第二次世界大戦末期(昭和20年4月1日)、アメリカ軍は読谷村、嘉手納、北谷にわたる海岸線から上陸、首里城に集中砲火をあびせながら南進、5月27日追いつめられた日本軍は南部へと撤退。そこで住民を巻き込んだ悲惨な地上戦が繰り広げられた。
この地の洞窟の中で撤退してきた陸軍病院第三外科の看護として、当時学徒動員された沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校219名が任務にあたっていたが、アメリカ軍のガス弾が打ち込まれ多くの女子学生が亡くなった。
その壕の上に「ひめゆりの塔」の慰霊塔がある。
隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」には沖縄戦の悲惨な様子や亡くなった女子学生の遺影、学生当時の写真や持ち物、学生生活などが展示、生存者の戦争体験などが語られている。
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