
ババの駆け巡った国々のスポット写真を掲載します。なんせ1日36枚以下しか撮影できないし、クルマの運転もあります。思うように写真も撮れない時代でした。今(2024年)から50年以上前の旅なので、保護されている遺跡などを除き、現地は大きく変わっていると思います。「昔の南米はこうだったのか…」と楽しんでください。

日本人二世とピストルの練習。
アマゾン源流の村に日本人2世がいた。「危ないからピストルを持っていけ」とピストル一丁をプレゼントするという。断ったが大真面目で「危険だから」だといい,丁寧にも川へ行き、実弾の訓練だ。初めは手首が跳ね上げられるようで、上手く発砲出来なかったが2時間ほど教わると、ある程度撃てるようになった。後日、若い3人組が「クルマに乗せろ」と窓を叩いてごねた。ピストルを持っているのを想い出し、窓をこじ開けかけたので、一発発射したら驚いて逃げていった。言われたことは嘘ではなかった。
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左はドライブルート。 右は9カ国の国名と9カ国の首都
レンタカーを使っているわけではないので、旅が終わったら使ったクルマは日本へ送り返さなければならない。“カルネ”は無税で国境を通過できるための“クルマのパスポート”だ。個人が大金を支払って保証するか、自動車メーカーの保証が必要だ。国際協定で発行はJAFが行っている。初めはリオジャネイロ(ブラジル)を出発・ゴール地点にする予定だったが、港や船便などの集うもあってアルゼンチンのブエノスアイレスに変更した。
ドライブルートはウルグァイからリオ、ブラジリア。内陸をパラグアイを経て、ブエノスアイレスへ戻り、アンデスを越えて西海岸を北上、コロンビアで折り返すコースを取った。ここでは探し出した写真を中心に、主としてモノクロ写真を掲載します。


この国の正式名称はウルグァイ東方共和国。ウルグァイ川の東側に位置するので“東方”が入ったと言うことだ。スペイン、ポルトガル両国が覇権を競った過去があるが、18世紀後半スペインの支配tなった。しかし、位置的ではあるが19世紀にはブラジルからポルトガル軍が侵攻。ブラジルに組み込まれた。しかし,1828年は独立。ブラジル、アルゼンチンの狭間で両国とのバランスを取って、巧みに生き抜いてきた。

ウルグァイの地図。


モンテビデオ



リオデジャネイロの有名なキリスト像。“砂糖パンの山”と言われる岩山

イグアスの滝に近いグラウンドで、日本人会の人達が集まり、運動会をやっていた。日本から持ち込まれたクルマと一緒に記念撮影。移民した日本人は、戦前にブラジルへ渡ったひとたちが多く、故郷の話しを聞きたがった。

イグアスの滝
コパカバーナの海岸。当時の海岸は、午前中現地人(有色人種),午後は白人と決められていた。

サントス

ブラジリアはまだ、名ばかりの首都だった。原野を切り開き,大がかりな平野を作りだしていた。 官庁街、住宅街なえど、まだ建設中だった。

市街の中央付近(左)も、街道のマーケット兼ガソリンスタンドも建設途上
50年前ですから“懐かしのブラジリア”と言った印象より、荒野とジャングルを切り開き、新しい町作りの始まりとは,こう言うものか,という印象。日本では到底、真似の仕様もないのは土地の広さからも当然です。

南米唯一の内陸国。大河・ラプラタ川の源流が、パラグァイ川、パラナ川が流れ水が豊富。それを利用した水力発電は、この国が必要とする電力を100%満たしている。ブラジルとパラグアイで運営するイタイプ・ダムの発電所は,世界のトップクラスで、電気はブラジルと均等に分けているが,余るのでブラジルへ輸出している。近年は中国が経済分野で接近している。。

○…パラグアイでにはもう50年以上経つのに忘れられないことがある。想い出と言っては残酷すぎるが、どうにも仕方がないこと、避けられないことがあるのを思い知った。身に危害が及ぶと言うのではない。一人の日本人老婆の悲惨な訴えだった。
クルマには日の丸が書いてある。通りかかった小さな村の中で一休みした。そこへ駆け寄るようにして日本人老婆がやってきた。
「あんたは日本人でしょ」
「そうですけど」
老婆はしばらく言葉に詰まった。絞り出すように言った。
「私を日本まで乗せていってくださいな」
冗談かと思ったが真剣な表情で見つめてきた。話しを聞いた。
聴く方も身につまされるモノだった。
「生まれ、育ちは東京の蔵前なんです。当時は親の言いなりになるのが普通の家の女の子でした。嫁に行け、と言われ見ず知らずの人に嫁がされました。親の方はどういう人か分かっていたでしょうが、あの当時は、そういうモノでした。
そして南米へ行って一旗揚げる、と言うことで私の話しなど聞く耳を持たずに移民船で来たんです」
おおよその見当は付く。二歩院人移民は成功した人も多いが、挫折した人も同じ追うに多かったようだ。成功組みは日本へ華々しく蔦えれれるが、挫折した人々は、そのまま南米の地に埋もれていった。蔵前育ちで農業など全く無縁の人にとってジャングルの開墾などできようもない。日本人がクルマで来ている、と言うだけで撮る物取りあえず訪ねてきたのだった。
しかし、日本まで乗せていってくれと言われてもできない相談だった。如何に頼まれ、気の毒に思っても、連れて帰ることなどできようもなかった。すがりつくような老婆を説得し、逃げるようにパラグアイを後にした。その後、どうしたかー。やりきれない思いを残した出来事だった。

写真が行方不明なのででパスします。
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