ノルドカップに立つ
            1972年・喜望峰~ノルドカップ iリ総合トップへ
連載開始の告知。1972年11月1日、報知新聞1面。(画像をクリックで拡大ページへ)

  
 さらばアフリカ   ラゴスで船会社を探した。1972年の〝昔”でもクルマと人を一緒に運んでくれる大西洋縦断の船は少なかった。しかし、ナイジェリアは英連邦から独立間もなく、ラゴスと英国の港を結ぶ航路を持っている会社は生き残っていて幸いだった。
貨物船のオーナールームが我らの居室。予想外の居心地の良さだった。
 
食っちゃ寝、
  飲み歩き 
 
 
 時間厳守、階級厳守。船は厳しい決まりの下に動いている。
アンドニオ・パーム号は9000㌧,全長144㍍、幅19㍍で上級船員15人、パーサーを含めたセーラーが21人、アフリカ人水夫が30人乗り組んでいた。寝る場所、バー、食堂などすべが別だった。
サハラを彷徨う?貨物船                    

緯度・経度を知るのに、今はGPSが簡単に表示してくれる。航空機も船も当たり前のように使っている。六分儀などと言う計測器があったことさえ忘れられられしているようだ。
 貨物船の一日はやることがないので、操舵室へ出掛けていき、六分儀の使い方を教わった。旅した当時、GPSなどなかった。
六分儀は意外とデリケート。船はサハラ砂漠を航行していたりで笑った。
突如エンスト  


 船のエンジンはドッドッドと心地よく刻み続ける。昼も夜も休みなく…。それが突如、止った。たまたま操舵室にいたが、驚いてオフィサーに聞いた。
「どうかしたの?」
笑いながら言った。
「チョットお休みだな。しばらくすると動くよ」。いつも勢いよく波を切り裂いている船首付近は浮き沈みするだけ。
「まずいんじゃないの」にオフィサーは澄ましたもの。
「古い船だからね。もうすぐ直るよ」
そして20分後に動き始めた。
旦那・油漬け、女房おめかしお散歩
 
 


 船には一人の女性が乗っていた。整備担当のエンジニアのカミサンだ。オヤジは油にまみれて働いているが、カミサンは連日デッキをお散歩。
会社は一定に階級以上の家族は、年に一度、乗船を許すのだそう。ほんのちょっぴりの”給料”も払うと聞いた。そこでわずかな給を払って雇用するのだという。保険、税金対を兼ねて、達者な家族サービスということか。
「救助要請?遠すぎる」
 


 
「ヨットから遭難信号」
通信士が操舵室へ駆けあがってきた。
どうするのか、興味を持って聞き耳。

「遠すぎる」

オフィサーの一言で終わった。 
世界は異なっていた。 実感として異次元だった。  


グラスゴーに着いた。17日間、退屈な船旅は終わり、すぐにニューキャッスルへと走り、ノルウェー・ベルゲンへのフェリーを見つける。 
いよいよ旅は最終段階。草臥れ切った車を騙しながら、間もなく北の果てへと向かう。
グラスゴー~ニューキャッスル。そしてノルウェー。  


 貨物船では船底のバーへも時々出向いた。水夫と言うのか、乗組員と呼ぶのか、どちらでもいいが白服の上級船員とはきっちりとバーもおわかれている。
 こちらは気楽で、飲みに来た方が、カウンター内に入ってビールをついだり、時には達者にシェーカーを振ったりする。堅苦しくなくて、愉快なので澄ました上階のバーよりも楽しい。

ベルゲンへのフェリーでは、客が酔っぱらって、地元のこれまた酔っ払いと相乗りで騒いでいた。フェリーはにぎやかだ。
スペイン組の調子良さ。終了宿に泊まり込む。

 
 勢いよく追いこしていったセアトには、セニョーラ一人、セニョリータ4人が乗り込んでいた。ノルドカップに着いて大騒ぎ。ところが宿がない。。村のホテルはシーズンが過ぎたので閉鎖だった。
ところがセニヨリータは達者。「宿はやってないよ」と顔を出したオヤジを捕まえて談判。承知も何もなく「止めてくれるんだって」と大声。
制止するオヤジは圧倒されてだんまり。時を逃さず、酒盛り開始。オヤジに次々と飲ませ、興に乗ったオヤジも手拍子。朝までいた。
顔を血に染めて、少年は頸動脈からナマ血を吸う。   



当時はラップ人という呼び名だった。冬に向かってトナカイを放牧から囲いに集める時節。何頭かは食用に潰す。
角にロープで引き倒し、頸動脈を切り裂く。少年が飛びかかり、吹き出す血を飲む。顔を血に染めて…。
乳飲み子は母親がコップとった血を飲ませる。冬の寒さに耐える、伝統の栄養の摂取だった。 
 


 
クルマにご苦労さんの意味で、トナカイの大きな角を取り付けた。アフリカではカメレオンンのカラカラになった一体をフロントのミラーに縛って、お守りにしていたが、船旅を終わったら消えていた。
大きな角はなかなかよかったが、こちらもヘルシンキからハンブルグへのフェリーでいいなくなって仕舞った。 
   



 久々に日本人の旅行者に会った。ザックを背負いナホトカ~シベリア鉄道~乗り換えてヘルシンキ。当時若者の定番コース。航空運賃が高く、乗れないのlで列車でやってくるのが定番だった。
著名なデザイナーになった人、住みついて幸せに暮らす人ー。此処からそれぞれの道をたどった。ヘルシンキは日本の旅する若たちの十字路でもあった。
   


 東西ドイツは現前と区別されていた。東ドイツお中に取り込まれて、ベルリンがあり、」ベルリンも二死と東に分けられていた。
 西ベルリンは車で行くには、否応なく東ドイツ領内を走行することになる。
西ベルリンへ行ってみおうとして、現実の厳しさを実感した。ハイウェー以外、外国人は走行できない。知らずに一般路を通ろうとしたら、数人の警備兵に実弾を込めた銃えストップをかけられた。
   


 外国人労働者対策だと聞いた。割り切ったドイツの方針にビックリ。日本の、分かったような、分からないような「へなへな解釈」とは大違い。堂々、公認営業のエロスセンターまであった。
大人の店は目立たない。子供はまずj絶対に入れない仕組みだった。
   



 この連載は45回になった。お知らせを兼ねた特集を加えると46回になる。
喜望峰を出発したのは,南半球・南アの晩秋、5月だった。ノルドカップは北半球・ノルウェーの北端。秋から秋。夏のアフリカを走り抜けて来たことになる。南から北への旅だったので、時差は感じたことがない。ノルドカップは小さな売店とノルウェー皇太子の訪問記念碑ン他は一本の北を示す表示以外に、何もなかった。

よくも走った。たった一台での旅は、ある意味無謀かもしれないと終わってから思う。クルマも人も、先ずは無事に帰還tなった。