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町外れ、国道47号線を横断すると間もなく、一対をなした「天王寺一里塚」があった。塚から僅かに
東へ下ると、奥州上街道一関と鳴子への「天王寺追分」へ出た。分岐点には江戸期に建てられた
道標を兼ねた山神塔や「奥の細道」のルート図などが書かれた教育委員会の立て看板があった。
これより鳴子へはほぼ現在の国道47号線と重なる。

追分と芭蕉の多度た旧道

上街道が昔のまま保存されている 天王寺一里塚
●鳴子温泉
芭蕉の「奥の細道」に「なるごの湯」と記されている鳴子温泉郷の歴史は古く、千年以上も遡る
平安時代には、火山性の爆発が発生したと「続日本後記」に記されている。
その中で「雷響き震動昼夜止まず・・・・・・。温泉流れてその色漿(しょう)のごとく。加うるに山
焼け、谷ふさがり石崩れる。さらに新沼を作る。沸く声雷のごとし」と記されている。
鳴子は鳴子町、川渡村、鬼首村の3町村を鳴子町といったが、平成18年の市町村合併で古川、
岩出山など1市5町村とともに、大崎市鳴子温泉となった。鳴子が湯治客で賑わうようになっ
たのは、江戸時代の後半から。温泉の湯量も泉質も豊富で、日本国内にある泉質11種類のう
ち8種類までもある。源泉は400近くあるといわれている。
な成分は、ナトリウム、炭酸水素塩、塩化物、硫酸塩水、弱アルカリ性高泉(重曹泉)
で、効能は一般的禁忌症以外ほとんどにあると、町の人は自慢する。

鳴子・滝乃湯
かつては情緒豊かな温泉街だったが、どこも似たような新旧大小入り乱れた建物と、
ホテルや旅館に湯を引くパイプの多さが、温泉という非日常の夢を削ぐ。流行の
足湯や手だけを浸す手湯など、どこも同じである。
国道47号線に架かる鳴子大谷橋の下を荒雄川の支流の大谷川が流れる。鳴子温泉
と中山温泉の間、約6kmのV字状の峡谷は鳴子峡で、凝灰岩層を深さ80~100m、
幅10~100mにわたり大谷川が浸食したもの。両岸には奇岩が林立する。遊歩道も
あって新緑・紅葉時は、温泉とともに、峡谷美のスポットとして人気がある。
●鳴子のこけし
江戸時代の末、椀や盆などを挽く木地師たちが、温泉の土産として作りはじめたのがはじまり。
描彩様式は芥子人形、張子人形など古来の人形の影響を受けている。東北各地に伝わるこけし
は、土地により、顔形、模様などが多少異なる。呼び名も地方により「こげす」「こうげし」
「きぼこ」「でこ」などという。昭和51年(1976)「こけし」に統一された。
こけしは子供の健やかな成長を祝う人形として全国的に知られている。

鳴子への国道。欄干にはこけしが 鳴子の土産はこけし
●尿前(しとまえ)の関
元和年間(1615~1624)、山上の番所が尿前の遊佐氏屋敷の中に移され「尿前の関」といわれるようになった。
見張りが厳重だった関所は、背景に万治3年(1660)の「伊達騒動」があった。この関所を名所にしたのは、
松尾芭蕉である。
元禄2年(1689)5月15日(新暦7月1日)出羽街道中山越えに、ルートを変更したため、尿前の関を通過する
通行手形を持っていなかった。鳴子から出羽の国への道は、旅人がめったに通らないので怪しまれ、取り調
べに時間を要したところとして、奥の細道にある。

尿前の関
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の関近くの道標
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関所を後に尾花沢へと向かう道(徒歩)は、樹木に覆われ、昼なお暗い。
車は再び国道47号線へ。尿前の関から県道28号線への分岐まで、現在
の国道では約10kmだが、昔は山中の踏み跡程度の道をたどって越えた
というから難儀だったろう。この分岐点の近くには、芭蕉が日暮れて
見つけた「封人の家」があり、そこに宿をとり「蚤虱馬の尿する枕もと」
と有名な句を詠んだ。
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●銀山温泉
大正ロマンの湯の町として知られる銀山温泉へは、新庄へ向かう国道47号線とかれ、
県道28号線へ入る。間もなく赤倉温泉を経て、道は狭く、その上、樹木に覆われ視界
の悪い山の中へと続く。木々の間に見える山の上は屈強な若者に案内させ、尾花沢へ
と急いだ芭蕉と曽良が越えた出羽越えの難所、山刀伐(なたぎり)峠である。

銀山温泉
銀山温泉。川を挟んで宿が建ち、
車は入れない
江戸時代に大銀山として栄えた「延沢銀山」に湧出した温泉。奥州街道より約12kmも入った
山間部にあり、当時は尾花沢より1日がかりだった。明治に入り延沢銀山の衰退とともに人口
は激減し、温泉も湯治客相手の湯端小屋ほどになっていった。しかも大正2年銀山川の大洪水
で、ほとんどの旅館は流され、温泉の湧出量も減り、温度も下がった。
しかし、昭和元年(1926)に源泉のボーリングで高温多量の湯が湧出し、各旅館はこぞって
銀山川の両側に、洋風木造多層の旅館を建てた。また橋や道路も整備され、尾花沢から自動
車で30分の距離になった。

白銀の滝
戦後は外観が洋風だった建物が和風に修復されたりしたが、木造三層、四層の旅館の軒の連なる
温泉街が現在に至っている。昭和60年(1985)延沢銀山跡が国の史跡に指定された翌年「銀山温
泉家並保存条例」を制定、風情ある旅館を観光復興にいかすことにした。その思惑が当たり、い
までは四季を通して人気の高い温泉町だ。
温泉街の奥には落差約22mの白銀の滝や銀抗洞などをみることができる。
●尾花沢
元禄2年(1689)険路山刀伐峠を越え、尾花沢の鈴木清風を訪ね、この地に10泊し、
門人曽良とともに四句を残している。10泊のうち7泊をすごしたという「養泉寺」
を訪ねた。豪雪に備えて雪囲いがされた山門とお堂があり、その間には、この寺
で詠んだ「涼しさを我が宿にしてねまるなり」の古い句碑があった。
つては広々としたであろう寺の境内も樹木は切られ民家が迫り、のんびりとくつろ
ぐ旅人の姿が重ね合わせ難い。
芭蕉の句碑 尾花沢の土産
●徳良(とくら)湖

芋煮会やハイキング・キャンプ場として市民の憩い場となっているが、この湖が「花笠音頭」
の発祥地だと知ったのは、尾花沢市役所観光課を訪ねたことからだった。
大正8年(1919)灌漑用水地として、徳良湖築堤工事の際に唄われた作業唄「土搗(どつ)
き唄」が、現在の「花笠音頭」となったという。その土搗きに合わせて即興でおどったのが
「花笠おどり」で、5つの流派がある。いずれも昭和初期に民謡化され、尾花沢のみならず、
山形を代表する唄と踊りとなったと教えられた。
●蔵王温泉
米沢へ向かう途中、好天に恵まれ、蔵王山への標識に招かれるように上山市から
国道13号線を折れた。かなりの上り坂だが、上山から蔵王温泉までは約20km、
約30分の距離だ。ここでは蔵王山の景観と温泉を写真で紹介しよう。次回は
「天地人」ゆかりの地、米沢へ。

山形から蔵王温泉への途中にひっそりと
旧松應寺観音堂がある。国指定の
重要文化財で、室町後期の建物

快適なコース。壮大
な展望が開けている
ロープウェイで上がった所に
大きなお地蔵さん

いろいろな顔に見える。
樹氷はでき始めだった

蔵王温泉の共同浴場。熱い温泉 天童まで行くと名物はご存じ将棋のコマ
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