敷群の間に延びる一本の大通り周辺に集中している。
デパートやおしゃれなファッションビルが並び、一日中人通りの絶えない大通りから一本裏通りに入れば、小さな居酒屋、一杯飲み屋から小料理屋、昔ながらの怪しげなショーを見せるところなどがひしめき合う。いま元気のない地方都市が多い中、北陸一の賑わいを見せるというこの界隈は、その通りなかなか活気のあるところでもある。しかし、金沢と言えば風情ある町並みと懐石料理だろう。

 


香林坊の夜は華やか


近江町市場の魚介類は新鮮で安い


●茶屋街

加賀藩12代藩主前田斉広により、文政3年(1820)に公許を与えて妓楼を集め、区域を限定して茶屋の営業がはじまった。だが、間もなく茶屋制度が廃止されたが、慶応3年(1864)再び公許され、幾多の変遷を辿りながらも、ここに約100年の歴史と伝統をいまに伝えている。茶屋街には上町(現にし茶屋街)と下町(現ひがし茶屋街)がある。どちらも市営駐車場がある(有料)。
街の中心部を挟むように、西に犀川、東に浅野川の二本の川が流れている。その浅野川に架かる浅野川大橋を渡った河畔にあるのが、昔の遊郭であった「ひがし茶屋街」。犀川のほとりにある「にし茶屋街」。どちらも観光スポットだ。


●ひがし茶屋街

軒の低い格子の町屋に柳が揺れる街に一歩足を踏み入れると、どこからか聞こえる三味線の音。音を頼りに路地を曲がると「検番(芸者たちの稽古場)」からのものだった。
現在は、観光化し、並ぶ町屋の多くはカフェやショップなどとして営業されているが、本来のお囃子を入れての芸者遊びもできる店もある。また藩時代の茶屋がそのまま残された建物もあり、見学もできる。

 


今でも粋な遊びは生きている
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ひがし茶屋街の検番


○志摩

文政3年(1820)公許を与えられて開業してから今日に至る茶屋。朱塗りの天井や七宝焼きの襖引き手、床の間つきの客間に三味線弾きやお囃子や舞妓が舞う二間続きの部屋、そして廊下の細部まで装飾が施されている。かつての豪商の旦那衆たちの贅沢な社交場が伺える。国の重要文化財に指定されている。
/入館料 400円、TEL 076-252-5675

 


重文に指定されている志摩。
中を見ることができる


格子戸の上には暖簾

 


洒落た部屋で準備を待った


三味線が並ぶ

 


帳場の前には囲炉裏があった


芸者衆の化粧部屋


○蛍屋

「浅野川に架かる天神橋あたりは蛍の名所」と泉鏡花が『由縁の女』で記している、ひがし茶屋街。その最も賑やかな二番町通りにある昔のお茶屋で、いまは料理屋を営む。通された2階の障子戸を開けると、初夏の風に揺れる柳の香りと観光客の喧噪がしっとりとした部屋を通り抜けていく。

 


ひがし茶屋街でポーズをとる観光客


目を外に向けると爽やかに柳が揺れる

 


昼はお弁当だけ、というが
とりどりの料理に満足


金沢近郊の魚介類と季節の加賀野菜を使った懐石弁当(3,675円)をゆっくりとした雰囲気の中でいただく。ちなみに夕食は6,300円~となっている。
夜は芸妓を呼んでの宴会もできる。料金は客の人数で決まるが、6名の例で、一人2万円くらいから。
/要予約、TEL 076-251-8585

 


前菜


吸い物の器が洒落ている


●にし茶屋街


金沢の西に流れる犀川のほとりに開けた茶屋街は、武家屋敷も近く、高級武士も通ったという。金沢に3ヶ所あった茶屋街の内、一番格が上だったとか。入り口にはかつて大門があり、番所が置かれていたが、もちろん今はない。茶屋街の建造物の特徴は格子作りと掛行灯だ。特に金沢の格子は、江戸の吉原とは異なり桟が細くて間隔が狭い。


にし茶屋街

 

静寂な杜の福井と華やかな
伝統の町金沢(1)



福井県は日本の何処にあるか分かりにくい県のひとつとされているという。確かに琵琶湖の北、敦賀市を真ん中に東西に広がり、東は北陸、西は京都ともいえる位置にある。県境は複雑で長い。
その福井県の西部には、魚介類の豊富な若狭湾から京の都に魚を運んだ鯖街道沿いに、国宝の明通寺、重文の妙楽寺や宿場町など貴重な文化遺産が多くある。東部もまた、静寂な社に、七堂伽藍を中心に大小70余もの堂宇の棟が並ぶ永平寺をはじめ新田義貞の墓所、県内最古の民家などもある。とくに永平寺の鐘は毎年、大晦日から年明けにかけてテレビの画面を通し、全国に荘厳な除夜の鐘を響き渡らせる。一度は訪れて見たい寺の一つである。
さらに柴田勝家が築いた丸岡城、北陸の三大祭りである「三国祭」が行われた湊町三国は景勝地東尋坊へと続く。変化に富んだ海岸線を、今回は福井市から、いまも花街の三味線の音が聞こえる古都金沢へ車を走らせてみた。

 

 

 

 

 

 




<コース>
福井市-(国道416号線)-永平寺-(国道364号線)-千古の家-丸岡城-称念寺-あわら市-三国-東尋坊-(国道8号線)-安宅の関跡
-(北陸自動車道小松I.C.)-金沢市街
行程約250km



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●永平寺

福井市から国道416号線のトンネルをくぐり、案内版に従って約30分、大佛寺山(標高807m)の麓の杜に大本山永平寺はある。今から約760年前、寛永2年(1244)に道元禅師により開かれた出家参禅の道場だ。
樹齢700年近いという鬱蒼とした老杉に囲まれた約10万坪といわれる境内には、山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、東司、浴室の七堂伽藍の他、大小70余の建物が並ぶ。曹洞宗の大本山その荘厳な佇まいは静寂の中にあった。


永平寺は深い杉木立の中

 


東西南北のそれぞれに天王


東方持国天王は修理中でご不在でした

 


見事な天井の絵


見事に磨き上げられた廊下

 

山の斜面に建つ七堂伽藍への廻廊は、僧が毎日行う修行の一つ「作務(掃除などの労働や作業)」によってピカピカに磨かれている。
道元禅師は正治2年(1200)京都に生まれ、比叡山を経て中国で坐禅の教えを受けて永平寺を開いた。現在は、曹洞宗の僧侶の育成と檀信徒の信仰の場所となっている。現在は約200人の修行僧がいる。

 


斜面を生かして伽藍が続く


永平寺の庭と伽藍

 

寺院の建物のことを一般に伽藍という。ここは僧侶が修行をする清浄な場所という意味がある。なかでも特に七つの御堂は七堂伽藍と呼ばれ、日常の修行に欠かすことのできないところだ。
多くの建物は昭和や平成に改築または建立されたものだが、山門は永平寺最古の建物だ。中国唐時代様式の楼閣門で寛延2年(1749)に再建され、福井県指定の文化財となっている。

「除夜の鐘」で名高い鐘楼堂は、昭和38年(1963)に改築されたが、重さが5トンもある大梵鐘は、毎朝、昼、夕、夜と一日4回修行僧が撞く。テレビを通して毎年一回、聞き馴れた鐘だが、深山幽谷の中にいつまでも余韻を残して響き、その音色は心を癒す。

 


昼を告げる鐘が響いた


悟った人は皆、同じようなことを
考えるのでしょうか

 

山門の脇には真新しい立て看板に「歩みよる人には、やすらぎを 訪れる人には、微笑みを 去りゆく人には、幸福を」とあった。群馬県草津町の町民憲章は「歩み入るものに、やすらぎを・去りゆく人に幸せを」である。よく似たこの言葉はどこからと住職に訪ねたら「昔からある仏の教えです」という。
ドイツのローテンブルグ市にあるシュピタール門に刻まれた銘文を、東山魁夷画伯が翻訳したものという。洋の東西心は同じということだろう。


●千古の家

国道364号線から東、山へ続く狭い道を辿ると、集落がある。その中にひときわ大きな茅葺き屋根の民家に行き合う。国の重要文化財の坪川家だ。先祖坪川但馬丞貞純は、源三位頼政の後裔といわれている。およそ700年もの間、この周辺の集落を司る名司の頭として高い格式をもっていた。近年、丸岡町に統合されるまでは、代々村長を務める立場であった。
茅葺きの角屋と呼ばれる張り出しが前後に2つあり、内部の梁や柱は丸刀の手斧を使って仕上げられている。確かな年代はわからないが、昭和43年から44年(1968~69)にかけて解体、修復されたときの研究から、江戸時代初期の建物で、県内最古の建造物でもある。合わせて坪川家庭園は、山畔を利用して築山とし、その下に小池泉が造られている。約200坪に及ぶ敷地は「さつき」が植えられている。築山の頂上には守護石として3個の立石が組んであり、これは三体の仏像を象徴するもの。県内初の国登録記念物にも指定されている。
/入場料 500円、TEL 0776-67-2111

 


千古の家と名付けられた坪川家の門


どっしりと構えた建物だ

 


坪川家の囲炉裏


母屋と庭を挟んで蔵。山里に
とけ込むような家だ


●丸岡城

天正3年(1575)織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するため大軍を、当時丸岡から4kmの山中にあった豊原寺に向けて派遣、寺坊をことごとく焼き払った。このとき信長は柴田勝家の働きに恩賞として越前の国を与えた。翌天正4年(1576)、柴田勝家の甥である勝豊が丸岡に城を築いたのが、丸岡城である。現在は本丸と天守閣と僅かな石垣を残すだけだが、現存する天守閣の中で最も古い建築である。また、屋根が全部石瓦で葺かれているのは珍しく、後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、城郭建築が初期のものであったことがうかがえる。
昭和9年(1934)に国宝指定されたが、昭和23年(1948)の福井大地震により倒壊。昭和30年(1955)、ほとんどを昔の建材を使い修復再現され、現在は国の重要文化財となっている。

 


丸岡城(重文)


福井大地震(1948年)で倒壊。
55年に修復・再建された

 


城の天守閣から丸岡市街


丸岡城の天守閣から

 

天守閣の石垣の端に「一筆啓上」書簡碑がある。本多作左衛門重次が陣中から妻に宛送った「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は日本一短い手紙として有名だ。文中のお仙とは幼少名仙千代のこと。後の慶長17年(1612)~正保4年(1647)丸岡城の城主となった本多成重である。
城の近くには本多家の菩提所本光院、8代続いた有馬家の菩提所のある高岳寺などもある。
/入場料 300円、TEL 0776-66-0303


●長林山称念寺(新田義貞公墓所)

新田義貞公は鎌倉時代末期、現在の群馬県新田郡新田町(町村合併で太田市)に生まれ育った。正式名は源義貞で元弘3年(1333)僅かな手勢で鎌倉幕府を滅ぼしたが、南北朝の戦いへと発展し京都へ向かった。その後、幾度となく戦いに敗れ、北陸に落ち一時勢いを盛り返したが、延元3年(1338)越前国藤島の燈明寺畷(福井市)の戦いで戦死。遺骸は時の僧によって称念寺に運ばれ葬られた。
新田義貞公は源氏嫡流の名家であり、立派な武将であったことから、称年寺は時の将軍より寄進を受けていた。また天皇家の祈願所にもなり、近世には徳川家や福井藩、明治天皇からも手厚く保護を受けていた。しかし、現在はその面影もなく、参拝に訪れる人も少なくひっそりと静まり返っていた。

 


新田義貞の墓所・称念寺


明治時代までは手厚く保護を
受けていたが…。檀家はない

 


新田義貞の墓


新田義貞墓所の敷地内の塔

 


新田義貞公の墓所への門


世に出る前、不遇だった明智光秀の
妻の句碑。新しいものも隣にあった

 

境内には寛永16年(1644)建立されたという九重の石塔や、元禄2年(1689)8月に松尾芭蕉が称念寺に立ち寄ったとき、明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ句「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」の句碑もある。


●三国神社

毎年5月19~21日の3日間、北陸を代表する「三国祭」が行われる。各町内が競う豪壮華麗な武者人形山車がみどころ。山車は三国の町内を練り歩く。三国神社周辺の広い地域の道は車乗り入れが規制され、露天、屋台が500mほどの距離の道端や境内にまで並ぶ。本殿建立は延長5年(927)とあるが、天文9年(1540)湊の住人であった板津清兵衛が高柳村より流れ着いた御神体を拾い上げ納めたのがはじまりとされている。神社名は何回か変わったが明治18年(1885)に三国神社と改称した。
拝殿は天保2年(1831)窮民救済のため改築や境内の整備工事がおこなわれている。昔の福祉は民衆に仕事を与えたのである。神社楼門は江戸時代末期から明治にかけて完成したもので、福井県の有形文化財に指定されている。境内には大樹が多く、とくに鳥居の横にあるケヤキは樹齢600年という。

 


三国神社本殿


舟形の神輿。船首はトリをかたどっている

 


三国神社の祭りで町を練り歩く山車


菊の紋がついた神輿


●瀧谷寺(たきだんじ)

三国町、東尋坊への入り口に、柴田勝家寄進による鐘楼門が建つ瀧谷寺がある。戦国武将の朝倉、柴田をはじめ福井藩、丸岡藩の歴代藩主も祈願に訪れた寺だ。参道の敷石は福井市内で採掘された笏谷石で丸岡城の屋根瓦と同じものだ。雨に濡れると青み帯びた色に変わる。参道には苔むした龍の口から水が流れ、その脇には樹齢600年の老杉があったが、近年枯死したため、伐採されたそうだ。

 


柴田勝家寄進の鐘楼門


玉を咥えた龍の口から水が流れ出る

 


石と苔。静寂な瀧谷寺の庭


境内には木造、柿葺の鎮守堂がある。室町時代のもので、国の重要文化財だ。宝物殿には、元来中国古代の楽器で平安時代に造られた国宝・金銅毛彫宝相華文磬や重要文化財の天之図、絹本着色地蔵菩薩像などもある。

 

伝統の町金沢(寄り道編)



福井から金沢へのドライブの帰り道、ふと立ち寄った「那谷寺」と、福井から少し足を延ばした古戦場「賤ヶ岳」を紹介しよう。

タイトルとはかなり距離も離れているが、ともに福井市から日帰りコースである。

 

 

 

 

 

 




<コース>
金沢市-那谷寺-賤ヶ岳古戦場跡-福井市



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●那谷寺(なたでら)


金沢市から福井方面へと戻る途中(金沢から約30km)にある。白山信仰の寺で、養老元年(717)泰澄(たいちょう)大師によって開基された。その後、寛和2年(986)、西国三十三番札所を開いた花山法皇が那谷寺と名を改めた。現存するほとんどの建物は、江戸時代の寛永17年(1640)加賀藩主前田利常によって寄進されたもので、松尾芭蕉も立ち寄った名刹である。


那谷寺山門

 


大悲閣本殿の門


大悲閣本殿(重文)

 


岩を刻んだ護摩堂への階段


護摩堂

 

本尊の千手観音は自然石の岩窟に安置され、この地に御堂が建立されたことから、自生山岩屋寺とも呼ばれている。山門をくぐると、椿の並木と古杉に覆われ苔むした参道が続く。山や池のある広大な境内には本殿の他、庫裡書院、三重塔、護摩堂、鐘楼堂とあり、これらすべてが国の重要文化財という貴重な建造物が点在する。

 


寛永年間、前田利常が
再建した三重塔(重文)


前田利常が再建した鐘楼(重文)

 


鎮守堂


華王殿

 


なかでも珍しいのは、太古の噴火の跡が長い歳月の間に奇岩となって形成された遊仙境という天然の公園で、むき出しの岩肌には小さな階段が刻まれ、その奥に観音像が安置されている。

芭蕉は元禄2年(1689)8月5日(陽暦9月18日)曾良と別れ、北枝を伴い小松へと向かう途中、那谷寺に参詣した。


遊仙峡の岩上から見る池

 


鎮守堂から見る遊仙峡

 

「山中の温泉に行くほど白根が岳あとにみなして歩む 左の山ぎはに観音堂あり。花山の法皇、三十三の巡社をどげざさせたまひしのち、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとなり」と奥の細道に記されている。
“石山の 石より白し 秋の風”と詠んだ芭蕉の句碑がある。

 


翁塚「山中の…」の文が刻まれている


芭蕉の句碑


●賤ヶ岳(しずがたけ)古戦場跡

南西は奥琵琶湖と比良山系や竹生島など湖山の美しい景色が、東には遠く伊吹山を望み、足元には羽衣伝説で名高い余呉湖が広がる。奥琵琶湖随一の景勝地。
織田信長が本能寺で明智光秀に討たれてから9ヶ月、天正11年(1583)、近江国(現:滋賀県)、琵琶湖の北、賤ヶ岳(標高421m)付近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣)と柴田勝家との戦いの場でもある。これは織田勢力を二分する激しい戦いで、秀吉はこの戦いの勝利で織田信長の権力と体制の継承者となった歴史の場所だ。


合戦の中心となった余呉湖周辺

 

賤ヶ岳へは、北陸自動車道木之本インターを出て、交差点を左折、塩津方面へ向かうと、間もなくトンネルが見えてくる。トンネル手前を左折し、山際の細い道に入ると賤ヶ岳リフト乗り場の駐車場だ(リフト乗り場へはここから急な山道を徒歩5分)。
さらにリフトで5分。リフト終点から歩いて登り300mで賤ヶ岳山頂だ。

 


リフトで賤ヶ岳へ


七本槍古戦場跡

 

山頂からは東に木之本の街並みと、その遠くには小谷城のあった山も見える。眼下に臨む余呉湖を取り巻く山脈は柴田勝家が最初に陣取った中尾山(木之本と敦賀の県境)、その部下で尾山(金沢)城主佐久間盛政が前田利家勢との壮絶な戦いで最期を遂げたという大岩山が湖畔の右に小さく見える。
また、羽柴勢が砦を置いた天神山、余呉湖の北側に延びる北国街道周辺の山々など見渡す限りが戦場だったのだ。今は樹木に覆われた山々も、当時は丈の短い灌木や笹藪だったそうだが、現在のように整備された登山道などなかった時代のことである。

3月12日(陰暦5月3日)から約40日間続いた戦い、最初はまだ雪の中をかき分けての行軍でもあったという。鎧兜の重装備で1日40kmも歩いたという兵士の記録もある。
標高は決して高くはないが、連なる山中に砦を築き、激しい合戦が行われたとは、いまはとても想像すらできない穏やかで美しい風景が広がっていた。

 


賤ヶ岳山頂の像。山を駆けめぐり
疲れ切った様子がよく分かる


七本槍と言われた猛将の幟(のぼり)

 


合戦・戦没者の野仏がまとめて
供養されていた


名もない兵を偲んだ石像群

 

賤ヶ岳山頂には戦場跡碑と戦没者の碑がある。少し離れたところには、槍を担いで休む兵士の像もある。かなり疲れた表情が当時の激戦を偲ばせる。
そして再びリフトで下った麓には、この戦いで功名をあげ秀吉の武勲者として「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた七人の名が書かれたのぼりが立っていた。風にはためくその名は福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則と歴史に名高い若武者たちだった。

 

6 残雪の山々を望む平湯温泉と上高地



桜前線は津軽海峡を越えているのに、中部山岳地帯の標高約1,200m~1,500mの平湯や上高地の夜は小雪がちらつき、笠ヶ岳や穂高連峰は、まだ冬山ではと思われるほど、白く輝いていた。
上高地へマイカー乗り入れができなくなって久しいが、平湯、高山方面は国道158号線の中ノ湯、安房トンネルを抜けて、そのまま走れる。上高地へは沢渡で車を駐車場に預けバスに乗り換えなければならない(駐車料金1日500円)。上高地は5月の大型連休から秋の閉山まで、バス、タクシー、限られた車の他は混雑するため、中ノ湯からの県道24号線(上高地線)には乗り入れができない。
1日目はこの沢渡を通過して平湯温泉泊まり。2日目には平湯から沢渡へと戻り、上高地へと入った。

バスの車窓から飛び込んでくる焼岳、西穂高岳、岳沢…。梓川の左岸から明神、明神橋を渡って右岸の遊歩道を上高地へと戻る散策コースは、松本から飛騨路(その逆も)へのドライブで、欠かせないスポットでもある。平湯温泉からは笠ヶ岳の堂々とした姿、平湯大滝も家族連れの楽しめる場所だ。
途中、バス利用も入るが、平湯、上高地の散策を写真で紹介します。

 

 

 

 

 

 




<コース>
松本-沢渡-中ノ湯-平湯-中ノ湯-沢渡(バス乗り換え)-上高地-(バス)-沢渡-松本
全行程約150km


 

 


●平湯温泉

乗鞍岳の飛騨側、岐阜と長野を結ぶ安房峠の岐阜県玄関口に位置する。昔は難所の峠だったが、10年前に4,000mを超える長いトンネルが開通し、冬季は閉鎖されていた道も1年を通じて車の往来も可能になり、関東方面からも便利になった。

 


中央道・茅野付近からの八ヶ岳


平湯からの笠ヶ岳

 

海抜1,200m余、奥飛騨の温泉郷の中で最も古い歴史を持っている。江戸時代末、飛騨について書かれた「飛州志」に甲州の武田家臣が攻め入ったとき、険しい安房峠越えに疲れた兵士は白い猿が湯に悪い足を浸し、やがて軽々と走り去るのを見た、というのが平湯温泉の由来だ。以来、病を治しにここを訪ねるようになった。そして北陸大名も参勤交代の道中に立ち寄った。
約40以上の井戸、源泉があり、温度も90度を超えるものまである。
泉質は、ナトリウム、カルシウム、マグネシウム、炭酸水素温泉で、胃腸病、リュマチ、神経痛、皮膚病などに効くといわれている。

 


平湯神社


白猿を祭った猿満堂

 


平湯神社前からの笠ヶ岳


平湯館・旧館

 

トンネル開通前は山の中の素朴な温泉地だったが、大駐車場やバスターミナル、土産物売り場などが建設された。平湯のみどころの一つである日本名滝100選「平湯大滝」前には「平湯大滝公園」が平成16年夏にオープンされ、滝が氷結する2月にはライトアップされ、イベントも催される。

誰でも楽しめる「足湯」の他、約250年前の木造茅葺き、入り母屋造りの民家が移築されて作られた「民俗館」もある。内部には民具、農具などが展示され、敷地内には露天風呂もある。


平湯大滝

 


飲用の温泉。もちろん無料(平湯館庭)


足湯が人気。どこの温泉地にもある

 


湯量豊富な平湯は屋根にパイプを
巡らせ湯で雪を溶かす


豊坂家(移築)


●上高地

中ノ湯で国道158号線と分かれ、狭く長い釜トンネルを抜けると、風景も空気も一変する。透明な空気と冷たい風の中、バスが大きなカーブを曲がると、赤茶けた活火山の焼ヶ岳(標高2,455m)と淡いブルーの水をたたえた大正池が視界いっぱいに飛び込んでくる。
大正4年(1915)の焼ヶ岳の噴火で、梓川がせき止められてできた池で、立ち枯れた木立が幻想的だ。やがてバスがカーブを曲がるたびに、前方には雄大な穂高連峰が見えてくる。

 


梓川と焼ヶ岳


大正池と穂高岳

 

日本屈指の景勝地である上高地は、昔は仙境として仙人や猟師たちの世界だった。またのちには信仰の山として越中富山の僧呂、播隆上人が信者と共に槍ヶ岳に登り、山頂に祠を納めたという記録がある。
明治に入って、多くの外国人技術者や宣教師などが日本にきた。その中でイギリス人技術者ウィリアム・ガウランドは明治10年に槍ヶ岳に登り、その記録を雑誌で紹介。その後、同じイギリス人の宣教師、ウォルター・ウェストンも槍ヶ岳に登り、その著書『日本アルプスの登山と探検』で上高地と周辺の山々を詳しく紹介した。
ウェストンは山へ登るときは、地元安曇村生まれの猟師上条嘉門次を山案内人として常に一緒に行動し、著書の中で優秀な案内人ミスターカモンジとして描かれている。明神池のほとりにある当時の猟師、嘉門次小屋とともに嘉門次は有名な案内人として、今日まで語られている。


深い樹林と清流の木道

 


河童橋と穂高岳沢


梓川右岸の遊歩道とハイカー

 

現在の嘉門次小屋の主は4代目だという。往時の小屋の一部を残し、大きな囲炉裏に大きな鉄瓶が下がる。そして養殖とはいえ一時梓川の清流に泳がせたイワナを囲炉裏の炎とオキにかざして焼く。一匹900円となかなかの値段だが、30分じっくりと遠火で焼いたイワナは、頭から残すところなく旨い。商売上手のやしゃ孫に嘉門次は目を丸くしているかも知れない。

 


昔の名残を留める嘉門次小屋


嘉門次小屋のイワナは養殖だが、
遠火で焼きおいしかった


●明神池周辺

上高地河童橋から3km、徒歩約40分、槍ヶ岳や穂高へ向かう登山路から梓川にかかる釣り橋を渡ったところにある。
明神岳の眞下、周囲を湿原に囲まれたそれほど大きくはないが、深山深く清澄無垢なる池である。


明神岳

 


明神橋と明神岳


明神から梓川左岸の遊歩道には
美しい流れが多い

 

またここは穂高神社の奥宮であり、祠が祀られている。残念なことに、いつの頃からか池まで神社化し、池のほとりに立つには拝観料が必要になっていた。自然を守るというのなら結構なことと思うが。

 


穂高神社奥宮


奥穂高上空を飛ぶ旅客機


●上高地の猿

20年ほど前までは厳冬期の寒さに耐えられず、上高地には生息しなかった猿が、いまや沢山の群れで人々の与えるエサを狙っている。暖冬の影響もあるだろうが、観光客の残したゴミや「可愛い」といって与えるエサを頼りに、急激に増えたのだという。
いなかったはずの動植物が繁殖したために生態系が崩れ、在来種が絶滅したという事実はたくさんある。「猿及びカモ(カモもいなかった)」には「エサをやらないでください」のルールは守りましょう。

 

 

5 飛騨高山・郡上八幡・下呂温泉



飛騨高山といえば、からくり人形の仕掛けを施された屋台で有名な「高山祭」だ。祭りの起源は江戸時代、屋台の起こりは18世紀はじめに遡る。「飛騨の匠」といわれ、奈良時代から都の宮殿や寺院などの造営にかかわってきた。その職人たちの心意気が伝わる見事な屋台に魅せられて、春と秋の祭りには、この小さな城下町は人でいっぱいになる。
高山市より「郡上街道」を約70km南へ下った郡上八幡は、四方を山に囲まれ、町の中に吉田川と小駄良川が流れる水の町として知られる城下町だ。また誰でも気軽に踊りが楽しめる国の重要無形民俗文化財でもある「郡上おどり」は7月から8月の約1ヶ月、町のあちこちに会場を移しながら踊り続けるユニークな盆踊りだ。
そして国道41号線を東に辿ると下呂温泉がある。飛騨川の河原の中から湧く湯量豊富な温泉は江戸時代から有馬、草津と並んで、日本三大名湯として知られ、さまざまな歴史上の人物や文豪・詩人など多くの著名人も利用した。
高山から郡上八幡、再び高山へとルートを変えて往復した。面積の93%が森林という飛騨地域は、今、新緑の季節を迎え水辺の遊びや森林浴とマイナスイオンを浴びる絶好のコースだ。

 

 

 

 

 

 




<コース>
高山市-(国道158号線)-高山西-(県道73号線 通称郡上街道、途中から国道472号線、飛騨せせらぎ街道)-郡上市-(国道256号線)-金山-(国道41号線)-下呂温泉-高山経由-(国道158号線)-平湯温泉
全行程 約250km



 

 

 


●飛騨高山

城下町高山は、商人町として発達した本町、上町、下町の三筋の町並みを合わせて古い町並みと呼ぶ。出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋や老舗ののれんのかかる店などが並ぶ。もちろん売られている商品やお茶処、食事処のメニューなどの多くは観光客相手のものだが、雰囲気は江戸時代だ。一帯は重要伝統的建造物群保存地区となっている。

この町並みから宮川にかかる赤い「中橋」を渡ると「高山陣屋」がある。


高山の屋台

 


高山で最も古い松本家住宅


高山は外国からの観光客にも人気

 


中橋


高山の中心にある中橋


●高山陣屋

徳川幕府直轄の役所であった陣屋は、天正14年(1586)に飛騨国3万3千石の国主として入府した金森長近氏からはじまった、6代、107年続いた金森時代には下屋敷の一つであった。元禄5年(1692)金森氏が出羽国上ノ山に転封となった後飛騨は幕府の直轄となり、代官には関東郡代がきて、ここに役所を置き飛騨の政治をとった。
25代、177年続き、明治に入ってからは県庁、郡役所、支庁などとして使われてきたが、郡役所の建物が残っているのは全国で高山だけ。

   


●郡上八幡へ

高山市内から約6km、東海北陸自動車道ICの標識を見ながら県道73号線を南下、途中から国道472線を辿る。通称「飛騨せせらぎ街道」といわれ新緑、紅葉の名勝地大倉滝の見事な森林公園やキャンプ場、せせらぎ渓谷公園など、自然いっぱいの渓谷に沿ったさわやかなドライブコースだ。

 


大倉滝


8月、郡上八幡は連夜の踊り

 

高山市から約70km、郡上八幡は、名水と清流の城下町であり「郡上の八幡出てゆく時は、雨も降らぬに袖しぼる」と歌とお囃子にのって踊る盆踊りで名高いところ。毎年7~8月にまたがり町内には20日間も踊りの輪が繰り広げられる。また山城は、NHKの大河ドラマ「功名が辻」の主人公山内一豊の妻、千代が生まれたところと伝えられている。


●郡上八幡城

戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数によって築かれたのがはじまりで、その後興亡を経て大普請された。寛文7年(1667)6代城主遠藤常友の修復で、幕府から城郭として格上げされた名城だ。

 


八幡城址と復元された城


城から見る郡上八幡

 

しかし、明治4年(1871)廃城となった城は石垣を残してすべて取り壊された。現在の4層5階の天守閣は、昭和8年(1933)に再建されたものだが、日本での木造の城建築としては一番古く、天守閣は市の有形文化財に、石垣のすべては県の史跡に指定されている。
城からは、奥美濃の山々と狭い盆地に流れる吉田川、そこにひしめきあうように軒を連ねる城下町の家並みが見渡せる。

城下にある公園には、山内一豊の妻千代の像がある。


山内一豊と千代の像(後方は郡上八幡城)


●城下町の町並み

長良川に注ぐ吉田川、小駄良川の2つの川をはさんだ町並みが続く。この郡上八幡の町割りは寛文年間(1600年ごろ)に整備されたが、2度の大火に見舞われた。そこで2つの川の清流と湧き水を引き、町中に水路に張り巡らせた。それは防火のためだった。

 


軒を支える腕木が白く強調されていた


昔ながらの宿

 

城下には通称北町と呼ばれる3本の道があり、その一つである柳町には武士が住み、真ん中の殿町は家老屋敷やお馬舎などが並んでいた。もう一本の道は庶民の町で、袖壁(うだつ)をのせた大だなの商家から京都に似て、間口は狭く奥に深い職人町、鍛冶屋町、本町といった町名があり、いまでも当時の面影を見ることができる。
とくに庶民の町は、元禄5年(1692)の城下町帳によると、鍛冶屋が8軒でもっとも多く、桶屋、馬医、大工、畳屋、仕立て屋、酒屋などさまざまな職業の人が住んでいたという記録がある。


観光客より地元の人に人気の団子屋

 

昔は城下の防禦のため辻のつきあたりには「8家9宗」の寺が配置されていたが、現在も狭い町でありながら13もの寺がある。だが、多くはコンクリート製に立て替えられ、古い町並みからは、少し違和感があるが。


●水のある風景

長良川の上流に位置し、奥飛騨の山々から流れ出る吉田川、小駄良川そしてやがて大河となって太平洋に注ぐ3つの川が合流する町には橋の数も多い。その中でも吉田川にかかる「宮が瀬橋」と「新橋」は町の中心部にあり、郡上八幡の名所である。
宮が瀬橋の上からは澄んだ水の流れと緑の山頂にそびえる城が見渡せ、新橋からは深い谷底に渦巻いて流れる瀬を見る。夏になると子供たちが瀬をめがけて橋の上から飛び込むことで知られているところだ。橋の上から瀬までは12mもの高さがある。昔から地元の子供たちの度胸試しの遊びで、子供たちの事故は一度もないが、観光客は謹んで欲しいと書かれた掲示板があった。


吉田川にかかる新橋。川面まで12メートルを
少年たちが飛び込む

 

この町特有の水利用システムは、多くの家庭に400年前から続く「水舟」という湧水や山水を引き込んだ水槽がある。水槽は2槽または3槽からなり、最初の水槽が飲用や食べ物を洗う。次の水槽は汚れた食器などの洗浄に使う。食器などについたご飯つぶなどの食べ物の残りは、そのまま下の池に流される。各家庭で飼われている鯉などの魚の餌になる。ほとんどは家の敷地内にあるので、こうした状況は見ることができないが、町のあちこちに観光用にこうした水場がつくられている。

 


地蔵さんと水場


岩を彫り、祭られている神農薬師

 


やなか水の小道


街中を綺麗な水が流れる

 

水の町は、町並みの軒下を水路が縦横に走っているが、旧庁舎記念館の横にある民家の裏手の小さな通り「いがわこみち」には鯉やアマゴなどの川魚が泳ぐ水量豊かな用水が流れている。以前は洗い場もあったそうだが、観光客が向けるカメラに嫌がって用水を生活に利用する人ほとんどがいなくなったそうだ。


お土産には鮎、アマゴが人気

 


鯉、アマゴなどが流れに一杯いる


お洒落な花飾り

 


水の小道のベンチと古い家


家や路地には詩が掛けられている

 

小駄川が吉田川に注ごうとするところにある「宗祇水」は、環境省が選定した「日本の名水百選」第1号に指定されたことで有名になった湧水である。そして、いまではNHKはじめ、テレビ各局や雑誌などさまざまなメディアがこぞって取り上げる名水中の名水という。湧き出る水が3槽に分けられ、上は飲み水から下は土の付いた野菜などを洗う生活水として紹介している。そして、多くのメディアは野菜などを洗う主婦たちの姿とともに放映、あるいは紙面上に載せる。
しかし、地元の人の話では数年前に一度涸れたことがあるという。原因は不明だが、たぶん周辺の開発によるものらしいとも話してくれた。また現在の「宗祇水」はこの町の観光の目玉であって、「今時、狭い坂道を野菜を持って、ここまで洗いに来るひとはいないね」ともいった。

 


宗祇水への路地


団体客が次々と宗祇水へやってくる


●旧庁舎記念館

「新橋」のたもとにある旧役場で国の登録文化財に指定されている建物。
内部は観光案内所と特産品の展示販売や軽食堂などがある。2階は郡上踊りの体験会場となっている。
/入場は無料
  観光案内所TEL 0575-67-0002


旧・市庁舎


●下呂温泉

国道41号線を飛騨川(益田川)に沿って高山へと北上。途中、巨岩、奇岩の渓谷が約30kmも続く風光明媚な道を辿る。だが、車を止めて眺めるスペースがほとんどないのが残念だ。
下呂温泉は益田川の河原に湧くアルカリ性単純泉で無色透明の温泉。江戸時代、徳川家康、秀忠、家光、家綱の4代の将軍に仕えた儒学者、林羅山(1583~1657)詩文集に全国の温泉の中で「草津、有馬、下呂」が天下の三名湯と記し【日本三名泉】と称されている。
この天下の名泉も乱堀で、湯量が激変。「現在は飛騨川河原からくみ上げられた湯は、温泉組合で管理し、各温泉場に湯が供給されている」と、いまは廃業した元旅館の女将さんが教えてくれた。

 


中山七里は美しい岩と流れが見物


草津、下呂、有馬が三名泉という

 

下呂温泉といえば、全国の温泉の中でも人気どころだ。狭い道いっぱいに建ち並ぶ旅館や食堂、遊技場などの古い温泉街が残り、河原には露天風呂もある。また河川敷は遊歩道や公園などに整備されているが、その河原の中に湧く湯をそのままに利用した無料の露天風呂は野趣たっぷり。下呂大橋から入浴する人が丸見えなのが難点だが、それでも風呂を楽しむ男性たちでいっぱいだった。
女性たちも気軽に入れる「足湯」が町には5ヶ所もあり、タオルをさげて足湯のはしごをする人たちもいた。
すべて無料で24時間利用できる。山の上には温泉寺があり、ここからは下呂温泉の町が見下ろせる。

 


移築された合掌造りの家


飛騨川河川敷の野天風呂

 


下呂温泉の源泉は河川敷。
ポンプは燈籠でカムフラージュ

 

木曽路を抜けて飛騨高山へ



中山道(木曾路)の宿場町、贄川、奈良井を抜け、木曽福島から地蔵峠を越え、木曽馬の生産地だった開田村。さらに高山へ向かう国道361号線を辿った。江戸時代には飛騨街道(木曾街道)と呼ばれ、途中、分かれて野麦峠を越える道を江戸街道といった。高山から江戸へ行くには最も近い道だったという。
落差100mもある滝の上、標高1,370mの地蔵峠をはじめ1,000m級の峠を越えて辿り着いた村も、いまは国道361号線のトンネル(新地蔵峠)の開通で、木曽福島の町から約17km、20分ほどの距離だ。
平成17年、福島町、開田村、日義村、三岳村の4町村合併で、現在は木曽町となった。その木曽町の多くは御嶽山の裾野にあり「♪夏でも寒いよ ヨイヨイヨイ~」と歌われたところ。昔は蕎麦しかできないと言われたかつての開田村は、いまは自然を生かした観光開発に力を入れている。また2つのダム湖をながめながら、高山へと向かうかつての街道は、これから迎える新緑の季節には絶好のドライブウェイだ。

 

 

 

 

 

 




<コース>
首都圏-(中央自動車道)-塩尻IC-(国道19号線)-木曽福島-(国道361号線)-開田村-朝日村-美女峠-(国道41号線)-高山
全行程約340km


 

 



甲府盆地・一宮の桃の花

いつも取材旅行は天気予報を参考に出かける日を決める。その上、週末をなるべく省くことにしている。3日ほど好天が続くという予報に中央自動車道を急いだ。

八王子を過ぎると人家が途絶え、芽吹き始めた山々が迫る。長い笹子トンネルを抜けると、いまが盛りの桃の花が一面に咲く、広い甲府盆地だ。やがて八ヶ岳や南アルプスの雪の峰を眺めながら、諏訪を過ぎ塩尻ICを出た。


●贄川(にえかわ)宿関所跡


中山道は江戸時代の五街道の一つ(東海道、甲州街道、日光街道、奥州街道)で、江戸から京都まで129里(510km)が69ヶ所の宿場で結ばれた主要道であった。
塩尻から中津川へと続く中山道(国道19号線)は木曽川に沿って下る。山間部の道だが、東海道に比べ川止めが少ないことから女性が多く利用した。贄川は福島関所の補佐的な関所だが、婦女の通行と杉や檜の搬出を厳しく取り締まった。


贄川関所跡

 

明治2年、福島関所とともに閉鎖され、原型はとどめていない。復元された建物の下にある「木曽考古舘」には村内簗場跡などで出土した土器石器類が展示されている。
/入館料 200円


●深澤家住宅


国・重要文化財、深澤家住宅

贄川宿屈指の商家。街道に面して主屋が建ち、その裏には中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。主屋は、嘉永7年(1854)、北蔵は文政4年(1821)、南蔵は文久2年(1862)に建築されたもの。
この3棟の建築年代があきらかで、保存状態もよく、江戸時代末期の木曽地方における商家の姿を忠実に留めているため価値も高く、国の重要文化財に指定されている。


●奈良井宿


中山道最大の難所と言われた鳥居峠をひかえ、峠越えに備えて宿をとる人が多く「奈良井千軒」と呼ばれるほどの賑わいをみせていた。街道の両側に建ち並ぶ建物はほとんどが低い2階建てで、南北に約1km続き、町はずれには神社がある。
この町並みの背後、山裾には5つの寺院が配され、街道に沿って北から下町、中町、上町に分かれている。中町には本陣、脇本陣などが置かれていた。
現在も当時の町並みを残している。もちろん国指定重要伝統的建造物群保存地区である。


奈良井の家並み

 

この旧道、中山道は住人や関係者以外の車は乗り入れはできない。町の入り口には駐車場がある。車を降りて歩けば、江戸時代にタイムスリップだ。
(贄川宿から奈良井宿までは2000年4月「中山道(木曽路)を行く」を参照)

 


街道に沿う奈良井の家並み


奈良井・中村家住宅

 


奈良井宿の大橋


旅人を和ませる奈良井の水場

 


奈良井宿の水場


奈良井宿の水場


●国道361号線


飛騨街道、または木曾街道とも呼ばれている。中山道・宮ノ越宿を過ぎ、福島宿の手前木曽大橋を渡ると中山道と別れ、これより国道361号線を飛騨高山まで約60km、時折、木曽御嶽山の雄姿を眺め、道祖神や馬頭観音に導かれながらのドライブだ。


旧・飛騨街道(木曽街道)の標識


●二本木の湯と唐沢の滝

木曽福島中心部から黒川沿いを約10分、国道361号線と分かれ旧道(飛騨街道)に入って間もなく「二本木の湯」に着いた。昔から街道を行く旅人や御嶽修験者などの憩いの場として親しまれていた温泉。炭酸水素塩冷泉だ。山々に囲まれた静かな温泉で、晴れた日には湯に浸かりながら木曽駒ヶ岳を眺められると、地域の人々に評判が高い。
幸運にも雪の木曽駒ヶ岳(2,956m)や三沢岳(2,846m)の頂を見ることができた。

 


地蔵峠への道には二本木の湯がある


二本木の湯から見る木曽駒

 


唐沢の滝。落差100m。昔は130mあったという

温泉から約1kmのところで出会う滝は「唐沢の滝」で飛騨街道の名勝の一つだ。

高さは75間(135m)、四段の滝で旧道はこの滝の右斜面を登り、滝の上に出たというが、かなりきつい登りであったと思われた。道は度々改修されたため、現在の滝の高さは約100mという。年間通して水量は変わらないそうだ。


●地蔵峠

地蔵峠(1,335m)は木曽福島より開田への玄関口にあたる。昔は「唐沢の滝」の上に出る険しい道を避けて遠回りする道筋だったが、安政6年(1859)に現在の旧道が新道として開発された。峠の石地蔵は享保13年(1728)に建てられたが、台座だけを残して盗難に遭い昭和44年(1972)に再建されたもの。お地蔵さんを盗むとは酷い人もいるものだ。
地蔵の脇から遠く乗鞍岳の頂が見える。
峠を開田側に少し下ると展望台がある。ここからは木曽御嶽山が、その全容を惜しげもなく見せてくれる。


地蔵峠のお地蔵さん。台座(江戸時代)を残し、
地蔵さんは盗まれて新しく作った

 


地蔵峠から見る旧・開田村


地蔵峠展望台からの御岳


●開田高原

御嶽山の東山麓に広がる高原で、標高1,100~1,300mのところにあり、目の前には御嶽山を望み、真夏でも平均気温18度ほどしかないという。
「昔は蕎麦しか作れない土地だった」と観光案内所の女性は、かつての寒村の話をしてくれたが、今は木曽馬の繁殖及び保存地として、広い牧場や温泉開発、キャンプ場、保養休養地、またブルーベリー栽培など自然を生かした施設がつくられ、貧しかった村の面影はない。


●稗田の碑と石仏群

地蔵峠から下った末川村(開田)の入り口に、念仏構などの民俗行事の聖地として大切に保全されてきたというところがある。稗田の碑をはじめ双体の道祖神、庚申塔、二十三夜塔及び沢山の馬頭観音が並ぶ。馬と共に生きた開田の人々の心を映した馬頭観音は、道祖神よりその数が多いという。
開田にある1,900体石仏の内、1,492体が馬頭観音だと、案内所の女性が教えてくれた。近くには馬頭観音と並んで魚族慰霊塔もあり、生き物に対する尊厳の念と感謝の気持ちが伝わってくるようだった。
脇にある木造の古い堂内には西国三十三札所の石仏と供養塔が納められている。
唐沢の滝、地蔵峠を越える旧道は11月から4月までは通行止めのため、冬季は国道より旧道に入る。

 


馬頭観音


たくさんの野仏

 


峠道には路傍の紙が祭られていた


ヤマメ、イワナも供養した


●木曽馬の里

白樺の林をくり抜くように広い牧場と馬厩舎があり、小振りでやや太めの栗毛の馬が放牧されていたり、厩舎につながれた馬だけがいた。観光シーズンではないいま、飼育者の姿もなかった。そこで馬と案内板だけが頼りの取材だ。
木曽馬は、北海道の道産子や宮崎県の御崎馬とおなじように、日本に昔から飼われていた馬で「日本在来馬」といわれる。それは1200年にも及ぶ長い歴史を、人々と共に生きてきた馬だ。木曽義仲(1180)挙兵のころには、木曽馬は優れた馬として各武将に愛された。
その後、山間農耕馬として活躍したが、軍馬には小柄で不適応であり、戦後は農業の機械化で木曽馬は激減した。一時は50頭以下まで減ったため、木曽馬保存会によって、わずかながらも増やされ、現在木曽地域に80頭、全国で150頭までになり、保護育成されている。牧場内には乗馬体験コースがある。

 


白樺の高原に放牧されている木曽馬


木曽馬


●とうじ蕎麦


米栽培ができなかった高地寒冷地の開田では、蕎麦は主食のようなものだったという。いまは健康志向も手伝ってか蕎麦は、なかなかの贅沢品であり、こだわった愛好家の多い食べ物になっている。しかし、蕎麦はあくまでも蕎麦、美味さを引き立てるのはだしの旨みの効いたつゆだと思う。
地蔵峠から下った麓にある「ふもとや」という蕎麦屋では、とうじ蕎麦という珍しい蕎麦の食べ方だった。


とうじそば。ざるに蕎麦を入れ、汁につけて暖める

 

鉄なべの中のだし醤油の汁に刻んだ油揚げとネギを入れ、これをガスコンロにかけて煮る。一枚のざるに小分けにされたもり蕎麦を竹で編んだこしに入れ、熱く煮えた鍋の中にくぐらせて、中の具と一緒に食べる。これがまた蕎麦の味を引き出してくれて旨いし、体が暖まる。「投汁」と書いて「とうじ」という。思わずうなずく。まさに寒い土地に生きる人々の知恵といえよう。
/問い合わせ TEL 0268-42-3012


●山下家住宅

開田は昔の飛騨街道の西野峠(1,370m)を越えたところにも集落がある。現在は観光案内所のある集落から国道で九蔵峠を通って約10kmの道のりだ。ここに木曽馬の大馬主の住宅が残る。慶応元年(1865)~2年ころの建築であり、県宝指定になっている。
「馬小作」といって馬を貸し付け、仔馬を育て売却した。小作人は4本の馬の脚の1本分を受け取る仕組みだったが、これでは哀れと昭和に入ってからは2本分に改められたという。間口11間、奥行き8間の堂々とした住宅には、馬小作の貸付台帳や馬医書、漢方薬調合器具、そして立派な馬小屋なども残されている。山下家は跡取りが絶えたため、県に遺贈された。

 


山本家住宅。木曽馬を貸し出す元締めだった


山本家住宅内部

 


馬小作に貸し出した記録


馬小作の名も残る

 

これより国道361号線は、高根ダム、秋神ダム湖を通り美女峠へと向かった。「峠には古くは木曾街道と呼ばれ飛騨高山から美女峠を越えて朝日村に入り高根村を経て木曽の福島に至る重要な官道であった」と書かれた説明版があった。また昭和50年(1975)には国道361号線に昇格されたともあった。
高山まではこれより14~5kmだが、国道は通行止めになっていた。約2km戻った地点には「高山方面」への標識があり、新しい道が通じていた。

 


九蔵峠からの御岳

 

 

 

秘境秋山郷



秋山郷は新潟県の津南町と長野県栄村にまたがる山深い山村で、中津川沿いに点在する12の集落のことを指す。詳しくは新潟県側を越後秋山郷、長野県側は信州秋山郷と呼ばれている。
急峻な山々に囲まれた集落は、新潟県側からバスが開通した昭和30年代まではほとんどが自給自足の生活をし、冬は豪雪に阻まれ、陸の孤島となった僻地であった。雪のない季節には、秋田からやってきたマタギとともに熊や鹿などを狩り、イワナを釣って草津へ売りに行っていたという。
地図の上では群馬県草津温泉との境(六合村経由)でもあるが、険しい山越えをし、野反湖を経て健脚をもってしても1日がかりの道のりである。
史実は定かではないが、近年「平家落人」説が浮上。秘境ブームと相まって登山、温泉、新緑、紅葉などの大自然とふれあう地として、多くの観光客が訪れるようになった。
また温泉も多く、とくに雑魚川と魚野川の合流点に近い魚野川「河原の露天風呂」が人気だ。今回は信州秋山郷を巡るドライブである。

現在、秋山郷へのアクセスは長野、新潟を千曲川沿いを走る国道117号線を津南(新潟)で国道405号線へ入って、そのまま道なりで行ける。長野県からは、志賀高原あるいは野沢温泉から県道や林道で結ばれている。ただし、長野県側からは冬季はもちろんのこと大雨などのときは道路封鎖されるので注意をしよう。

 

 

 

 

 

 




<コース>
長野市-(上信越自動車道)-中野IC-(国道403号線)-須坂-志賀高原丸池-(奥志賀林道)-清水小屋付近より野沢温泉方面と分かれ秋山郷へ-切明温泉-屋敷温泉-小赤沢(信州秋山郷の村々を訪ねて戻る)-長野市
全行程約200km



<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください> 

 

 


●秋山郷へ

奥志賀林道を下った地点で、野沢温泉と秋山郷への分岐点へ出た。細い道がさらに細くなった道を長野県栄村へと向かう。標識には「秋山郷へ12km」と書かれていたが、越後集落まで加えると20km以上ある。何処を指して12kmなのかわからない。切り立った山肌を削り採って作られた狭い道には、対向車との避難場所もあるが、地図の上でも心許ない曲りくねった林道で、秋山郷は遠い。
日本有数の豪雪地帯、独自の文化と風習が受け継がれている秋山郷は、豊富な温泉と奥深い山々の渓谷美に魅せられて、新緑、紅葉の季節には、この山道も車が渋滞することもあるので、時間も心にも余裕を持って出かけよう。片側は殆どが底が見えないほどの深い谷なのでくれぐれもご用心。


奥志賀から秋山郷へ。
冬は道路閉鎖

 


秋山郷への道


秋山郷への道には随所に
滝が懸かる

 


鳥甲山から落ちて来る谷


急峻な山。木はあるがのぞくと
谷ヘ一気に落ち込んでいる

 

日本一長い信濃川の源流ともいえる雑魚川に沿って続く道、いま新緑に覆われた山々は高く、切り込んだ谷はどこまでも深い。途中、樹木が途切れ、深い谷がむき出しになった地点からは2,000m級の山々の連なりを望む。
こんなに深い山の奥に人の住む集落などがあるのかと、いささか心細くなるころ、道は二股に分かれ「右 切明温泉・左 秋山郷屋敷」という看板を見る。
まずは中津川を渡らず道なりに、信州秋山郷の最奥の屋敷・小赤沢集落へと向かった。森林の中をくねくねと続く狭い道。時折、中津川をはさんで数件の集落が見え隠れする中を走ること7~8km、屋敷に着いた。


●信州秋山郷 屋敷

信州秋山郷には越後との境界を挟んだ南半分に屋敷、小赤沢、上野原、和山、切明の5集落がある。屋敷は左岸にある唯一の集落。すべての集落がそうであるように住人の多くは高齢者だという。鳥甲山(標高2,038m)への登山口でもある。

 


谷川岳を連想させる鳥甲山


秋山郷、唯一左岸にある屋敷集落

 

屋敷から北へ通じる道路から「大秋山村」の標示柱を見て右へ、かすかな車の轍を1kmほどで秋山郷に最初に人が住み着いたところといわれている大秋山村跡があった。8軒あった村は天明3年(1783)の大飢饉で滅びたという。死に絶えた村落跡には、昭和13年(1938)屋敷の人によってつくられたという墓石や石仏が並んでいた。
冬には雪によって途絶される村、焼き畑農業と狩猟で細々と暮らしていた村人にとっての凶作は、そのまま命取りであった。天明の飢饉で生きながらえた少数の村人も、天保2年(1831)から3年間の凶作で命を落としている。
昭和30年代まで、こうした自給自足の貧しく、ときには悲惨な秋山郷の歴史が、皮肉にも独特の文化と風習を作り出し、現在まで受け継がれ、美しい渓谷美とともに今日の秋山郷の魅力をとどめている。

 


秋山郷の左岸と右岸をつなぐのは
屋敷と切明の2ヵ所の橋だけ


大秋山村跡への道標

 


谷間の学校と屋敷集落


消え去った大秋山村の墓地

 


屋敷集落の地蔵堂(左)と薬師堂


薬師様への願掛け。頭が痛ければ帽子、体が
弱ければ寝間着などが願掛けに使われる

 

中津川を見下ろす屋敷集落の外れに、薬師堂が建っていた。御堂の中には祈願の文字が書かれた男性の下帯、女性の下着や帽子、子供の肌着などがびっしりと、壁や柱にかけられていた。村人に尋ねると「身体の悪い部分を下着に託して願掛けした」のだという。病院も医者もいず、薬も買えなかった時代、薬師さまにすがることしかなかった頃の名残だろう。
中津川を隔てたところに信州秋山郷唯一の小学校がある。生徒は隣の小赤沢集落と上野原集落を合わせて7人だけ。教師と職員が8人いるという。先生が生徒たちを送り迎えするという贅沢な学校だ。ちょうど6年生を先頭に7人の子供たちの下校時に出合った。
先生は麦わら帽子をかぶり最後尾を歩いていた。

 


モダンな秋山小学校


秋山小学校は全校生徒7人、
教師などが8人だった


●小赤沢

現在の信州秋山郷の中心ともいえる小赤沢集落には、民俗資料館、秋山総合センター「とねんぼ」がある。「とねんぼ」とは方言で、ひとつにまとまるという意味だそうだ。文字通りこの建物には、役場、郵便局、資料館、観光案内所などがある。

 


小赤沢の集落。秋山郷の中心地


小赤沢には野仏が並ぶ

 


秋山小学校は谷へ移動。今は
観光案内所などがある


木にも神が宿る

 

資料館には豪雪などで、1年の大半を閉ざされた地方の古い生活様式や風俗習慣などが残されている。興味深いのは、秋田からやってきたマタギの人々が、村に定着したといわれるその生活ぶりや狩猟の方法や道具などが展示され解説もあることだった。
総合センター横には標高2,145mの苗場山を祀る「苗場山神社」がある。うっそうとした樹木に囲まれた古い社は、訪れる人を遠い昔、心の故郷へと誘うようだ。

 


苗場山神社


かつて猟師が冬にかぶった

 


熊の落とし穴。深さ約2m。
中は広く抉られている


熊の落とし穴への道標


●上野原、和山


秋山郷を世に紹介した江戸時代の文人鈴木牧之の泊まったという民家がある上野原。ここには露天風呂から鳥甲山が眺望できる公共の温泉宿「よのさの里」もある。

和山には同じ江戸時代、秋田のマタギによって発見されたという温泉があり、民宿が5軒ある。その和山には山の神、十二様を祀る「十二宮」や庚申塚もある。


烏甲山は岩壁を巡らせている
(上野原集落付近から)

 


左岸から谷越しに見る和山集落)


和山の十二宮(山の神)


●切明

中津川上流、雑魚川、魚野川が合流する切明は、人の住む集落でなく、温泉宿だけがある。河原に湧く温泉としても名高い。群馬県の野反湖に源を発する魚野川、志賀高原周辺の沢が集まって流れ下る雑魚川が合流して中津川となる。
2つの渓流は、イワナやヤマメの宝庫として渓流釣りを楽しむ人々にはよく知られている。その渓谷への道は険しく、山や沢登りになれた人でないと入るのは難しいとされる。この2つの川が合流するあたりが切明で、深い谷を流れる魚野川の河原から湯が湧く。

 


切明温泉の露天風呂。すぐ下を
中津川が流れる


中津川の川原に湧く温泉。
好きなように掘り、水と湯を混ぜる

 


吊り橋と川沿いの宿


雄川閣。村の第3セクターが経営

 

江戸時代末期に発見された温泉で、最初は山小屋のようなところに客を泊めていたことからはじまった温泉宿も、昭和47年(1972)雄川閣(村営)が温泉宿として本格営業となった。他に2軒の宿があるが、なんといってもこの温泉の醍醐味は、河原を自分の手堀で湯加減をしながら入る自然の野天風呂である。河原を掘るシャベルは雄川閣で借りられる。自然の中で生まれたままの姿になって河原湯に浸かるのが最高だが、水着でもよい。雄川閣にも川を見下ろす形の露天風呂がある。
料理はイワナと山菜で、天井の高い木造作りの部屋は、いかにも山の中という風情があって落ち着く。冬も営業しているが、長野県側からは通行できない。

 


川は全室から眺められる


イワナ、タケノコ、ヤマブドウの葉、
山ニンジン…。山の幸の夕食

 

この他、秋山郷には各集落に温泉宿(多くは民宿)があるが、これらは栃川(上野原と和山の間を流れる湯の沢)付近を近年500mボーリングし湧出した湯を引いたもの。しかし、どこも天然掛け流し湯だ。


●幻の国道405号線

新潟県津南から秋山郷を結ぶ国道405号線は切明温泉近くでプッツリと切れて終わっている。これより魚野川に沿うように、地図上には点線で示された道が群馬県吾妻郡六合村野反湖畔へと続く。幻の国道405号線と言われている道だ。この405号線は再び野反湖から六合村へ。ここから国道292号線となって草津温泉へ通じているのだ。
つい40年ほど前までは、健脚をもってしても丸一日かかる秋山郷-草津温泉間を獣肉や毛皮などを持って往来した人の道なのである。時には米を牛の背に乗せて急坂を移動したという。馬は歩けないほどの山道なのだ。
切明の昔の道へ通ずる「中津川林道」の入り口は、閉鎖の鎖が張られていた。

 


国道405号線は切明で途絶える。徒歩の
難路、谷を遡り群馬・六合村で復活する


中津川林道は一般車通行禁止

 


国道は途絶え、通行禁止の林道となり、
それも数キロで消える


二十三夜塔

 

 

信濃山里の古刹と真田城下町松代



上田市の西に位置する別所温泉とその周辺

塩田平といい、今から1300~1400年の昔、九州の阿蘇山の麓から多くの氏族がこの地にやってきた。そして大和朝廷から信濃国造に任命された阿蘇氏がこの塩田平に定着したことから歴史がはじまった。後の鎌倉時代には北条氏が治め、塩田北条氏と呼ばれていた。
中部日本で最古の建築の「薬師堂」(国宝)をはじめ、奈良や京都にある三重塔に匹敵する名作と言われる三重塔など国宝の建造物や仏像が多く残り「信州の鎌倉」と言われている。
一方、別所温泉は古代から、庶民の安息療養の場所と同時に、温泉信仰が生まれ、やがて仏教の霊場としての観音堂なども建てられたところである。江戸時代には上田藩主所有の時もあったが、今も昔も名湯は共同浴場として土地の人や観光客に親しまれている。




<コース>
長野市-(国道18号線)-上田市-JR上田駅前-(国道143号線)-別所温泉と山里古刹群-JR上田駅-(上信越自動車道)-長野市
行程約120km

 

 

 


●別所温泉

夫神岳(標高1,250m)と女神岳(標高926m)の麓にあって信州でも最も古い歴史を持つ温泉の一つ。古代からのこの温泉の効能は広く知られていた。その効能が神仏の霊験として観音さまがつくられた。温泉街にある「北向観音」がそれである。この観音さまを中心に長楽・安楽・常楽という三つの寺ができた。
別所温泉のある塩田平は「信州の学海」と呼ばれ、信濃文化の中心地でもあった。
中世には、木曽義仲・塩田北条氏・真田氏などの豪族や、一般庶民たちがこの出湯を愛し、守ってきた。

 


別所神社から別所温泉を展望


●北向観音

別所温泉のシンボルともいえる観音堂は、長野市の善光寺に向けて北向きに建てられていることから北向観音という。

 


北向き観音のお堂(左)と境内


清めの水は温泉が引かれている

 

本尊は千手観音菩薩。善光寺と向き合っていることから、北向観音のご利益は善光寺と一体のものといい、一方が欠ければ“片詣で”とされてきた。観音堂の地を「院内」といい、ここから鎌倉時代から室町時代にかけての石塔群が発見され、歴史が裏付けられた。現在の観音堂は正徳3年(1713)に焼失し、8年後に再建された後に、何度か改修されたもの。
御堂の右側には、海抜650mのこの地には珍しい桂の大木がある。樹齢1200年の老木で、観音菩薩が影向した霊木と言われている。境内の東隅にある「愛染明王堂」とこの桂の木にちなんで、川口松太郎氏が「愛染かつら」を書いた。年配の人には馴染みある小説ドラマだが、若い人達からは縁結びの霊木として親しまれているそうだ。


樹齢1000年のカツラの木。
愛染かつらの題名にもなった

 


北向き観音への参道


北向き観音に隣接する薬師堂

 

観音堂の西方崖の上に建つのは「医王尊瑠璃殿」という薬師堂で「瑠璃殿」とは薬師如来を瑠璃光如来と呼んだことからこの名がついた。現在の建物は温泉薬師信仰の深い人々によって文化6年(1809)再建されたもの。


●別所神社

温泉街を望む高台にある社で、18世紀の神社本殿としては規模が大きく、建築作品として優秀なもの。保存状態も当時の様式をよく残している。本殿内には、享保9年(1724)から天明8年(1788)にかけての棟札が20枚もある。それによると神殿建築の棟梁は末野庄兵衛安定となっている。末野家は、この地方随一の江戸時代からの棟梁であった。
上田市の指定文化財。

 


別所神社本殿


別所神社の舞台。梁は自然の
気を生かし力強い


●共同浴場

温泉街には「石湯」「大師湯」「大湯」「あいそめの湯」の4ヶ所がある。いずれも温泉街の中心地にある。
「石湯」は真田幸村の隠し湯と言われている。内部には大きな自然石を配した岩風呂になっている。「大師湯」は北向観音の手前にあり、比叡山延暦寺の高僧、慈覚大師のゆかりの湯として親しまれている。「大湯」は伝説では、木曽義仲が葵御前と逗留したと伝えられている。別名「葵湯」ともいう。室内湯と露天風呂がある。「あいそめの湯」は新しく上田市が健康と福祉を目的とした共同浴場。休憩所としての部屋もある。
入浴料は共に150円。泉質 単純硫黄泉 無職透明 温度51度。

 


別所温泉の石湯


お洒落な足湯もあった


●安楽寺・八角三重塔(国宝)

別所温泉街のはずれ、夫神岳の山裾を登った山腹にある国宝・八角三重塔を持つ寺。八角の塔は日本では珍しく、奈良の西大寺や京都の法勝寺の塔が古代ならば、中世に中国から渡ってきた禅宗の八角塔はこの安楽寺だけ。
中国から入ってきた禅宗の安楽寺は開山当時は中国と深い関わりがあり、二世の幼牛恵仁は中国生まれであったことからこの八角三重塔が建てられたのは正應2年(1290)鎌倉時代の終わりごろと言われている。我が国最古の禅宗様建築であり、いま日本に残っている禅宗寺院の七つの塔のうち、禅宗様式は、この安楽寺しかないという。
/拝観料 300円、TEL 0268-38-2062

 


安楽寺への参道


樵谷惟仙禅師(右)と幼牛恵仁禅師
(重要文化財)

 


安楽寺・八角三重の塔。内部が
三階なので三重と呼ぶという


三重の塔の屋根は綺麗な曲線


●常楽寺・多宝塔(重要文化財)

別所温泉を開いた慈覚大師の開山と伝えられている古刹。北向観音の本坊でもある。どっしりとした見事な茅葺きの本堂は、長野県内では有数の古い木造様式。鬱蒼とした木立の茂る裏山には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔がある。

 


常楽寺本堂。かやぶき屋根が美しい


常楽寺・石造多宝塔


●大法寺・三重塔(国宝)

温泉街から北へ直線距離では2kmほどだが、車道は大きく迂回して約6km、国道143号線へ出て間もないところにある。
大法寺の三重塔は、別名「見返りの塔」とも言われている。この塔の姿があまりにも美しいので、思わず振り返る、ということから名がついた。たしかに三重の屋根の曲線は、さながら大空に舞う鳥の翼のように、のびのびとして実に軽やかである。それは、初重がとくに大きいのが特色という。
二重、三重で組物を三手先という正確な組み方としていることに対して、初重だけが、少し簡単な二手先にしたので、その分だけ平面が大きくなっているので平凡になりがちなものに、形に変化をつけてバランスをとっている。屋根は「檜皮葺」で京都御所の屋根などと同じで、最高級の葺き方だ。上品な反りとともに、いっそう塔の格調を高いものにしている。この塔の他には奈良興福寺の三重塔があるだけ。

 


大法寺三重塔。見返りの塔とも呼ばれる


鋭角と曲線。見返りの塔は見事

 

塔が建てられたのは墨書によると正慶2年(1333)で、時代は鎌倉から南北朝に移る過度期である。
境内にある観音堂内には木造十一面観音立像、木造普賢菩薩立像並びに大法寺厨子などいずれも重要文化財を拝顔(別料金)することができる。
入山料は100円で、これほど美しい建造物が堪能できたことに感激。その100円も払わず入り込む御仁がいると住職は悲しげにつぶやいていた。
/TEL 0268-49-2256


●中禅寺

空海によって開かれたという真言宗の古刹。創建は、再度の火災のため多くの記録も焼失したため不明だが、現在の建物は享保19年(1734)に建立された。この寺での見所は国指定重要文化財に指定されている「薬師堂」と同じ重要文化財の「薬師如来座像」だ。
薬師堂は藤原時代の阿弥陀堂形式で建造されたもので、鎌倉時代初期に建立されたと推定されている。重厚な茅葺き屋根は寄せ棟で、堂内の中央には四天柱があり、本尊が安置されている。この古い形式による建物は、長野県はもちろん、中部地方でも最古の御堂である。また薬師如来座像はカツラ材・寄木造りの仏像。四天王にかこまれた古式に台座に座っている平安末期の作品という。

 


中禅寺薬師堂(重文)


薬師如来座像(重文)

 

この他、木造金剛力士立像もある。高さが205cmとやや小振りだが、平安後期の金剛力士像は全国的にも数が少なく、貴重なものだ。
/入山料 100円、TEL 0268-38-4538

 


中禅寺の木造金剛力士像(吽型)


中禅寺・木造力士像(阿型)


●前山寺(ぜんさんじ)

塩田平を囲む夫神岳、女神岳、そして南に位置する独鈷山(標高1,266m)の山麓に佇む寺院。弘仁年間(812)ころ、空海上人が護摩修行の霊場として開いたと伝えられている。重要文化財に指定されている三重塔は、室町時代に当時の戦国武将たちの信仰するところとなった。
塔は未完成の完成と言われ、その完成されない姿の美しさは、芸術的とも言われている。端正な造形美は見る者に深い感銘を与える。境内には江戸時代の建立という庫裡があり、お茶や菓子を楽しむこともできる。
/入山料 100円、TEL 0268-38-2855


前山寺本堂
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)

 


前山寺参道から見る上田の町


三重の塔。2階、3階の窓が未完成のまま


●塩田城跡


中禅寺から前山寺へと辿る道に「塩田城跡」と書かれた碑があった。
建治3年(1277)、北条義政が、鎌倉を出て信濃の塩田へ移り、居館を構えたことから塩田北条氏と呼ばれた。北条氏は3代56年にわたりこの地方に大きな勢力を持ち、塩田城をここに築いたところ。
この塩田城の城下町から山裾を縫うようにして、東へ佐久高原、碓氷峠を越えて鎌倉へと向かったという。この「鎌倉街道」は群馬県や埼玉県に「鎌倉道」とも「信州道」とも言われ、いまもその痕跡が残っている。


塩田城跡


●生島足島神社

日本の総鎮守と称され、長野県では諏訪大社と並ぶ古社。万物を成育させる生島神と、万物に満足を与える足島神が祀られている。池に囲まれた神島に鎮座する本殿の内殿には床板がなく、土間と大地そのものが御神体なのだ。
境内には古い木造の歌舞伎舞台があり、地下にある回り舞台のからくりを見ることができる。舞台内は資料館となっていて、戦国の武将(武田家)たちの起請文(重要文化財)や武田信玄が生島足島神社に勝利祈願をした直筆と言われている願文がある。それが奉納されたのは、有名な川中島合戦の2年前、永禄2年(1559)とある。


生島足島神社の舞台。内部には信玄の
戦勝願状などが展示されている

 


生島足島神社本殿


生島足島神社

 


冬空に柿が残る

今回、訪れた塩田地方には、このような保存状態のよい貴重な文化財が多く残されているのに正直驚いた。重要度の高い建造物や仏塔、仏像など10指を超え、歴史を伝えるすばらしいものが、奈良や京都周辺ではなく、信

を塩田平といい、今から1300~1400年の昔、九州の阿蘇山の麓から多くの氏族がこの地にやってきた。そして大和朝廷から信濃国造に任命された阿蘇氏がこの塩田平に定着したことから歴史がはじまった。後の鎌倉時代には北条氏が治め、塩田北条氏と呼ばれていた。
中部日本で最古の建築の「薬師堂」(国宝)をはじめ、奈良や京都にある三重塔に匹敵する名作と言われる三重塔など国宝の建造物や仏像が多く残り「信州の鎌倉」と言われている。
一方、別所温泉は古代から、庶民の安息療養の場所と同時に、温泉信仰が生まれ、やがて仏教の霊場としての観音堂なども建てられたところである。江戸時代には上田藩主所有の時もあったが、今も昔も名湯は共同浴場として土地の人や観光客に親しまれている。

 

 

 

 

 

 




<コース>
長野市-(国道18号線)-上田市-JR上田駅前-(国道143号線)-別所温泉と山里古刹群-JR上田駅-(上信越自動車道)-長野市
行程約120km



 

 


●別所温泉

夫神岳(標高1,250m)と女神岳(標高926m)の麓にあって信州でも最も古い歴史を持つ温泉の一つ。古代からのこの温泉の効能は広く知られていた。その効能が神仏の霊験として観音さまがつくられた。温泉街にある「北向観音」がそれである。この観音さまを中心に長楽・安楽・常楽という三つの寺ができた。
別所温泉のある塩田平は「信州の学海」と呼ばれ、信濃文化の中心地でもあった。
中世には、木曽義仲・塩田北条氏・真田氏などの豪族や、一般庶民たちがこの出湯を愛し、守ってきた。

 


別所神社から別所温泉を展望


●北向観音

別所温泉のシンボルともいえる観音堂は、長野市の善光寺に向けて北向きに建てられていることから北向観音という。

 


北向き観音のお堂(左)と境内


清めの水は温泉が引かれている

 

本尊は千手観音菩薩。善光寺と向き合っていることから、北向観音のご利益は善光寺と一体のものといい、一方が欠ければ“片詣で”とされてきた。観音堂の地を「院内」といい、ここから鎌倉時代から室町時代にかけての石塔群が発見され、歴史が裏付けられた。現在の観音堂は正徳3年(1713)に焼失し、8年後に再建された後に、何度か改修されたもの。
御堂の右側には、海抜650mのこの地には珍しい桂の大木がある。樹齢1200年の老木で、観音菩薩が影向した霊木と言われている。境内の東隅にある「愛染明王堂」とこの桂の木にちなんで、川口松太郎氏が「愛染かつら」を書いた。年配の人には馴染みある小説ドラマだが、若い人達からは縁結びの霊木として親しまれているそうだ。


樹齢1000年のカツラの木。
愛染かつらの題名にもなった

 


北向き観音への参道


北向き観音に隣接する薬師堂

 

観音堂の西方崖の上に建つのは「医王尊瑠璃殿」という薬師堂で「瑠璃殿」とは薬師如来を瑠璃光如来と呼んだことからこの名がついた。現在の建物は温泉薬師信仰の深い人々によって文化6年(1809)再建されたもの。


●別所神社

温泉街を望む高台にある社で、18世紀の神社本殿としては規模が大きく、建築作品として優秀なもの。保存状態も当時の様式をよく残している。本殿内には、享保9年(1724)から天明8年(1788)にかけての棟札が20枚もある。それによると神殿建築の棟梁は末野庄兵衛安定となっている。末野家は、この地方随一の江戸時代からの棟梁であった。
上田市の指定文化財。

 


別所神社本殿


別所神社の舞台。梁は自然の
気を生かし力強い


●共同浴場

温泉街には「石湯」「大師湯」「大湯」「あいそめの湯」の4ヶ所がある。いずれも温泉街の中心地にある。
「石湯」は真田幸村の隠し湯と言われている。内部には大きな自然石を配した岩風呂になっている。「大師湯」は北向観音の手前にあり、比叡山延暦寺の高僧、慈覚大師のゆかりの湯として親しまれている。「大湯」は伝説では、木曽義仲が葵御前と逗留したと伝えられている。別名「葵湯」ともいう。室内湯と露天風呂がある。「あいそめの湯」は新しく上田市が健康と福祉を目的とした共同浴場。休憩所としての部屋もある。。泉質 単純硫黄泉 無職透明 温度51度。

 


別所温泉の石湯


お洒落な足湯もあった


●安楽寺・八角三重塔(国宝)

別所温泉街のはずれ、夫神岳の山裾を登った山腹にある国宝・八角三重塔を持つ寺。八角の塔は日本では珍しく、奈良の西大寺や京都の法勝寺の塔が古代ならば、中世に中国から渡ってきた禅宗の八角塔はこの安楽寺だけ。
中国から入ってきた禅宗の安楽寺は開山当時は中国と深い関わりがあり、二世の幼牛恵仁は中国生まれであったことからこの八角三重塔が建てられたのは正應2年(1290)鎌倉時代の終わりごろと言われている。我が国最古の禅宗様建築であり、いま日本に残っている禅宗寺院の七つの塔のうち、禅宗様式は、この安楽寺しかないという。
TEL 0268-38-2062

 


安楽寺への参道


樵谷惟仙禅師(右)と幼牛恵仁禅師
(重要文化財)

 


安楽寺・八角三重の塔。内部が
三階なので三重と呼ぶという


三重の塔の屋根は綺麗な曲線


●常楽寺・多宝塔(重要文化財)

別所温泉を開いた慈覚大師の開山と伝えられている古刹。北向観音の本坊でもある。どっしりとした見事な茅葺きの本堂は、長野県内では有数の古い木造様式。鬱蒼とした木立の茂る裏山には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔がある。

 


常楽寺本堂。かやぶき屋根が美しい


常楽寺・石造多宝塔


●大法寺・三重塔(国宝)

温泉街から北へ直線距離では2kmほどだが、車道は大きく迂回して約6km、国道143号線へ出て間もないところにある。
大法寺の三重塔は、別名「見返りの塔」とも言われている。この塔の姿があまりにも美しいので、思わず振り返る、ということから名がついた。たしかに三重の屋根の曲線は、さながら大空に舞う鳥の翼のように、のびのびとして実に軽やかである。それは、初重がとくに大きいのが特色という。
二重、三重で組物を三手先という正確な組み方としていることに対して、初重だけが、少し簡単な二手先にしたので、その分だけ平面が大きくなっているので平凡になりがちなものに、形に変化をつけてバランスをとっている。屋根は「檜皮葺」で京都御所の屋根などと同じで、最高級の葺き方だ。上品な反りとともに、いっそう塔の格調を高いものにしている。この塔の他には奈良興福寺の三重塔があるだけ。

 


大法寺三重塔。見返りの塔とも呼ばれる


鋭角と曲線。見返りの塔は見事

 

塔が建てられたのは墨書によると正慶2年(1333)で、時代は鎌倉から南北朝に移る過度期である。
境内にある観音堂内には木造十一面観音立像、木造普賢菩薩立像並びに大法寺厨子などいずれも重要文化財を拝顔(別料金)することができる。
入山料は100円で、これほど美しい建造物が堪能できたことに感激。その100円も払わず入り込む御仁がいると住職は悲しげにつぶやいていた。
/TEL 0268-49-2256


●中禅寺

空海によって開かれたという真言宗の古刹。創建は、再度の火災のため多くの記録も焼失したため不明だが、現在の建物は享保19年(1734)に建立された。この寺での見所は国指定重要文化財に指定されている「薬師堂」と同じ重要文化財の「薬師如来座像」だ。
薬師堂は藤原時代の阿弥陀堂形式で建造されたもので、鎌倉時代初期に建立されたと推定されている。重厚な茅葺き屋根は寄せ棟で、堂内の中央には四天柱があり、本尊が安置されている。この古い形式による建物は、長野県はもちろん、中部地方でも最古の御堂である。また薬師如来座像はカツラ材・寄木造りの仏像。四天王にかこまれた古式に台座に座っている平安末期の作品という。

 


中禅寺薬師堂(重文)


薬師如来座像(重文)

 

この他、木造金剛力士立像もある。高さが205cmとやや小振りだが、平安後期の金剛力士像は全国的にも数が少なく、貴重なものだ。
/入山料 100円、TEL 0268-38-4538

 


中禅寺の木造金剛力士像(吽型)


中禅寺・木造力士像(阿型)


●前山寺(ぜんさんじ)

塩田平を囲む夫神岳、女神岳、そして南に位置する独鈷山(標高1,266m)の山麓に佇む寺院。弘仁年間(812)ころ、空海上人が護摩修行の霊場として開いたと伝えられている。重要文化財に指定されている三重塔は、室町時代に当時の戦国武将たちの信仰するところとなった。
塔は未完成の完成と言われ、その完成されない姿の美しさは、芸術的とも言われている。端正な造形美は見る者に深い感銘を与える。境内には江戸時代の建立という庫裡があり、お茶や菓子を楽しむこともできる。TEL 0268-38-2855


前山寺本堂

 


前山寺参道から見る上田の町


三重の塔。2階、3階の窓が未完成のまま


●塩田城跡


中禅寺から前山寺へと辿る道に「塩田城跡」と書かれた碑があった。
建治3年(1277)、北条義政が、鎌倉を出て信濃の塩田へ移り、居館を構えたことから塩田北条氏と呼ばれた。北条氏は3代56年にわたりこの地方に大きな勢力を持ち、塩田城をここに築いたところ。
この塩田城の城下町から山裾を縫うようにして、東へ佐久高原、碓氷峠を越えて鎌倉へと向かったという。この「鎌倉街道」は群馬県や埼玉県に「鎌倉道」とも「信州道」とも言われ、いまもその痕跡が残っている。


塩田城跡


●生島足島神社

日本の総鎮守と称され、長野県では諏訪大社と並ぶ古社。万物を成育させる生島神と、万物に満足を与える足島神が祀られている。池に囲まれた神島に鎮座する本殿の内殿には床板がなく、土間と大地そのものが御神体なのだ。
境内には古い木造の歌舞伎舞台があり、地下にある回り舞台のからくりを見ることができる。舞台内は資料館となっていて、戦国の武将(武田家)たちの起請文(重要文化財)や武田信玄が生島足島神社に勝利祈願をした直筆と言われている願文がある。それが奉納されたのは、有名な川中島合戦の2年前、永禄2年(1559)とある。


生島足島神社の舞台。内部には信玄の
戦勝願状などが展示されている

 


生島足島神社本殿


生島足島神社

 


冬空に柿が残る

今回、訪れた塩田地方には、このような保存状態のよい貴重な文化財が多く残されているのに正直驚いた。重要度の高い建造物や仏塔、仏像など10指を超え、歴史を伝えるすばらしいものが、奈良や京都周辺ではなく、信濃にあるということに…。
その上、これらの国宝や重文の見学料が100円、200円という安い料金で一般公開されているのである。感謝、感激でした。

 

武田信玄   真田一族の夢のあと

長野には”善光寺参り”で名高い善光寺をはじめ、上田は真田十万石の城下町で、真田邸や武家屋敷、文武学校などの古い町並みが残されている。松代にある武田信玄本陣の松代城(海津城)、その城を出陣して陣を敷いた武田信玄が上杉謙信と戦った川中島古戦場など歴史遺産がたくさんある。
とくに塩田平(上田市の南、三方を山に囲まれた田園地帯)は8世紀半ば、九州阿蘇から来た人々が住み着いたといわれるところ。山裾には国宝や重文化財の古刹が佇み、この地に湧く湯量豊富な別所温泉を含めて一帯を「信州の鎌倉」とも呼ばれている。

 

 

 

 

 

 




<コース>
長野駅前-(国道117号線・県道35号線)-川中島古戦場跡-(国道403号線)-松代町-長野駅前
行程約50km



<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください> 

 

 


●八幡原史跡公園(川中島古戦場)

日本合戦上最も有名な戦いといわれる武田信玄と上杉謙信の古戦場。天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの間に5回ものにらみ合いや戦いがあった。中でも4回目の戦いとなった永禄4年(1561)の八幡原の戦いの場所が「川中島古戦場跡」としていまに残る。そこは犀川と千曲川に挟まれた善光寺平といわれる盆地南側に位置し、いまでは国道18号線を松代町へ向かう八幡原交差点の近くにある。

 


合戦地跡の公園


甲越直戦地と書かれている


●三太刀七太刀の跡碑

永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に武田、上杉両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。
不意を突かれて手薄になった武田本陣の隙ををみて上杉謙信はただ一騎、長光の太刀を抜き馬上より信玄めがけて斬りつけた。これを軍配で受けた信玄だが謙信の二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったといわれる。後で信玄の軍配には刀の跡が7ヶ所もついていたことから、この一騎打ちの跡を「三太刀七太刀」といわれている。この時の様子を描いた信玄、謙信の像がある。

 


信玄(左)に斬りかかる謙信


信玄に浴びせた謙信の
太刀数を示す


●八幡社

御祭神は中国文化を取り入れ、日本の発展に大変寄与された応神天皇で、武田信玄はこの八幡社を中心に本陣を構え祈願して命を免れたと伝えられている。ご神木のケヤキは樹齢700年、八幡原の戦いを見ていたということになる。
この社の前には中心をくり抜かれた大きな石がある。信玄を窮地から救った仲間頭の原大隅が、謙信めがけて槍を振ったが失敗。馬を打ったため、暴れた馬は馬上の謙信とともにその場を逃げた。主君の命を救ったが、敵の大将を討ち損じた原大隅は「無念なり」と傍にあった石に槍を突いた。悔しさの一念が石を貫いたのだという。

 


決戦地には八幡社


槍が貫いたと伝えられる石


●山本勘助の墓

川中島古戦場跡より千曲川にかかる更埴橋の近くに勘助の墓がある。大河ドラマの放映がなかったら、見つけることができないようなところにあった。といっても現在一過性の観光地となった墓には旗が立てられていたので見つけることができた。

 

土手の下、河川敷の畑の中の墓石には、長野市観光課が立てた真新しい解説板があった。それによると、山本勘助は三河国(愛知県)の出身で、ドラマのように諸国巡業の後、武田信玄の軍師となったとある。だが、実在の人物ではあったらしいが、軍師であったかどうかは疑わしく、こうした物語の多くは、江戸時代からの芝居や講談で語られたもので、史実ではなかったようだ。作られたドラマの影響の凄さを感じるところでもある。


墓石には「山本道鬼居士」とある


●海津城(松代城)

武田信玄が築いた海津城は八幡原より直線で約3km。もとは、この地の在地土豪であった清野氏の館を、永禄3年(1560)ころ、山本勘助によって築城された城と伝えられている。正確なことはわからないが、清野氏の館を武田氏が大改修したという説もある。
三方を山に囲まれ、西には千曲川という自然を巧みに利用した堅固な造りであり、また甲州流築城の模範とさえいわれていた名城。海津城とはかつては海のような川幅の広い千曲川のほとりにあったことから、この名がついた。

 


海津城

激戦だった八幡平の合戦では信玄がここを基地とし、この城を見下ろす妻女山に陣を張った上杉謙信からは丸見えの城であった。
明治に廃城となり石垣を残すのみだったが、平成の大普請で、太鼓門や北不明(きたあかず)の門などが復元された。本丸跡の石垣の上からはここより約1500mの距離にある妻女山がよく見える。


●城下町松代

海津城(松代)は元和8年(1622)真田信之が上田城から移って以来、真田家10代が城主として続いた。いまも真田家ゆかりの寺や建造物が残る城下町としての佇まいをみせている。また信濃を代表する幕末の知識人佐久間象山の生誕地で、象山神社がある。

 


再現された松代の町並み
(画像をクリックすると拡大写真を表示します)


旧白井家表門


●旧文武学校

藩士の子弟が学問と武芸を学んだところ。真田家8代藩主であった幸貫が、佐久間象山などの意見のもとに蘭学・西洋砲術など積極的に取り入れ、藩校としての文武学校の建設を目指した。嘉永6年(1853)、9代藩主の幸教がその意志を継ぎ建物を完成させ、安政2年(1855)に開校した。

 


文武学校


文武学校の弓道場

 

瓦葺き屋根、白壁、木造の校舎は、文学所をはじめ剣術、柔術、弓術所や文庫蔵、番所などからなる建物で、8歳から35歳くらいまでの藩士や子弟が学問と武術を学んでいた。
明治に入ってからは文武学校の中に西洋兵学寮士官学校がつくられたが、廃藩置県後は松代小学校の校舎として使われていたこともある。昭和28年(1953)に国の史跡に指定され、昭和54年(1969)から一般公開されている。
/入場料 200円、TEL 0262-78-2801


●真田邸

江戸時代の大名家の御殿。江戸末期の、9代藩主幸教が母である貞松院の隠居所として建てたもの。明治以降は真田家の私邸として使われていた。とくに庭園が美しく四季の花々を見せてくれるというが、現在は平成22年3月末まで大修復工事のため、見学できるところが限定されている。
隣接する「真田宝物館」には真田家に伝来した古文書や武具、調度品などが展示されている。
/宝物館入館料 300円
  お問い合わせ 松代文化施設管理事務所 TEL 0262-78-2801

 


真田邸


真田邸の庭園

 


池田満寿夫美術館


工事現場への立ち入り禁止標示も六文銭

 

宝物館と通りを隔てたところに、長野市出身で1997年に急逝したアーチスト「池田満寿夫美術館」がある。最後の作品となった「美貌の空」「土の迷宮」シリーズをはじめ、内外の受賞作品、水彩画、陶器などが展示されている。
/入館料 700円、TEL 0262-81-1722


●高義亭(象山神社)

文化8年(1811)松代で生まれた佐久間象山は望遠鏡などを作成し、天体観測をしたばかりか写真機や乾板の製作から書画などにも長じた偉人でもある。生家ともいわれる家は神社境内にある木造2階、寄棟の屋根を持つ建物。高杉晋作、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など幕末の志士たちが、ここを訪れ、2階の七畳半の部屋で応対し時勢を論じたという。内部見学は自由にできる。
「火気厳禁」と書かれた庭先では、地元の老人が落ち葉焚きをしていたのには、ちょっと驚いた。近くには象山記念館があり、開国論者であった象山の遺品、遺作を展示。象山自製の電気の治療器や医療用蒸留器などもあり、才能あふれた象山の人物像を知ることができる。
文化施設等管理事務所 TEL 0262-78-2801

 


象山神社


高義亭

 


落ち葉を焼く(象山神社)


神社内にある佐久間象山の像


●象山地下壕

第二次世界大戦の末期に、軍部が本土決戦に備えて、大本営、政府機関等を極秘に松代に移そうと計画し、地下壕を掘削。この象山地下壕は総延長5,853m(約6km)もあるというのだから驚きだ。内500mは一般公開されている。
/料金 無料
  長野市産業振興部観光課
  TEL 0262-24-5042


象山地下壕


●旧横田家


横田家

横田氏は真田家家臣として幕末まで150石の禄を受けていた中級武士であった。
主屋、表門、隠居屋と2つの土蔵があり、松代藩士、江戸時代の中級武士の住宅の特徴をよく残している。国の重要文化財に指定されている。
/入場料 200円
  文化施設等管理事務所
  TEL 0262-78-2801


●長国寺

旧松代藩主の真田家の菩提寺で、広い境内の奥に高い塀に囲まれた二棟の真田家の霊廟がある。北側の重厚な建造物は藩祖真田信之公の霊廟で重要文化財に指定されている。建物に施された破風の鶴の彫刻は左甚五郎作で、格子天井の絵は狩野探幽筆と伝えられている。
この他、墓所には真田信政、幸道、信弘、信安など10代の墓、信之の父昌幸、弟の幸村の供養塔が立てられている。
(要予約)、TEL 0262-78-2454

 


真田の菩提寺・長国寺


真田信之霊廟


●善光寺

「牛に引かれて善光寺参り」、「一生に一度は善光寺参り」などといわれるように、古くから大勢の老若男女に親しまれてきた善光寺
本尊は一光三尊阿弥陀如来。欽明天皇13年(552)仏教伝来の折に百済から日本へ伝えられた、日本最古の仏像といわれている。創建以来約1400年、宝永4年(1707)年に再建された現在の本堂は、江戸中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。広大な境内には「大勧進」「大本願寺」と39の塔頭からなる大寺院で山門、経堂など重要文化財に指定されている建造物や仏像などもある。

 


参道には土産物屋が並ぶ


善光寺本堂

 

年間600万人もの参拝者が訪れる善光寺について説明などはいらない。ただ、「大勧進」の宝物殿には天皇家に伝わった書画骨董などが多く展示されていること、武田信玄と上杉謙信の位牌が並んで納められていることなどは案外知られていない。また弘法大師の直筆とされる般若経もあったが、事務所で真贋を尋ねると「違うんじゃないですか?」と耳を疑う返事。もし弘法大師直筆というのなら、これぞ国宝ではないのか。もう一度確かめに出かけたいと思う。




HKの大河ドラマ「風林火山」で一躍観光名所になった川中島周辺も、今年の大河ドラマ「篤姫」で人々の足は遠のくかもしれない。
しかし、名高い善光寺をはじめ、真田十万石の城下町には、真田邸や武家屋敷、文武学校などの古い町並みが残され、松代にある武田信玄本陣の松代城(海津城)、その城を出陣して陣を敷いた武田信玄が上杉謙信と戦った川中島古戦場など歴史遺産がたくさんある。
とくに塩田平(上田市の南、三方を山に囲まれた田園地帯)は8世紀半ば、九州阿蘇から来た人々が住み着いたといわれるところ。山裾には国宝や重文化財の古刹が佇み、この地に湧く湯量豊富な別所温泉を含めて一帯を「信州の鎌倉」とも呼ばれている。

 

 

 

 

 

 




<コース>
長野駅前-(国道117号線・県道35号線)-川中島古戦場跡-(国道403号線)-松代町-長野駅前
行程約50km

 

 

●八幡原史跡公園(川中島古戦場)

日本合戦上最も有名な戦いといわれる武田信玄と上杉謙信の古戦場。天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの間に5回ものにらみ合いや戦いがあった。中でも4回目の戦いとなった永禄4年(1561)の八幡原の戦いの場所が「川中島古戦場跡」としていまに残る。そこは犀川と千曲川に挟まれた善光寺平といわれる盆地南側に位置し、いまでは国道18号線を松代町へ向かう八幡原交差点の近くにある。

 


合戦地跡の公園


甲越直戦地と書かれている

●三太刀七太刀の跡碑

永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に武田、上杉両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。
不意を突かれて手薄になった武田本陣の隙ををみて上杉謙信はただ一騎、長光の太刀を抜き馬上より信玄めがけて斬りつけた。これを軍配で受けた信玄だが謙信の二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったといわれる。後で信玄の軍配には刀の跡が7ヶ所もついていたことから、この一騎打ちの跡を「三太刀七太刀」といわれている。この時の様子を描いた信玄、謙信の像がある。

 


信玄(左)に斬りかかる謙信

●八幡社

御祭神は中国文化を取り入れ、日本の発展に大変寄与された応神天皇で、武田信玄はこの八幡社を中心に本陣を構え祈願して命を免れたと伝えられている。ご神木のケヤキは樹齢700年、八幡原の戦いを見ていたということになる。
この社の前には中心をくり抜かれた大きな石がある。信玄を窮地から救った仲間頭の原大隅が、謙信めがけて槍を振ったが失敗。馬を打ったため、暴れた馬は馬上の謙信とともにその場を逃げた。主君の命を救ったが、敵の大将を討ち損じた原大隅は「無念なり」と傍にあった石に槍を突いた。悔しさの一念が石を貫いたのだという。

 


決戦地には八幡社


槍が貫いたと伝えられる石

●山本勘助の墓

川中島古戦場跡より千曲川にかかる更埴橋の近くに勘助の墓がある。大河ドラマの放映がなかったら、見つけることができないようなところにあった。といっても現在一過性の観光地となった墓には旗が立てられていたので見つけることができた。

 

土手の下、河川敷の畑の中の墓石には、長野市観光課が立てた真新しい解説板があった。それによると、山本勘助は三河国(愛知県)の出身で、ドラマのように諸国巡業の後、武田信玄の軍師となったとある。だが、実在の人物ではあったらしいが、軍師であったかどうかは疑わしく、こうした物語の多くは、江戸時代からの芝居や講談で語られたもので、史実ではなかったようだ。作られたドラマの影響の凄さを感じるところでもある。


墓石には「山本道鬼居士」とある

●海津城(松代城)

武田信玄が築いた海津城は八幡原より直線で約3km。もとは、この地の在地土豪であった清野氏の館を、永禄3年(1560)ころ、山本勘助によって築城された城と伝えられている。正確なことはわからないが、清野氏の館を武田氏が大改修したという説もある。
三方を山に囲まれ、西には千曲川という自然を巧みに利用した堅固な造りであり、また甲州流築城の模範とさえいわれていた名城。海津城とはかつては海のような川幅の広い千曲川のほとりにあったことから、この名がついた。


海津城

●城下町松代

海津城(松代)は元和8年(1622)真田信之が上田城から移って以来、真田家10代が城主として続いた。いまも真田家ゆかりの寺や建造物が残る城下町としての佇まいをみせている。また信濃を代表する幕末の知識人佐久間象山の生誕地で、象山神社がある。


再現された松代の町並み


旧白井家表門


●旧文武学校

藩士の子弟が学問と武芸を学んだところ。真田家8代藩主であった幸貫が、佐久間象山などの意見のもとに蘭学・西洋砲術など積極的に取り入れ、藩校としての文武学校の建設を目指した。嘉永6年(1853)、9代藩主の幸教がその意志を継ぎ建物を完成させ、安政2年(1855)に開校した。


文武学校


文武学校の弓道場

瓦葺き屋根、白壁、木造の校舎は、文学所をはじめ剣術、柔術、弓術所や文庫蔵、番所などからなる建物で、8歳から35歳くらいまでの藩士や子弟が学問と武術を学んでいた。
明治に入ってからは文武学校の中に西洋兵学寮士官学校がつくられたが、廃藩置県後は松代小学校の校舎として使われていたこともある。昭和28年(1953)に国の史跡に指定され、昭和54年(1969)から一般公開されている。
/入場料 200円、TEL 0262-78-2801

●真田邸

江戸時代の大名家の御殿。江戸末期の、9代藩主幸教が母である貞松院の隠居所として建てたもの。明治以降は真田家の私邸として使われていた。とくに庭園が美しく四季の花々を見せてくれるというが、現在は平成22年3月末まで大修復工事のため、見学できるところが限定されている。
隣接する「真田宝物館」には真田家に伝来した古文書や武具、調度品などが展示されている。
/宝物館入館料 300円
  お問い合わせ 松代文化施設管理事務所 TEL 0262-78-2801


真田邸


真田邸の庭園


池田満寿夫美術館


工事現場への立ち入り禁止標示も六文銭

宝物館と通りを隔てたところに、長野市出身で1997年に急逝したアーチスト「池田満寿夫美術館」がある。最後の作品となった「美貌の空」「土の迷宮」シリーズをはじめ、内外の受賞作品、水彩画、陶器などが展示されている。
/入館料 700円、TEL 0262-81-1722


●高義亭(象山神社)

文化8年(1811)松代で生まれた佐久間象山は望遠鏡などを作成し、天体観測をしたばかりか写真機や乾板の製作から書画などにも長じた偉人でもある。生家ともいわれる家は神社境内にある木造2階、寄棟の屋根を持つ建物。高杉晋作、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など幕末の志士たちが、ここを訪れ、2階の七畳半の部屋で応対し時勢を論じたという。内部見学は自由にできる。
「火気厳禁」と書かれた庭先では、地元の老人が落ち葉焚きをしていたのには、ちょっと驚いた。近くには象山記念館があり、開国論者であった象山の遺品、遺作を展示。象山自製の電気の治療器や医療用蒸留器などもあり、才能あふれた象山の人物像を知ることができる。

  


象山神社


高義亭


落ち葉を焼く(象山神社)


神社内にある佐久間象山の像

●象山地下壕

第二次世界大戦の末期に、軍部が本土決戦に備えて、大本営、政府機関等を極秘に松代に移そうと計画し、地下壕を掘削。この象山地下壕は総延長5,853m(約6km)もあるというのだから驚きだ。内500mは一般公開されている。
/料金 無料
  長野市産業振興部観光課
  TEL 0262-24-5042


象山地下壕

●旧横田家


横田家

横田氏は真田家家臣として幕末まで150石の禄を受けていた中級武士であった。
主屋、表門、隠居屋と2つの土蔵があり、松代藩士、江戸時代の中級武士の住宅の特徴をよく残している。国の重要文化財に指定されている。
/入場料 200円
  文化施設等管理事務所
  TEL 0262-78-2801

●長国寺

旧松代藩主の真田家の菩提寺で、広い境内の奥に高い塀に囲まれた二棟の真田家の霊廟がある。北側の重厚な建造物は藩祖真田信之公の霊廟で重要文化財に指定されている。建物に施された破風の鶴の彫刻は左甚五郎作で、格子天井の絵は狩野探幽筆と伝えられている。
この他、墓所には真田信政、幸道、信弘、信安など10代の墓、信之の父昌幸、弟の幸村の供養塔が立てられている。
/御霊屋と墓所拝観料 300円(要予約)、TEL 0262-78-2454

         

  

 


真田の菩提寺・長国寺

   


真田信之霊廟

●善光寺

「牛に引かれて善光寺参り」、「一生に一度は善光寺参り」などといわれるように、古くから大勢の老若男女に親しまれてきた善光寺
本尊は一光三尊阿弥陀如来。欽明天皇13年(552)仏教伝来の折に百済から日本へ伝えられた、日本最古の仏像といわれている。創建以来約1400年、宝永4年(1707)年に再建された現在の本堂は、江戸中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。広大な境内には「大勧進」「大本願寺」と39の塔頭からなる大寺院で山門、経堂など重要文化財に指定されている建造物や仏像などもある。


参道には土産物屋が並ぶ


善光寺本堂

年間600万人もの参拝者が訪れる善光寺について説明などはいらない。ただ、「大勧進」の宝物殿には天皇家に伝わった書画骨董などが多く展示されていること、武田信玄と上杉謙信の位牌が並んで納められていることなどは案外知られていない。また弘法大師の直筆とされる般若経もあったが、事務所で真贋を尋ねると「違うんじゃないですか?」と耳を疑う返事。もし弘法大師直筆というのなら、これぞ国宝ではないのか。もう一度確かめに出かけたいと思う。

長明寺の石庭

長明寺は観光案内などはほとんど紹介されていません。松代の街を移動しているとき、ふと古びた寺を見かけました。何となく山門を潜り、境内に入ると石庭がありました。
案内板には「京都・龍安寺の庭司、佐野旦斉先生の遺作」とありました。龍安寺の石庭は広く知られています。同じ人の作だとすれば、偶然にもいいものを見たものです。


長明寺の石庭