Paris~Dakar

 Part 3


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51)シュレッサーの頑張り  52)プロドライバーの厳しさ  53)パリダカの怪物 54)終焉は近い?

55)パリダカのパイロッ 56)迫るテロの脅威  57)ラリー中止。TSO発表 58)中止の背景=1   
 
59)中止の背景=2 60)中止の背景=3 61)さよなら・パリダカ 62)ラクダの隊商

 63)イスラエル大使館襲撃される(モーリタニア)

64)菅原義正さんのパリダカ出場回数ギネス 65)最高齢出場記録及び記念植樹 
Paris~dakar特集を終えて

 
 

6567歳最高齢記録達成(09年)

 

 「継続は力なり」を地でいくのがダカール・ラリー最多出場記録を持つ菅原義正さんです。2008年ラリーが中止になったので、26回目の出場記録と、連続20回の完走記録の更新を狙い、2009年ダカール・ラリーにチャレンジです。連続出場だけでも大変なのに、これまで連続19回を完走しています。このうち16回は日野レンジャーでトラック部門を走っています。今日(08年12月10日)には、東京・日野市の日野自動車本社で壮行会があるというので行ってみました。

 

 白井社長を始め役員や社員が菅原義正、照仁両ドライバーやコ・ドライバー、メカニックなどを激励です。ダカールへのサハラ砂漠はテロリストのうろつくところになってしまったため、09年は南米大陸のアルゼンチン、チリで開催されるのです。総走行距離は9500㌔。スペシャルステージは5650㌔です。初の南米開催で参加者数が心配されたのですが、530チーム(モト・230,クァッド・30、4輪・188、トラック・82台)がエントリーしています。

 

 毎年、日本からの参加者が絶えなかったモト(バイク)部門はゼロ。4輪は増岡浩(三菱)、三橋淳(トヨタ)、片山右京(トヨタ)、青木琢磨(いすゞ)、そしてトラックの菅原親子らでドライバーは合計6人です。

 

 かつて三菱のエースとして日本のパリダカ・ドライバーの代表格だった篠塚建次郎さんは、三菱を退社して日産と契約しましたが、日産が2年でパリダカから撤退したため、イタリアの日産ディーラーから出走していました。しかし、09年は出走を断念です。あちこちのスポンサー筋にあたり、出走するために動いていたのは聞いていましたが、資金が集まらなかったようです。日本中のパリダカ・ファンを湧かせた名ドライバーもラリー・フィールドから去る時が来たのでしょう。

 

 テネレ砂漠で大転倒し、トヨタのサービスカーで3日後の深夜、アガデスにたどり着いた時。優勝目前で緊張の極に達していた時、などを見てきたジジとしては、なんだかもの悲しい気持ちになりました。菅原さんは地味です。パリダカのエースともて囃されたことはありません。1983年からバイク、4輪、トラックと乗り継いで、我慢の走りを続けて大記録を達成しています。

 

 「継続は力」でしょう。

 

 今年は衛星電話を持っていくそうです。ジジは現場での取材は引退ですが、菅原親子は「出来るだけエピソードを送りますよ」と請け合ってくれたので、09年の正月はスタートの3日からゴールの17日まで、このコーナーで「悲喜こもごも09年」を掲載します。フォルクスワーゲンと三菱のトップ争いも面白いでしょうが、轟音とともに砂を蹴立てて走るトラックの勇壮な姿も、もう一つのパリダカなのです。

 

 67歳で大記録を狙う菅原義正さんは、何とも珍しい人です。記録達成への走りを遠くから楽しむつもりです。写真=抱負を語る菅原さん、10日・日野自動車本社で=

 

   64)菅原義正さんのパリダカ出場記録ギネスが認定

ダカール・ラリー(通称パリダカ)に25年間、連続出場してきた菅原義正さん(66歳)の、パリ~ダカール・ラリー最多出場(25回)が、このほどギネス世界記録として認定された。

 菅原さんは1983年にバイクでパリダカに初出走。その後4輪、トラックと出場部門を変え、日本人ではただ一人の3部門出走者でもある。また、ギネスに認定申請はしていないが、連続19回のパリダカ完走記録も更新中で、中止された今年は20回完走を目指していた。

 ギネス世界記録のカルロス・マルティネス担当から届いた認定証には「ギネス認定を様々な面で利用し、ロゴの使用も認めます」との文書も添えられている。

 

 菅原さんに聞く。

 ―認定の申請の経緯は?

 「ボクは特にするつもりはなかったのですが、経理を担当している方が、講演などをする場合、はっきりとギネスで認定されている方がいい、というので申請しました。実際に出場しているので、記録を見れば分かるのですが、それではやりましょうとなったのです」

 ―バイク、4輪、トラックといろいろやって来ましたね。

 「バイクで骨折したり、4輪に乗るようになってから資金繰りに苦しんだりしました。日野レンジャーのワークスとして走った後は、プライベートになってレンジャーを走らせてきました。大きなトラックとの勝負もしてきました。」

 ―完走率も高いでしょう。

 「19回連続して完走しています。今年は20回の完走を狙いました。25回の連続出場記録は破られる可能性はありますが、20回の完走記録は破られないだろうと思っています。区切りのいい20回を狙ったんですがね…」

 ―中止になって、経費はどうなりましたか?

 「エントリーフィーは返してくれたので、60ほどのスポンサーを回り、20%ほどはお返ししました。しかし、自分たちのポルトガル往復や、準備にかかったものは、どうしようもありません」

―来年、南米で「パリダカ」が開催されますが、どう思います?

 「サハラ砂漠は走らず、南米大陸ですね。パタゴニア、大草原、アタカマ砂漠です。パリダカの精神をそのまま維持し、主催者も同じなので「ダカール・ラリー」といって何ら差し支えはないと思います」

 ―出走しますか?

 「その準備をしています。今はサハラでのラリーが困難になっていますが、以前のようにどこでも走れる時代が還ってきて欲しいと思いますね。」

 

63)イスラエル大使館襲撃。モーリタニアで。

 08年ダカール・ラリーは中止してよかったのでしょう。2月1日の午前2時20分頃、モーリタニアの首都、ヌアクショットのイスラエル大使館を6人のガンマンが襲撃しました。、襲撃グループは発砲前に「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫んだと伝えられています。警備していた数人が負傷したようです。

 

 07年のクリスマスイヴにはヌアクショットの東約250キロのアレグで、フランス人ツーリスト4人が殺害されています。このときには9人の容疑者が逮捕されましたが、ダカール・ラリー中止の原因にもなっています。

 

 モーリタニアはアラブリーグで数少ないイスラエルと国交を持つ国です。捜査官はアルカイーダ系の「イスラミック・マグレブ」の仕業と見ています。このグループはアルジェリアに本拠を置き、昨年1月にサハラ南西部のモーリタニア、マリなどの反乱分子などをグループの傘下に加え、ダカール・ラリーを襲撃するという脅しをかけて、ラリーを中止に追い込んでいます。

 首都での暗躍、大使館襲撃などの行動に出ている現状からみて、ダカール・ラリーの中止は正しい選択だったと思うと同時に、サハラ砂漠を舞台としたダカール・ラリーは大きなリスクがあり、再開は困難との見方を裏付けているように思います。

 

 

62)    サハラ砂漠を往くラクダの隊商想い出のパリダカ

写真を多用したり、レイアウトの関係で「想い出のパリダカ」は、別のサイト「世界を巡るドライブの旅」(http://www2.ocn.ne.jp/~syowa3/)に掲載します。“じじ・ばば・ネット”の姉妹サイトです。リンクページからつながります。

 

写真はテネレ砂漠でラクダのキャラバンにであったところです。広い砂漠でラクダは隊商の首領の乗ったラクダを中心にして、左右に開きます。渡り鳥が隊を組んでいるのと似ています。一直線に歩くのは狭い隘路や岩だらけのところです。

 

 

61)さよなら・パリダカ

 2008年ダカール・ラリーの中止は、チームにも、オーガナイザーにも厳しい現実を突きつけている。アルカイーダ系のテロリストが、ラリーの一隊を砂漠やキャンプ地で襲撃、危害を加えたり、人質をとる危険が「極度に高い」と判断された以上、強行するのは暴挙だ。仮に強行し、人的損出や人質を取られて身代金要求になると、いったいどういうことになるのかは想像を絶する。

 

 「私が思うにA S O は南アメリカなどで代わりのラリーを開催するのではないか」と言うのはニッサン・ドスード・チームのアンドレ・ドスードさん。参加費の払い戻しや、損害を補償するなどの問題に発展すると、収拾はつかない。“代替えパリダカ”を南米でなどで開催せざるをえないとドスードさんは見る。

 

 今はノルマンディーで販売店を経営しながら、参戦を希望する人に車両、サービスを提供するのも仕事にしているが、元々は自らハンドルを握り、パリダカ、オーストラリア・サファリなどに出場していた。08年には9台の車を参戦させサービスカー、トラックも送り込み、リスボンでスタートを待っていた。

 

 「人命の安全にまで疑問があったのだから、キャンセルの決断は賢い。私自身のチームでも60人はいた。彼らの安全を私が保証することは不可能だ」

 

 A S O そのものが直接被る損害だけでも5000万ユーロ(約80億円)に達するとフランスのル・モンド紙は報じた。参加者へのエントリーフィー払い戻しも平均すると1台でざっと1万3500ユーロ(約216万円=バイクも含む)に達する。このほかにもスポンサーやテレビ局への払い戻しもある。セネガル、モーリタニア関係も数百万ユーロの損害を被っている。通過する自治体も…。

 

 A S O はフランスを代表する“スポーツ帝国”で、新聞(レキップ)、雑誌などを発行するほかにツール・ド・フランスなども主催している大興行会社でもある。しかし、そのA S O にとってもダカール・ラリーの中止は大きな負担で、参加者ななどの損害を完全に埋めることは至難。「危険を避けるためにやむを得ない決定だった」として損害を自分でかぶる参加者やテレビ局、スポンサーがどのくらいいるのだろうか…。

 

 三菱、フォルクスワーゲンなどは、それこそ何十億円を注ぎ込んでダカール・ラリーに立ち向かっている。自動車メーカーがA S O を訴え「金返せ」などとは言わないだろうが、ダカール・ラリーに代わるビッグ・イベントの開催を裏で要求しないとは言い切れまい。

 

 個人単位になると、さらに深刻度は増す。

 「中止したことは理解できるが、マネージメントは別だ。リスボンまで行った我々は全員がサンロー(ノルマンディー)へ戻ってきた。やることはなにもないんだよ。お客さんたちが支出したお金は他のイベントで替えるしかない。それで全てが解決するとも思えない。頭が痛いよ」

 

 ドスードさんの嘆きは尽きない。

「ホテルにも払い込んだ。燃料もアフリカへ送った。今さらキャンセルしようもない。戻ってくることはないだろう。なにが起こるのか、これからだよ。話し合いは難しい」

 

 A S O にとっても大まかに予測されている直接の損害が80億円で済むとは思えない。ポルトガルの自治体からは、はやくも損害賠償の請求が出された。チーム個々の事情も複雑だ。代換えラリーが開催されたとしても、例えば日本から車を輸送し、チームが滞在し、中止で帰国したとき、スポンサーがどこまで理解するのか…。自己負担の損害をどうするか…。さらに代替えラリーが開催されたときの渡航・滞在費、日程の調整などもあり、細かく考えると際限もない。

 

 「私の個人的な見方からすると、ヨーロッパをスタートし、ダカールへゴールするラリーは終わったんだ」

 

 今の世界情勢から言って、ドスードさんの見方は間違ってはいない。そして、他の国や大陸で壮大なラリーが、例え開催されたとしても、サハラ砂漠を駆けめぐる“パリダカ”の復活は困難だ。厳しくも楽しかったパリダカは、おそらくもう帰ってこない。さよなら・パリダカ、を言わなければならない時が来たようだ。ジジが四半世紀にわたって追いかけてきた1つの世界は、想い出だけを残して終わりを告げることになると思う。

 

60)ダカール・ラリー中止の背景③

 08年ダカール・ラリーの中止が発表されて1週間も経たないうちに、南米のチリがサハラ砂漠に代わる“アタカマ砂漠”を中心とするラリー開催をアモリ・スポーツ・オルガニゼーション(A S O) に呼びかけている。また、ハンガリー、ポーランドなど東欧での開催、パリ~北京の復活なども話題に出て“ポスト・パリダカ”の動きは急だ。

 

 チリ・ツーリズム・サービスのO ・サントリチェス代表は1月14日にも、AS O へ手紙を送り、チリが国際的ラリー開催を望んでいることを伝える。A S O のスポークスマンは、この動きに対し「今後のラリーについては正式発表までコメントは出来ない」と語っている。

 

 しかし、チリ側は積極的で、副スポーツ相のJ ・ピッツァーロ氏は「政府は興味を持っている。大きなな国際的ラリー開催は正式な検討課題になるだろう」と意欲的な姿勢を見せている。コースもアルゼンチン~ブラジル~チリの3国を繋ぐもので、南米の地理的条件を考慮すると、ダカール・ラリーのスケールに迫るルート作りも可能だ。

 

 既にアンデス山脈の東西を結ぶラリーは、クロスカントリー・シリーズのパタゴニア~アタカマを行っている。南のパタゴニアを走ることになれば、時期によっては強い風と寒気が、サハラとはまた異なった環境を作り出すことになる。

 

 アルゼンチンでは“ラリー・オブ・パタゴニア”の主催者もダカール・ラリーに代わる大会開催の意向があると報じられている。ブラジル、チリと連携すると、新たなクロスカントリー・コースとして話題を集めることになる。

 

 一方、中央ヨーロッパでの開催も浮かび上がっている。ハンガリー~ルーマニア~ロシアのコースだ。チェコのレーシング・チームは「AS O からの東欧、中欧での開催打診があった」と地元紙にリークしている。A S O はスタート地点としてのリスボンとの契約を3年間としていて、08年で終わる。新たなスタート地点として、東欧を模索し、ブダペスト(ハンガリー)を打診していたとの話がある。

 

 「数年前からA S O はブダペストをスタート地点とするラリー開催を打診してきている。ラリー中止の代替えを他のもので償うのは無理。ラリーを開催するのがもっともいい解決法だ」とハンガリー当局も乗り気だという。開催時期は今年の5月としている。

 

 このほかにもパリ~北京を再開する話。チュニジア、リビア、エジプトなどを繋ぐルートも語られているが、アフリカ大陸での開催は困難との見方が強い。パリ~北京の再開は、旧ソ連からの独立した国との交渉もあり、仮に企画されたとしても、実現までには時間がかかりそうだ。

 

 ラリー中止でリスボンに集結したチームは、それぞれの基地へと戻った。フランスでは通過予定のポルトガル・ポルティマオの市長が、A S O に市が被った損害賠償を請求する意向を示した、と報じられた。A S O は当分の間、パリダカ・キャンセルの後始末に追われることになるが、中止に関して損害賠償の請求などが多発すると、その対応に勢力が注ぎ込まれ、パリダカは夢を追うラリーとはほど遠い形で、崩壊することもあり得る。

 

 中止の翌日(スタート予定日だった)にA S O は「新たなラリー開催に今日から取りかかる」と宣言しているが、事態は深刻でサラリとした解決は困難な状況にあると見る。

 

 アフリカ大陸を駆け回ったダカール・ラリーは30回目のスタートを切れずに終わった。再びアフリカの地、サハラ砂漠を走る壮大なラリーを再開するのは、今の国際情勢からは至難だろう。サハラのど真ん中、テネレ砂漠やアルジェリアを走れなくなった段階で、パリダカは窮地を迎え、西海岸へ張りついた。そして今、西海岸の南下さえ不可能になった。

 

 1970年代に初めてアラブ・ゲリラによる航空機乗っ取り事件が起こったことを思い出す。海賊のシージャックに対し、空の“ハイジャック”と言う言葉が生まれた。ハイジャックの危険はエスカレートの一途をたどり、味をしめたゲリラはその手段を捨てることはない。

 

 今度は新たにラリーを「誘拐・人質に取る」“パリダカ・ジャック”という脅しの手口が成功した。アルカイーダにまた一つ、うま味のある手段を手にした。これを封ずるのは困難を極める。アフリカ諸国が反政府軍、テロリスト、武装強盗団の封じ込めに手を焼く事態は、今に始まったことではない。

 

 パリダカはどこへ行くのか―。少なくとも今回の中止で、サハラ砂漠の冒険ラリーは終焉を告げた。モーリタニア、セネガルなどの嘆きをよそに、新たな開催希望国が名乗りを挙げている。新しい大スケールのラリーが例え組織されようと、ダカールを目指した、夢に満ちたラリーは、その時代に終わりをつげたのだろう。

 

 

59)サハラ砂漠テロの脅威(中止の背景②

◇ダカール・ラリー中止の背景②

 

 「ダカール・ラリーはシンボルだ。シンボルが崩壊することなどあり得ない」

 

 分かりやすく言うと「ダカール・ラリーは不滅です」とでもなりますか―。

 

 A.S.Oの苦渋の選択は、アルカイーダ系のアフリカ北西部組織「イスラム・マグレブ諸国アルカイーダ組織」(AQIM)の脅しでした。

 

 「フランス政府からは“テロの危険は極限に達している」の警告を受けたし、過激派組織からも「直接脅しを受けていた」ことをA.S.Oは明らかにしています。

 

 脅しの現実を突きつける暴挙が、セネガル国境に近いモーリタニア領内で、フランス人観光客を襲撃。4人を殺害、5人に怪我を負わせた12月24日の事件でした。クリスマス休暇を家族と過ごし、砂漠の旅を楽しんでいた人たちの悲劇です。

 

 この2日後には、モロッコ、アルジェリア国境に近いモーリタニア領で、今度はモーリタニア軍兵士4人が殺害されています。AQIMは両方の事件に犯行声明を出しました。

 

 この組織は昨年1月にアルカイーダ系に加わったと見られ、フランス、スペイン、アメリカの勢力をマグレブ諸国(アフリカ北西部)から追い出すことを狙いにしているといわれます。ダカール・ラリー襲撃は絶好のターゲットということにもなるのです。

 

 570台の車。1500人にも達する参加者は全て丸腰で、武装した集団に立ち向かう術はありません。砂漠は限りなく広く、明らかにされているコースに潜伏するのはたやすいし、キャンプ地を襲うことも砂漠のゲリラにとっては容易です。

 

 兵士が襲撃された北部国境地帯は、ラリーがモロッコのスマラからモーリタニアのアタールへとたどるルートの近くです。フランス人観光客が襲われた南部地域は、後半にラリーが通過する地域で、ともに狙いすました脅しでしょう。

 

 フランスの国土監視局(敵対情報監視)のテロ対策担当者だったルイ・カプリオリさんはずばりと言います。

 

 「奴らは撃ち合うこともなく、メディアを使って勝利した。皆、彼らがパワフルだと思った。しかし、奴らはその地域にいるごく一部の人に過ぎないのだ。ラリー中止の判断は正しいかも知れないが、テロが勝った、という印象はぬぐえない」

 

 フランスのベルナール・ラポルテ ・スポーツ大臣はラリーのキャンセルをこう見ます。

 

 「経済的な損失は莫大だが、決まった以上、経済的な損出を語るべきではなく、論じるならば安全に関してだろう。ラリー通過国の損出は分かるが、安全をまず考慮すべきなのだ」

 

 一昨年、イラクに入国して人質になった日本の若者3人は、交渉の末、解放されましたが「巨額な身代金を支払った」と言われます。日本政府は明らかにしていませんが、昔、昔の日本連合赤軍ダッカ・ハイジャック事件で、今の福田総理の父親・福田赳夫首相が「超法規的解決」と語ったことを思い出します。

 

 アルカイーダ組織にパリダカがそっくり人質になったら、いったいどうなるのか―。フランス政府やA.S.Oが深刻に考えるのも一理あります。

 

 しかし、通過国にとっては屈辱的です。2000年にラリーを受け入れるはずだったニジェールは「テロの危険がある」との警告で、ラリーの一隊はマリのニアメから、ニジェール上空を大型輸送機で飛び越え、リビアへ行ってしまいました。その時、肩すかしを食ったニジェールの情報大臣は怒りをあらわにして言ったものです。

 

 「砂漠での人の動きは、隅々まで分かる。どこのオアシスに誰がいるのかも承知している。テロはない。私は砂漠で生きてきた」

 

 大臣は過去に反政府軍に属し、指揮を執っていた前歴がありました。そして、どこからともなくリークされた情報は、怖いものでした。

 

 「A.S.Oはラリー開催前からロシアの大型輸送機イリューシンのチャーターを決めていた。そうでなければ2日や3日で大型機がアフリカへ飛来するスケジュールが組めるはずもない」

 

 大きな力が働いたのかも知れないし、そうではないかも知れないのです。当時A.S.Oの代表だったユベール・オリオールは、なにも語らないままA.S.Oを去っています。以来、ニジェールの夢のような砂漠をラリーが走ることは出来ません。

 

 モーリタニア観光局のスポークスマンは激しい怒りです。「国家のイメージに著しい打撃を受けた。この決定は驚きだ」と。

 

 セネガル・スポーツ局のスポークスマンも同様です。

 

 「ラリーのキャンセルはセネガルにとって大きな損失だし、通過国全体の問題でもある」

 

 セネガルのホテル連盟は確実にキャンセルの嵐に見舞われ、その後、ヨーロッパからの観光客が、遊ぶにはリスクが高すぎる、と敬遠する事態を予測して悲鳴を挙げます。

 

 「セネガルへ来ようとしている観光客にどんなイメージを与えるのか…。そういうことまで主催者は考えているのだろうか。数百万セーバー・フランの損出は免れない。今後どうなるのか…」

 

 モーリタニアは3000人の軍隊を投入することで、フランス当局、ASOとの打ち合わせを終わっていました。昨年、マリのステージ2日間がキャンセルされた理由も承知だし、反政府勢力がモーリタニア領内の砂漠でラリー通過料として、1台50㌦を徴集したのも分かっているのです。

 

 「我々は今回のラリーの安全を保証した。どこがいけないのだ」とモーリタニア当局者はテレビで発言しています。ラリーの通過で経済的な恩恵を期待する国と、リスクを避けたい主催者・フランスの考えは、どこか食い違うのはやむを得ないことでしょう。

 

 トリノ冬季五輪などの警備も行ったグローバル・セキュリティ・アソシエーションのアンドレス副会長はワシントンポスト紙の問いに答えています。

 

 「テロの脅しで小さなイベントが中止になったのは知っているが、大きな国際的なものが中止になったのは知らない。確かにパリダカのコース全体で、完全な安全を保つのは不可能だ。レースは特別に無防備だし、いくつもの国を通過する。砂漠は広く、人もいない。こういう地域でどうテロから守るかは至難だ」

 

 “ダカール・ラリーは不滅です”

 

 かつての長嶋さんを彷彿とさせるA.S.Oのエティエンヌ・ラビーヌ代表の声明は、政治・経済・国際環境・国家・宗教・人々の思惑・主張そして強欲…、など坩堝(るつぼ)の中で、実現するのでしょうか。

 

 

 

58サハラ砂漠・テロの脅威(中止の背景①)

ダカール・ラリー中止の背景 

 

サハラ砂漠の“安全地帯”と見られていたモーリタニア砂漠で、テロの脅威が高まり、第30回ダカール・ラリーはスタート前日に中止となりました。主催者ASO苦渋の選択です。

 

 パリダカは90年代の初めまでは、平和な時代と言えます。79年の第1回パリダカから92年のパリ~ルカップ(喜望峰)までは、アルジェリア、リビア、ニジェールなどサハラ砂漠のど真ん中を走っていました。

 

 アルジェリア、ニジェールの政情不安、反政府活動の激化などで93年には初めてモロッコへ上陸。アルジェリア北部を避け、フェス(モロッコ)からベニオニフを経由し、アルジェリアのエルゴレア、タマンラセットを通り、モーリタニアへ入国する変則的なルートになりました。

 

 しかし、92年のパリ~ルカップで通過したマリは、反政府軍と政府軍が小競り合いをしていて、ラリーの一隊はチャドでの競い合いどころではなかったのです。ニジェールとASOの関係もうまくいかず、広大な夢のようなテネレ砂漠を1000キロも東に走り、また戻って古代からサハラ砂漠の南方のキャラバン基地、アガデスへ到着。一段落してダカールへ向かうロマンに満ちた砂漠の“冒険ラリー”は90年を境に反政府ゲリラ、強盗団の出没などで、大きな転換期を迎えていたのです。

 

 93年にモロッコ初上陸のあと、94年はパリ~モロッコ~西サハラ~ダカール~西サハラ~モロッコ~パリと西海岸に張り付いたラリーとなっています。西サハラにはモロッコの旗がひらめき、国境?地帯には塹壕や強靱な車止め、さらには地雷を避けるために通過路の横は砂や石が盛り上げられていたのが印象的でした。

 

 モーリタニア領のヌアディブとかつてのスペイン領サハラ(西サハラ)は幅1㌔ほどの半島の先で、半分に分けられ、港を分け合っていました。日本の漁船も出入りし、マグロ、蛸などを買い取っていくと言う話しを聞きましたし、日本製の蛸壺が沢山海岸にありました。

 

 パリをスタート地点とするパリ~ダカール・ラリーは94年の大会で“パリダカ”の通称となったパリを離れます。創設者のティエリー・サビーネの名前をとって“TSO”と呼称した主催組織は、息子ティエリーの遺志を生かすため代表をつとめていた歯科医師の父・ジルベールは高齢のため、主催権をアムリ・スポーツ・オーガニゼーション(ASO)に譲りました。

 

 スタート地点は95年からはグラナダへ移ります。依然として西海岸のラリーです。久々にニジェールのアガデスへ入ったのは97年のダカール~アガデス~ダカールでした。しかし、テネレ砂漠を走るルートは採用されていません。篠塚建次郎さんが優勝したのはこのときです。

 

 アガデスのキャンプ地には当時のニジェール大統領が訪れ、オフィシャルやドライバーたちと歓談しましたが、忍者のような黒ずくめの護衛が10人ほど、トラックやテントの陰に素早く潜み、大統領の動きに併せていたのが不気味でした。正式な護衛はもちろん制服で遠巻きにしているのにです。

 

 キャンプ地は強い太陽の照りつける乾いた薄茶色の砂漠ですが、日陰に潜む黒ずくめの“忍者護衛”は、強い照り返しがまぶしいので、余程注意しないと見えませんでした。大統領は「歓迎する。毎年アガデスを訪れるよう期待しています」と話しています。しかし、政情は不安定で翌、98年はニジェールへの入国はありませんでした。

 

 そういえば大統領の手みやげは、事前のASO調査隊が、96年夏にアガデス北方の山岳地帯で反政府ゲリラに強奪された4輪駆動車の返還でした。

 

 パリにスタート地点が戻ったのは98年です。グラナダを経由してモロッコ、マリ、セネガルです。99年もほぼ同じでした。

 

 2000年は大事件の年でした。ダカールをスタートし、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、リビア、エジプトのカイロへのラリーは、マリのニアメ到着時にフランス政府から主催者に対し、緊急連絡が入りました。

 

 「ニジェールで反政府ゲリラが、パリダカを襲撃する」

 

 ASOはラリーをストップ。ロシアの大型輸送機でリビアへとラリー全体を空輸する方針を発表。6日後にリビア砂漠からラリーを再開しました。篠塚建次郎さんはリビアで大転倒。三菱を去り、ニッサンへ移籍する原因となりました。=詳報は〈注〉参照=。

 

 2002年はパリをスタート。マドリッド経由でダカールへのラリーです。増岡さんの優勝でした。03年にも増岡さんの優勝でしたが、マルセイユ~チュニジア~リビア~エジプト(シナイ半島、シャルム・エル・シェイク)とダカールに関係ないラリーとなっています。

 

 [注] 1月16日、5日間に及ぶニアメでの飛行機待ちが終了。テロ事件を回避するためのラリー中断、そしてロシア製大型輸送機3機によるサバ(リビア)への大輸送は合計20便にも達し、合計318台(2輪:141台/4輪:113台/T4(競技)トラック:26台/T5(サービス)トラック:38台)の運搬が予定通り完了した。

 16日からはボーイング737型機による4度にわたる人員輸送がスタートし選手がサバへと移動。17日のスタートは2輪が6時30分、4輪が8時17分(現地時間)の予定。

 

57)ダカール・ラリー中止。4日A.S.O発表

テロのリスクには勝てず!直前に中止

 

  第30回ダカール・ラリーはテロリストがラリーを襲撃する危険が高まり、安全上の問題にから4日、中止となった。ラリーを主催するフランスのA.S.Oが発表した。

 

 昨年の12月末(24日)にヌアクショット近いアレグ近郊で4人のフランス人観光客、26日には北部でモーリタニア軍警備隊4人が、ともにアルカイーダ系の武装組織に襲撃され、1週間で8人が殺害されている。フランス治安当局は3日ダカール・ラリーのオーガナイザーに対し「「テロリストに襲撃されるリスクが高い」とし中止するよう警告を発していた。

 

 ダカール・ラリーは5日にリスボンをスタート。11日にはモーリタニア入りする予定で、19日までモーリタニア砂漠でラリーを展開。20日にセネガルのダカール近郊にゴールする日程だった。

 

 ラリー主催者は昨年のダカールラリーでもマリで予定していた2カ所のステージをキャンセルしているが、理由はフランス治安当局が「ラリーの一隊が誘拐や待ち伏せ攻撃を受ける危険が高い」と警告したことによる。

 

 08年ダカール・ラリーには8連勝を狙う三菱。初のディーゼル・エンジン車で優勝を目指すフォルクスワーゲンの対決に注目が集まっていた。4輪、バイク、トラックなど570チームがエントリーし、既に競技車の多くが車検を終わり、スタートを待つばかりになっていた。

 

 A.S.Oは「09年のラリーを開催するためにも、今年リスクを避ける。夢のある砂漠のラリーは必ず来年からも続開する」と声明で強調している。

 

10    56)08年ダカールに迫るテロ、誘拐の脅威

 08年ダカール・ラリー(5~20日)にテロ、誘拐の危険が迫っています。モーリタニアでアルカイーダ系と見られるテロリストの攻撃が繰り返され、12月24日と26日にそれぞれ4人ずつ、8人が射殺されました。開催が心配される中で主催者(ASO)は予定通りのコース、日程でラリーを開催することを29日に改めて発表しています

 

 ASOとモーリタニア、フランス両国の治安当局者らがヌアクショットでラリーの安全性について意見交換を行い、ラリーを予定通り開催することで合意しましたが、モーリタニア北方や長いスペシャルステージが開催される砂漠地帯では、ことに注意が必要との見方を示しています。

 

 これまでも反政府勢力や武装強盗団の出没で、被害にあったり、コース変更などがありましたが、今回の状況は深刻です。24日にはフランスのツーリスト4人がヌアクショットに近いアレグ近郊で射殺され、26日には北部地域でモーリタニア軍兵士が襲撃を受け、4人が死亡しています。

 

 アルーアラビア・テレビは「犯行はアルカイダの北アフリカ組織」が行ったものと報じ、モーリタニア当局もアルジェリアに拠点を置イスラム過激派組織と見ています。「イスラム・マグレブ諸国のアルカイーダ組織」が正式名称で、テロ活動や誘拐を盛んに行っている「布教と聖戦のためのサラフ主義集団」が07年1月に改名したものです。

 

 アルカイーダとリンクする戦闘集団はアルジェリア、モロッコなどで活動を繰り返してきましたが、その勢力範囲を拡大。サハラ砂漠南部のマリ、モーリタニア、セネガルでの活動も開始したと見られています。

 

 「ラリーは予定通り1月5日にリスボンをスタートする。モーリタニアに入国するのは、1月11日になる」とラリーの安全担当者、ロジェール・カロマノビッツさんは言っています。去年はラリー参加者を誘拐するとの情報や、アルジェリアの武装集団がマリを経由して、ダカール・ラリーを待ち伏せする兆候を治安当局がキャッチしたため、2カ所のSSがキャンセルされています。

 

 24日に発生した事件では5人が逮捕されていますが、2人はセネガルへ逃亡しました。モーリタニア検察当局は、逃げた2人は「イスラム・マグレブ諸国のアルカイーダ組織」に所属するモーリタニア人で、2006年にテロリスト容疑により逮捕されましたが、証拠不十分で釈放された人物と断定しています。この組織は12月11日にアルジェリアで発生した連続爆破テロ事件の犯行声明も出しています。

 

 ダカール・ラリーは過去、テロや誘拐、強盗を避けるため、アルジェリア、ニジェール、マリなどの走行を中止してきましたが、ついにモーリタニアでも、週に連続2度のテロ攻撃で8人が射殺される事態です。30回を迎える08年ラリーは、安全に競技が出来ると言われ、残された最後のモーリタニア砂漠にも誘拐やテロの危険が迫ってきていることを示しています。

 

 武装強盗団の“笑える話”(51~53回参照)どころではないのです。

 

【パリダカ・トラブルメモ】

▽1986年 主催者のティエリー・サビーヌさんが、ヘリコプターで移動中に砂漠に墜落して死亡。

 

▽91年 マリ、ニジェール国境付近で、トラックで参加していたフランス人のC・カバンさんが、ガオ近くの村で狙撃されて死亡。

▽96年 モロッコ南東部のフームエル・ハサンからエル・スマラまでの地点で、トラックで参加していたフランス人のローラン・ゲガンさんが地雷を踏み横転、焼死。

 

▽同年 三菱のトラックがマリとモーリタニアの国境付近で狙撃され難は逃れた。5発の弾痕がフロントグラスとサイドウィンドウに残り、1発はドライバーとすぐ後ろの席にいた乗員の間を通過している。

 

▽98年 トラック計7台がバズーカ砲、自動小銃を持った7~8人の盗賊に襲われた。トラック1台、車2台が強奪された。

 

▽99年 モーリタニアのティシット近くで約50台の車が捕らえられ、プレスカー2台、テレビクルーの車2台、トラック3台、バイク1台が強奪された。参加者の金品も奪われた。

 

▽2000年 ニジェールに入ったところでテロ、または反乱部族がパリダカを襲撃するとの情報が入り、リビアへトラックを含めすべてをロシアの超大型輸送機、イリューシン2機でピストン輸送。

 

▽2001年 モーリタニアでSSスタート地点にいた増岡に銃が向けられ、通行料の支払いをオフィシャルに要求。全員無事にスタートしたが、1台50㌦の通行料を、結果として強奪された。

 

▽2007年 モーリタニアからマリへ入国するルートが、突然キャンセルされた。SS2カ所をやめモーリタニア国内からセネガルへとコースを変更している。テロ集団の動きを治安当局がキャッチし、主催者に警告した。

 

 ※パリダカは1979年にパリからアルジェに上陸することで始まった。アルジェリアを南下しニジェール、マリ、などを経てダカールに至るサハラ縦断。その後もリビア上陸リビア砂漠、テネレ砂漠などサハラ砂漠の中心部を走破していた。しかし、アルジェリア、ニジェール、マリなどの治安問題、反政府組織、強盗団などの他、政治的な問題もあってコースは92年のパリ~喜望峰を最後にモロッコから南下するようになった。2000年の事件以降はさらにコースは限定され、モロッコ、モーリタニアの砂漠が主戦場となっている。

 

 

  55)命知らずのパイロット

 チャドのアベチェ空港を離陸しようとしていたチャーター機が離陸を止められ、フランスの慈善団体“ゾーイの方舟”のメンバーなど16人がチャド当局に“児童売買”の疑いで拘束されました。フランスのサルコジ大統領がチャドへ飛び、チャドのイドリス・デビー大統領と会談。3人のフランス人ジャーナリストと、4人のスペイン人エアホステスは解放されましたが、9人のフランス人は首都ンジャメナに移送され、拘束されたまま裁判を待ったいます。(07年10月25日から11月8日)。

 

 ここで幼児売買か、慈善の養子縁組なのか、純粋にダルフール(スーダン)難民の子供を救おうとしたのかをとり上げるのではありません。103人の子供とスタッフ6人、クルー10人を乗せていたボーイング機はスーダン国境に近いアベチェ空港に駐まったままです。(パイロット、男性クルー人、ゾーイのメンバーは10人拘束されている)

 

 「アベチェ空港はボーイングが離着陸出来る空港ではない。滑走路も短いし、舗装もない。許可なしになぜ着陸できたのか」とチャド当局者は言っています。6日には空港関係者3人が逮捕されたので、直接政府との話ではなく、空港と飛行機との連絡で着陸し、離陸しようとしたのかも知れません。

 

 チャーター機はスペイン・バルセロナの基地にするGirJet社とされています。このチャーター専門の航空会社がどういう職務内容なのかは知りませんが、アフリカを飛ぶチャーター機には、怖いものがあります。パリダカでは何度もチャーター機に乗って移動しましたが、大丈夫なのか-、と思うような飛行機やパイロットがいます。

 

 「彼らは腕がいいんだ。どこでも降りる。どこでも飛び立つ」

 

 80年代のパリダカ役員の中に“コロネーロ”と呼ばれているアフリカ浪人みたいな人物がいました。とてもジジには親切でしたが、傭兵には詳しいし、外人部隊にはもっと詳しい男でした。前歴が分かったように思いました。ある日、砂漠のダート飛行場で、前時代の異物のような翼が無闇と幅広の輸送機が目につきました。

 

 「コロネーロ。あれはどこの飛行機?」

 「ああ、トーゴだ。トーゴ空軍の飛行機さ」

 「空軍が何でパリダカへ来てるの」

 「商売だろ。荷物を運んでる」

 

 90年代後半になっても初期のC130型輸送機(1950年代製)が大威張りで飛んででいました。U N とかつては書かれていた文字が透けて見える輸送機(C130)も2機いました。何年か続けてです。

 

 パイロットの多くは戦争や僻地輸送などで腕を磨いてはいても、何かの事情でリスクの高い仕事をしているのだ、とコロネーロはいっていました。前にジジたちが滑走路の両端に並び、暗くなって着陸する飛行機に向け、懐中電灯を照らして、夜間では全く砂漠と区別のつかない、一応整地された“滑走路”を示した話を書きました(No18)。度胸も腕もいいのです。

 

 同じ形の飛行機で30分も前に出るのに、着くのは遅いケースもありました。毎日です。聞いてみると「古くて危ないので、高空は飛べないからだ」の返事。メーカーのチャーターした小型機、ガルフストリームは高空に達すると室内と外部の気圧差で「ピューピュー」と空気の音がしました。

 

 パイロット2人が乗った小型機に割り当てられた日本人カメラマンは怖い目に遭いました。

 

 「2人が喧嘩を始めたんだ。着陸寸前だよ。操縦桿を握ってない方は、怒鳴り合いの後、何か聞かれても知らん顔だ。どうなることかと思った」

 

 ジジの乗ったヘリも酷いケースがありました。ナビゲーターと称する男は、パイロットの友人ですが、地図が読めないド素人でした。途中で飛行ルートが分からなくなったのです。ジジも砂漠への不時着や墜落はいやですから地図を取り上げ、ラリールートを探しだし、それを目標に飛び、何とかビバーク地へ着いたことがありました。

 

 ある意味でサハラを飛ぶチャーター機のパイロットは腕っこきの“はぐれ者”が多いのではないかと思います。フランスにはサハラ浪人みたいな人が沢山います。チャドでの事件を調べていると、昔のパリダカで遭遇したパイロットや関係者たちを思い出します。ダートの滑走路に大型機を着陸させるなど、何とも思っていないのです。

 

 今のダカールでこんなことはありませんが、10年前には珍しいことではなかったのです。

54)パリダカの終焉は近いのか?

 ダカール・ラリーのオーガナイザーは2008年大会の日程、ルートなどを24日発表した。ポルトガル・リスボンを2008年1月5日にスタート。モロッコ、モーリタニアを経て、休息日を13日、モーリタニアのヌアクショットに設け、砂漠戦の後、セネガルのダカールへ1月15日にゴールする。

 スペシャル・ステージは約6000㌔で2007年の4300キロを大きく上回っているが、その分リエゾン区間が短縮されている。

 また、例年通過していたマリ共和国は「安全上の理由」から入国しない。ダカール・ラリーの通過国は史上最少の4カ国に減っている。

 

◇通過国の状況

 ▽ポルトガル 

 2006年に初めてホスト国となった。リスボン郊外のベレム地区をスタートし、昨年までは南部でSSを行い、スペインから乗船してアフリカ入りしていたが、08年はポルトガルの港ポルティマオを使用。スペイン入りはしない。リスボンからのスタートは08年限り。09年は異なる国、または都市からになる。

 

 ▽モロッコ

  ニジェール、マリ、アルジェリアの通過が不可能になってから、モロッコはダカール・ラリー唯一のアフリカ上陸国となっている。1993年に初めてモロッコに入って以来、97年、2000年を除き12年(回)モロッコを通過している。

 ジブラルタル海峡に面したタンジェから、エルラシディア、ラバト、ワラザザーテ、アガディール、タンタンなどが頻繁にビバーク地となっている。石ころだらけの砂漠に砂丘もあり、一昨年は増岡浩(三菱)が大転倒し、3連勝の野望をフイにした。

 

 ▽モーリタニア

 リビアやアルジェリアからアフリカ入りし、ニジェールのテネレ砂漠を走り回った時代から、モーリタニア砂漠は「最後の難関」と言われていた。柔らかい砂や砂丘が連続し、東頼では岩山を縫うルートもある。今はダカール・ラリー最大の勝負所。1983年から19回にわたって舞台となっている。ズエラ、アタール、ヌアクショット、ティシ、キッファ、ティジクジャ、ネマなどが主なキャンプ地として利用されてきた。

 

 ▽セネガル

 ラリーの名称、ダカールはこの国の首都。フランスから地中海を越え、砂漠を渡り、西アフリカ最大の都市、ダカールへのラリーは、かつて西アフリカに多くの植民地を持っていたフランス人の郷愁を誘うものでもあった。“パリ~ダカール・ラリー”は、パリダカのなで親しまれ、今でもダカール・ラリーよりパリダカの方が通りはいい。26回訪れているのは当然。使われてきたムラや町は、ダカールの他、サンルイ、タンバクンダ、ラックローゼなどがある。

 ▽写真マリ・ガオ近郊

 

53)市販車部門とモンスター

 今日(3月9日)に07年ダカール・ラリーの市販車無改造部門(T2)で優勝した三橋淳さんの祝勝会へ顔を出してみました。スポンサー関係などが圧倒的で、パリダカ関係者はごく少数でした。パリダカ連続出場記録を更新中の菅原義正さんや息子の照仁さん、山田周生さんなどに会いました。山村レイコさんも途中から現れたのですが、だんだん顔を見せる人が変わっているのに、パリダカそのものの変遷を感じました。

 

 「いつもは、こういう会ならもっと馴染みがいるのにな」とジジが菅原さんに言いました。

 「なんだかスポンサー関係や、パリダカを知らない人たちを多く呼んでいるようだよ」と菅原さんは答えました。パリダカ日本事務局をやっている志賀あけみさんも来ていましたが、ジジを含めて何となく“場違い”なところに来てしまったかな、の感じはありました。(写真=菅原さんの日野レンジャー)

 

 冒険の世界、遊びの世界、戦いの世界とパリダカのとらえ方は、人により、経験により大きく異なると思います。人生を変えてしまった人も知っていますが、ジジにとってはとても楽しい経験をした世界です。でも、パリダカとは無縁に見えるぴかぴかギャルが沢山いる祝勝会など初めてでした。これからはこういう人たちが、砂漠のラリーに興味を持つのでしょうか。

 

 パリダカなどの映像を作っている荒井さんにも会いました。この人は公共放送にいたとかで、人脈を生かしてパリダカ映像をを日本のテレビに送り込んでいます。

 「今年は露出が少なかったよ」と言っていましたが、三橋さんの勇姿を短い映像にまとめて会場で流していました。砂や風、アフリカの臭いを感じました。

 

 パリダカは、一つの時代を終わってしまったので、アドベンチャー・ラリーと大騒ぎすることはできなくなりました。素人の初参戦者なら冒険でしょうが、三菱やフォルクスワーゲンのプロ・ドライバーにとっては、単なるラリー・フィールドです。サポートも沢山いるし、命の危険と言えば、無理をして自分でひっくり返るくらいです。

 

 三橋さんは市販車部門ですから地味です。Tクラス1位になっても、これは身内の戦いみたいなものですが、キチンと走りきるのは容易なことではありません。ジジも昔、車で追いかけたことが何度かありますが、結構大変です。でも、とても面白いのです。

 

 これからはワークス・チームのモンスターが勝手に勝負を競い、ほかの参加者は自分なりに走って、パリダカを楽しみ、支援してくれる人たちを大切にしながら、砂漠のラリーの素晴らしさを知ってもらうことに変わっていくのかも知れません。

 

 不安と興奮で胸のときめくサハラの旅は、今のジジには再現できないでしょう。例え車で走っても、地図と磁石、それにカンを頼りにした素晴らしいゲーム?はなくなってしまったのです。GPSの時代では昔のように、方向すら分からなくなるようなことはあり得ません。

 

 三橋さんはパリダカの新しい世界を切り開いて欲しいものです。砂漠を知らない日本の多くの若者が、胸を躍らせる日本にはない強烈な刺激のある舞台に引き連れていって欲しいと思います。新たな意欲も湧いてくることでしょう。

 

 冒険ラリーは終わり、楽しむサハラのラリーが始まっています。それがうまくいくかどうかに関しては、どんなものになるかな、と見守りながら、楽しんでいるのです。

 

 

52)プロ・ドライバーの厳しさ

1 プロドライバーの辛さ 更新日時: H19年1月19日(金)

 ダカール・ラリーで日本の増岡浩さんが、サポートに回りました。トップのペテランセル、2位のリュク・アルファンから2時間も遅れてしまっては、そうならざるを得ないのです。増岡さんは過去ダカール・ラリーで2連勝しています。その後はペテランセル、アルファンに勝たれて冴えがありません。

 ワークス・ドライバーはチームの誰かを勝たせるために、監督の指示に従うことになります。前半は速いもの勝ちの戦いですが、今回は中日まで1、2位だったフォルクスワーゲンが休息日明けに2位のサインツ、その翌日には首位のドヴィリエが潰れ、三菱の大逆転になりました。

 増岡さんは不本意でしょうが、優勝可能な2人のサポート役を引き受けざるを得ないのです。ナニ・ロマも同様です。十分な時間差があるので、ペテランセル、アルファンは余裕を持って走行します。トップタイムを誰がマークしようが、順調に走れば1~2は間違いないのです。ここでリスクを冒す必要は2人にとって全くないのです。

 速さの証明はステージのトップタイムですが、増岡さんは今年、それもないままに終わります。昨年の転倒よりはいいでしょうが、中日までに上位へ進出できなかったのが致命傷でした。トラブルやパンクは誰にもありますが、それを乗り越えるかどうかが勝負です。プロのパリダカ・ドライバーは、屈辱的なサポート役を何日も続け、仲間を助けてダカールへ走るのです。

 かつて優勝を期待された篠塚建次郎さんも、前半に車を壊し、サポート役に回ったこともあります。長丁場を走るパリダカでトラブルは致命的です。プライベート参戦なら自由度はありますが、ワークスでサポートに回ると、前にいる同じチームの車に問題が起こったとき、自ら乗っている車の部品を外しても、前を走る僚友を助けなければなりません。そして、先に行かせいつやってくるとも知れないサポート・トラックを砂漠の中でじっと待つのです。

 

51)シュレッサーの頑張り


 

 
2007年ダカール・ラリーは砂漠ステージを終え、後はダカール郊外の「バラ色の湖」、ラック・ローゼに車を運ぶだけです。SSはありますが、どう頑張っても1、2位のペテランセル、アルファンがコケない限り、ほかの優勝者は出ない環境です。ここまで来ると3位までの表彰台に立てるのは、三菱のほかにはシュレッサーがほぼ確実だと思います。

 

 4位争いは熾烈ですが、1時間も、2時間もトップに引き離されている人たちは、プロとしての勝負には、既に負けてしまっているのです。

 

 「増岡5位に進出」などと言う見出しが日本の新聞に出ますが、優勝を狙うプロとして、トップに2時間以上も遅れたら、上位を走る同じチームのお助けマンに過ぎないのです。5位でも4位でも、奇跡以外に勝てない時間差を、報道からは見つけにくいのです。年間の契約金を4000万円近く得ているパリダカのワークス・ドライバーは、酷いことを言われても、言い訳は許されないのです。

 

 負け続けるワークス・ドライバーに比べ、シュレッサーさんは立派です。年齢は篠塚建次郎さんと同じで、もう第一線を退いてもいい歳ですが、今回は砂漠ステージを終わった段階で総合3位にいます。プジョーが登場して連勝。シトロエンにバトンタッチしてまたシトロエンが勝ち、シトロエンがやめたら今度はシュレッサーがプライベーターなのに、三菱を2年連続して破りました。

 

 ジジは当時、砂漠のキャンプでシュレッサーさんに聞きました。答えは明確でした。

 -規則があなたに有利になっているのではないのか?

 

 「不満を言うなら三菱は私と同じバギーを作ればいいだろう。私は1人でやっている。大きなメーカーじゃないんだ。メーカーだったらバギーくらいすぐにできるんじゃないの、勝ちたいのなら…」

 

 これは正論です。篠塚建次郎さんは、ラストランの翌年の今年、またラストランをやっています。ラストランというのは「最後の走行」と訳すのが普通だとジジは思っていました。しかし、篠塚さんは違います。

 

 「ラストランとは言ったが、引退とはいってない」

 

 プロ・ドライバーを引退して好きだから走るのはわかりやすいのですが、ラストランと引退の違いが、ジジにはよく分かりません。

 

 パリダカに出て走る。それは自由です。好きなことを続けるのは幸せです。一時代を築いた人が、楽しみながら走るのは、ジジも大賛成です。しかし、人を欺く言い回しで、寄付を募ってはいけません。そうせざるを得なかったのは、メーカーとの契約は出来ないし、スポンサーも集まらない力になっていたからかも知れません。転倒して怪我をするか、車が壊れるかのどちらかで、勝ちどころか完走も希です。これではスポンサーの付きようもありません。

 

 プロ・ドライバーは厳しい世界です。何でもプロは同じでしょう。サッカーも、野球も「使い物にならない」と思ったらクビです。だからこそ高い契約金をもらっているのです。言い訳は無用の世界です。

 

 「あれがなかったら。あそこでナビが間違わなかったら…」

 

 ジジはもう聞き飽きています。ナビを選ぶのもドライバーの責任なのです。

 

 そんな世界でずっと生き続け、F1やル・マン24時間、三菱ワークスなどを渡り歩き、依然として頑張っているシュレッサーさんには“砂漠の悪役”などと言うニックネームも献上しましたが、本当は敬意を表したいところです。増岡さんも、篠塚さんも、大メーカーの傘の下でシュレッサーさんの足元にも及ばない“甘えの世界”で生きてきました。その時代も、昔の名前も、もうそろそろ終わりに近づいた感じです。3年連続して上位に行けない人を、大金をかけて雇う監督は自分の存在まで消し去ることになります。

 

 日本人が注目されたパリダカ、今ではダカール・ラリーも、日本人のプロ・ドライバーにとって、厳しい現実を突きつけています。パリダカ好きのジジにとってもっといやなのは、日本人ドライバーの動きだけを当然のように追う、日本のマスコミからパリダカが抹消される日も近いのではないかと心配しています。

 

 パリダカ悲喜こもごも、の記事を書いてきましたが、自分の力を相対的にどう評価するか、それが出来るか、出来ないか-。それこそ悲喜こもごも、の裏にあるもの-人間性なのです。シュレッサーさんは今年チームを組むことが出来ませんでした。単独出場です。それでも、トップ3に入ろうというところにいます。懐かしく、お互いによく知るジャン-ルイが、表彰台に立つことこそ、個人的なプロの意地の見せ所です。

 

 頑張れ、ジャンールイ。エールを送り続けています。(炎上した車はシュレッサーの3年前の悲劇です)