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初代天皇の神武天皇・皇后を祀る橿原神宮を詣で神武天皇陵内の玉砂利を踏む。神通力をなくした久米の仙人伝説が残る久米寺や「東洋のミューズ」と呼ばれる日本唯一の技芸天像が祀られている秋篠寺などを巡りながら、江戸時代の面影をそのままに残した「今井町」を歩いた。
一休みしたあと、藤原京から遷都して来年で1300年を迎える平城京跡へと車を走らせた。いま奈良市は、平城京跡に資料館・遺構展示館・朱雀門や東院庭園などの散策マップ作りや見学コースなどの整備を急ピッチで行っているところであった。とくに朱雀門の北700mに位置する大極殿の大規模復元「遷都1300年祭」は一般公開に合わせて、ただいま工事中であった。
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<コース>
三重県津市−(国道165号線)−阿保−(国道422号線)−名張−(国道165号線)−室生−(県道28号線)−室生寺−(国道165号線)−長谷寺−萩原−(国道370号線)−大宇陀−(国道370号線)−吉野山−(県道15号線)−明日香村−橿原−奈良−秋篠寺−平城京跡−奈良
行程 約30km

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神武天皇が即位した地とされる橿原宮跡地に、明治23年(1890)に創建された。重要文化財である本殿は、京都御所賢所が移築されたもの。一の鳥居近くにある宝物殿には、明治天皇下賜の太刀や横山大観の絵画などが展示されている。 |
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神武天皇ゆかりの地、大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)、その畝傍山の北東の麓にある周囲100m、高さ5.5mの御陵。正式には「畝傍山東北陵」といい、八陵円形で樹木に覆われている。周囲には周濠がめぐらされている。 |
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畝傍山の麓、かつての久米町の集落の北はずれ、木立の中に金堂・観音堂・多宝塔などがひっそりと建つ古寺。 |
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橿原市、JR畝傍駅から飛鳥川を隔てた西に東西600m、南北300mに広がる古い町並み。かつては戸数1,100軒、人口約4,000人で、町屋は切妻造、本瓦葺きで、6町に町割りされ、9つの門から橋を渡り外部の道路につながっていた。 |
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現在は旧環濠内にある600余りの民家のうち、約500軒が江戸時代からの伝統様式を残す。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。この内、8軒が国の重要文化財の指定を受けている。 |
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御堂筋にある寛文2年(1662)の建築という建物。木材商らしく豪壮な造りで、屋根は入母屋造本瓦葺き、軒は高く二階軒は出桁造り、二階正面の壁には丸に木の字の紋がついている。納戸など各所に古式の手法が残る重厚な家屋だ。 |
この御堂筋を挟んだ向かいにある称念寺は、江戸初期に再建されたもの。畝傍御陵に参拝された明治天皇行在所として知られ、国の重要文化財に指定されているが、いま寺はひと気もなく荒れている。最近、保存修理に向けて動き出したようだが、いつしか世襲化された寺はさまざまな事情をかかえているのだ、と近くの人が教えてくれた。 |
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今西家は代々今井の惣年寄筆頭を務めた家筋で、司法権、警察権なども委ねられていた。今井町の環濠を出て堺へ向かう西口門近くに建つ今井では最も古い民家だ。『棟上げ慶安参年参月廿参日』の棟札銘により、慶安3年(1650)の建立であることが分かっている。 |
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今井町にはこの他に酒造業を営んでいた河合家や高木家、米問屋の中橋家、金物問屋の音村家など、重要文化財に指定されている町屋だけでも8軒もある。御堂筋、本町筋、中町筋、大工町筋など整備された道筋に、県や町の指定文化財家屋などを含め、江戸時代そのままの町並みを残している。 |
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今から1300年前、和銅3年(710)に藤原京から平城京に遷都。奈良盆地北端に東西4.3km、南北4.8kmの大きな都、平城京が建設された。都の中心には平城宮を置いた。 |
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平城宮の本格的な発掘調査は昭和34年(1959)から続けられ、この発掘が完了するにはさらに100年かかるという。いままでの大きな発掘では、藤原仲麻呂の私邸など多数の宅地に及び、4万点近い木簡や、東院庭園などの解明がされている。現在は朱雀門と東院庭園や宮跡から東南へ300mほどのところにある左京三条二坊宮跡庭が当時の姿に復元されている。 |
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平成22年(2010)は平城京に遷都してちょうど1300年、来年はその長い歴史を祝う祭典が行われる平城京は、いま朱雀門の北700mにある大極殿完成を目指して復元工事が進んでいる。平城宮跡は世界文化遺産でもある。 |
奈良時代称徳天皇の勅願で建立された寺で、創建時は大仏の東大寺に対する西大寺として薬師堂、弥勒堂、東西五重塔などが並ぶ壮大な伽藍を誇っていた。しかし、平安時代になって火災や台風などによって衰退、その後の復興もあったが興福寺の支配下にはいった。 |
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奈良時代の末期宝亀7年(776)、薬師如来を本尊として開基、後に真言密教道場として隆盛を極めた。ところが保延元年(1135)、講堂の他数棟を残し、火災で焼失してしまった。鎌倉時代に現在の本堂の改修をはじめ各諸尊像の修補などもしたが、明治の廃仏棄釈で大半の諸院、諸坊を失った。 |
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創建当時は講堂として建立され、鎌倉時代に大修復された本堂の中には帝釈天、不動明王、薬師如来、日光・月光菩薩など仏像が安置されている。なかでも調和の取れた美しさと優しさで、人々の心が癒される「技芸天」は必見だ。いずれも重要文化財である。技芸天はヒンズー教の神シヴァ神の髪から誕生した天女で、器楽や舞踊の創始者といわれている。 |
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