初めての長旅と日本レースの曙
パイオニアと走る

1968年 リスボン~コルカタ ドライブ同行記

大正、昭和初期、日本で初の本格的レース


1922年(大正11年)東京・州崎で初レース、翌年は月島埋め立て地だった

リスボンからカルカッタ(当時の地名)までコロナ・マークⅡで走った。日本自動車レースのパイオニア、藤本軍次さん(イースタンモーター会長)の“助手”のような同乗走行だった。セビリアを経由してスペインを縦断。ハンブルグまで北上して一転。イタリアはローマへと南下し、トリエステからユーゴ入り、ブルガリア、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンを経由。インドを横断してコルカタまで、ざっと2万キロを超すドライブ旅行だった。

運転が得意の藤本さんは73歳だったが決してハンドルを譲ろうとはしなかった。アメリカへ移民した両親と共にシアトルで生活し、青年時代にはアメリカで盛んになっていた自動車レースに参加。帰国して報知新聞に入社。日本で仲間を集い、レースを始めた。仲間には本田技研を創設した本田宗一郎さんも居た。その後、イースタンモーターを立ち上げている。とにかく頑固爺さんで約2ヶ月の旅を振り返ると珍道中だが、かなり厳しい旅った。旅のつれづれに、昔のレースの話も出た。今では(2025年)日本レース界の曙を体験した人はもちろん、こぼれ話を聞いた人も殆ど居ない。

 
  
 
  リスボン~コルカタ    ちょっと変わり旅  
 



昔のよしみとでもいうのだろうか。ワシが勤務していた会社に「外国を車で旅をする人に同行できる元気のいい人はいないか」と電話があったという。上司がその話をさらに上司から持ち込まれて「お前、行ってみないか」と振ってきた。会社へ入って6年。第一回東京オリンピック(1964年)は”東洋の魔女”のニックネームを持つ女子バレーを担当したが、ド素人で馬力に物を言わせて駆け巡ってのネタ探しを思い出す。

お前行け

余計なことだったが山登りをやっていたので体力、持久力、それにサバイバルに強そうだ、ということで,良いも悪いも、考えるまでもなく、上司は送り出すことに決めていた。電話をかけてきたのはイースタン交通の会長で藤本軍次さん。当時73歳だった。シアトルで青年時代を過ごし、”競争自動車”に凝って日本へ帰って来てから、本田技研の創設者、本田宗一郎さんたちとレースをやったりの、勢いのいい爺さんだった。ジジの勤務していた会社でアルバイトをした経験があり、その縁で声をかけたと言っていた。

細かいことは後で書くが、出かけることに決まっていたので、有無も無くにお供することになったのだった。

 

やにわに闘牛だが、訳がある。上の写真はリスボンで、出発前に港近くで撮った。予定ではマドリッドを経由して、フランス入りだったが、リスボンを出てしばらくして「スペインの道は狭いな。これがマドリッドへ続くのかー」と藤本さんが呟く。私もちょっと変だな、思っていたところだった。

やにわのミスコース

間違いだった。どこでどう迷ったのか、オリーブ畑の手入れをしていた人に聞いたら
「この道は主要道じゃないが、セビリアへ続いているよ。マドリッドはだいぶ戻って別の道だよ」
あちゃー、初日から間違った。それでも明るいうちにセビリアに着いた。

「一番いいホテルへ泊まるぞ」

なぜか藤本さんは大張り切り。アルフォンソだとか、そんな名前のクラッシクなホテルへ泊まった。後に何度かセルビアへ行ったが、なるほどいいホテルのようだった。コルカタは当時の呼び名だとカルカッタだった。長い道のりだが「スペインといえば闘牛だな」というわけで、マドリッドに数日後に着いたところで、まずは闘牛見物となった。

「ハノーバーまで北上し、それから南下してイタリアはローマまで行こう。ベニスをちょっと見て、トリエステからユーゴ、ブルガリア、トルコと走るぞ」

 こんな調子だから”予定は未定”の有様。そんなことをを話しながら、ケルンでは柔道をやっているドイツ人を紹介されていたので立ち寄ると、なんと東海大柔道部から派遣されている人物もいて、ここでまた数日。ニュルブルクリンクで1000キロ耐久レースがあるというのでまたそこへ立ち寄るといった塩梅。

ハントルチョウの怪

それに藤本さんは「ワシが確実に走った証拠がなけりゃ」で意味不明の
“ハントルチョウ”なるものが大切なんだと力説する。

「いったいそりゃなんですか」

 「分からないか。郵便局へ寄る。切手を買う。アルバムにそれを貼り、局でハンコを突いてもらう。そうすりゃ,その郵便局のあるところを、何月,何日に通ったか、証明できるだろう」。

 ハントルチョウは、郵便局の判子を集める帳面、と言うことだった。郵便局では「郵便を出さないのに印を押すわけにはいかない、と渋る所もあったが、捺して戻るまで,藤本さんは絶対に発進しなかった。分厚いアルバム帳が藤本さん最大のお土産という訳だが、誰が喜ぶのか…。

記憶は沢山あるのですが、ちょっと写真が見当たりません。主要都市やそれに近い町で、AP通信の支局jが有る所では、会社へ記事と写真を送ることになっていた。ところが大きな町でも通信社の支局は、わかりやすい通りにあることなど希。探し出すのが一苦労だった。藤本さんは写真など興味はない。ハントルチョウに切手とハンコが溜まればそれで十分なのだ。

 イスタンブールではボスポラス海峡を渡ってしまったのですが、支局はヨーロッパ側。橋のない時代だったので、クルマを雇ってたどり着く騒ぎだった。そんなこんなで、写真をため込むなど出来よう門勝った。それにフィルムの本数も限りが有る。一気にイランのカスピ海沿岸まですっ飛んでしまいます。見つかれば追加しますが、それほどの写真はありません。

タージマハルです



インド観光と言えばまず派“タージマハル”でしょう。藤本さんと私、共に無粋ではありますが、とりあえず立ち寄っておかないと格好がつきません。そんな訳で言ったのですが、確かに綺麗です。ここ衣だけはインドでお別世界のように思いました。有名もいいところ奈央で、案内は止めます。

ベナレスです


 上の写真はインドのベナレスです。聖なるガンジス川のほとりで命を終えた人を火葬にし、川へ葬ります。イランではイスラム教シーア派の本拠でも有る教会へ入ることがっで来ました。名k庭や僧侶が集まって勉強している教室、その穂㌔色と見て回れました。広場で煉瓦お囲いの中で蝋燭を付け夜を過ごそうと言う人々が大勢いました。

コルカタへの街道


当時は国道を堂々と象が闊歩していました。小屋のようなものを取り付けた”自家用”の象には、
女性や子供が乗っていました。


右・藤本軍次さん(コルカタで)

アフガンでは   妖しげな水パイプ

コルカタに到着です。約2ヶ月ほど掛かりました。道中、故障も事故もなく、タイヤは坊主状態でしたが、何とか保ったのは幸でした。ヨーロッパはハノーバまで、オランダやベルギーにも立ち寄って、イタリアはローマまで行きました。アルプス越えは、サステンパスでしたが、雪に降られました。



アフガンでは道路に丸太が転がしてあり、止ったら小屋から人が出てきて、有料道路だ、と言って金を取られました。有料道路などありません。カンダハルを起点にすると西側をアメリカが、北東へソ連(当時)が作った幹線道路です。小遣い稼ぎと言うことでしょう。もめるほどの金額ではありませんでした。支払ったらその後が良い。

「これを吸えよ」

水煙草を勧められました。何が入っているやら。当時、アフガンではこんなことを聞きました。

 「老人はハシシでもなんでもよろしい。もう残り少ない人生だ。しかし、若者はいけない。これからの人生だ。体を痛めてはいけない」

かくして若者は厳しく大人に監視されて成人していきます。年長者、老人の権威はあるようで、オツリをごまかそうとしたガソリンスタンドの若者は老人に厳しく叱責されました。そんな時代だったのです。今はタリバンの支配。どういうことになっているのか…。
タージマハル、ベナレス、オールド・デリーなど人が一杯の街を経てコルカタ到着。二人とも痩せもせず、病気にもならず、途中、日本の自動車レースの曙の話をパイオニアの藤本さんに聞いたりしながらの、脳天気な旅を終わりました。

(藤本さんは1964年にベレット(いすゞ)で北米横断。1969年にはコロンで南米走行などを行っていて「リスボン~コルカタは「これで世界一周だ」と出発前から張り切っていた)。
 
 
日本の自動車    レースの曙

ユーラシア大陸をリスボンからインドまで走りながら、藤本さんにはいろいろなエピソードを聞いた。帰国後も新橋にあったイースタンのビルを訪れて昔話なども聞いた。日本での自動車レースを開催するために、大変な努力をしていたのがよく分かった。

 「クルマは1台、ハドソンをアメリカから持ってきたが、競争する相手が居ない。そこで汽車と競争する話を報知新聞に持ち込んだ。州崎や月島のレースはその後だよ」

まさに日本自動車レースの門を開いたのは、横で運転している“この爺さん”,藤本軍次さんだと改めて思いながら道路などは全く未知の国々を走り続けたのだった。


東京に初めて出現した自動車。フランスの風刺画家、ジョルジュ・ビゴー。1882年(明治15年)~1899年(明治32年)の間日本に滞在した。(ウイキペディア)

日本にクルマが持ち込まれたのは1898年(明治31年)でフランスのエンジニア、ジャン=マリー・テブネで、クルマはパナール・ルバッッソール。このクルマが日本で初めて街を走行した。東京・築地から上野までで、大変な話題になったようだ。当時は人力車、駕籠、馬車、それに歩きが交通手段だったので、驚きもひとしおだったろう。しかし、日本に自動車が普及するのは、昭和に入ってからで、大衆化するのは1970年を過ぎてからだった。

日本初レース   東京・州崎で



 日本で初めてレースが行われたのは大正11年(1922年)の秋だった。藤本さんが東京~下関間のを汽車と競争した様子が当時の報知新聞に掲載され“競争自動車”への興味が盛り上がって来た。残念ながら州崎での第一回日本自動車競争の写真は入手していないが、藤本さんは東京~下関間の汽車との競争後、報知に入社し、上層部と交渉してレース開催に尽力している。

藤本さんの話
 州崎のレースは汽車と競争の記事が出てから、自動車競争に興味を持つ人が急に増え続け、報知の主催で行うことになった。ひとたび自動車競争の企劃が発表され「日米選手23名出場」とのポスターが出ると大変な盛り上がり。開催当日は約5万人の観客が押し寄せ、柵を破って場内へなだれ込み、警官と殴り合いを演ずるなどの騒ぎまであった。

レース出場車もさまざまで、内山民之助さんは、チャルマーというクルマの胴体にガソリン用の5㌎缶を針金で巻き付けて座席代わりにして出走するなど、なんとかクルマを走らせる工夫をしていたよ。

自動車競争は年代も昭和に移り、代々木、立川、大阪、名古屋練兵場、月島4号埋め立て地などで開催されて人気は高まり続けた。昭和11年5月の多摩川スピードウェイの完成が最高潮=後に写真・記事掲載=だった。



この写真は1923年(大正12年)の東京・州崎埋め立て地です。説明文をわかりやすくすると次の通り。
 「我が国では珍しい催しだったので非常な人気を呼んだ。砂煙を立てて疾走する様は実に愉快だった(写真上は藤本君)。下は北米ロスアンゼルスのハリー・ミラー氏の製作になった一人乗り競争自動車で、堅牢な構造と快速力を特色としている」



1934年(大正9年)東京・月島埋め立て地のレース開催の告示です。東京で当時、最有力の一般紙だった報知新聞からの切り抜きです。この告示に続いて、月島四号埋め立て地へ行くための略図なども掲載されています

藤本さんの話
  ワシは6歳の時にシアトルへ行った。両親が移民して先に行っていたのでそこへ呼ばれたのよ。向こうで百姓をやるのがイヤでね。兄(頼一)と一緒に“ジャクソン商会”という名のハイヤー会社を作って、好きだった車を専業にしたのさ。その時ワシは17歳だった。クルマははウイントン2台とパッカード1台だった。しばらくして販売もはじめたのだよ。

 アメリカでレースに出場したのは1918年(大正7年)だったな。あの当時はブレーキはない。タイヤも32㌅四分の1くらい、馬車の車輪のようなものだったね。そんなクルマで田舎の野菜展覧会とか家畜の博覧会なんかの開催場所へ行って興業していたのさ。会場は競馬場だよ。博覧会場みたいなところには必ず競馬場があった。1㍄くらいのものだったな。あの当時は田舎じゃ、馬が交通手段だったからねー。クルマはダッジ・マーサー、ディーゼン・バーク、ハドソンなんかが主力だった。第一次欧州大戦前後のアメリカのレースと言えば、こんな所だね。

日本での自動車レー(と呼べるかどうかも含めて辿ると、1911年(明治44年)目黒競馬場で「飛行機と競争」があった。クルマ同士は1944年(大正4年)目黒競馬場でアメリカ車4台の競争が有ったが、大赤字。以後、藤本さんが帰国して、汽車と競争して話題を撒き、報知新聞の企画部長、煙山一郎さんを口説いてレースを之主催を頼み込み、開催にこぎ着けた州崎のレースまでほぼ空白だった。

日本初の試乗記

1934年10月の報知新聞の切り抜いた紙面をそのまま掲載します。


かなり読みにくいが、虫眼鏡を使えば,なんとか読めます。藤本さんは軍次の名前はアメリカ人にはスラングで「悪い言葉」に聞こえるとかいって「ジョージ」と自称し、友人たちにもそう呼ばせていました。実際に私が報知に入社したときはスポーツ紙になっていましたが、以前から在籍していた役員の一人は「ジョージと一緒に走るのか。彼は負けず嫌いだからなー。大変だよ」といい、笑っていました。なるほどとはポルトガルを出て間もなく、言われた通りだな、と言うことが何度もありました。外国で名乗るときには「ジョージ藤本」と自己紹介です。

 出発前にお会いした藤本夫人には「キカナイ人ですから大変でしょうが,お願いします」と何度も言われていました。まさにその通り。そうでもなければ、道路状況も今では信じられないほど悪かった時代に、見ず知らずの世界をかなりすり減ったタイヤで走ろうなどとは思わないでしょう。「タイヤを交換しましょう」と何度言っても聞き入れません。ベルギーのトヨタに依頼して置いたタイヤ交換は,結局やらず通過してしまいました。



レース前日の記事

月島のレース前日の写真はなかなかの見栄え。“競争自動車”の呼び名は新聞の特集で多くの人が知った。

待望の自動車競争

いよいよ明日!

こんな見出しの横のサブ見出しは

くろがねの戦士・胸轟く

と続いていた。記事を少しなぞろう。

綺麗天候よ恵みあれ、明日六日待望の全日本自動車競争選手権大会第一日は新装成れる月島グラウンドに開かれる、決戦間近に待望いよいよ高揚すれば、鋼鉄の戦士の胸も流石に妖しくおののくのである。四日の月島グラウンドでは、操縦者も助手も可愛いー


綺麗な競走用自動車もはね飛ばす泥を散弾のように強く浴びながら真っ黒けになりながら素っ飛んだ。これはもりもり自信をつけるための御馳走だ。このとき左から白銀の本社機ユンカースが挨拶に飛んできて爆音を交換して去った。スピードの守護神が風車のようにくりくり眼を廻して喜んでいる風景だ。

大会前奏曲の景気をのぞきに来る群衆がぞろぞろ埋め立て地へ橋を渡ってくる。そして自動車の尾翼が浴びる飛まつへも首をちぢめて素晴らしい突進に恐れを成してゐながら涼しすぎる風に吹かれて風邪を引いても立ち去らぬー。観客席も大半出来上がった。明日はここに数万の観衆が沖天させる。

興奮を真っ黒に載せるのである。大会前日のけふは出場車全部が正午頃本社前に集合して順次街道をあいさつして歩く,色とりどりオエナメルに輝く豪華な二萬弗競争自動車がスピード時代のマスコットのように誇らしげに闊歩する、かくて街頭には爽快なそのl爆音に青春のようにかりたてられ、興奮は爪先で有頂天へのびあがるのだ。

命は頬ずりしても可愛い車輪にくれてやった、決戦の前日、戦報はとどろき銅鑼は響く、戦塵の集団が遙かよりみるみる視野に大きく迫ってくる。エンヂンは足踏みしている。

 一般紙とスポーツ紙とは違うけれど、報知新聞の発行番号は継続している。大先輩の日本初とも言える記事は、現代の文章とはいささか異なる。もちろん旧仮名遣い。雰囲気は伝わってきて、レース当日が楽しみになる名調子。

ちょっと一休み



 ○…「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな」こんな標語が一時代前に流布された。あれから何年経つだろう。飲酒運転は厳罰が周知されていけれど、依然として“飲んで乗る”人は絶えない。

藤本さんが笑いながら教えてくれた日本での“クルマ事情”の一端。

乗るなら吸うな
 ○…「ワシはアメリカから持ってきた車に乗って、町中を走ったよ。競争自動車、今で言うレーシングカーだ。車検なんか有るわけがない。だいたい普通の乗用車が殆ど無かったんだら…。
 おもしろかったのは、クルマで街を走るときには、クルマの前を赤旗を振りながら一人が先行することになっていた。危ないからと道行く人に伝えるのさ。規則と言えば、別に書いたものはなかったけど「運転中にたばこを吸ってはいけない」ことになっていたが酒は良かった。飲んで乗っても問題ないんだよ。

どうしてたばこ禁止だったかか分かるか?

 クルマはガソリンで走る。だからガソリンを積んでいるよな。火がつくと危ないから“乗ったら吸うな”なのだ。

免許証は板の鑑札
○…大正の何年だったか、免許が必要になった。どんなものだったと思う?“鑑札”と呼んだな。手のひらいっぱいくらいの厚めの板に、焼き印が押してある。運転鑑札だよ。鑑札をもらうには資格みたいな物があった。

一つ、馬車をよけられる技術
 一つ、泥道でクルマを押せる力
一つ、タイヤを修理出来る技術

こんな所だったかな。舗装なんか無い時代だから,泥道さ。そこを運転するのだから、泥にはまったら押さなければならない。タイヤもたびたびパンクするから、修理出来ないと困る。今のようにタイヤは丈夫じゃなかったし、修理屋もないしね。パンクしたら自分で直すしかないのだよ。

運転手はモテモテ
○…クルマを運転できる人は当時希だった。クルマがないのだから当たり前だが、1960年ころだったか、入社した新聞社の自動課の古参ドライバーはこんなことを言っていた。

「私の若いころ運転は特殊技能だった。今と違って“モテた”。銀座のキャバレーなんかへ行くと”運転手さん、運転手さん”なんて言われて、大モテだった。運転できる人が少なかったし、、自家用車なんか持っているのは大金持ちだったからねー」

「走るのを見るだけで,殆どの人は乗ったことがない。女給さんはサービスして、翌日でも乗せてもらうのが狙いさ。面白かったよ」



日本でガソリン車初走行したパナールと裕福な家族=場所不明(AI)=

パナール、売り損なった
○…日本で初めて一般道を走ったのはフランス製のパナール。築地のホテル・メトロポールから上野までの走行だった。ジャン=マリー・デブネ(中央左の男)が持ち込んだ。正確には分かってないが、富裕層に売りつける狙いだったようで、1月に走って見せたが、3月11日には競売にかけた。

最低価格6000円で入札は5300円まで行ったが、成立しなかった。それではと、デブネは横浜へ移動してフランス行きの船に積み込み、7月にはフランスへ到着したという。あまりの高価さに日本の貴族階級の富裕層も物好きな人物も、競り落とす気にならなかったのかもしれない。日本政府やその他団体の招致ではなく、ひと儲けを狙った来日だった可能性が強い。しかし、日本での乗用車走行を初めて行い、自動車史に大きな足跡を残した。

庶民の生活費と   パナールの値段
明治末期の貨幣価値は平均的に見ると、1000円は200~1000万円くらい。出版物に記載されている庶民の暮らしの一端は、次のようだった。

 ☆職人(大工)の親方を例にとると、月に40円ほどの収入。夫婦に子供一人、それに住み込みの年季奉公2人。家賃6円、米代7.5円、総菜4.5円、酒代4.5円。

☆別の大工。収入25円、家賃4.5円、米代4円、総菜4.5円、大工の小遣い2円。

庶民の生活はこんな具合なので、6000円はかなりの高額だが、裕福な人々にとって買えない金額ではない。しかし、購入したとしても、何せ初物。パンク一つとっても、誰が直すのか。故障した場合の修理は?もっと問題なのは部品だろう。馬車の知識があれば、未知だったクルマにトラブルが起こった際にどうするのか,その困難さは容易に想像できる。あっさり買い手がつかなかったのは、価格ばかりではないようだ。

藤本さんの話
日本へ戻ってきたのは大正10年(1921年)だったな。大正11年夏には上野で大正博覧会が開かれることになっていた。博覧会で日本で初めての自動車を走らせようと考えて、上野・池之端を回るコースを使おうとまず考えたな。あの頃、飛行機を飛ばした人が、大評判だったという話しを聞いていたので、上野を色々と調べたけど、どうもうまくいきそうもない。結局コースがなくて断念したよ。

せっかくクルマは持ってきているし、上野でやってみようと調べたりしたので、このまま止める
わけには行かない、と思ったね。そこで思いついたのが、汽車と競争することだった。

「東京~下関間を急行列車と競争して勝つ」

こういう話しで報知新聞に持ち込んだ。話しはうまくまとまって、大正11年8月に報知新聞主催で走ることが決まったんだ。距離とスピードを考えると、勝つ目算はあったが、今と違って当時は道中も狭く、酷かったのは岡山県に入ってすぐだったな。竹をいっぱい積んだ荷馬車がいたんだ。道が狭くて追い抜けない。馬車の後についてノロノロさ。抜くことが出来たのは予定より2時間も遅れ、すっかり調子が狂っちゃったな。

ああ、酷いことはもっとあった。富士川や大井川、天竜川、 そのほかいくつかの川には自動車の渡れる橋がなかった。走れる浅瀬が道だった。近くに軽便鉄道の橋があれば、そこを突っ走ったよ。信じられないだろ。東海道だよ。馬車しか通らないのだからしょうがないけれど、道は悪かった。ワシは30時間くらいで走りきれると踏んでいたけど、10時間ほど遅れて40時間5分かかった。当時の汽車は28時間くらいだったと記憶しているけど…。


競争の話しに戻ろう。昭和に入ってあちこち巡回して競争を見せて回ったが、昭和9年(1934年)は賑やかだったな。このときワシは汽車と競争の縁で報知に入社していたが、会社の前に競争車が集まって、月島でパレードしたよ。見物人は道の両側に沢山いて、警備の巡査も出ていた。



昭和9年(1934年)の報知新聞です。読みにくいと思うが、興味のある人は拡大鏡でも使って読んで下さい。13,14日の大会の前触れを兼ねたパレード。レーシングカーがそのまま走っている。今じゃ到底ムリ。桜田本町(今の永田町近辺=当時は麹町区)から銀座ー上野ー浅草の豪勢なパレードで、飛行機まで上空を飛んで沿道の観衆を喜ばせたという。上の写真がそのパレード。




こんな訳で大会は「萬余の観衆」を興奮させるものとなった。第一日はこんな報道だった(写真・下)。



(報道の様子を知っていただければ良いと思い、参考までに切り抜きです。昭和9年11月13日の紙面です。読みにくいのでなぞっておきます。)

NHKも実況中継

 ◆…かがやく碧玉の空に恵まれた全日本自動車選手権大会第一日の十三日は誠に我国スピードスポーツ界のれいめいを飾るにふさはしい大金字塔を記録した、幾度か叫喚をほとばしらせ、初めて見て初めて知った。
興奮に萬余の観衆はけふに残した更に大きな希望のために底なき幻惑の陷せいから僅かに自分を處置し得た位であったー

けふ十四日最後の日、第一日の選手権を掌握した豪雄カーチス五十一馬力の榊原真一君に決戦を挑む者は誰!榊原君あるひは大河を決する勢ひで躍進全日本の王座を占めるか、いよいよ三四年度選手権を確定する二十哩の大レースは決行される、このレースこそかつて我等が所有し得た最大豪壮な争覇だ、また栄光にかがやく報知大優勝杯を獲得するは誰、堀内中将杯は、フォード杯は、そして第一日の報知杯争奪競争に精鋭ブガティー豪華四萬円の俊足を抜いて
樹立したカーチス榊原君の記録三哩二分五十一(平均時速六十一哩強)を更新する待望の戦士は誰!快晴とは言へ雨後軟弱なコースの悩みから強馬力のレーサーに押されて俊足軽快な回転数を誇るレーサーが、けふは万全なこーすに本来の面目を取り戻して快心の挑戦を予想され、全日本の覇座へ突進する大レースとあわせて真に勝敗の端倪を許さざるものがある。

なほ第一日に羽田飛行場から飛来して地上の飛弾に軽く応戦した早川飛行士操縦の第七報知号はけふも鮮やかな低空30㍍の旋回飛行に観衆の肝を奪いブガティーを駆る一人者藤本ジョージ、アルピスを鞭つ名手関根君に復讐する。またAK(JOAK)ではこの
飛行機と自動車の勇壮なレースおよび十二哩報知カップ競争、午後零時五十分から同一時五十分にわたって実況中継放送をみるー、スピード大行進の熱気、豪壮いよいよ極まり待望遂に達成して号令叱咤の狂瀾になだれこむ、
(ざっとこんな文章が初日の柱となる記事です)

名調子の報道が続く




藤本さんの話
昭和に入ってレースは盛んになったね。大正の終わりころには何とかレースをやろうと言うことで一杯だったな。昭和になると自動車が好きな人たちが、輸入を始めたんだ。輸入するとそれに乗るよ。乗ったら競争をしたくなる。出来上がった競走用自動車を輸入したり、自分で工夫して作ったりだった。だからレースに出てくるのは、殆どが中古輸入車の販売をしている人たち、仲間同士が集まってレースをやっているみたいなものだった。


競争中のクルマを撮影した航空写真。手前の翼に報知の「報」の文字が見える。

次第にレースをする人が増えてきて、20台くらいはすぐに集まるようになった。ボクスホール、エム・デー、シボレー、マセデス、ハップモビル、ヒルマン、ダッジ、ハドソン、ベンツなど殆ど外車だったな。昭和11年(1936年)の多摩川スピードウェイが完成した。あの頃が頂点だったよ。

会場風景
と題したコラム封の囲み記事も登場している。

○…澄み切った青空の下鏡のごとき東京湾を南に、朝来続々(てうきぞくぞく)と押しかけた大観衆は相次ぐ熱戦また熱戦に、何れも心魂を奪われたごとく嵐のごとく声援を送りつつさしもに広き場内を埋め尽くし、色とりどりの秋模様を織りだして、一喜一憂、息づまるような興奮のL旋風卯を巻きおこしてゐるが、今日ぞ栄えある全日本選手権を目指して火花を散らす健児数十名、必死の色を見せて、天も割れよとものすごい爆音を放ちつつ予定のプログラムに従って接戦を続けてゐるが、この選手にも勝った熱叫(ねっきょう)の会場に拾ってみる。
X  X  X  X  X  
当て込んで会場前に陣取った「自転車預かります」はなんと数千台の自転車がずらっと見る限りに預かってゐる、その間に子を連れた親のような格好で円タクがこれまた数十台ーー会場前は一方交通だ、メガホンのl巡査が時々上がる歓声に舌打ちしながら引っ切りなしに続く円タク群を怒鳴りつけている。
X  X  X  X  X
ここは選手や競走車の方の広場、この辺には慌ただしい円タクやとlラックが集まっているが何れも中は空っぽで屋根の上に立ち上がって幔幕の中の会場を見んものと焦ってゐる、そこへ巡査が来て
「おい、危ないぞ何をしている」
「へへへ…、ちょっとその競争の具合を」
「そこで見えるか」
「へへへ…、少々、凄いですね」
「道路へ出てからそれを真似するとアカンゾ」
に運転手たちまち恐縮
「ワシはこんなこと嫌いだっけ」
X  X  X  X  X
特別席の一角、最初のころ慎ましく見物していたどこかの令夫人、だんだん熱が乗って午後の第二回目の六周に入るや俄然二十号のカーチスと十九号のシボレーが追ひつ追はれつにとうとう一番前にまで出てしまった、そのうちに決勝近くなって「危ない、危ない」と言う観衆の声にふと我に還って見るとかわいい我が子がチョロチョロとグラウンドの中へ歩いて行く姿に思わず「ギャー」
X  X  X  X  X
午前の第五回目に「クロネコ」号が出るといふので女給群の応援たるや実に凄じいもの、何れも金切り声で「クロネコ」「勝て-」とそれはそれはもの凄い応援とあって場内は俄然「クロネコ党」化すると見えたが、ものの一回を回りきらぬうちに最後から二番目を確保、ぐずぐずすると一番先の車に追ひつかれそうなのにさすがの姐御群顔負けの形で第一線より後退、そのうちの一人曰く、「大丈夫、大丈夫、午後が決勝よ」、また曰く、「一等の車は速いことは速いけど形が変ね、やぼくさいわ」に隣の客、「どういたしまして」?

(こんな話しが出ていた。今ならこりゃ没だな)

菊池寛へ売りつけた!
世情の分かるこんなコラムもありました


多摩川スピードウェイ



報知機から見たスピードウエー



大正末の大人気から“常設サーキット”が必要との声が挙がり、報知新聞企画部と藤本軍次さんの働きかけが横浜電鉄(現・東急)を動かし、多摩川河川敷の土地5萬坪と7万円の投資をとりつけた。三菱グループオ大株主、飯田正美氏が3万円を出資した。これで長径450㍍、短径260㍍、1周1200㍍、幅20㍍のオーバル型コースが出来上がった。簡易舗装も去れ、コンクリートでスタンドも作られた。

1934年(昭和9年)6月7日(日曜日)、第二回全日本自動車競走大会が報知新聞主催、日本自動車競争倶楽部協賛で新設の多摩川スピードウエイでが開催された。

新装の多摩川スピードウエイで    第二回全日本自動車競走

摩川スピードウエイで最初の大会

 第一回は月島で開催されたので、多摩川スピードウエイの“こけら落とし”は、全日本大会としては第二回。多摩川の第一回で紛らわしいことになっています。その移行の告知を兼ねた記事なので、読みやすいように一部なぞっておきます。

爆音戦慄の快走
このスピードウエイを得て
初めて本格的壮挙
 お台場の風がススキの穂をなぶって雨上がりのどろんこの土砂の中から生まれた本社主催日本自動車競走倶楽部協賛の第一回全日本自動車競走大会、そんな月島埋立地の創始時代から第二回大会への素晴らしい豪華な跳躍そのものが既にスピード・スポーツの王者らしいーー。
待望久しかった第二回大会はいよいよ来る七日(雨天の場合は十四日)午前十時から多摩河畔に新装なった多摩川スピードウエーに挙行されることとなった。新会場は東横電鉄が特に本大会のため巨費十萬円を投じて常設的に建設した本格的なスピード・ウエーで多摩川ダム付近の清冽な流れを背に…。

=中略=

 戦慄へ挺身する選手権競走こそは一切の興奮とスリルをぶち込む近代の壮大な噴火口なのだ、近くプロの編成を終わるが、ファンの待望は既に高くみなぎった。
(スピード・ウエーとスピードウェイが混同している)

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 多摩川スピードウエイが出来て、自動車レースは一気に盛り上がったが、日華事変(日中戦争)が勃発して急ブレーキがかかってしまった。

「ガソリンの一滴は、血の一滴」

 そう言う世情でレースはひかえざるを得なかった。日華事変に続いて太平洋戦争と続き、レースどころではなくなった。大正末期から多摩川でのレースまで、全日本と名のつくレースは次のような会場と回数だった。
▽州崎・四回、▽鶴見・一回、▽j大阪・一回、▽名古屋・一回、▽立川・一回、▽多摩川・六回。
太平洋戦争が終わってからしばらくはレースは影を潜めていた。日米対抗オートバイ競走大会が昭和二六年に船橋オートレース場で開かれた。その後しばらくはギャンブルのオートレースが開催されるだけで、四輪はさらに後になって、船橋サーキットが誕生し、鈴鹿、富士と開設されて近代レースが行われるようになった。



ぶっ飛んだ  本田宗一郎さん

第一レースのゼネラルモーター杯競走で本田宗一郎さんさん(リストでは惣一郎となっている)のクルマが大きく噸で一回転。危うく命拾い。


報道された写真は知る限りこの一枚だけのようです。当時のカメラではこれ以上を求めるのは困難でしょう

ゼネラルモーター杯、エントリーリスト


本田さんはほぼ中央の右側、赤丸がついています。

藤本さんの話
 本田のソウちゃんは兄弟で乗ってたな。ソウちゃんが運転して弟の弁二郎君が搭乗メカニックだったと思うよ。同じレースだったし、ワシは前を走っていたから、どんな風にひっくり返ったのか、見えないし、レースだから後ろの人なんか見てはいられないワナ。後で聞いたが、クルマが飛んだと言うよ。ひっくり返って、酷い事故だったようだった。

 横からクルマが出てきたのでよけようとしたとか、何とか聞いたが宙を飛ぶほどだから、スピードも出てたんだろうな。その日最初のレースだよ。弁二郎君は背骨骨折とかで、ソウちゃんは大したことは無かったようだったな。死んでも不思議はない事故だったと近くで見ていた人は言っていたぞ。運が良いということだな。

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 細かく事故の様子を書いた報道は知りません。藤本さんの話は、一緒のレースだったし、日本のレースの先駆者で、何でも聞ける立場だったから、このコメントでが出来た思います。2,3度聞きました。
後日談になりますが、鈴鹿サーキットが完成し、日本グランプリに先駆けて、前年の秋に二輪のレースがありました。その時予選が終わった後、記者席の近くに5、6人の老人がいて後で分かったのですが、藤本さんもその中にいました。

「ソウちゃんはエライものを作ったなー。」

 「レースをやらないと、クルマは強くならない。良い車を世界に出すには走るところが必要だ、なんてよく言ってたが、本当にこんな凄いものを物を作るとはなー」

 日本レースの初期に走ったパイオニアたちだった。”ソウちゃん”が招待したようだった。私はこのとき、女子バレーの日紡貝塚の取材で大阪にいたが、会社から「鈴鹿サーキットというのが出来たようだ。回ってくれ」の連絡を受けて、訳も分からず駐車場などは泥だらけのサーキットへ行った記憶がある。もちろんその時、藤本さんと面識はなかったが、後で会ったらすぐに“あの時の人だ”と分かった。

 皆楽しそうに話していた。何人かは虎ノ門のイースタンモーターズの社長室でお会いした。昔語りはさんざん聞いた。

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