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四国西部ドライブ(1)
瀬戸内しまなみ海道・今治・松山

広島県福山市、JR福山駅からレンタカーで出発。「しまなみ海道」を経て今治市から佐田岬、足摺岬を経由して、四万十川を辿り高知まで約1,200kmの道のりを一週間かけて回った。それぞれの町や村にまつわる歴史やその建造物、風光明媚な海や川、そこに住む人々の知恵や逞しさなど多くのことを見聞した。いうまでもなく海、山、川の幸も味わった。
この長距離ドライブを4回シリーズでお届けしたいと思う。
1回目は、本州と四国を結ぶ全長約60km、島々を繋ぐ橋と海の「瀬戸内しまなみ海道」と、いつもは一気に通り過ぎてしまう足下の島、因島と大島へ立ち寄った。戦国時代に瀬戸内海の一大勢力として君臨した村上水軍の根拠地であり、一族が眠る墓や菩提寺があるからだ。激しい潮流の来島海峡にかかる3本の大橋を渡ると四国の今治市だ。ここから海岸線の美しい国道196号線、今治街道を経て、名高い道後温泉、国宝や重要文化財の石手寺、松山城までとした。

<コース>
福山市−福山西ICより「しまなみ海道」−因島−大島−今治市−(国道196号線)−松山市
全行程 約150km

<ルート付近のリンクポイントをクリックしてみてください>
●「しまなみ海道」と「村上水軍」
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福山城を見学の後、2号線を尾道方面へ約10km、西瀬戸尾道ICから「しまなみ海道」に入る。
平成11年(1999)全線開通し、西瀬戸尾道ICから四国今治ICまで全長約60km。6つの島を10本の橋で結び、それぞれの島にもICがあり、島巡りもできる。またすべての橋は自転車や徒歩でも通れる。途中にはパーキングエリアもあり、各島に架かる橋を歩いても渡ることができる。
(関連記事:「瀬戸内しまなみ海道」(1999年)参照)
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福山城址
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●因島の村上水軍城
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瀬戸内海は、古くから東アジアを結ぶ道として交易・交通・軍事上の要衝だった。南北朝の動乱期には水軍として組織された海賊が暗躍していた。瀬戸内海の複雑な地形や潮流に特殊な知識や技術を持った勢力は、平安朝、室町から戦国にかけて勢力を拡大していった。
海賊といってもただのギャングではなく、官の輸送・官人の護衛、交易船などの水先案内役もしていたが、ときには法外な料金を要求し、支払われない場合は容赦なく積み荷などの略奪もした。
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因島に架かる橋
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復元された水軍城。水軍では唯一の城だった
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南北朝時代に活躍した村上水軍前期の総大将、義弘までを前期村上、その後、後期、信濃の村上氏の師清が水軍を引き継いだといわれている。その子孫が瀬戸内の「因島」「能島(大島)」「来島」を領とした三家に分かれたことから「三島村上水軍」と称されるようになった。毛利元就を支え小早川にも通じた村上水軍も天正16年(1588)豊臣秀吉によって「海賊禁止令」が発せられ、海上特権を失った。
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因島・村上水軍城から戦士の眠る墓所。
○に上が旗印
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因島・村上水軍の墓所
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水軍では唯一の城といわれる復元された村上城は因島の深い入り江の奥、小高い丘の上にある。昔は城のすぐ下あたりまで海が迫っていたと思われるが、いまはかつての海には民家や柑橘類の畑が広がっている。城の内部には、水軍ゆかりの道具や歴史などの資料館となっている。
城のすぐ下には金蓮寺があり、海を見下ろす斜面には後期因島村上一族の墓石が並ぶ。
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●村上水軍博物館と高龍寺
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大島には 文中3年(1374)に没した村上義弘の墓と前期村上一族の墓石がある高龍寺と、平成16年(2004)に開設された博物館がある。村上水軍が活躍した海や海賊たちの生活などがわかりやすく展示している。入り口には巧みな櫂さばきで急襲を得意とした水軍の小早船が復元展示されている。大島のすぐ近くには能島があり、能島(大島)村上水軍の本拠となっていた。
TEL
0897-74-1065
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大島・村上水軍博物館
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復元された水軍の船
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大島・高龍寺は能島村上家の菩提寺
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大島・村上水軍前期の総師・村上義弘の碑
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●今治城
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戦国時代の今張地方(今治)の支配者は村上水軍だったが、慶長5年(1600)藤堂高虎が城主となり、山城を捨て20万3千石の大名にふさわしい城郭と城下町を建設し「今治」と名も改めた。
2年の歳月をかけて完成した城は、三層の堀に海水を引き入れた平城であった。だが、単なる平城ではなく、城と壕と海が繋がり、城内に軍船を繋留できた大規模な海城でもあった。
今治城主として高虎は在任8年間であった。寛永12年(1635)徳川家康の甥の松平定房が就任、その後松平家の居城として明治維新を迎えた。
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今治城
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現在の5層6階の天守閣は昭和55年(1980)に再建されたもの。内部には今治藩のゆかりの品などが展示されている。平成19年8月末まで駐車場などが工事中だ。
TEL 0898-31-9233
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●今治市
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今治港は四国初の開港場として発展してきた町だが、今は瀬戸内海しまなみ海道の四国側の玄関口であり、世界初の三連吊り橋の来島海峡大橋の観光拠点ともなっている。四国八十八ヶ所巡礼札所の寺が7ヶ所の他、日本の渚100選の長い海岸線や激しい潮流の来島海峡と、そこにかかる三連の吊り橋の景観が町の自慢。そして激しい潮の流れの中で育つ魚介類の味の良さは天下一品だと、港で出合った漁師の話。その港に面した料亭を紹介されて訪ねてみた。
覗いた生け簀には見たこともないような体調20cmほどの赤みを帯びた魚が泳ぐ。名前を聞くと学名は不明だが地元では「アコ」だという。煮付けが旨い。それに今はハモが旬だとか。湯引きと唐揚げを注文した。身の引き締まったアジのタタキも追加。
「ここらの人は、東京の築地の魚だって旨いとは思わないよ」と隣り合わせた地元の客の言葉だった。
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川のような潮の流れ。村上水軍が
支配した来島海峡と大橋
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来島海峡大橋を走る
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潮の流れが速いからか、今治の漁船は
舳先の下も鋭い波切りがある
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ハモの湯引き
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●松山へ
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瀬戸内の海岸は綺麗だ
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今治より瀬戸内海沿いの国道196号線、通称今治街道を辿る。この道は、昔も今も巡礼路でもある。
海岸線ぎりぎりを走る道。遠くに浮かぶ島々や近くの岩礁に砕ける白波を眺め、海を少し離れた道沿いに畑や林が飛ぶ。車窓いっぱいに初夏の風を受けながらの心地よいドライブが続く。
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国道196号線今治街道の景観
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快適なドライブウェイが続く
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●松山城
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町の中央にそびえる城。周囲を樹木に囲われた城への道は、徒歩で登れば約15分だが、途中まではケーブルまたはリフトで上れる。料金は共に往復500円。
日本を代表する連立式平山城で、寛永4年(1627)加藤左馬之助嘉明によって築城された。広大な規模の城郭には、門櫓、塀を多数揃え、鉄砲・弓を撃ち、射る備えや石落とし、高石垣などを配した攻守の機能に優れた城である。一の門、紫竹門、隠門、戸無門など国の重要文化財指定という価値あるものも多い。また火災や戦火によって焼失した部分もすべて木造で復元されている。天守閣からは松山市内が一望できる。
/天守閣入城料 500円、TEL
0899-21-4873
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松山城の見事な石積みと櫓
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松山城はケーブル、リフトで上れる
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●道後温泉
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開湯3000年といわれ、有馬、白浜と並ぶ日本三大古湯の一つ。この日本最古の歴史を誇る道後温泉のシンボルは「道後温泉本館」だ。その名を一躍全国に知らしめたのが、夏目漱石の小説「坊ちゃん」だ。明治27年(1894)に建てられた木造三層楼は、平成6年、温泉施設として日本ではじめて国の重要文化財に指定された。
本館の屋根の上には温泉の由来である鷺に基づき、鷺を戴く振鷺閣(しんろかく)がある。ここに吊り下げられている刻太鼓が毎朝6時に打ち鳴らされたのを合図に、温泉が開かれる。館内には神の湯と霊の湯があり、入浴だけの神の湯コースから浴衣とお茶付きの霊の湯、2階の休憩室や3階の個室など料金が異なる4コースがある。他に皇族専用の湯殿叉新殿や坊ちゃんの間などの見学コースもある。(大改修が行われたので取材時と状況は異なります)
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●石手寺
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道後温泉街の東、約2km、石手川沿いにある鎌倉期の寺院建築の石手寺がある。
石造りの小さな橋をわたると、屋根付きの参道にはみやげもの屋が並ぶ。
真言宗豊山派の古刹で、八十八ヶ所51番札所である。境内には白装束の巡礼者の姿が大勢あり、本堂前は読経をする人でいっぱいだった。
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石手寺で祈るお遍路さん
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仁王門への回廊
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この寺は聖武天皇の神亀5年(728)に勅宜によって大領・越智玉澄が伽藍を創建された。国宝の仁王門は文保2年(1318)に建立されたもので、軒の反りや張りをはじめ、建物全体の均整がよいといわれ、全国の楼門の中でも優れた作品として評価されている。左右の金剛力士の逞しい像は、運慶一門の作と伝えられている。
また、本堂・三重塔も鎌倉期の特徴をよく備えた建築物で、共に国の重要文化財となっている。
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三重の塔(重文)
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