江戸時代の厳しさ

 品川宿を歩いていると、幾つものお寺に出会います。高輪から品川宿にかけては、まさにお寺街道といっても良いくらい、沢山のお寺があります。台場横町から少し下り右手の横町の先に法禅寺=写真・左=があります。門の左に「品川小学校発祥の地」の標示が有り、境内に入ると左側に法禅寺板碑、流民叢塚碑の説明板があります。板碑は戦国時代に作られ初め多供養塔ですが、流民叢塚は天保の大飢饉で亡くなった人たちの供養塔です。

 天保の飢饉は天保4年(1833年)に始まった天候不順が数年間続き、山村そっくりが飢え死にして、村が消え去る所もある(秋山郷・大秋山村)悲惨な飢饉でした。品川宿にはの山村から流浪して来る人々が多く、病や飢えで倒れる人も多かったのです。品川宿だけでその数891人と伝えられています。これらの死者は法善寺と目黒川を越えた今の国道15号線の先にある宝蔵寺に葬られました。宝蔵寺は「投げ込み寺」とも呼ばれました。

 法禅寺の流民叢塚碑
=写真・右=は初めは円墳のような塚だったそうです。埋葬して土を盛り塚にしたと言うことでしょう。しかし、明治4年(1871年)に流民叢塚碑が建てられ、昭和9年(1934年)に境内整備の際に、コンクリートの納骨堂が建てられその上に碑が置かれるようになったのです。農山村では生きられず、江戸へと逃れてきた流民の多くは、結局、江戸でも生きらづに、行き倒れとなったのでしょう。

  「投込寺」の別名を持つ海蔵寺
=写真右=は法禅寺とは幾分、様子が異なります。天保の飢饉で亡くなった215人を祀る「250人塚」があります。しかし、独立してあるのではなく、品川の溜牢(牢屋)で死んだ人の遺骨を集め、宝永5年(1708年)に塚が築かれたのです。ここには鈴ヶ森で処刑された人の遺骨の一部も埋葬されているので“首塚”とも呼ばれるそうです。投込寺の呼び名のように、亡くなっても行き場のない不幸な人たちを葬った寺でもあります。(写真左・江戸時代無縁 首塚、関東大震災の死者を弔う碑への案内)

 どういう訳かこの塚にお参りすると、頭痛が治ると言われています。別名は「頭痛塚」です。

 そういう寺なので慶応元年(1865年)の「津波溺死者供養塔」、大正4年(1915年)の京浜鉄道轢死者供養塔」などもあります。いずれも引き取り手のない死者を弔い供養しています。



  鉄道好きの墓所   (東海寺大山墓地

 ♪汽笛一声新橋を…。
 明治5年(1872年)新橋〜横浜間の鉄道が完成した。終始、建設に精魂を傾けたのは初代鉄道頭の井上勝。当時の新橋駅はいまは高層ビル街になっていて日本テレビのビル付近が中心だった。

 井上勝はその後、鉄道局長、鉄道庁長官などを歴任し、日本の鉄道の主要路線などを次々と建設し“鉄道の父”といわれる。

 萩藩士の3男として天保14年(1843年)生まれ、15歳から長崎、江戸で学んだ後の文久3年(1863年)、伊藤博文らとともに英国へ密航して鉄道技術などを学んだ。密航してまで西洋の文化を学ぼうという意欲は、いかに当時の若者が世界に目を向け、どん欲に物事を吸収しようとしていたかがわかる。

 井上は明治43年に亡くなったが、生前から墓地は東海道本線、山手線に挟まれた東海寺大山墓地を選んでいた。「鉄道が最も近い場所がいい」の希望通り葬られている。 
 墓石のすぐ後ろの金網越しには新幹線
=写真左=が高速で走り抜ける。さらに山手線、埼京線などが頭の上を通過する。前の方は東海道線、京浜東北線、湘南、横須賀線などがひっきりなしに通り、誠に賑やかだ。ちょうど東海道線と山手線が分かれる三角地帯なので、電車の通行量ではほぼ日本一といって良いだろう。

 浮世絵に見る鉄道開通の様子は、今では想像も出来ない興奮だったようで、洋装と裃、直垂姿が同居する様は文明開化の言葉がそのまま当てはまるようだ

 東海寺は徳川3代将軍家光が寛永15年(1638年)に沢庵禅師のために建立したもので、大山墓地には沢庵の墓=写真=もある。墓石には大きな“沢庵石”がデンと置かれている。沢庵和尚と言えば、大阪・境の南宗寺を造り、千利休や一門の墓もあります。そこに「徳川家康の墓」と言うのもあって、さて本当かどうかは別として、墓石も一応はある。

 秀忠、家光が南宗寺を訪れたことは確かなようで、家康の墓の信憑性はどうあれ、沢庵と家光の間で交流のあったことは確かだと思えます。

 賀茂真淵(1697年〜1769年)
=左=の墓は鳥居付きの豪勢なものです。万葉集研究などで知られる国学者で荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」と言われる。本居宣長が伊勢参りの途中、真淵を訪ねて入門。夜を徹して生涯一度の教えを受けた話も伝えられています。


  渋川春海の墓もある。渋川は貞亭(じょうきょう)元年(1684年)日本で使っていた中国の暦が年に2日誤差のあることを見つけ、自ら計算して新しい暦を作った。これが太陰暦の基本となった。日本人初の和暦を作ったことになる。また、本所の屋敷内に江戸で初の天文台を作った。

 沢庵の墓地とは別に沢庵が死に臨んで残した言葉「夢」を大書きした“夢塔”もある。鉄道ファンは井上の墓地に詣でてみると、改めて日本の鉄道の歴史などを思うことだろう。国による線路の狭軌、広軌の違い。日本が狭軌となっているのも、井上が英国で鉄道技術を学んだことと深いつながりがあるのでしょう。


  東海寺、荏原神社
 旧東海道の北品川と南品川を分けるのが目黒川です。旧街道には品川橋が架かっていて渡ると南品川です。橋の手前を右に曲がって、欄干が赤く塗られた橋の右側が荏原神社です。なかなか立派な神社で、木々に囲まれ都会にありながら落ち着いた雰囲気です。赤い欄干の橋は鎮守橋でお参り用の橋です。目黒川の水は綺麗で晴れた日に川面に映る橋の姿は綺麗です。
 荏原神社から国道15号(第一京浜)に出て新馬場駅前の交差点を渡り、大崎方面へ150bほど歩くと左に東海寺です。その手前の大きなビルの横に、巨大な墓石の並ぶ墓地があります。肥後・細川家の墓所です。入口は反対側の目黒川沿いですが、震災の影響で墓石が倒れたりしているので、見学は出来ません。

 東海寺は寛永15年(1638年)の3代将軍徳川家光が沢庵禅師の溜に建立した寺です。境内に入ると右に鐘楼があり元禄5年(1692年)に名工、椎名伊代守良寛によって造られた梵鐘があります。その先には古学殿がどっしりと構えています。左手には客殿です。建物は落ち着きがありいい雰囲気です。先に特集した東海寺大山墓地はこの寺のものですが、広い寺域は明治以降鉄道や道路建設などで大きく変わり、線路の先になってしまいました。

 大山墓地へはガード沿いに細い道をたどることになりますが、入り口の角には日本初の近代ガラス工場となった寛永品川硝子製造所跡の標示があります。昭和25年(1892年)に寛永時代の建物は取り壊されたが、一部は犬山市の明治村に移設されています。

 
 
    昭和20年代を想う
 品川宿を歩いていると、一昔前を思い出させる建物がちょっぴり残っています。寺やお宮ではない一般の家や商店で、第二次大戦直後か、そのちょっと前の名残があるのです。

 東京湾漁業の基地でもあった品川は、東京オリンピック前後の開発で漁業組合はなくなり、海は埋め立てられて、今はビル街や高速道路、モノレールなどが昔からあるように見えます。品川駅方面から品川宿へ入ってすぐに左へ下ると、そこに船溜まりがあります。鯨塚のすぐ横まで運河は入り込んでいて、釣り船や屋形船がびっしりと係留されています。

 狭い路地には往時を偲ばせる料理屋さんがまだ残っていたり、昔ながらの自転車屋さんがあったりします。
 ―商売はどうですか?
 「今は駄目だね。安い自転車が出回って、昔のように大事に乗る人が少なくなったよ。壊れると捨てちゃう。オレの若い頃は自転車1台は給料1ヶ月分くらいだったからな。大事に乗ったもんだよ」

 自転車屋さんにはいろいろなものが一杯積んでありました。懐かしい昔ながらの店ですが、バイクも扱っていたようで、張り出すテントにはHONDAの文字もありましたが、スクーターやバイクは見当たりません。バイク専門店が増えて、商売にならないのでしょうか。

 履物屋さんは健在です。基履物屋さんでも今は靴が主流になるのですが、この店は下駄が中心です。もう下駄屋さんなどは、滅多に見られなくなっています。そういえば品川宿でも下駄履きで歩いている人をほとんど見かけません。

 懐かしいから、古い街道の町には似合うから、などと言っても商売にならなければ消えていくばかりです。いつまでいい雰囲気の下駄屋として残るのか、作る人、使う人との関係もあります。昔ながらの商店の維持はとても大変なのでしょう。

 履物屋さんのすぐ隣りは書店でしたが、どう見ても営業しているとは思えません。いずれは新しい建物に変わるのでしょうが、そうなると旧東海道の品川宿の雰囲気もまた変わるのではないかと思います。

 数年前に北品川の八ッ山寄りに古い蕎麦屋さんがありました。そこでは珍しいシャコの天ぷら蕎麦がありました。何度か食べに行ったのですが、いつの間にか店そのものがなくなってしまいました。年寄りだけでやっていたようなので、後継者がいなかったのかも知れません。

 裏道を歩いていたら懐かしい煉瓦塀に出会いました。駒込の六義園などには立派な煉瓦塀がありますが、ここにあったのは庶民的?でした。

 戦前にはよく見かけた建物も、今はもう希になっています。文化財にするには新しいし、今そうしなければいけないとも言えず、中途半端になっている建物をどうするかは、考えなければならない問題でしょう。ジジが通った田舎の小学校などは、今残っていれば当然文化財ものですが、跡形もありません。何となく古くなって使い物にならないとなると、作り替えられてしまいます。所有者、特に個人の所有者は使いにくい古い建物を維持するのは大変だし、合理的ではありません。

 処分されていき、気づいたら「幾つもあったのに、いつの間にか1つもなくなった」などと言うことになるのです。