



| 忠臣蔵のエッセンスが高輪界隈にあります。大石内蔵助以下16人が自刃した細川屋敷跡と浅野内匠頭の墓所、泉岳寺は坂の上と下で、徒歩5分ほどです。細川家の屋敷は学校、民家、都営アパートなどに分かれてしまいましたが、アパートの裏、学校の土手の上に自刃した庭の一部が残されています。 12月の討ち入り前後になると、自刃跡を見に来る人が絶えません。泉岳寺には浅野内匠頭以下、討ち入りをした藩士の墓もあります。 討ち入りした赤穂浪士は3カ所に預けられ、自刃しましたが、自由に見ることが出来るのは、高輪の細川家の跡、大石内蔵助たちだけです。ここは良く管理されていますが、鍵が掛かっていて、自刃跡は隙間から覗くしかありません。 |
| 大久保彦左衛門の墓は都営地下鉄、白金高輪駅を出て、国道を渡りちょっと入った「立行寺」にあります。港区役所高輪支所を背に、左の坂を上って下ると清正公。正面の国道を渡り、右に入る斜めの道です。左の写真でおわかりのように、派手なお寺で標示もあります。 昔はあちこちからお参りに来る人が多く「大久保講」などと言う物もあったようです。大久保一族の墓は別格で、屋根がついています。そのしたに彦左衛門の墓は、さらにほこらのような屋根付きの囲いまであります。=写真・下= ![]() |





| 彦左衛門は家康の時代から三代将軍家光の時代に生きた。関ヶ原では家康本陣の槍奉行。家光の時代になり昔語りのお伽衆に加えられ、三代将軍に昔語りなどをしたようだ。旗奉行でもあった。 有名になったのは河竹木阿弥(1816〜1893年)が歌舞伎に登場させ、それが元で講談、小説さらには映画などでも広がって、江戸時代。将軍の権威を物ともしないご意見番として知られるようになった。 実在の人物だが様々な分野で脚色されている。彦左衛門を引き立てる脇役は典型は「一心太助」。出入りの魚屋で、これも直言男。一般には架空の人物とされるが、大久保家の草履取りで、奉公に上がっていた魚屋の娘と結婚し、出入りするようになったとも言われる。 いずれにしても、彦左衛門のすぐ隣に屋根付きの墓がある。納骨されているのかどうかは怪しいものだが、威勢の良い江戸っ子魚屋の心意気を伝えたいという願いでもあろう。こういう話は笑って聞いたり読んだりするものだろう。真実は―、などと論ずるのは野暮というものだ。 |

| 清正公を祀る寛林寺は東京・高輪から白金へ下ったところにあります。毎年5月の4、5日には、高輪の台地を通る旧・東海道から脇道へ入り、清正公前へと抜ける坂道は、いっぱいの露店で賑わいます。 このお寺は加藤清正が朝鮮出兵の後に、朝鮮から連れ帰った王子が小湊の寺の住職となり、その後、熊本藩の中屋敷だった高輪に覚林寺を開いたのだそうです。高輪にはかつて熊本藩・細川邸があり、忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助らが切腹した旧跡もあります。 寛林寺は寛永8年(1631年)に開かれたそうですが、清正公の勝負強さから「あらゆる勝負に勝つ」とされるお守りの“勝守”や、勢いよく運を開く「海運出世鯉」をかたどる紙の鯉のぼりなどが人気です。 |

金魚すくいや鰻釣りも出ていました。鰻釣りは昔の祭りに良く出ていましたが、最近では珍しいように思います。金魚すくいは腕に覚えがありますが、救っても飼うところがないのでやめました。
よくわからないのは「越中おはら節」を踊るグループがいたことです。そのグループも越中ではなく、海老名の保存会だというので、なぜ踊っているのか…。
世話人らしき人に聞いたら、その人が高輪で商売を長い間やっているので、お礼に呼んだ、と言っていました。やはりどうして越中おはら節なのかは分かりませんでした。



祭りの日には清正公の木造が開帳されます。お参りには子連れが多く、やはり「出世」を願う親心でしょうか。
露店でも結構、親が気前よく子供に物を買って
やったりしているのを見ると、ちょっと異なった祭りのような気がします。