ナポレオン街道

コルシカ・アジャクシオのナポレオン像

サンレモ〜グルノーブル、パリ

グルノーブルへの道。奇妙な像もありました。

ナポレオンが昼食を摂ったというので、ジジ・ババも昼飯です。山の中なのですが、今は流通機構が発達しているので、ムール貝もいいものがありました。宿は少し走って、シャトーに泊まりました。
料理はまずまずで、夕暮れの山を見ながらのワインはとてもいい味でした。古い建物なのでギシギシ音が出ますが、それもまたいい感じでした。

百日天下と最後の日々

初日はグラースの町です。香水の名所です。全体がフランス・アルプスの麓への上り坂です。


100日天下への第一歩です。サンレモ近くの海岸に上陸(上)。第1夜を過ごしたのは海岸のすぐ側です。今は小公園となり、記念のポールに胸像が載っています。

 ナポレオンがエルバ島に流されたのは1814年です。ロシア・プロシア・オーストリア同盟との戦いに敗れてパリへ戻り、同盟国からエルバ島への流刑が言い渡されました。ルイ16世の弟が王位に就きルイ18世となりましたが、フランス国民は王制復古を歓迎しなかったのです。

 ナポレオンは信じられないような好条件で流刑にされていました。年200万フラン支給、近衛兵400人の同行も許されたのです。フランス市民の不満を知ったナポレオンは、1815年2月にエルバ島を脱出。近衛兵、その後はロシア遠征などに加わっていた将軍たちとともにパリへ入り、2か月で25万人の兵士jを集めたとされます。
 
 6月にはベルギー方面へ進出。プロイセン、イギリス軍と戦います。優勢だった戦いは寝返りなどもあって敗北し、6月21にはパリへと退却、皇帝を退きました。
 
 今度はエルバ島のようなわけにはいかず、大西洋の孤島、セントヘレナへの流刑です。6年後の1821年に幽閉されたまま死去しましたが、死因は憶測も混じって様々に伝えられています。胃潰瘍、胃ガン、毒殺などです

 フランス議会は1840年にセントヘレナ島のゼラニウム谷に埋葬されていた遺体をパリへ移送することを決定。アンバリッドに安置しました。 

 ナポレオンがセントヘレナへ送られる前夜、このベッドでフランス最後の夜を過ごしたと言われます。
 多くの客を迎えてのパーティーに備えた、素晴らしい食器類が展示されています。
 アンバリッド(右上)がナポレオンの霊廟です。金色のドームの真下に大理石の棺が安置されています。台座へは階段を降り半地下になっています。廟にはいると大理石の手すりから覗く形になります。

 バラで有名なマルメゾンの館です。ナポレオンの妃・ジョセフィーヌ(下)が愛した建物です。広い庭のバラ園の品種は、園芸家たちによって今のバラ作りに引き継がれていると聞きました。

▼寄り道
 ○…グラースを過ぎると山岳地帯に入ります。急峻な岩山と、その間にえぐられた深い谷間に沿って、ナポレオンは北に向かいました。
この付近は、昔、ジジもモンテカルロ・ラリーの取材などでで盛んに走り回ったところです。当時はナポレオンよりラリーに夢中でした。歴史より、ラリーの勝敗、ドライバーたちの曲芸のような走りを追い回していたのです。
ナポレオン街道を意識して走ったのは2度ですが、とても興味深い道です。

▼寄り道
○…ナポレオンの胸像は街道を通じて2カ所にしかありません。サンレモを出てからグラースを過ぎ、山岳地帯の小さな村、バレーメにあります。
 道路の中央、ロータリー状の小さなスペースに、草花に囲まれています。ナポレオンの像はたいがい帽子をかぶっているのですが、この像は帽子をかぶっていません。
 進軍途上で暑かったのかも知れません。


左はナポレオン街道の分岐。右はグルノーブル

ナポレオンの騎馬姿(上左)、会議を開いたとの表示(上右)、ナポレオンのエンブレム(下)


▼寄り道
○…エルバ島を出て道半ばを過ぎたところにビルジ村があります。ここへ到達するころには、軍勢は大きくふくれあがっていました。この村で会議を開き、軍団長を始め、部隊の体制を整えたと言われます。
近隣の村や町から多くの兵士が集まり、ナポレオンの指揮下に入ったのです。村は昔、あったか、なかったかの雰囲気です。
山と野原しかありません。道の近くには家がたった2軒あるだけです。おそらく、大勢の軍人が集合できる場所だったのでしょう。

美しい村や町が時々現れます。街道の大部分は山や丘陵地帯です。右の町は食前酒で有名なところで、酒屋さんにはずらりと地物が並んでいました。

▼寄り道
○…ナポレオンが「昼飯を食べた」というだけで、名所になっている村があります。旧市街がひっそりとまとまり、アーチ型の門をくぐると崩れそうな家が並んでいます。右の写真の岩山の上には教会があります。
突き当たりの右に、変哲もない二階建ての旧村役場があり、そこでナポレオンが昼飯を食ったというのです。昼飯は誰でも食いますが、言われてみればナポレオンは後の“皇帝”です。日本にも明治天皇が、全国行脚されたとき、お休みになった場所が行在所として残されています。「お立ち寄り」「お休み」その他、皇族方の足跡は全国に記されています。
世紀の英雄、フランス皇帝となったナポレオンのたどった道は、フランス人にとって、恰好の街道ということになります。
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