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中国を駆ける

蘭州~敦煌~玉門関ツーリング
香港~北京ラリーを追う



今では想像も出来ない。観光ブームになる前、1980年~90年代の初めのころ、万里の長城は閑散としていた

バイクでシルクロードを走ろう-。そんな企劃に乗っかって蘭州から敦煌、さらに玉門関などを走った。一緒にでかけたのはバイク乗りの名手や慣れた人々で、素人のこちらは、それなりについて走るしかなかった。随分前の話になる。番リオ頂上はご覧の通り換算としている。今じゃ(2020年)ラッシュアワー並みの混雑で、のんびり写真などムリ、ムリ。

香港~北京のラリーもまだ自動車専用道路おなかった時代だ。地方ではまだ車がそんなに走っていないときで、歩行者はスピードを認識しにくいようで、ひやひやすることもしばしば。事故になったケースも多かったようだ。その後、クルマの時代がやってくるのは猛烈な速さというべきだろう。

パリ~北京のlビッグイベントは別に扱おうかと思って居る。まずは身近なイベントをレポートする。
 

 
 敦煌へ走る

蘭州~玉門関  1981年バイクの旅

ラクダに乗ったオッサンとちょっと併走(敦煌近くで)

 
乗り物の転換期

 中国の西域の入り口、敦煌方面へ行かないか-。そん
な誘いを受けて、80年代の初頭に断るようなバイク好きはいない。ワシもその一人で、ホンダの新型バイク”シルクロード”の発売に先駆けての企劃だという。参加するメンバーはバイクの記事を書いては当時第一人者,乗り手でもある万沢康夫さん、カメラマンの鈴木雅夫さん、原富士夫さん、当時の本田モーターレクリエーション本部や広報部、バイクのテスト・ライダーなど関係者と賑やかだった。北京から蘭州までは列車。その後はバイクで敦煌、玉門関へと走った。とても楽しいツーリングでもあった。

敦煌・莫高窟前で
北京の街は通勤時間になると自転車があふれた。2000年代に入ってから、自家用車が爆発的に増えて、今(25年)は自転車どころか自家用車の洪水だ。


  
左=公安が行ったバイクのチェック  右=免許証。81年とある

今はほぼ全世界で国際免許証が通用する。しかし、中国が国際自動車連盟(FIA)に加盟していなかったので、簡単な身体検査を受けた後、筆記試験を受けてパスポート大の免許を発給してもらったのを記憶しています。その後香港~北京ラリーなどでは確か赤い表紙で名刺大の免許証が発給されたように思います。

 最近は観光で日本へやってくる中国人が多いがかなりの人が日本で免許証の発給を受ける。中国の免許を日本自動車連盟(JAF)で翻訳してもらったもの、パスポート、在留カードを示し学科、実技試験を受けて免許が発給される。日本人が中国で受ける待遇とほぼ同じ。日本と中国が結んでいる,交流協定による。

蘭州で試験となったが、グループは10数人だったので、丸一日がかりだった。学校のような建物の外で、バイクのチェック、教室みたいな部屋で健康診断と筆記試験があった。
筆記試験はかなり簡素化してあり、難しくはないが、日本で免許取得したのが、かなり前のことなので、結構苦闘している人もいた。
   
蘭州までは列車

  
北京から蘭州までは列車に乗った。緩い起伏の山々。大平原などを走った。遠くにはチベット高原に続く山脈が雪をかぶって連なっていた。
 

ラクダにクルマを引かせていた。


敦煌・莫高窟の上は砂地の山だった。1981年当時は付き添っていた公安やガイドも気楽なモノ。

「莫高窟の上、砂の丘に見えるところを走ってもいいですかね」

「走れるんなら、走ってもいいよ」

今では到底許されないだろうが、人は少ないし閑散としているので、こんな答えだったのだろう。写真は本当にバイクを走らせたところ。

万里の長城が終わる当たりに”嘉峪関”というきれいな城がある。往時は馬車でも上ったのだろうか、二階のようになって城壁の上へと、石で舗装した幅3㍍ほどの坂道が作られていた。ここでも「バイクで上ってもいいよ」ととなった。

後にパリ~北京のレースノ取材ヘリがこの上を飛んだ。きれいなこじんまりした城だった。もっとも日本のl城とは異なり。幅の広い城壁を巡らせたもので、城壁に囲まれた中庭と、城壁そのものに作られた部屋などで構成されている。小さな見張り所が城壁の数か所に建てられていた。

蘭州から敦煌、玉門関、などをを一緒に走った万沢康夫さん、原富士雄さんは、昨年(2024年)亡くなった。万沢さんはオフロードバイクの名手でバイクの記事を書いてもやはり名手と言うべきか。彼の発案で展開したイーハトーブはなかなかの大会だった。宮沢賢治の作品から名称を借用していたが、東北を舞台にしたバイクの催しは喝采を浴びた。

 原さんはバイクやラリーの取材が得意のカメラマンで、暖かみのある写真はジジも大好きだった。温厚で普段は目立たないが、後輩たちに先輩風を吹かせることもなく、親切だった。ご両人ともジジとは年齢が一回り下。まだまだ活躍できる年齢だった。ご冥福を祈ります。
 
 
夜明け前の
中国モータリゼーション

香港~北京ラリー追走記


万里の長城のゲートを抜けるニッサン・フェアレディ

香港~北京のラリーは1985年が第一回で、87年まで3年続いたが、中国の“都合”で6年間のブランク。忘れられかけた1993年に再び開始。名称も同じ香港~北京だった。その後、1996年まで継続されたが、98年からは”チャイナ・ラリー”として、WRC(世界ラリー選手権)のシリーズ戦に組み込まれた。

◆香港~北京ラリー(Hong Kong Beijing Rally)歴代優勝者

  • 1985年: ハンヌ・ミッコラ & アーン・ハーツ(アウディ・クワトロA2)

  • 1986年: スティグ・ブロンクビスト & ブルーノ・ベルグランド(アウディ・クワトロA2)

  • 1987年: ビヨルン・ワルデガルド & フレッド・ギャラハー(トヨタ・スープラ)

  • 1993年: アリ・バタネン & ブルーノ・ベルグランド(スバル・レガシィRS)

  • 1994年: ポッサム・ボーン & トニー・サーコム(スバル・インプレッサ)

  • 1995年: ケネス・エリクソン & ステファン・パルマンダー(三菱・ランサーエボリューションIII)

    1996年: アリ・バタネン & "ティルバー"(三菱・ランサーエボリューションIII)



中国  自家用車の黎明期

スバルのスポンサーが大会の支援者でもあった

 ラリーを追って中国を走った印象は、自家用車の黎明期の感じだった。深圳などはビルが建ち並び始め、乗用車も走っていたが、ラリーが始まる前に何度も以下の言葉を言い聞かされた。

「赤文字のナンバーとナンバーなしの車には気をつけろ」

 初め意味が分からなかった。赤ナンバーは、曰く因縁があるのだろう、位には思ったが、ナンバーなしとは、これ如何に!
教えてくれた人は、ニヤニヤするだけで、続きは言わなかったが、間もなく何となく理解できた。赤ナンバーは役人、高官、公安関係ではないのか?ナンバーなしは、公安などに誰何されることもない、また止められても一喝でお終いの立場の人物?言ってみれば名士、有力者-。

当たらずしも、遠からず-。出くわすことが重なるにつれ、そんな感じを受けた。

 2025年の今では、著名都市間はほぼ全土、自動車戦湯道路がで結ばれているが、当時は建設途上で、途中で突然終わっていたり、人や動物が堂々と移動していたり…。

 「ラリーをやらせるのは、間もなく激増する車の危険性を、田舎の人に覚えさせるためじゃないのか」などと、誠しやかに語る人もいた。そうだったのかもしれない。事故はかなりあったが、罰せられた話しは聞かなかった。

ラリーが終わると表彰式を兼ねた周期が人民大会堂で開催された。人民解放軍の軍楽隊の演奏をバックに食事が振る舞われた。いったい何人収容下のだろう。
 


ランサー・エボリューション


投稿レポートから。
いろいろなメディアに投稿してきた。コンパクトな6回連載があった。香港~北京の一面を捉えているレポートなので、紙面をそのまま掲載する。(これ以上、拡大すると活字がつぶれて読めません。読みにくいと思いますが、拡大鏡が必要で羞悪か…)

























中国のめまぐるしいばかりの変貌は4年の空白記を含めて、約10年をみると明白だ。その後、変化は続き、今世紀に入ってからはさらに変わってきている。天安門広場近辺の大通りに、自転車が洪水のように流れていた通勤時間、最近は車がびっしり。動きも取れないのではないかと思うほどだ。これを近代化と言うのかどうか、このマイカーの増え方は、香港~北京当時とは比べものにもならない。

ラリーが始まったころの中国は、まだ眠りから覚めきっていなかったかもしれないが、今や当時とは別の国ではないかと思うほど之“近代化”が進んでいる。しかし、曙の時節とは風景まで変貌しているようだ。自分の中では「そんなに昔ではない」との意識はあっても、第一回から数えると30年にもなる。変化があって当然だろう。

香港~北京ラリーも、既に昔語りになっているようだ。