イラン
イラン

2003年の地震で大崩壊した世界遺産の城塞都市です。修復はされましたが、今のバムに6世紀から4世紀にかけて作られたこの写真の姿はありません。きれいにはなっていても日干し煉瓦が長い年月を経た”味わい”のようなものは失われてしまいました。

 バムの遺跡は17世紀から19世紀にかけて栄えた街だと聞きます。どうしてこれだけの城壁を巡らし“首領”の居城も立派なのに放棄されたのか、はっきりした史実はわかりませんが、自然災害だったときいています。

 アフガンに攻められた。
 疫病が流行した。
 水源が枯れ果てた。

 そんなことが書いてあるのも読みました。

いずれイランの歴史学者が解明することでしょうが、日干し煉瓦と泥で築かれた城壁に囲まれた街は、神秘的でした。

 ジジ・ババが若き日に訪れたとき、遺跡の半ば崩れかけた建物に、老婆が孫を連れて入っていきました。現地の若者に「入っていいか?」と聞くと、問題ないと言います。

 邪魔をしないように、老婆と4、5歳の女の子が祈る姿を見ました。ろうそくを灯し、静かに祈っていました。十字は切りません。イスラムの祈りのような仕草もしません。ただじっと祈っているようでした。

 そのお婆さんが、ゾロアスター教だったかどうかは分かりません。ジジ・ババに取っては、大きな問題ではなかったのです。しかし、ロウソクを灯し、静かに祈るのは、もしかしたら古代からの信仰、ゾロアスター教を受け継いでいるのかも知れないと思いました。

▼寄り道

 バムの街は城壁に囲まれています。街へ入るには、門を潜ることになります。
 左はカレーズです。遠くの山麓、水のあるところから砂漠を延々と深い横穴を掘って水を導きます。横穴を維持するためには、縦穴が要ります。それが砂漠に連なっています。
 

自転車かと思ったら乗っていたのはロバ。

 案内してくれた青年は、金銭も物もほしがりませんでした。「家へ来いよ」と言って連れて行ってくれました。利発そうな少女や、親しみ深い人々がいました。

 こういう人々に遭遇すると、旅はとても素晴らしいものになります。今どうしているか…。もう、37年も前の話なのです。

孫とお爺さん、ロバの2人乗りです

地震で崩壊、今は崩れ去ったバムの遺跡です

ケルマン(下)とケルマン付近のオアシス

◆ケルマン周辺

 1970年、イスラム革命の前で、まだパーレビ国王の時代にジジ・ババはペルシャ湾(アラビア湾)からイラン・アワーズへ入り、ザクロス山脈を越えてケルマンからヤズド、ザヘダン行き、北へ上ってメシェドへと旅しました。

 イランのパーレビ国王の時代、秘密警察は強力でした。オアシスにふらりと現れた男が、ジジ・ババの顔、車、あらかじめのルートなどのコピーを持っていたのには魂消ました。旅のデータをイラン当局に提出したおぼえはありませんでした。おそらく入国の際などに話したものを、警察が集め、監視役に持たせたのでしょう。

 ケルマン州の中心はケルマンですが“消えた街・バム”は少し南東にあります。ジジ・ババが旅した頃「ザクロス山脈には山賊がいる」などと脅されましたが、そういう目にあったことはありません。

 日本外務省は「イラン治安当局が居場所は特定し、接触も始めている」としていますが、テレビに出た場所は「ケルマン州」とあり、バムの印がありました。ケルマンが州都です。

 数日滞在したバムでは仲良しになった若者の家に遊びに行ったこともあります。遺跡へ入るのもただで、管理人と思しき人は見当たりませんでした。。この遺跡から パキスタン、アフガニスタン国境はそう遠くはありません。

 旅の途中で日本人の大学生が誘拐されたという話を聞きました、
 「日本人学生を交換条件に、麻薬取引で、拘留されている仲間の釈放を要求するのではないか」
 「身代金目当てではないか」
 そんな憶測が流れていました。

 いずれにしても、タリバンの本拠、パキスタン、アフガニスタン国境に近いところですから、当時も危険だったようですが、過激派の動きはかなり封じ込められていたのです。思い返して「いい時代に旅が出来たものです。当時はイラン革命前で、パーレビ国王が反体制派を抑えんでいたのでしょう。

 日本人の誘拐事件もこのころ頻発傾向です。70年4月に南米パラグアイで、土地管理会社社長ら2人が誘拐、無事解放。2004年10月にはイラクで香田証生さんが拘束、殺害されました。同年4月7日にはイラクで3人、14日には2人が拉致され、5人とも無事解放されています。

 「日本は多額の身代金を払う」と噂されています。先に韓国人キリスト教グループがアフガニスタンで誘拐されましたが、ここでも多額な身代金が世界的な話題になっていました。旅するのはまず情報収集、出向く場所や状況を熟慮する必要があると思います。ジジ・ババが旅したころは国際関係がある程度バランスの取れていた時代ではあったのです。


バム、ケルマンの砂漠は、岩山もあります。涸れ谷の奥にはさらに山々が続きます。樹木があるのは、ごく一部のオアシスだけです。「木が一本。家が一軒」のようなオアシスに、1家族が生活しているところもあります。誘拐犯はそういう奥地に根拠を構えているのかも知れません。

 旅にはリスクが伴います。団体旅行なら決まったルートをその土地の旅行社が、請け負って案内することになります。しかし、個人での旅はそうはいきません。その分だけ、自由、気ままですが、リスクもあります。

 ジジ・ババの長い、長い旅の人生は、ずっと幸運に恵まれてきたと思います。旅に「わたしは大丈夫」はありません。リスクはその人が背負うものです。抜け目ない注意力、なにをおいても幸運なしでは無理でしょう。心して旅に向かいたいものです。

 城壁内の小高い城の半ばにあった広場です。兵士の宿舎と集合場所でしょうか。

バム近くの茶屋(左)、右は砂漠ロードです。

写真はルート砂漠です。上は水場の廃墟、下は地平線の続く砂漠に約20キロ置きにある狼煙塔です。人の痕跡にホットします。