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| 北陸、中部を巡るのは容易ではありません。日本列島の中央部、モットも南北広い地域です。しかし、ここには、東海道、中山道、甲州街道など江戸時代に出来上がった主要街道があります。北国街道なども見え隠れして、知られた宿場や現在に残る戦国・江戸の人々の行き来を垣間見ることが出来ます。宿場などを克明に辿るのは止めて、ここでは気になるところや宿場、街道にまつわるエピソードなどを盛り込んで、ちょっと趣向を変えたレポートです。 1秋山郷 2武田真田夢のあと 3信濃の古刹 4木曽路から高山 5郡上八幡、下呂 6 残雪の平湯、上高地 7 金沢、那谷寺 8福井金沢永平寺 9金沢、福井2 10 越後平野と豪農 11 食の国石川福井 12 秋の新潟日本海1 13 秋の新潟日本海 14北陸の歴史と味(富山・金沢) 15 北陸の歴史と味(能登半島内浦) 16北陸(能登半島外浦 ) 17合掌造りの村 8琵琶湖、敦賀,若狭 19鯖街道 20松本付近の温泉 21信州高遠
金沢のシンボル兼六園は、延宝4年(1676)、加賀藩5代藩主前田綱紀が城の外庭としてここに蓮池御亭を建てたのがはじまり。完成までには160年の歳月を要し、13代斎秦の時代に現在の庭園としての姿になった。林泉回遊式庭園で、琴柱の形をした灯籠、霞ヶ池、雁行橋、それに茶室夕顔亭と、優雅な純日本庭園である。 霞ヶ池や瓢池、燈籠、曲水など水辺の佇まいの美しさはもちろんのこと、春は梅や桜、初夏はつつじ、かきつばた、秋は紅葉、そして冬は雪吊り、と四季を通して様々に色彩を変え、心和む風景が見事に演出されている。 約400年前、前田利家によって築城された金沢城は、度重なる火災によって焼失し、現在残っているのは石川門と石垣、三十間長屋のみ。 兼六園から犀川をはさんだ寺町周辺にはその名の通り70以上の寺院が集まる。仏像や工芸品など歴史的文化遺産が数多く、のんびりと散策するのにうってつけだ。金沢出身の文豪室生犀星ゆかりの地でもある妙立寺に立ち寄ってみた。 かつて、遊郭街は城と兼六園をはさんで3ヶ所あったが、現在は東と西の2ヶ所にその名残りがある。 食べる・遊ぶ・買う、と金沢きっての繁華街は、香林坊・片町。とくに食に関しては、居酒屋、割烹料理店、洋食レストラン、焼き肉屋、中華料理店、赤ちょうちん、一杯飲み屋と、食いしん坊にはたまらない町だ。 |
13 秋の新潟日本海2
日本海パークラインから酒田市へ
新潟市から約40km、乙宝寺への道は海辺沿いの通称“夕日ライン”、国道113号線を走る。 本堂に向かって右に立つ三重の塔は、国の重要文化財でもある。そのほか朱塗りの門に立つ仁王尊は金堂の古材を使用した1745年行基菩薩の作とされている。 国道113号線は荒川を渡ると同じ海岸を走りながら国道345と番号を変える。約20kmで村上市に入る。 三面川が海に注ぐ流域に広がる村上市は、その歴史も古く、とくに約千年もの昔から三面川の鮭漁は国家への大きな貢納物とされ、密漁は罪科に処されるほどであった。 JR村上駅前から車で5分くらい、山を背に昔の町並みがある。かつての中級武士の住まいだ。 若林家に隣接するこの建物は、吹き抜けの広い展示スペースがあって、村上大祭(毎年7月6日~8日の3日間)に19台もの“オシャギリ”と呼ばれる山車が出る内、常時4台が展示されている。 村上に注ぐ三面川、その上流の朝日村にダムが完成したのはつい先日(2000年10月)のこと。 鮭をひと冬乾燥させたものを北海道では“とば”というが、ここ新潟村上では “酒びたし” という。 村上市から北へ約11kmの海岸線を“笹川流れ”といい、日本屈指の名勝だ。地元では美しい海の代名詞と自慢する。 すっかり日も短くなった秋、なにも見えなかった水平線の彼方から港に戻る漁船が姿を見せた。彼らが帰る山北の港に、こちらもまるで誘われるようにハンドルを切って寄り道だ。 |
12 秋の新潟日本海1
新潟市街を海に向かって走ると、国道402号線へ出る。 新潟市内より約30kmほど南、巻町の角田浜あたりから寺泊野積までは「越後七浦シーサイドライン」といわれ、立岩などの奇岩があり日本海の美しい海岸線が続く。 スカイラインを上りきったところ一帯は「山上公園」だ。ミニ遊園地、展望台、展望レストラン、パノラマタワーなどがある。 遠く古代から神の宿る山として信仰されてきた弥彦山。 その鳥居に最も近い温泉旅館はいまは団体用の大きな宿だが、その斜め向かいには昔ながらの格式高い旅館 「冥加屋」 がある。 寺泊町の国道402号線沿いに、地元の水産会社などの出店である大型鮮魚の店が並ぶ。各店の間口も大きいが奥行きも深い。 来た道、越後七浦シーサイドラインを新潟市へと戻る。 11 食の国、石川・福井の冬
福井、石川、富山3県は北陸三国と呼ばれ、冬は日本海の荒波とともに、その海で捕れるズワイガニをはじめ甘エビ、ブリ、ノドグロ(アカムツ)ホタルイカやハタハタ、ナマコにコノワタなど旨いものがいっぱい。
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21春の信州・高遠
諏訪ICを出て国道20号線を少し下ると高遠方面への分岐点へ。標識に従いながら高遠への国道152号線を辿る。 高遠はかつて伊那谷と甲州を結ぶ要衝の地として栄え、明治に至るまで伊那地方の政治、経済、教育、文化の中心でもあった。 城址公園から車で3分ほどにある郷土資料館で、町内から出土した土器や高遠焼、高遠石工などの資料が展示されている。 鹿塩川沿いに走る国道を注意深く見ていくと狭い橋のたもとに「孝行猿」という標識に従って橋をわたり約7km、こんな山奥の何処にと思われる山道を上ると、十数軒の家が寄り添うように建つ集落へ着く。この集落がそれ。 国道152号線はこれより大鹿村でぷつりと途切れるが、駒ヶ根市、あるいは松川町へと伊那谷へ下る道がある。 |
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20 信州松本周辺の温泉
ところが最近は昔ながらの温泉を楽しめるかつての風情の温泉が公共や第3セクターなどにより復活。
●松本駅周辺
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19「鯖街道]御食国(みけつくに)」と京都を結ぶ
「京は遠ても十八里」といわれ、古代より朝廷に食材を送っていた「御食国」、若狭から京都へ至る数多い街道には、本来それぞれ固有の呼び名があった。小浜から上中町の熊川宿を経由、滋賀県の朽木村から京都大原に至る「若狭街道」、京都へ最短距離で結ぶ「針畑峠越え」や、熊川から滋賀県の琵琶湖のほとりの今津に至る「九里半越え」、そして多数の峠を越える「鞍馬街道」などがあった。
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18 琵琶湖と敦賀、若狭湾
日本海に面した敦賀市は、遠く奈良時代から北陸地方の海運の玄関口として北は北海道、南は九州・沖縄まで、また海外貿易も盛んな港町として栄えた。明治のはじめ日本海側では一番早く鉄道が敷かれ多くの人と荷物で賑わった。そして戦国の世、織田信長、徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が一堂に会した金ヶ崎城がある。
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10 越後平野と豪農建築
新潟県は日本を代表するコシヒカリの産地。米どころ越後平野は黄金色に染まっていた。
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静寂な杜の福井と華やかな
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<コース>
福井市-(国道416号線)-永平寺-(国道364号線)-千古の家-丸岡城-称念寺-あわら市-三国-東尋坊-(国道8号線)-安宅の関跡-(北陸自動車道小松I.C.)-金沢市街
行程約20km

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水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つ。江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴を今に残す金沢観光のメインエリアだ。 |
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庭園内には、いくつかの建物や噴水、灯籠、橋などがある。園内で最も古い「夕顔亭」は安永3年(1774)に建てられた茶室で、文久元年(1861)、金沢城内に作られた噴水の試作で日本最古といわれる自然の水圧であがる噴水もある。通常は水の高さ3.5mだが、水位の変化で変わる。 |
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●金沢城址公園 |
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金沢城下の西に位置する長町一帯は、藩時代の中級以上の武家の住居が並んでいたところ。細い路地に木羽板葺き屋根の屋敷が続く。巡らされた土塀の下部には、当時、中級以上の武士でなければ許されなかった戸室石が使われ、武者窓のある門構えの屋敷も多い。屋敷が並ぶ路地は狭く、駐車場もない。そこで、市営の兼六駐車場に車を停め徒歩での散策となる。 |
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これより、約400年前に造られた金沢最古の用水路「大野庄用水」に沿うように武家屋敷が続く。水量豊かに流れる大野庄用水とは、防火用や灌漑用、さらには荷物を運ぶ水路としての役目を果たすとともに、家庭用の水としても欠かせないものだった。 |
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武家屋敷の多くは現在も普通の住宅となっているが、一般公開している屋敷もある。 |
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●旧加賀藩士高田家 |
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金沢一の繁華街。古い地方都市の繁華街の多くはJR駅からかなり離れたところにあることが多い。ここもまたJR金沢駅から約1km、金沢城祉や兼六園と武家屋敷群の間に延びる一本の大通り周辺に集中している。 |
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加賀藩12代藩主前田斉広により、文政3年(1820)に公許を与えて妓楼を集め、区域を限定して茶屋の営業がはじまった。だが、間もなく茶屋制度が廃止されたが、慶応3年(1864)再び公許され、幾多の変遷を辿りながらも、ここに約100年の歴史と伝統をいまに伝えている。茶屋街には上町(現にし茶屋街)と下町(現ひがし茶屋街)がある。どちらも市営駐車場がある(有料)。 |
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軒の低い格子の町屋に柳が揺れる街に一歩足を踏み入れると、どこからか聞こえる三味線の音。音を頼りに路地を曲がると「検番(芸者たちの稽古場)」からのものだった。 |
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文政3年(1820)公許を与えられて開業してから今日に至る茶屋。朱塗りの天井や七宝焼きの襖引き手、床の間つきの客間に三味線弾きやお囃子や舞妓が舞う二間続きの部屋、そして廊下の細部まで装飾が施されている。かつての豪商の旦那衆たちの贅沢な社交場が伺える。国の重要文化財に指定されている。 |
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「浅野川に架かる天神橋あたりは蛍の名所」と泉鏡花が『由縁の女』で記している、ひがし茶屋街。その最も賑やかな二番町通りにある昔のお茶屋で、いまは料理屋を営む。通された2階の障子戸を開けると、初夏の風に揺れる柳の香りと観光客の喧噪がしっとりとした部屋を通り抜けていく。 |
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福井県は日本の何処にあるか分かりにくい県のひとつとされているという。確かに琵琶湖の北、敦賀市を真ん中に東西に広がり、東は北陸、西は京都ともいえる位置にある。県境は複雑で長い。
その福井県の西部には、魚介類の豊富な若狭湾から京の都に魚を運んだ鯖街道沿いに、国宝の明通寺、重文の妙楽寺や宿場町など貴重な文化遺産が多くある。東部もまた、静寂な社に、七堂伽藍を中心に大小70余もの堂宇の棟が並ぶ永平寺をはじめ新田義貞の墓所、県内最古の民家などもある。とくに永平寺の鐘は毎年、大晦日から年明けにかけてテレビの画面を通し、全国に荘厳な除夜の鐘を響き渡らせる。一度は訪れて見たい寺の一つである。
さらに柴田勝家が築いた丸岡城、北陸の三大祭りである「三国祭」が行われた湊町三国は景勝地東尋坊へと続く。変化に富んだ海岸線を、今回は福井市から、いまも花街の三味線の音が聞こえる古都金沢へ車を走らせてみた。
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<コース>
福井市-(国道416号線)-永平寺-(国道364号線)-千古の家-丸岡城-称念寺-あわら市-三国-東尋坊-(国道8号線)-安宅の関跡-(北陸自動車道小松I.C.)-金沢市街
行程約250km

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福井市から国道416号線のトンネルをくぐり、案内版に従って約30分、大佛寺山(標高807m)の麓の杜に大本山永平寺はある。今から約760年前、寛永2年(1244)に道元禅師により開かれた出家参禅の道場だ。 |
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山の斜面に建つ七堂伽藍への廻廊は、僧が毎日行う修行の一つ「作務(掃除などの労働や作業)」によってピカピカに磨かれている。 |
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寺院の建物のことを一般に伽藍という。ここは僧侶が修行をする清浄な場所という意味がある。なかでも特に七つの御堂は七堂伽藍と呼ばれ、日常の修行に欠かすことのできないところだ。 |
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山門の脇には真新しい立て看板に「歩みよる人には、やすらぎを 訪れる人には、微笑みを 去りゆく人には、幸福を」とあった。群馬県草津町の町民憲章は「歩み入るものに、やすらぎを・去りゆく人に幸せを」である。よく似たこの言葉はどこからと住職に訪ねたら「昔からある仏の教えです」という。 |
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国道364号線から東、山へ続く狭い道を辿ると、集落がある。その中にひときわ大きな茅葺き屋根の民家に行き合う。国の重要文化財の坪川家だ。先祖坪川但馬丞貞純は、源三位頼政の後裔といわれている。およそ700年もの間、この周辺の集落を司る名司の頭として高い格式をもっていた。近年、丸岡町に統合されるまでは、代々村長を務める立場であった。 |
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天正3年(1575)織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するため大軍を、当時丸岡から4kmの山中にあった豊原寺に向けて派遣、寺坊をことごとく焼き払った。このとき信長は柴田勝家の働きに恩賞として越前の国を与えた。翌天正4年(1576)、柴田勝家の甥である勝豊が丸岡に城を築いたのが、丸岡城である。現在は本丸と天守閣と僅かな石垣を残すだけだが、現存する天守閣の中で最も古い建築である。また、屋根が全部石瓦で葺かれているのは珍しく、後の時代の松本城、彦根城、姫路城など層塔式天守閣と比較すると、城郭建築が初期のものであったことがうかがえる。 |
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天守閣の石垣の端に「一筆啓上」書簡碑がある。本多作左衛門重次が陣中から妻に宛送った「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は日本一短い手紙として有名だ。文中のお仙とは幼少名仙千代のこと。後の慶長17年(1612)~正保4年(1647)丸岡城の城主となった本多成重である。 |
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新田義貞公は鎌倉時代末期、現在の群馬県新田郡新田町(町村合併で太田市)に生まれ育った。正式名は源義貞で元弘3年(1333)僅かな手勢で鎌倉幕府を滅ぼしたが、南北朝の戦いへと発展し京都へ向かった。その後、幾度となく戦いに敗れ、北陸に落ち一時勢いを盛り返したが、延元3年(1338)越前国藤島の燈明寺畷(福井市)の戦いで戦死。遺骸は時の僧によって称念寺に運ばれ葬られた。 |
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境内には寛永16年(1644)建立されたという九重の石塔や、元禄2年(1689)8月に松尾芭蕉が称念寺に立ち寄ったとき、明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ句「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」の句碑もある。 |
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毎年5月19~21日の3日間、北陸を代表する「三国祭」が行われる。各町内が競う豪壮華麗な武者人形山車がみどころ。山車は三国の町内を練り歩く。三国神社周辺の広い地域の道は車乗り入れが規制され、露天、屋台が500mほどの距離の道端や境内にまで並ぶ。本殿建立は延長5年(927)とあるが、天文9年(1540)湊の住人であった板津清兵衛が高柳村より流れ着いた御神体を拾い上げ納めたのがはじまりとされている。神社名は何回か変わったが明治18年(1885)に三国神社と改称した。 |
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三国町、東尋坊への入り口に、柴田勝家寄進による鐘楼門が建つ瀧谷寺がある。戦国武将の朝倉、柴田をはじめ福井藩、丸岡藩の歴代藩主も祈願に訪れた寺だ。参道の敷石は福井市内で採掘された笏谷石で丸岡城の屋根瓦と同じものだ。雨に濡れると青み帯びた色に変わる。参道には苔むした龍の口から水が流れ、その脇には樹齢600年の老杉があったが、近年枯死したため、伐採されたそうだ。 |
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福井から金沢へのドライブの帰り道、ふと立ち寄った「那谷寺」と、福井から少し足を延ばした古戦場「賤ヶ岳」を紹介しよう。
タイトルとはかなり距離も離れているが、ともに福井市から日帰りコースである。
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<コース>
金沢市-那谷寺-賤ヶ岳古戦場跡-福井市

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本尊の千手観音は自然石の岩窟に安置され、この地に御堂が建立されたことから、自生山岩屋寺とも呼ばれている。山門をくぐると、椿の並木と古杉に覆われ苔むした参道が続く。山や池のある広大な境内には本殿の他、庫裡書院、三重塔、護摩堂、鐘楼堂とあり、これらすべてが国の重要文化財という貴重な建造物が点在する。 |
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「山中の温泉に行くほど白根が岳あとにみなして歩む 左の山ぎはに観音堂あり。花山の法皇、三十三の巡社をどげざさせたまひしのち、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとなり」と奥の細道に記されている。 |
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南西は奥琵琶湖と比良山系や竹生島など湖山の美しい景色が、東には遠く伊吹山を望み、足元には羽衣伝説で名高い余呉湖が広がる。奥琵琶湖随一の景勝地。 |
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賤ヶ岳へは、北陸自動車道木之本インターを出て、交差点を左折、塩津方面へ向かうと、間もなくトンネルが見えてくる。トンネル手前を左折し、山際の細い道に入ると賤ヶ岳リフト乗り場の駐車場だ(リフト乗り場へはここから急な山道を徒歩5分)。 |
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山頂からは東に木之本の街並みと、その遠くには小谷城のあった山も見える。眼下に臨む余呉湖を取り巻く山脈は柴田勝家が最初に陣取った中尾山(木之本と敦賀の県境)、その部下で尾山(金沢)城主佐久間盛政が前田利家勢との壮絶な戦いで最期を遂げたという大岩山が湖畔の右に小さく見える。 |
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賤ヶ岳山頂には戦場跡碑と戦没者の碑がある。少し離れたところには、槍を担いで休む兵士の像もある。かなり疲れた表情が当時の激戦を偲ばせる。 |
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桜前線は津軽海峡を越えているのに、中部山岳地帯の標高約1,200m~1,500mの平湯や上高地の夜は小雪がちらつき、笠ヶ岳や穂高連峰は、まだ冬山ではと思われるほど、白く輝いていた。
上高地へマイカー乗り入れができなくなって久しいが、平湯、高山方面は国道158号線の中ノ湯、安房トンネルを抜けて、そのまま走れる。上高地へは沢渡で車を駐車場に預けバスに乗り換えなければならない(駐車料金1日500円)。上高地は5月の大型連休から秋の閉山まで、バス、タクシー、限られた車の他は混雑するため、中ノ湯からの県道24号線(上高地線)には乗り入れができない。
1日目はこの沢渡を通過して平湯温泉泊まり。2日目には平湯から沢渡へと戻り、上高地へと入った。
バスの車窓から飛び込んでくる焼岳、西穂高岳、岳沢…。梓川の左岸から明神、明神橋を渡って右岸の遊歩道を上高地へと戻る散策コースは、松本から飛騨路(その逆も)へのドライブで、欠かせないスポットでもある。平湯温泉からは笠ヶ岳の堂々とした姿、平湯大滝も家族連れの楽しめる場所だ。
途中、バス利用も入るが、平湯、上高地の散策を写真で紹介します。
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<コース>
松本-沢渡-中ノ湯-平湯-中ノ湯-沢渡(バス乗り換え)-上高地-(バス)-沢渡-松本
全行程約150km

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乗鞍岳の飛騨側、岐阜と長野を結ぶ安房峠の岐阜県玄関口に位置する。昔は難所の峠だったが、10年前に4,000mを超える長いトンネルが開通し、冬季は閉鎖されていた道も1年を通じて車の往来も可能になり、関東方面からも便利になった。 |
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海抜1,200m余、奥飛騨の温泉郷の中で最も古い歴史を持っている。江戸時代末、飛騨について書かれた「飛州志」に甲州の武田家臣が攻め入ったとき、険しい安房峠越えに疲れた兵士は白い猿が湯に悪い足を浸し、やがて軽々と走り去るのを見た、というのが平湯温泉の由来だ。以来、病を治しにここを訪ねるようになった。そして北陸大名も参勤交代の道中に立ち寄った。 |
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トンネル開通前は山の中の素朴な温泉地だったが、大駐車場やバスターミナル、土産物売り場などが建設された。平湯のみどころの一つである日本名滝100選「平湯大滝」前には「平湯大滝公園」が平成16年夏にオープンされ、滝が氷結する2月にはライトアップされ、イベントも催される。 |
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中ノ湯で国道158号線と分かれ、狭く長い釜トンネルを抜けると、風景も空気も一変する。透明な空気と冷たい風の中、バスが大きなカーブを曲がると、赤茶けた活火山の焼ヶ岳(標高2,455m)と淡いブルーの水をたたえた大正池が視界いっぱいに飛び込んでくる。 |
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日本屈指の景勝地である上高地は、昔は仙境として仙人や猟師たちの世界だった。またのちには信仰の山として越中富山の僧呂、播隆上人が信者と共に槍ヶ岳に登り、山頂に祠を納めたという記録がある。 |
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現在の嘉門次小屋の主は4代目だという。往時の小屋の一部を残し、大きな囲炉裏に大きな鉄瓶が下がる。そして養殖とはいえ一時梓川の清流に泳がせたイワナを囲炉裏の炎とオキにかざして焼く。一匹900円となかなかの値段だが、30分じっくりと遠火で焼いたイワナは、頭から残すところなく旨い。商売上手のやしゃ孫に嘉門次は目を丸くしているかも知れない。 |
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●明神池周辺 |
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またここは穂高神社の奥宮であり、祠が祀られている。残念なことに、いつの頃からか池まで神社化し、池のほとりに立つには拝観料が必要になっていた。自然を守るというのなら結構なことと思うが。 |
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20年ほど前までは厳冬期の寒さに耐えられず、上高地には生息しなかった猿が、いまや沢山の群れで人々の与えるエサを狙っている。暖冬の影響もあるだろうが、観光客の残したゴミや「可愛い」といって与えるエサを頼りに、急激に増えたのだという。 |
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飛騨高山といえば、からくり人形の仕掛けを施された屋台で有名な「高山祭」だ。祭りの起源は江戸時代、屋台の起こりは18世紀はじめに遡る。「飛騨の匠」といわれ、奈良時代から都の宮殿や寺院などの造営にかかわってきた。その職人たちの心意気が伝わる見事な屋台に魅せられて、春と秋の祭りには、この小さな城下町は人でいっぱいになる。
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中山道(木曾路)の宿場町、贄川、奈良井を抜け、木曽福島から地蔵峠を越え、木曽馬の生産地だった開田村。さらに高山へ向かう国道361号線を辿った。江戸時代には飛騨街道(木曾街道)と呼ばれ、途中、分かれて野麦峠を越える道を江戸街道といった。高山から江戸へ行くには最も近い道だったという。
落差100mもある滝の上、標高1,370mの地蔵峠をはじめ1,000m級の峠を越えて辿り着いた村も、いまは国道361号線のトンネル(新地蔵峠)の開通で、木曽福島の町から約17km、20分ほどの距離だ。
平成17年、福島町、開田村、日義村、三岳村の4町村合併で、現在は木曽町となった。その木曽町の多くは御嶽山の裾野にあり「♪夏でも寒いよ ヨイヨイヨイ~」と歌われたところ。昔は蕎麦しかできないと言われたかつての開田村は、いまは自然を生かした観光開発に力を入れている。また2つのダム湖をながめながら、高山へと向かうかつての街道は、これから迎える新緑の季節には絶好のドライブウェイだ。
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<コース>
首都圏-(中央自動車道)-塩尻IC-(国道19号線)-木曽福島-(国道361号線)-開田村-朝日村-美女峠-(国道41号線)-高山
全行程約340km

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いつも取材旅行は天気予報を参考に出かける日を決める。その上、週末をなるべく省くことにしている。3日ほど好天が続くという予報に中央自動車道を急いだ。 |
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明治2年、福島関所とともに閉鎖され、原型はとどめていない。復元された建物の下にある「木曽考古舘」には村内簗場跡などで出土した土器石器類が展示されている。 |
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贄川宿屈指の商家。街道に面して主屋が建ち、その裏には中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。主屋は、嘉永7年(1854)、北蔵は文政4年(1821)、南蔵は文久2年(1862)に建築されたもの。 |
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この旧道、中山道は住人や関係者以外の車は乗り入れはできない。町の入り口には駐車場がある。車を降りて歩けば、江戸時代にタイムスリップだ。 |
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木曽福島中心部から黒川沿いを約10分、国道361号線と分かれ旧道(飛騨街道)に入って間もなく「二本木の湯」に着いた。昔から街道を行く旅人や御嶽修験者などの憩いの場として親しまれていた温泉。炭酸水素塩冷泉だ。山々に囲まれた静かな温泉で、晴れた日には湯に浸かりながら木曽駒ヶ岳を眺められると、地域の人々に評判が高い。 |
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温泉から約1kmのところで出会う滝は「唐沢の滝」で飛騨街道の名勝の一つだ。 |
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地蔵峠(1,335m)は木曽福島より開田への玄関口にあたる。昔は「唐沢の滝」の上に出る険しい道を避けて遠回りする道筋だったが、安政6年(1859)に現在の旧道が新道として開発された。峠の石地蔵は享保13年(1728)に建てられたが、台座だけを残して盗難に遭い昭和44年(1972)に再建されたもの。お地蔵さんを盗むとは酷い人もいるものだ。 |
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御嶽山の東山麓に広がる高原で、標高1,100~1,300mのところにあり、目の前には御嶽山を望み、真夏でも平均気温18度ほどしかないという。 |
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地蔵峠から下った末川村(開田)の入り口に、念仏構などの民俗行事の聖地として大切に保全されてきたというところがある。稗田の碑をはじめ双体の道祖神、庚申塔、二十三夜塔及び沢山の馬頭観音が並ぶ。馬と共に生きた開田の人々の心を映した馬頭観音は、道祖神よりその数が多いという。 |
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白樺の林をくり抜くように広い牧場と馬厩舎があり、小振りでやや太めの栗毛の馬が放牧されていたり、厩舎につながれた馬だけがいた。観光シーズンではないいま、飼育者の姿もなかった。そこで馬と案内板だけが頼りの取材だ。 |
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鉄なべの中のだし醤油の汁に刻んだ油揚げとネギを入れ、これをガスコンロにかけて煮る。一枚のざるに小分けにされたもり蕎麦を竹で編んだこしに入れ、熱く煮えた鍋の中にくぐらせて、中の具と一緒に食べる。これがまた蕎麦の味を引き出してくれて旨いし、体が暖まる。「投汁」と書いて「とうじ」という。思わずうなずく。まさに寒い土地に生きる人々の知恵といえよう。 |
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開田は昔の飛騨街道の西野峠(1,370m)を越えたところにも集落がある。現在は観光案内所のある集落から国道で九蔵峠を通って約10kmの道のりだ。ここに木曽馬の大馬主の住宅が残る。慶応元年(1865)~2年ころの建築であり、県宝指定になっている。 |
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これより国道361号線は、高根ダム、秋神ダム湖を通り美女峠へと向かった。「峠には古くは木曾街道と呼ばれ飛騨高山から美女峠を越えて朝日村に入り高根村を経て木曽の福島に至る重要な官道であった」と書かれた説明版があった。また昭和50年(1975)には国道361号線に昇格されたともあった。 |
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秋山郷は新潟県の津南町と長野県栄村にまたがる山深い山村で、中津川沿いに点在する12の集落のことを指す。詳しくは新潟県側を越後秋山郷、長野県側は信州秋山郷と呼ばれている。
急峻な山々に囲まれた集落は、新潟県側からバスが開通した昭和30年代まではほとんどが自給自足の生活をし、冬は豪雪に阻まれ、陸の孤島となった僻地であった。雪のない季節には、秋田からやってきたマタギとともに熊や鹿などを狩り、イワナを釣って草津へ売りに行っていたという。
地図の上では群馬県草津温泉との境(六合村経由)でもあるが、険しい山越えをし、野反湖を経て健脚をもってしても1日がかりの道のりである。
史実は定かではないが、近年「平家落人」説が浮上。秘境ブームと相まって登山、温泉、新緑、紅葉などの大自然とふれあう地として、多くの観光客が訪れるようになった。
また温泉も多く、とくに雑魚川と魚野川の合流点に近い魚野川「河原の露天風呂」が人気だ。今回は信州秋山郷を巡るドライブである。
現在、秋山郷へのアクセスは長野、新潟を千曲川沿いを走る国道117号線を津南(新潟)で国道405号線へ入って、そのまま道なりで行ける。長野県からは、志賀高原あるいは野沢温泉から県道や林道で結ばれている。ただし、長野県側からは冬季はもちろんのこと大雨などのときは道路封鎖されるので注意をしよう。
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<コース>
長野市-(上信越自動車道)-中野IC-(国道403号線)-須坂-志賀高原丸池-(奥志賀林道)-清水小屋付近より野沢温泉方面と分かれ秋山郷へ-切明温泉-屋敷温泉-小赤沢(信州秋山郷の村々を訪ねて戻る)-長野市
全行程約200km

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>
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奥志賀林道を下った地点で、野沢温泉と秋山郷への分岐点へ出た。細い道がさらに細くなった道を長野県栄村へと向かう。標識には「秋山郷へ12km」と書かれていたが、越後集落まで加えると20km以上ある。何処を指して12kmなのかわからない。切り立った山肌を削り採って作られた狭い道には、対向車との避難場所もあるが、地図の上でも心許ない曲りくねった林道で、秋山郷は遠い。 |
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日本一長い信濃川の源流ともいえる雑魚川に沿って続く道、いま新緑に覆われた山々は高く、切り込んだ谷はどこまでも深い。途中、樹木が途切れ、深い谷がむき出しになった地点からは2,000m級の山々の連なりを望む。 |
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信州秋山郷には越後との境界を挟んだ南半分に屋敷、小赤沢、上野原、和山、切明の5集落がある。屋敷は左岸にある唯一の集落。すべての集落がそうであるように住人の多くは高齢者だという。鳥甲山(標高2,038m)への登山口でもある。 |
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屋敷から北へ通じる道路から「大秋山村」の標示柱を見て右へ、かすかな車の轍を1kmほどで秋山郷に最初に人が住み着いたところといわれている大秋山村跡があった。8軒あった村は天明3年(1783)の大飢饉で滅びたという。死に絶えた村落跡には、昭和13年(1938)屋敷の人によってつくられたという墓石や石仏が並んでいた。 |
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中津川を見下ろす屋敷集落の外れに、薬師堂が建っていた。御堂の中には祈願の文字が書かれた男性の下帯、女性の下着や帽子、子供の肌着などがびっしりと、壁や柱にかけられていた。村人に尋ねると「身体の悪い部分を下着に託して願掛けした」のだという。病院も医者もいず、薬も買えなかった時代、薬師さまにすがることしかなかった頃の名残だろう。 |
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現在の信州秋山郷の中心ともいえる小赤沢集落には、民俗資料館、秋山総合センター「とねんぼ」がある。「とねんぼ」とは方言で、ひとつにまとまるという意味だそうだ。文字通りこの建物には、役場、郵便局、資料館、観光案内所などがある。 |
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資料館には豪雪などで、1年の大半を閉ざされた地方の古い生活様式や風俗習慣などが残されている。興味深いのは、秋田からやってきたマタギの人々が、村に定着したといわれるその生活ぶりや狩猟の方法や道具などが展示され解説もあることだった。 |
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中津川上流、雑魚川、魚野川が合流する切明は、人の住む集落でなく、温泉宿だけがある。河原に湧く温泉としても名高い。群馬県の野反湖に源を発する魚野川、志賀高原周辺の沢が集まって流れ下る雑魚川が合流して中津川となる。 |
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江戸時代末期に発見された温泉で、最初は山小屋のようなところに客を泊めていたことからはじまった温泉宿も、昭和47年(1972)雄川閣(村営)が温泉宿として本格営業となった。他に2軒の宿があるが、なんといってもこの温泉の醍醐味は、河原を自分の手堀で湯加減をしながら入る自然の野天風呂である。河原を掘るシャベルは雄川閣で借りられる。自然の中で生まれたままの姿になって河原湯に浸かるのが最高だが、水着でもよい。雄川閣にも川を見下ろす形の露天風呂がある。 |
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この他、秋山郷には各集落に温泉宿(多くは民宿)があるが、これらは栃川(上野原と和山の間を流れる湯の沢)付近を近年500mボーリングし湧出した湯を引いたもの。しかし、どこも天然掛け流し湯だ。 |
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新潟県津南から秋山郷を結ぶ国道405号線は切明温泉近くでプッツリと切れて終わっている。これより魚野川に沿うように、地図上には点線で示された道が群馬県吾妻郡六合村野反湖畔へと続く。幻の国道405号線と言われている道だ。この405号線は再び野反湖から六合村へ。ここから国道292号線となって草津温泉へ通じているのだ。 |
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塩田平といい、今から1300~1400年の昔、九州の阿蘇山の麓から多くの氏族がこの地にやってきた。そして大和朝廷から信濃国造に任命された阿蘇氏がこの塩田平に定着したことから歴史がはじまった。後の鎌倉時代には北条氏が治め、塩田北条氏と呼ばれていた。
中部日本で最古の建築の「薬師堂」(国宝)をはじめ、奈良や京都にある三重塔に匹敵する名作と言われる三重塔など国宝の建造物や仏像が多く残り「信州の鎌倉」と言われている。
一方、別所温泉は古代から、庶民の安息療養の場所と同時に、温泉信仰が生まれ、やがて仏教の霊場としての観音堂なども建てられたところである。江戸時代には上田藩主所有の時もあったが、今も昔も名湯は共同浴場として土地の人や観光客に親しまれている。
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<コース>
長野市-(国道18号線)-上田市-JR上田駅前-(国道143号線)-別所温泉と山里古刹群-JR上田駅-(上信越自動車道)-長野市
行程約120km
●別所温泉
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夫神岳(標高1,250m)と女神岳(標高926m)の麓にあって信州でも最も古い歴史を持つ温泉の一つ。古代からのこの温泉の効能は広く知られていた。その効能が神仏の霊験として観音さまがつくられた。温泉街にある「北向観音」がそれである。この観音さまを中心に長楽・安楽・常楽という三つの寺ができた。 |
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●北向観音
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別所温泉のシンボルともいえる観音堂は、長野市の善光寺に向けて北向きに建てられていることから北向観音という。 |
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本尊は千手観音菩薩。善光寺と向き合っていることから、北向観音のご利益は善光寺と一体のものといい、一方が欠ければ“片詣で”とされてきた。観音堂の地を「院内」といい、ここから鎌倉時代から室町時代にかけての石塔群が発見され、歴史が裏付けられた。現在の観音堂は正徳3年(1713)に焼失し、8年後に再建された後に、何度か改修されたもの。 |
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観音堂の西方崖の上に建つのは「医王尊瑠璃殿」という薬師堂で「瑠璃殿」とは薬師如来を瑠璃光如来と呼んだことからこの名がついた。現在の建物は温泉薬師信仰の深い人々によって文化6年(1809)再建されたもの。 |
●別所神社
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温泉街を望む高台にある社で、18世紀の神社本殿としては規模が大きく、建築作品として優秀なもの。保存状態も当時の様式をよく残している。本殿内には、享保9年(1724)から天明8年(1788)にかけての棟札が20枚もある。それによると神殿建築の棟梁は末野庄兵衛安定となっている。末野家は、この地方随一の江戸時代からの棟梁であった。 |
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●共同浴場
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温泉街には「石湯」「大師湯」「大湯」「あいそめの湯」の4ヶ所がある。いずれも温泉街の中心地にある。 |
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●安楽寺・八角三重塔(国宝)
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別所温泉街のはずれ、夫神岳の山裾を登った山腹にある国宝・八角三重塔を持つ寺。八角の塔は日本では珍しく、奈良の西大寺や京都の法勝寺の塔が古代ならば、中世に中国から渡ってきた禅宗の八角塔はこの安楽寺だけ。 |
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●常楽寺・多宝塔(重要文化財)
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別所温泉を開いた慈覚大師の開山と伝えられている古刹。北向観音の本坊でもある。どっしりとした見事な茅葺きの本堂は、長野県内では有数の古い木造様式。鬱蒼とした木立の茂る裏山には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔がある。 |
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●大法寺・三重塔(国宝)
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温泉街から北へ直線距離では2kmほどだが、車道は大きく迂回して約6km、国道143号線へ出て間もないところにある。 |
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塔が建てられたのは墨書によると正慶2年(1333)で、時代は鎌倉から南北朝に移る過度期である。 |
●中禅寺
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空海によって開かれたという真言宗の古刹。創建は、再度の火災のため多くの記録も焼失したため不明だが、現在の建物は享保19年(1734)に建立された。この寺での見所は国指定重要文化財に指定されている「薬師堂」と同じ重要文化財の「薬師如来座像」だ。 |
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この他、木造金剛力士立像もある。高さが205cmとやや小振りだが、平安後期の金剛力士像は全国的にも数が少なく、貴重なものだ。 |
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●前山寺(ぜんさんじ)
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塩田平を囲む夫神岳、女神岳、そして南に位置する独鈷山(標高1,266m)の山麓に佇む寺院。弘仁年間(812)ころ、空海上人が護摩修行の霊場として開いたと伝えられている。重要文化財に指定されている三重塔は、室町時代に当時の戦国武将たちの信仰するところとなった。 |
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●塩田城跡
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●生島足島神社
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日本の総鎮守と称され、長野県では諏訪大社と並ぶ古社。万物を成育させる生島神と、万物に満足を与える足島神が祀られている。池に囲まれた神島に鎮座する本殿の内殿には床板がなく、土間と大地そのものが御神体なのだ。 |
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今回、訪れた塩田地方には、このような保存状態のよい貴重な文化財が多く残されているのに正直驚いた。重要度の高い建造物や仏塔、仏像など10指を超え、歴史を伝えるすばらしいものが、奈良や京都周辺ではなく、信 |
を塩田平といい、今から1300~1400年の昔、九州の阿蘇山の麓から多くの氏族がこの地にやってきた。そして大和朝廷から信濃国造に任命された阿蘇氏がこの塩田平に定着したことから歴史がはじまった。後の鎌倉時代には北条氏が治め、塩田北条氏と呼ばれていた。
中部日本で最古の建築の「薬師堂」(国宝)をはじめ、奈良や京都にある三重塔に匹敵する名作と言われる三重塔など国宝の建造物や仏像が多く残り「信州の鎌倉」と言われている。
一方、別所温泉は古代から、庶民の安息療養の場所と同時に、温泉信仰が生まれ、やがて仏教の霊場としての観音堂なども建てられたところである。江戸時代には上田藩主所有の時もあったが、今も昔も名湯は共同浴場として土地の人や観光客に親しまれている。
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<コース>
長野市-(国道18号線)-上田市-JR上田駅前-(国道143号線)-別所温泉と山里古刹群-JR上田駅-(上信越自動車道)-長野市
行程約120km

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夫神岳(標高1,250m)と女神岳(標高926m)の麓にあって信州でも最も古い歴史を持つ温泉の一つ。古代からのこの温泉の効能は広く知られていた。その効能が神仏の霊験として観音さまがつくられた。温泉街にある「北向観音」がそれである。この観音さまを中心に長楽・安楽・常楽という三つの寺ができた。 |
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別所温泉のシンボルともいえる観音堂は、長野市の善光寺に向けて北向きに建てられていることから北向観音という。 |
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本尊は千手観音菩薩。善光寺と向き合っていることから、北向観音のご利益は善光寺と一体のものといい、一方が欠ければ“片詣で”とされてきた。観音堂の地を「院内」といい、ここから鎌倉時代から室町時代にかけての石塔群が発見され、歴史が裏付けられた。現在の観音堂は正徳3年(1713)に焼失し、8年後に再建された後に、何度か改修されたもの。 |
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観音堂の西方崖の上に建つのは「医王尊瑠璃殿」という薬師堂で「瑠璃殿」とは薬師如来を瑠璃光如来と呼んだことからこの名がついた。現在の建物は温泉薬師信仰の深い人々によって文化6年(1809)再建されたもの。 |
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温泉街を望む高台にある社で、18世紀の神社本殿としては規模が大きく、建築作品として優秀なもの。保存状態も当時の様式をよく残している。本殿内には、享保9年(1724)から天明8年(1788)にかけての棟札が20枚もある。それによると神殿建築の棟梁は末野庄兵衛安定となっている。末野家は、この地方随一の江戸時代からの棟梁であった。 |
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温泉街には「石湯」「大師湯」「大湯」「あいそめの湯」の4ヶ所がある。いずれも温泉街の中心地にある。 |
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別所温泉街のはずれ、夫神岳の山裾を登った山腹にある国宝・八角三重塔を持つ寺。八角の塔は日本では珍しく、奈良の西大寺や京都の法勝寺の塔が古代ならば、中世に中国から渡ってきた禅宗の八角塔はこの安楽寺だけ。 |
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別所温泉を開いた慈覚大師の開山と伝えられている古刹。北向観音の本坊でもある。どっしりとした見事な茅葺きの本堂は、長野県内では有数の古い木造様式。鬱蒼とした木立の茂る裏山には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔がある。 |
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温泉街から北へ直線距離では2kmほどだが、車道は大きく迂回して約6km、国道143号線へ出て間もないところにある。 |
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塔が建てられたのは墨書によると正慶2年(1333)で、時代は鎌倉から南北朝に移る過度期である。 |
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空海によって開かれたという真言宗の古刹。創建は、再度の火災のため多くの記録も焼失したため不明だが、現在の建物は享保19年(1734)に建立された。この寺での見所は国指定重要文化財に指定されている「薬師堂」と同じ重要文化財の「薬師如来座像」だ。 |
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この他、木造金剛力士立像もある。高さが205cmとやや小振りだが、平安後期の金剛力士像は全国的にも数が少なく、貴重なものだ。 |
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塩田平を囲む夫神岳、女神岳、そして南に位置する独鈷山(標高1,266m)の山麓に佇む寺院。弘仁年間(812)ころ、空海上人が護摩修行の霊場として開いたと伝えられている。重要文化財に指定されている三重塔は、室町時代に当時の戦国武将たちの信仰するところとなった。 |
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日本の総鎮守と称され、長野県では諏訪大社と並ぶ古社。万物を成育させる生島神と、万物に満足を与える足島神が祀られている。池に囲まれた神島に鎮座する本殿の内殿には床板がなく、土間と大地そのものが御神体なのだ。 |
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今回、訪れた塩田地方には、このような保存状態のよい貴重な文化財が多く残されているのに正直驚いた。重要度の高い建造物や仏塔、仏像など10指を超え、歴史を伝えるすばらしいものが、奈良や京都周辺ではなく、信濃にあるということに…。 |

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<コース>
長野駅前-(国道117号線・県道35号線)-川中島古戦場跡-(国道403号線)-松代町-長野駅前
行程約50km

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>
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日本合戦上最も有名な戦いといわれる武田信玄と上杉謙信の古戦場。天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの間に5回ものにらみ合いや戦いがあった。中でも4回目の戦いとなった永禄4年(1561)の八幡原の戦いの場所が「川中島古戦場跡」としていまに残る。そこは犀川と千曲川に挟まれた善光寺平といわれる盆地南側に位置し、いまでは国道18号線を松代町へ向かう八幡原交差点の近くにある。 |
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永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に武田、上杉両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。 |
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御祭神は中国文化を取り入れ、日本の発展に大変寄与された応神天皇で、武田信玄はこの八幡社を中心に本陣を構え祈願して命を免れたと伝えられている。ご神木のケヤキは樹齢700年、八幡原の戦いを見ていたということになる。 |
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川中島古戦場跡より千曲川にかかる更埴橋の近くに勘助の墓がある。大河ドラマの放映がなかったら、見つけることができないようなところにあった。といっても現在一過性の観光地となった墓には旗が立てられていたので見つけることができた。 |
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土手の下、河川敷の畑の中の墓石には、長野市観光課が立てた真新しい解説板があった。それによると、山本勘助は三河国(愛知県)の出身で、ドラマのように諸国巡業の後、武田信玄の軍師となったとある。だが、実在の人物ではあったらしいが、軍師であったかどうかは疑わしく、こうした物語の多くは、江戸時代からの芝居や講談で語られたもので、史実ではなかったようだ。作られたドラマの影響の凄さを感じるところでもある。 |
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武田信玄が築いた海津城は八幡原より直線で約3km。もとは、この地の在地土豪であった清野氏の館を、永禄3年(1560)ころ、山本勘助によって築城された城と伝えられている。正確なことはわからないが、清野氏の館を武田氏が大改修したという説もある。 |
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激戦だった八幡平の合戦では信玄がここを基地とし、この城を見下ろす妻女山に陣を張った上杉謙信からは丸見えの城であった。 |
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海津城(松代)は元和8年(1622)真田信之が上田城から移って以来、真田家10代が城主として続いた。いまも真田家ゆかりの寺や建造物が残る城下町としての佇まいをみせている。また信濃を代表する幕末の知識人佐久間象山の生誕地で、象山神社がある。 |
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藩士の子弟が学問と武芸を学んだところ。真田家8代藩主であった幸貫が、佐久間象山などの意見のもとに蘭学・西洋砲術など積極的に取り入れ、藩校としての文武学校の建設を目指した。嘉永6年(1853)、9代藩主の幸教がその意志を継ぎ建物を完成させ、安政2年(1855)に開校した。 |
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瓦葺き屋根、白壁、木造の校舎は、文学所をはじめ剣術、柔術、弓術所や文庫蔵、番所などからなる建物で、8歳から35歳くらいまでの藩士や子弟が学問と武術を学んでいた。 |
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江戸時代の大名家の御殿。江戸末期の、9代藩主幸教が母である貞松院の隠居所として建てたもの。明治以降は真田家の私邸として使われていた。とくに庭園が美しく四季の花々を見せてくれるというが、現在は平成22年3月末まで大修復工事のため、見学できるところが限定されている。 |
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宝物館と通りを隔てたところに、長野市出身で1997年に急逝したアーチスト「池田満寿夫美術館」がある。最後の作品となった「美貌の空」「土の迷宮」シリーズをはじめ、内外の受賞作品、水彩画、陶器などが展示されている。 |
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文化8年(1811)松代で生まれた佐久間象山は望遠鏡などを作成し、天体観測をしたばかりか写真機や乾板の製作から書画などにも長じた偉人でもある。生家ともいわれる家は神社境内にある木造2階、寄棟の屋根を持つ建物。高杉晋作、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など幕末の志士たちが、ここを訪れ、2階の七畳半の部屋で応対し時勢を論じたという。内部見学は自由にできる。 |
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●象山地下壕 |
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横田氏は真田家家臣として幕末まで150石の禄を受けていた中級武士であった。 |
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旧松代藩主の真田家の菩提寺で、広い境内の奥に高い塀に囲まれた二棟の真田家の霊廟がある。北側の重厚な建造物は藩祖真田信之公の霊廟で重要文化財に指定されている。建物に施された破風の鶴の彫刻は左甚五郎作で、格子天井の絵は狩野探幽筆と伝えられている。 |
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「牛に引かれて善光寺参り」、「一生に一度は善光寺参り」などといわれるように、古くから大勢の老若男女に親しまれてきた善光寺。 |
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年間600万人もの参拝者が訪れる善光寺について説明などはいらない。ただ、「大勧進」の宝物殿には天皇家に伝わった書画骨董などが多く展示されていること、武田信玄と上杉謙信の位牌が並んで納められていることなどは案外知られていない。また弘法大師の直筆とされる般若経もあったが、事務所で真贋を尋ねると「違うんじゃないですか?」と耳を疑う返事。もし弘法大師直筆というのなら、これぞ国宝ではないのか。もう一度確かめに出かけたいと思う。 |
HKの大河ドラマ「風林火山」で一躍観光名所になった川中島周辺も、今年の大河ドラマ「篤姫」で人々の足は遠のくかもしれない。
しかし、名高い善光寺をはじめ、真田十万石の城下町には、真田邸や武家屋敷、文武学校などの古い町並みが残され、松代にある武田信玄本陣の松代城(海津城)、その城を出陣して陣を敷いた武田信玄が上杉謙信と戦った川中島古戦場など歴史遺産がたくさんある。
とくに塩田平(上田市の南、三方を山に囲まれた田園地帯)は8世紀半ば、九州阿蘇から来た人々が住み着いたといわれるところ。山裾には国宝や重文化財の古刹が佇み、この地に湧く湯量豊富な別所温泉を含めて一帯を「信州の鎌倉」とも呼ばれている。
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<コース>
長野駅前-(国道117号線・県道35号線)-川中島古戦場跡-(国道403号線)-松代町-長野駅前
行程約50km
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●八幡原史跡公園(川中島古戦場)
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日本合戦上最も有名な戦いといわれる武田信玄と上杉謙信の古戦場。天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの間に5回ものにらみ合いや戦いがあった。中でも4回目の戦いとなった永禄4年(1561)の八幡原の戦いの場所が「川中島古戦場跡」としていまに残る。そこは犀川と千曲川に挟まれた善光寺平といわれる盆地南側に位置し、いまでは国道18号線を松代町へ向かう八幡原交差点の近くにある。 |
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永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に武田、上杉両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。 |
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●八幡社
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御祭神は中国文化を取り入れ、日本の発展に大変寄与された応神天皇で、武田信玄はこの八幡社を中心に本陣を構え祈願して命を免れたと伝えられている。ご神木のケヤキは樹齢700年、八幡原の戦いを見ていたということになる。 |
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●山本勘助の墓
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川中島古戦場跡より千曲川にかかる更埴橋の近くに勘助の墓がある。大河ドラマの放映がなかったら、見つけることができないようなところにあった。といっても現在一過性の観光地となった墓には旗が立てられていたので見つけることができた。 |
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土手の下、河川敷の畑の中の墓石には、長野市観光課が立てた真新しい解説板があった。それによると、山本勘助は三河国(愛知県)の出身で、ドラマのように諸国巡業の後、武田信玄の軍師となったとある。だが、実在の人物ではあったらしいが、軍師であったかどうかは疑わしく、こうした物語の多くは、江戸時代からの芝居や講談で語られたもので、史実ではなかったようだ。作られたドラマの影響の凄さを感じるところでもある。 |
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●海津城(松代城)
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武田信玄が築いた海津城は八幡原より直線で約3km。もとは、この地の在地土豪であった清野氏の館を、永禄3年(1560)ころ、山本勘助によって築城された城と伝えられている。正確なことはわからないが、清野氏の館を武田氏が大改修したという説もある。 |
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海津城(松代)は元和8年(1622)真田信之が上田城から移って以来、真田家10代が城主として続いた。いまも真田家ゆかりの寺や建造物が残る城下町としての佇まいをみせている。また信濃を代表する幕末の知識人佐久間象山の生誕地で、象山神社がある。 |
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藩士の子弟が学問と武芸を学んだところ。真田家8代藩主であった幸貫が、佐久間象山などの意見のもとに蘭学・西洋砲術など積極的に取り入れ、藩校としての文武学校の建設を目指した。嘉永6年(1853)、9代藩主の幸教がその意志を継ぎ建物を完成させ、安政2年(1855)に開校した。 |
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瓦葺き屋根、白壁、木造の校舎は、文学所をはじめ剣術、柔術、弓術所や文庫蔵、番所などからなる建物で、8歳から35歳くらいまでの藩士や子弟が学問と武術を学んでいた。 |
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江戸時代の大名家の御殿。江戸末期の、9代藩主幸教が母である貞松院の隠居所として建てたもの。明治以降は真田家の私邸として使われていた。とくに庭園が美しく四季の花々を見せてくれるというが、現在は平成22年3月末まで大修復工事のため、見学できるところが限定されている。 |
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宝物館と通りを隔てたところに、長野市出身で1997年に急逝したアーチスト「池田満寿夫美術館」がある。最後の作品となった「美貌の空」「土の迷宮」シリーズをはじめ、内外の受賞作品、水彩画、陶器などが展示されている。 |
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文化8年(1811)松代で生まれた佐久間象山は望遠鏡などを作成し、天体観測をしたばかりか写真機や乾板の製作から書画などにも長じた偉人でもある。生家ともいわれる家は神社境内にある木造2階、寄棟の屋根を持つ建物。高杉晋作、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など幕末の志士たちが、ここを訪れ、2階の七畳半の部屋で応対し時勢を論じたという。内部見学は自由にできる。 |
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●象山地下壕 |
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横田氏は真田家家臣として幕末まで150石の禄を受けていた中級武士であった。 |
●長国寺
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旧松代藩主の真田家の菩提寺で、広い境内の奥に高い塀に囲まれた二棟の真田家の霊廟がある。北側の重厚な建造物は藩祖真田信之公の霊廟で重要文化財に指定されている。建物に施された破風の鶴の彫刻は左甚五郎作で、格子天井の絵は狩野探幽筆と伝えられている。 |
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「牛に引かれて善光寺参り」、「一生に一度は善光寺参り」などといわれるように、古くから大勢の老若男女に親しまれてきた善光寺。 |
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年間600万人もの参拝者が訪れる善光寺について説明などはいらない。ただ、「大勧進」の宝物殿には天皇家に伝わった書画骨董などが多く展示されていること、武田信玄と上杉謙信の位牌が並んで納められていることなどは案外知られていない。また弘法大師の直筆とされる般若経もあったが、事務所で真贋を尋ねると「違うんじゃないですか?」と耳を疑う返事。もし弘法大師直筆というのなら、これぞ国宝ではないのか。もう一度確かめに出かけたいと思う。 |
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長明寺の石庭 |