旧東海道 品川宿界隈 を歩く
  品川宿は御殿山から八ッ山橋を過ぎたところから始まります。目黒川を挟んで北品川と南品川に分かれますが、目黒川を越して少しの区間は、北品川と同じようにお寺も多く賑やかですが、そこから南は立会川付近がちょっと賑わいますが、静かになって鈴ヶ森の刑場跡に続きます。今は品川水族館なども出来て、休日はその辺りだけは賑やかです。

 品川宿の入口には、東海道53次の宿場が書かれた石柱が立っています。橋のたもとから回り込んで来る第一京浜の所まで、およそ100bほどです。歩道は広くぶらぶらと宿の名前を確かめてみるのもいいでしょう。東京駅から品川駅を過ぎたJR線は目まぐるしく行き交います。新幹線、成田エクスプレス、東海道線、京浜東北線、山手線。さらに細かく路線名はありますが、写真の通りにびっしりと線路です
(写真=御殿山橋から)。

 広重の東海道五十三次(保栄堂版)には八つ山の下、今では想像できない海沿いを行列の後尾が往く様子が描かれています。家並みのすぐ下は海で帆掛け船が並んでいます。この名残と言うのでしょうか、ここまでが海だったというのが北品川の運河にある船溜まりでしょう。今は釣り船や屋形船が沢山係留されています。


 八つ山近くにはソニーの歴史資料館があります。トランジスタで一世風靡。一気に大会社へとのし上がったソニーですが、創業者・井深大氏が1945年(昭和20年)に考案した「電気炊飯器」は見事失敗作でした=写真・右=が、木のお櫃にアルミ電極を貼り付けた現物が展示されています。ソニーの歴史なども分かるようになっています。
 八つ山公園はマンションなどがあるので気づきにくいですが、しゃれた喫茶室も有り、ちょっとしたオアシスです。今はホテルに所属する庭のように見えますが、桜祭りなども行われていて、一般の人も散策できます。瀟洒な原美術館は2021年11月、閉館になってしまいました。

                               品川宿へ
 歌川広重の東海道五十三次(行書版)は日本橋の次に品川・鮫洲の海が現れます。茶店で休む人の先には停泊する船、帆を張った船が見えます。今はすっかり埋め立てられ、鮫洲の海を眺めようと思っても、そうたやすくは見えません。羽田空港を発着する飛行機が白帆や帆柱より遙かに賑やかでしょう。

 今日はまじめに旧・東海道の品川宿を見てやろうと思い、八ッ山橋
=写真右=を渡り、京浜急行の踏切を渡って、北品川の宿に足を踏み入れたのです。橋といっても今は下をJR東海道本線、山手線、京浜急行線、それに新幹線が走っています。もともと山の上なので、水の流れている川などはなかったでしょう。
 数年前に出来たのですが「従是南 品川宿」と書かれた棒が踏切の脇に立っています。高輪を過ぎて江戸ではあっても“江戸の外”と言うことになります。ここまでは通行手形など要らなかったので、遊び人は何かにかこつけては、遊興の地でもある品川へやってきたようです。今はそうした名残もほとんど感じられませんが、小さい商店がなかなかいいものを売っていて、魚などはデパ地下よりもすっと安く、いいものがありました。

 言うまでもありませんが、小料理屋や一杯飲み屋は沢山あります。道幅もほどほど。一方通行で走ってくるのはほとんど地元車です。ただ、時には馬鹿が速度を上げて走るので、気をつけないといけません。こういう道はそれこそ速度違反をきっちり取るようにすべきでしょう。どっちでも良いようなところで、軽自動車やバイクで仕事をしている人を捕まえるなら、大型輸入車で平然と違反する人を何故取り締まらないのか、いつも疑問に思います。
 
 京浜急行の踏切です。左が旧東海道です。ここから品川宿です。何せ東京ですから昔の面影をそのまま残すような所は、お宮かお寺ということになります。町内会の会長さんと偶然出会い、立ち話をしましたが「出来ることなら一階だけでも昔風の作りにしたい。宿場街の雰囲気が続けば素晴らしいと思っています。距離が長いから難しいですけど…」といっていました。
 
                       鯨塚
 旧街道を南へと300bほど歩き、左へ緩い坂を下るとバス道路に出ます。道路の向こう側に公園が見えます。その公園が鯨塚のあるところです。以前は子供が遊ぶような公園はなく、鯨塚と利田神社(かがたじんじゃ)がつながったような広場だったのですが、今は鯨の頭部模型が公園の中に突き出ていて、昔からの塚はその先に小さくなっています。

 利田神社は鯨塚の沖を安永3年(1774年)から天保5年(1834年)にかけて埋め立て約9900uを開いた南品川の宿名主、利田吉左衛門を祀ったものです。感謝の気持ちが神社となって今につながっています。
 鯨塚(鯨碑)は寛政10年(1798)年5月品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑。体長9間1尺(約16・5b)、高さ6尺8寸(約2b)の大鯨で、11代将軍家斉が浜御殿(現・浜離宮)で見るまでの評判となった。品川沖では鯨漁を行っていなかったので、江戸では唯一の鯨塚となった。捕鯨禁止を言うアメリカ、オーストラリアに一つでも鯨塚のような供養塔があるだろうか。歴史も伝統も知らず、ただ騒ぐ売名行為と、はき違えた動物保護には困ったものだ。

 ところで旧東海道は今の道幅とほぼ同じだったようです。江戸幕府は慶長9年(1604年)に道幅を広げ、整備したとされます。その後、元和2年(1616年)家康の遺訓に道路整備が入っていたことなどから、道路の格や幅などが指示されています。「家康百箇条」にあるそうです。これによると次のようになります。
 ▽大街道 幅6間(10・8b)
 ▽小街道 幅3間(5・4b)
 ▽横道   幅2間(3・6b)
 このほかにもありますが東海道は大街道なので、当然6間のはずですが、どうもきっちりとはしていないようです。街道も宿場を外れたり、山坂にかかると東海道でも2間ほどになっていたようです。

                                台場  旧東海道を歩き始めると、台場横町と言う立て札に出会います。今、お台場といえばウォータフロント、レインボーブリッジとともに思い浮かべる人が多いでしょうが、もともとはレインボーブリッジの先どころか、東海道側にしてからが海でした。浮かれて遊んだり、新しい街などとは大違いです。台場とは大砲を据える海上の台です。その台場へ品川宿から下っていく道が、台場横町と呼ばれていたのです。

 ペリーが黒船4隻を率いて浦賀へやってきたのは嘉永6年(1853年)です。鎖国を続けていた幕府にとって、ペリーの“軍艦外交”はまさに想定外で大きな騒ぎになったのです。まさに脅しで自分勝手な貿易をしようという今のアメリカと同じです。これに応じなければ「何をするか分からない」のがアメリカの変わらない姿勢なのです。

 幕府は品川沖から深川州崎にかけて、台場を11カ所作る予定でしたが、第一、第二、第三、第五、第六台場は完成しましたが、第四、第七は途中で中止。第八以降は着工も出来ませんでした。その代わりとして陸続きの砲台を作ることになり、その1つが品川の御殿山下台場でした。明治になって埋め立てられましたが、品川の台場小学校は御殿山下台場の敷地の約半分を使って作られているそうです。

 写真の灯台は明治3年(1870年)日本で3番目に作られた洋式灯台、品川灯台を小さくして作り、小学校前に据えられています。今は海も見えない陸地ですが、模擬灯台の台座になっている石は、台場の石垣として使われていたものです。ちなみに本物の品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の明治村に移設されています。

 品川宿を歩き始めて間もなく「まち歩きマップ」(旧東海道品川宿周辺 まちづくり協議会)には「問答河岸の碑」と印がありますが、見当たりません。夜は飲み屋さんになりますが、昼間は案内もしてくれる「お休みどころ」で聞いたら「そこで今工事してるでしょう。そこが問答河岸の碑のあった所よ。ああ、土蔵相模ね。ちょっと先にファミリーマートがあるよ。そこよ。何もなくなっちゃって悪いわね」といいました。

 問答河岸は三代将軍・家光と沢庵和尚がこの辺りで禅問答をした、と伝えられる場所。今はマンションの建設中でした。見るべき物は何もないので、その先の「土蔵相模」の跡へ行ってみました。小さな説明表示がありましたが、なるほどコンビニに変わってしまい、まるで面影などはありません。江戸の昔、旅籠屋を営む相模屋の外壁が、土蔵に使われることの多いナマコ壁だったので「土蔵相模」と呼ばれるようになったのです。

 これだけでは何でもありませんが、この家で幕末の「英国公使館焼き討ち事件」の密議が行われていたというのです。長州の高杉晋作や攘夷派の久坂元端などが文久2年(1862年)12月12日に品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼いてしまったのです。この年には生麦事件などもあり、騒然とした幕末の嵐は、品川宿にも吹き荒れていたのです。


伊豆の長八の鏝(こて)絵         
 品川宿には西伊豆・松崎出身の鏝絵の名手“伊豆の長八”の描いた鏝絵が2カ所にあります。善福寺と寄木神社ですが、善福寺=写真・左=の方は惜しいことに、かなり崩れてしまっています。寄木神社は蔵造りの神殿の扉に描かれているので保存状態はとても良いです。

 品川駅から歩くので、善福寺の龍を先ず見ることになります。かなり寂れたお寺で、本堂の壁もはげ落ちています。しかし、本堂の門構えに当たる部分は立派で龍の飾りが見事です。

 うっかりするとこの龍の彫り物が、長八の作品かと思ってしまいますが、そうではなく本堂の壁とその上に描かれたものが長八の作品です=写真・右=。本堂に向かって左の方が保存状態は良く、右側の龍はちょっと分かりにくい状態になっています。何とか良い保存処置が出来ないものでしょうか。


 寄木神社は本陣跡(聖跡公園)から天王洲方面へ道路を横断。最初の路地を右に入ります。ちょっと分かりにくいですが、地元の人なら誰でも気持ちよく教えてくれます。地方都市へ行くとすぐ近くの名所旧跡なども知らない人が多くて、場所を尋ねるのに往生することが多いのですが、東京は地元の人ならてきぱきと教えてくれます。商店や家の近くにいる人がいいようです。江戸っ子とまで言わなくても、東京に3代も住んでいる人は、町内を熟知しています。

  寄木神社には日本武尊、弟橘姫命が祀られていますが、本殿は土蔵づくりで、手前の黙想の拝殿とつながっています。普段は土蔵の扉が左右に開かれているので、覗いただけでは別の建物がつながっているとは見えません。。土蔵の扉の裏側に絵があるので開くとちょうど見えるようになるのです。伊豆の長八が描いた鏝絵は向かって左側に「ニニギノミコト、アメノウズメノミコト」、右側には猿田彦命が描かれています。

 鏝で描いたものなので、立体感があり見事なものです。天孫降臨、天の岩戸などをイメージして描いたものらしく、アマノウズメノミコトは胸の衣を開き、両乳房を猿田彦命に見せているような構図となっています。

 本殿は鍵が掛かっていて入れなかったので、お参りだけしてガラス越しにちょっと覗いて諦めようとしたところ、社務所から婦人が出てきたので声を掛けてみました。
 「鍵開けてあげますよ。ちょっと待ってください」と気さくに鍵を開け、本殿の中に入れてくれました。室内には品川湊入船の抜け荷防止のため江戸幕府が設置した高札も保存されていました。

 「写真撮っていいですか」に「どうぞ、どうぞ」と言ってくれました。ろくでもない展示品や、雨ざらしの建物まで撮影禁止にする観光地の寺は、もうちょっと慈悲心や信仰を広めることに気を遣うべきでしょうが、今はほとんどがもうけ主義で嫌になります。寄木神社は気持ちがいいし、品川一帯の寺ではお金など取りません。沢庵和尚のために作られた寺も後日紹介しますが、もちろん無料でした。

 江戸前漁業の中心地でもあった品川浦は幕府へ魚の献上も行って来ています。東京オリンピック(1964年)招致に伴う東京港拡張、モノレール設置などで漁協は解散となりました。その記念碑が「江戸漁業根源の碑」として境内に建てられています。

 
注・伊豆の長八は文化12年(1815年)伊豆・松崎の農家に生まれ、手先が器用だったため12歳の時に松崎の左官頭領、関仁助に弟子入り。19歳の時に江戸へ出て狩野派の絵を学んだ。その後漆喰で絵を描く手法を開発し、長八独特の鏝絵を完成させた。 


 品川神社
 品川駅から第一京浜国道を横浜方面に向かい、御殿山の陸橋を渡って京浜急行・新馬場の手前、右側にあるのが品川神社です。立派な神社で創始は文治3年(1187年)に遡り源頼朝が航海安全などを願っての建立という。その後、徳川3代将軍家光が、東海寺と建立し品川神社をその鎮守とし、以降社殿の修復などは幕府が行う神社となった。

 愛宕神社も曲垣平九郎が馬で駆け上がったと言われる階段の上など、当時なら江戸湾を見渡せる同じような立地に品川神社もある。すぐ前には東海道、そして品川の海が広がっていたのだ。火消しの記念碑、吉原に次ぐ江戸(同然の)の遊興の地でもあった品川らしく、料理人たちの作った包丁塚もあった。

 江戸時代に大流行した富士登山(冨士講)にからみ、石段の途中から“富士山登山道”が作られている。富士に見立てて急坂を登る。品川富士と言うことになっているが、上からの眺めは今でこそビルばかりだが、江戸時代は江戸湾がすっかり見渡せたことだろう。

 階段を上りきると境内に茶色の狛犬さんが参道の左右に座り、金網の中に入っている。「なんでこんなものに金網などかけるのかな…」と思ってよく見ると備前焼で、窯元や焼いた人の名も刻まれている。

 文治13年(1826年)に焼かれ、奉納されたことになる。備前焼の狛犬などを品川の神社に運び込むなど大変なことだったと思える。今の岡山県で焼き、運んできたのだ。江戸っ子の呼び名はまだ定着していない時代だが、江戸に住む庶民の勢いの良さは3代将軍の頃からあったわけだ。


 神社には幾つもの神様が鎮座するのだが、品川神社では「一粒万倍の泉」の湧く阿倍稲荷社も人気。品川神社本殿へ向かって右、旗に沿って階段を下るとすぐに「一粒万倍の泉・阿倍稲荷社」がある。米は一粒より万倍の稲穂となる。「当稲荷は上社が天の恵、下社が地の恵。その霊泉を祀る」と言うことで、霊水を持ち帰って印鑑や銭、家や店の四隅に注ぐのが吉だという。霊水を注いだ銭の一部を門前の商家で使うのも吉とある。

 要するに霊水をいただき、家に持ち帰るほか、持ち金にも注ぎ、門前町で遊べと言う誠にありがたいお告げだ。ここまではっきりすると却って嬉しくなる。東京にはとても良い神社が沢山ある。地方を旅することが多いが、東京の寺院は地方のトップクラスに負けないものが沢山注目もされずに残っている。あまりにも東京が大きいので、昔の区画割りの町にあるものなどは、忘れられがちなのだろう。品川神社もその1つかも知れない 



 どこか間違っている板垣退助の墓
 昔、良く聞いた言葉の1つに、板垣退助が暴漢に襲われた時のものがあった。

 「板垣死すとも 自由は死せず」
=写真・元首相佐藤栄作筆=

 本当に暴漢に対してこう言ったのかどうか、定かではないが、何を見てもこの言葉は板垣について回っている。岐阜で暴漢に刺され、血を流しながら立ち上がって言ったのは伝えられる言葉とは少しだけ違っていたようだ。

 「吾 死すとも 自由は死せん」

 このときに手当をしたのは、後の東京市長・後藤新平だった。

 墓は品川神社の裏、境内から本殿の横を抜け、裏側に回りブロック塀の間に開けられた通路?を抜けたところだ。スペースは有り、いくつかの墓石はあるが、墓地には裏から“破れ垣”を抜けて忍び込む格好になる。

 自由民権運動の頭目。明治14年(1881年)に自由党を結成して近代日本の政党の基礎を作った。暴漢に襲われたが無事で、明治29年(1896年)から伊藤、大隈内閣の内相をつとめ、政界引退後の大正8年(1919年)に亡くなった。100円札にも登場した大物政治家の墓所としては、いかにもお参りしにくいし、だいたい神社の好意で「通させて貰っている」だけなのだ。

 元々は3代将軍・家光が沢庵和尚のために作った東海寺の末寺、高源院という寺があり、品川神社はその寺域だった。板垣は死後、この寺の墓地である今の場所に墓を建てることを望んでいたという。その通りに埋葬されたのだが、肝心の寺の方は関東大震災で被害を受け、中心部の寺が集団移動したときに、世田谷・烏山へと移っていった。跡地は城南中学校となり、墓地はそのまま残ったが、飛び地になってしまった。

 どういう訳なのか、寺から墓地へ上る道がなくなってしまった。品川神社と同じ高さの墓地から下を覗いてみると、崖の下に小学校はある。さらに驚いたのは、神社のブロック塀の間から墓地に入ると、正面に石段が数段有り、その先はコンクリートの道が2,3b有り、そこから先は人家にすっぱりと切り取られて、家の2階辺りがコンクリート壁に密着しそうにある。どういう事情でこんなことになったのか分からないが、コンクリートの様子から見て、第二次大戦のすぐ後までは、下から上る道があったのではないかと思えます。道が断ち切られたのだ。

 戦後の混乱期に小学校の裏などどうでも良くなり、誰も気にしないうちに誰かが家を建て、お参りする人もいない板垣退助の墓地への道を“分捕ってしまった”ようにも思います。今住んでいる人が何かしたと言っているわけではありませんが、墓地への道は、昔から誰の所有と言うことではなく、元の寺から歩いて行けるようにしておくのが、伝統的なあり方だろう。元々は寺のもの、墓地を持っている人みんなのものだった。

 板垣退助という人はある意味でお寺とは奇妙な関係にあるようです。菩提寺といってもいい高源院は移転してしまい、寺なし墓地というわけですが、生誕地は逆です。龍馬の故郷を巡った時に立ち寄った板垣退助が生まれた土佐・高知の家の跡
=写真=は、なんとお寺になっていた。奇妙な因縁でしょうか。

 板垣は土佐の殿様、山内豊信(容堂)の側用人となり、その後倒幕運動や 戊辰戦争で功績を挙げて自由民権運動へと進んだ。山内容堂がこれを良しとしたとも思えませんが、板垣の墓石は山内容堂が葬られている大井公園(旧土佐藩下屋敷)が見える場所です。かつて仕えた藩主を懐かしんでのことか。それとも標高にすると数b高い所から、見下ろす気分だったのでしょうか。

  がっしりとした墓石と「板垣死すとも…」の刻まれた石が並んでいます。高知の自由民権運動記念館はとても立派です。しかし、品川の板垣退助墓地への道はありません。お宮の裏のブロックの間を抜けて、お宮に「ご免なさい」を言って、明治の大物政治家の墓地を詣でる仕掛けです。日本政府も、板垣の崇拝者も、故郷の人も、どこか間違っているようです。

 土佐・高知の板垣山には板垣家の墓石が見事に並んでいるそうです。高知の安楽寺には板垣の墓もある。分骨はこういう人なら当然だが、品川の板垣墓地は寂しい限りだった。墓は他にもあるから構わない、という訳にはなるまい。