ルビコン川を渡る
賽は投げられた




ルビコン川論争
3世紀に作成されたルビコン川が記載された地図。ポイティンガー図と言われ、この地図が中世に模写されたものだという。左に2本の塔を持つ大きな建物ある一帯がラヴェンナ。地図中央に上下に青線があるが、これがルビコン川。横の赤線は街道だが、カエサルが通ったのは山側だと推定されている。

しかし、ルビコン川論争はこの地図で解決したわけではなく、現代にまで尾を引いているそうだ。ルビコン川そのものがイタリアの脊梁山脈のアペニン山脈を源流としてサンマリノ周辺の水も集まり、数本の川がアドリア海へ流入している。川そのものも東西30キロほど。長くても50キロ位い。川筋も長い時間の間に変わっていて、決定的な決め手はない。特に17世紀以降は、カエサルの「ルビコン川を渡る」「賽は投げられた」などの言葉が広まり、人々は地元の川を「これこそルビコン」と主張することが多くなった。


この人もルビコン川には往生したようだ
(写真=ナショナルジェオグラフィックから)

ちょっと笑っちゃうのは、第二次大戦やその前のイタリアの独裁者ムッソリーニ。訪問する人も増え、その中の多くが「ルビコン川はどこですか」と問いかけをしたそうだ。その都度ムッソリーニは「分からん」「知らん」とも言えず困惑したと伝えられる。

 毫を煮やした独裁者、ムッソリーニは、現在国道に表示されている現在の川を、ルビコン川とするように命じたが、論争が下火になるどころか、却っていくつかの町村が「我が地域を流れる川こそルビコン」と一層強く主張するようになったと言う。学者などの間では、ムッソリーニが“決めた”フィウミチーノ川(旧名)が、ルビコン川と呼ばれているケースが多いが、下流は湿地帯で川筋は何度も変化していると言うのが定説だから、有名な“小さな川”はこれからも地元のひとにとの論議を呼び続けることだろう。ルビコン川の“候補”はピシャッテロ川、ウーゾ川などもあり、このうち最有力が、いまのルビコーネ川、即ちフィウミチーノ川で、次第に定着しつつある。


ドライブライン
サンマリノ教会堂
ラヴェンナ(Ravenna)からルビコン(Rubicone)川へ行くにあたって詳細な地図を探した。ロード・マップは本屋や駅の売店、高速道路のサービスエリアなどで手軽に手に入るが、ルビコン川が載った地図はない。そこでラヴェンナの地図専門店を探し、5万分の1の地図でルビコン川を見つけた。それはラヴェンナから南へ約40km、リミニ(Rimini)の北約10kmの地点にあった。グーグル・マップでは細い線がある位いだった。

広い砂浜に恵まれた海岸線にあるリミニの町はホテルやレストランなどで賑わうリゾート地であった。このリミニの町外れから30kmほど上った崖の上に堅固な城壁に囲まれたサン・マリノ共和国がある。

その小さな国、サン・マリノ共和国から田舎道を辿って約50km、ルネッサンスの巨匠ラファエロの生誕地、ウルビーノがある。二つの丘の上にルネッサンス時代の典型的な都市の外観を残している。

 


ラヴェンナ(Ravenna)-ルビコン(Rubicone)-リミニ(Rimini)-サン・マリノ(San・Marino)共和国-ウルビーノ(Urbino)
行程 約200km

 

●ルビコン川(Rubicone)を歩く

ラヴェンナから国道16号線を南下。リミニ(Rimini)へ近づいたことを知らせる標識から車の距離計をみながら慎重に走る。アドリア海まで約500mというのに、広い河口もなく、大きな橋が架かっているわけではない。交通量の多い国道ではのろのろ運転も停車もできないので見過ごさないように注意しながらのドライブだ。行きすぎは禁物なので、少し手前かと思えるインターチェンジを出て、ローカル・ロードを南下する。国道沿いの橋を見つけ“Rubicone”の標示を見つけたときは思わず「あった!」と声をあげていた。
ルビコン川の標識 
ルビコン川はこのすぐ先で海へ注ぐ
       
国道を出て川沿いの道に降り、川を遡ることにした。間もなく、まるで農道のような道が川に沿って続く。約5km走ったところ、川沿いに幾つかの民家があり、バール(Bar)も一軒あった。店の中ではビールやお茶を飲んだりカードゲームを楽しむ10人くらいの男たちがいた。そこでルビコン川について尋ねると「ここから4kmほどのところに、ローマ時代の橋がある。古い歴史のことだ。それがカエサルと関係あるかどうかは知らないがね」と教えてくれた
教会のある小さな村で橋の在りかを聞いた         川に沿って遡ると細い流れに変わる

ルビコン川の河口付近の橋(下・左)から左岸を遡る狭い道を辿ると、洒落た小さな町があった
紀元前49年1月12日、ユリウス・カエサルが第13軍団の兵士とともに渡ったルビコン川は当時、ローマと北イタリア属州の境界線であった。そこで大河を想像しがちだが、河口付近で川幅は約20m、よどんでいるので水量豊富に見えるが、実際には水の流れるところは広いところでも5~6mだ。

「高さ1メートルほどの土手にあがると、飲料の容器や布きれなど散乱するゴミがやたら目につくが、生い茂って覆い被さる草がじゃまして水面はほとんど見えない。」と塩野七生著『ローマ人の物語』の旅(新潮社)で描かれているが、我らが行った時には、嬉しいことにゴミは見あたらなかった。
補強されてはいるがローマ時代の橋は健在でした
補強されてはいるがローマ時代の橋は健在でした
 
高速道路A14の高架線道をくぐり、鉄道の踏切をわたるとサヴィアーノ・スル・ルビコネ(Savianano・Sul・Rubicone)という町に着いた。川幅は橋の架かっている付近だけ、少し広いが、水量は少なく、騎馬の騎士が水しぶきを上げて駆け抜けるような所ではない。頑丈そうな石の橋が石造りの民家の続く町並みをつないでいた。
 
  昔の石組みが見えるようになっている
昔の石組みが見えるようになっている

アーチ型の橋脚を持つ石造りの橋は「ローマ時代からのもの」と地元の年配者は言う。水辺の植物に覆われた現在のルビコン川は、橋の近くが整備され、川へも降りられるが水は少なく、草に隠れがちだった。橋は修復されていたが、見る人に「ローマ時代の橋」と分からせるよう補強された石のアーチの横に、古いアーチの一部が見えるように、わざわざ土手を削って石積みを露出させていた。

 2000年前にカエサルの「賽は投げられた」のつぶやき、下知に、軍勢が雄叫びとともに橋を駆け抜ける光景が浮かぶ。

サビアナーノのルビコン川に架かる橋のたもとにカエサル像はあった
ルビコン川に架かる橋の右岸(ローマ側)にカエサル像があった

 2000年前にカエサルの「賽は投げられた」のつぶやき、下知に、軍勢が雄叫びとともに橋を駆け抜ける光景が浮かぶ。

「ルビコン川を渡る」と言っても、高い技術力のあるローマの工兵団(石工)なら橋を架けたり、補強するのはたやすいだろう。リスクを冒して下流の湿地帯を歩く軍勢はいない。

        カエサル像の後ろにあったプレート。このグループが作ったと分かる   橋のたもとのカエサル像
 サビアナーノのルビコン川に架かる橋のたもとのカエサル像台座にはプレートがはめ込まれていた。
地元の有志がが作ったと分かる



 橋のたもとにはユリウス・カエサルの大きな像が立っている。1991年建造とある。地元有志と研究者グループ名が刻まれていた。橋がローマ時代の物かどうか確証はないが、町は石畳の道が続き、古い教会もあり、かつての街道筋だったことを偲ばせる。
カエサルが進んだ方向へ、自転車の老人も走っていきました
カエサルが進んだ方向へ、自転車の
老人も走っていきました

河口には綺麗なビーチが広がっていた
ルビコン川が流入するビーチで夏を楽しむ人。